勇者、お前ら俺なしで宿の予約もできなかったのか
「とりあえず、水は出してやる」
俺がそう言うと、アレンは勇者とは思えないほど真剣な顔でうなずいた。
「助かる」
「礼を言う元気はあるんだな」
「礼儀は大事だと、お前が言っていた」
「覚えるところが遅い」
俺はアレンを自分の小屋へ連れていった。
村人たちは遠巻きに見ている。
無理もない。
勇者アレンといえば、王国中で名前を知られている英雄だ。
魔王軍の大型魔物を一撃で倒したとか、山賊団を一晩で壊滅させたとか、そういう話ならこの村にも届いている。
その勇者が今、泥まみれで、空腹で、俺の小屋の前に立っている。
物語としては盛り上がる。
現実としては、かなり面倒だった。
「入れ」
「……いいのか」
「ここで倒れられる方が困る」
「すまない」
アレンは小屋へ入った。
俺は戸を閉め、窓の外からこちらをのぞこうとしていた子供たちに声をかける。
「お前ら、あっちで桶を洗ってこい」
「勇者様、何しに来たの?」
「桶を洗ってから聞け」
「はーい!」
足音が離れていく。
「その汚い外套はここに置いていけ。井戸まで行く前に、泥を落とせるものは落としておく」
「いや、自分で――」
「今のお前が洗ったら、外套より先にお前が倒れる」
アレンは反論しかけて、やめた。
「……頼む」
俺は外套を受け取った。
ずっしりと重い。
乾いた泥と、川水と、旅の疲れが染み込んでいるような重さだった。
俺は外套を戸口の釘に引っかけてから、鍋を火にかけた。
昨夜の残りの豆のスープに、黒パンの木端を割って入れる。
硬くなった黒パンは、そのままでは歯が負ける。
水分を吸わせれば、どうにか食える。
温まりきる前に、アレンの腹がまた鳴った。
「少し待て」
「待っている」
「顔が待ってない」
「すまない」
俺は椀に、ふやけた黒パン入りのスープをよそって渡した。
アレンは両手で椀を受け取り、湯気に息を吹きかけることも忘れて口へ運んだ。
「ゆっくり食え。喉に詰まるぞ」
「んぐ」
「言ったそばから詰まらせるな」
俺は空になりかけた水差しを取り、木の杯に水を注いで突き出した。
アレンはそれをひったくるように受け取り、水で黒パンを流し込む。
しばらくして、ようやく大きく息を吐いた。
「……生き返った」
「死にかけていたのか」
「少し」
「少しで済む顔じゃない」
目の下にはくっきりとした隈。
髪は乱れ、服も泥と草の汁で汚れている。
腰の聖剣だけは綺麗だった。
それが逆に浮いていた。
アレンが空になった椀を見つめている。
俺は立ち上がり、棚から残っていた黒パンをもう少し取り、鍋の中へ落とした。
「いるか」
「いる」
「即答するな」
「すまない。いる」
「謝ればいいわけじゃない」
もう一杯よそう。
アレンは今度は少しだけゆっくり食べた。
「それで」
俺は椅子に座った。
「魔王軍にやられたのか」
アレンは首を振った。
「戦闘では負けていない」
「なら、なぜその状態になる」
アレンは椀を持つ手を止めた。
しばらく黙ったあと、重々しく言う。
「宿だ」
「……宿?」
「ああ」
「魔王軍の新型兵器か?」
「違う」
「呪いか?」
「違う」
「宿屋の主人に負けたのか?」
アレンは少しだけ黙った。
「……否定しきれない」
俺は額に手を当てた。
まだ話を聞き始めて一分も経っていない。
「最初から説明しろ」
アレンはうなずいた。
「お前が抜けたあと、俺たちは予定通り次の街へ向かった」
「予定通り?」
「お前の計画表を見た」
「見たのか」
「ああ。一日目だけは」
「一日目だけか」
「最初のページだったからな」
「本は二ページ目以降も読むものだ」
アレンは目を逸らした。
「途中で魔物が出た。大型の魔狼だ。普通の冒険者なら十人いても厳しい相手だった」
「それで?」
「倒した」
そこは実にあっさりしていた。
「俺が正面から斬り込んだ。ガルドが横から群れを割った。エルナが雷で足止めして、ミリアが負傷した馬を治した。戦闘は完璧だった」
「戦闘だけならな」
そこは疑っていない。
アレンたちは強い。
戦闘だけなら、間違いなく王国最高峰だ。
「報酬は」
俺が聞くと、アレンの手が止まった。
「……まだ受け取っていない」
「大型魔狼だろ。素材も討伐証明も金になる」
「素材は、少しだけ持ってきた」
「少し?」
「ガルドが『重い』と言って、牙と爪だけ残した」
「毛皮は」
「置いてきた」
「内臓素材は」
「分からなかった」
「討伐証明の書類は」
アレンは黙った。
「出してないんだな」
「……ギルドの受付で、どの書類を書けばいいのか分からなくて」
「聞け」
「聞いた。だが、エルナが横から専門用語で説明し始めて、受付が混乱した」
「止めろ」
「止めようとしたら、ガルドが『魔物は倒した。金を出せ』と言った」
「盗賊か」
アレンは椀を見つめた。
「結局、後日確認になった」
「つまり未換金か」
「ああ」
戦闘に勝っても、手続きができなければ金にならない。
大型魔狼の死体すら、こいつらには財布に変えられなかったらしい。
「問題はその後だった」
「宿か」
「宿だ」
アレンは深刻な顔でうなずいた。
「街に着いたら、宿が全部埋まっていた」
「予約は」
「していなかった」
「予約表は」
「……あった」
「どこに」
「鍋の下に」
俺は黙った。
アレンも黙った。
「誰だ」
「ガルドだ」
「なぜ」
「紙がちょうどよかったらしい」
「ちょうどよかった、とは?」
「鍋敷きに」
俺は深く息を吸った。
吐いた。
まだ怒るな。
ここで怒ったら負けだ。
「予約表には、収穫祭前で宿が埋まりやすいと書いていたはずだ」
「あったらしい」
「らしい?」
「鍋の熱で、半分読めなくなった」
「宿の予約表を鍋で焼くな」
「すまない」
謝るのが遅い。
「街では大型魔狼を倒したことで歓迎はされた。だが、収穫祭の前日で、宿はどこも満室だった」
「それで?」
「野宿した」
「一日くらいならまあ、どうにかなるだろ」
「雨が降った」
「……」
「二日目も宿は空かなかった」
「……」
「三日目にガルドが風邪を引いた」
「剣聖が?」
「ああ。あいつ、魔物の牙は弾くのに、雨は弾けないなんて俺は知らなかったんだ」
俺は天を仰ぎたくなった。
体調管理すらできないのか、あの男は。
「ガルドの外套はどうした。俺が宿の主人に預けたほつれ直しは受け取っただろ」
「受け取った」
「なら、なぜ風邪を引く」
「ガルドは喜んでいた。最高の仕上がりだと言っていた」
「それで?」
「汚したくないと言って、雨の中で脱いだ」
「……」
「馬車の屋根に干せば乾くと思ったらしい」
「雨の中で?」
「雨の中で」
俺はこめかみを押さえた。
「結果、外套は川みたいに水を吸って重くなった。ガルドはほぼ薄着のまま朝まで震えていた」
「剣聖とは」
「俺も分からなくなった」
そこは分からなくならなくていい。
「その間、魔王軍は?」
「お前の計画表にあった廃礼拝堂に逃げ込んだ。巡回路から外れていて、水場も近いと書いてあった場所だ」
「ああ、あそこか」
「あれがなければ危なかった。ミリアが入口に結界を張って、俺とエルナで交代で見張った。ガルドは奥で震えていた」
「戦時下で風邪を引く前衛か」
「笑えなかった」
「笑ってない」
本当に笑えなかった。
「ミリアは?」
「全員に回復魔法をかけた」
「なら治っただろ」
「体力は戻った」
「よかったじゃないか」
「だが、濡れた服は乾かなかった」
「そこは魔法の範囲外か」
アレンは真剣にうなずいた。
「範囲外だった。ミリアも泣きそうな顔でそう言っていた」
「泣きたいのはたぶん宿屋の主人だ」
「まだ宿には泊まれていない」
「そうだったな」
話がひどい方向にしか進まない。
「その後は?」
「お前の計画表の一か月分は、なんとか使った」
アレンは視線を落とした。
「宿の名前、街道、補給地点、商人への連絡先。最初は、正直、細かすぎると思っていた。だが、あれがある間はまだ進めた」
「最初は馬鹿にしていたのか」
「……すまない」
謝るのが少し早くなった。
いい傾向ではある。
「ただ、一か月を過ぎてからが問題だった」
「そこから二か月、どうしていた」
「気合いで」
「最悪の答えが来たな」
「ガルドがそう言った」
「言いそうなことだ」
アレンは水を飲み、また話し始めた。
「まず、道を間違えた」
「地図は」
「途中まではあった」
「途中からは?」
「ガルドが、地図に頼ると勘が鈍ると言った」
「言うと思った」
「それで……」
アレンは言いにくそうに口を閉じた。
「言え。地図はどうした」
「……夜、寒くて。ガルドが、焚き火に……」
俺は、持っていた椀を机に置く手を止めた。
「地図を、燃やしたのか」
「すまない」
「お前が燃やしたわけじゃないだろ」
「止められなかった」
「同罪だ」
「すまない」
勇者の肩が小さくなっていく。
「それで東街道に出た」
「東街道は橋が落ちていると書いていただろ」
「一か月分の計画表には書いてあった。だが、ガルドが『橋くらい剣でどうにかなる』と」
「ならない」
「ならなかった」
「当たり前だ」
「馬車は引き返すしかなかった」
「食料は?」
アレンは目を伏せた。
「荷台が傾いて……」
「……」
「川に落ちた」
「人は?」
「ミリアが助けた」
「そこはよかった」
「干し肉は助からなかった」
「濡れたのか」
「ああ。ミリアが浄化魔法で泥水を落とそうとした」
「それで?」
「塩気も匂いも、全部消えた」
「……食えたのか?」
「噛んでも噛んでも、濡れた布みたいだった」
「食ったのか」
「少し」
「食うな」
俺は椅子の背にもたれた。
思った以上にひどい。
だが、まだ序の口なのだろうという嫌な予感がある。
「旅費は?」
俺が聞くと、アレンは目に見えて固まった。
「旅費は……」
「エルナか」
「なぜ分かる」
「分からない方がおかしい」
アレンは両手で顔を覆った。
「希少な魔導書を見つけた」
「買ったのか」
「買った」
「いくらだ」
「かなり」
「具体的に」
「宿代三週間分」
「帰れ」
「待ってくれ!」
アレンが慌てて身を乗り出した。
「俺も止めたんだ。だがエルナが、『これは今買わなければ二度と手に入らない』と」
「研究者が全員言う言葉だ」
「しかも希少触媒も買った」
「なぜ追加する」
「魔導書を読むには必要だったらしい」
「読まずに帰れ」
アレンは何も言い返せなかった。
「お前がいた頃は、旅費、装備費、研究費、緊急費で袋が分かれていた。エルナは青い袋しか触れなかった」
「そうしていた」
「俺たちだけになってからは、全部一つの革袋にまとめた」
「なぜ」
「分かりやすいと思ったんだ」
「一番分かりにくい。予算の天井が見えなくなる」
アレンは泥のついた服を見下ろした。
「……本当に、その通りだった」
小屋の中に短い沈黙が落ちた。
笑い話に聞こえる。
だが、その結果として目の前の勇者は、まともに飯も食えない顔をしている。
「薬草箱は」
俺は聞きたくなかったが、聞かざるを得なかった。
アレンの顔がさらに曇る。
「ミリアが整理しようとした」
「善意だな」
「善意だった」
「結果は」
「湿布用の薬草と飲み薬が混ざった」
「赤札は」
「意味を知っていたのは、お前だけだった」
「札に書いていただろ」
「雨でにじんでいた」
「油紙」
「それも、お前の計画表に書いてあった」
「読め」
「すまない」
アレンは本気でしょんぼりしていた。
少しだけ、怒る気が削がれる。
「大事故にはならなかったのか」
「ならなかった。ガルドが間違えて湿布液を飲んで、一日寝込んだ」
「一日寝込んだ時点で事故だ」
「ミリアは泣いていた」
俺は少し黙った。
ミリアは善良だ。
生活力はないが、悪気はない。
自分の失敗で仲間が倒れたなら、相当落ち込んだだろう。
「商人ギルドへの連絡は」
アレンの動きが止まった。
「……何の?」
俺は目を閉じた。
深く息を吸う。
吐く。
「三日前に次の街のギルドへ連絡を回さないと、保存食は確保できない。戦時中だぞ」
アレンの顔から血の気が引いた。
「だから……どこに行っても『予約分でいっぱいです』と言われたのか」
「勇者の名を出しても、断られただろ」
「ああ。どんなに頼んでも、余っていないものは出せないと言われた」
アレンは膝の上で拳を握った。
「……戦時中だから、当たり前だったんだな」
その声は小さかった。
ようやく、現実に追いついた声だった。
「他の三人は」
「近くの町にいる。いや、町の近くにいる」
「なぜ町に入っていない」
「入れないんだ」
「何をした」
アレンは答える前から苦しそうだった。
「ガルドが宿の柱を少し傾けて、エルナが弁償だと言ってわけの分からない石を差し出して、ミリアが泣きながら謝って……」
なるほど。
出禁か。
俺は容易にその地獄絵図を想像できた。
「柱を傾けるな」
「俺もそう思う」
「あいつの怪力なら一瞬か」
「止めた。間に合わなかった」
宿屋からすれば災害である。
俺は深く、深く椅子にもたれ、天井を仰いだ。
宿。
地図。
旅費。
薬草。
保存食。
宿屋。
一つずつ指を折るたびに、怒りを通り越して、乾いた笑いが出そうになった。
戦闘だけは王国最高峰の英雄たちが、生活という名の戦場で見事に完敗している。
「戦闘はどうだった」
「勝っている」
アレンはそこだけは迷わず答えた。
「大型魔物にも、魔王軍の小隊にも負けていない。ガルドは前より冴えている。エルナの魔法も強くなった。ミリアの回復も、何度も俺たちを救った」
「なら、よかったじゃないか」
「よくない」
アレンは首を振った。
「俺たちは勝っているのに、進めなくなったんだ」
その声は、さっきまでより少し低かった。
「お前がいたときは、雨が降っても、道に迷っても、次の朝にはちゃんと進めた。なのに、今は……」
そこから先は、言葉にならなかったようだった。
小屋の中が静かになった。
外の夕焼けが、窓から差し込んでいる。
俺はアレンから視線を逸らし、机の端に置いていた折れた釣り竿に触れた。
「遅い」
「分かっている」
「分かってないからここにいるんだろ」
「……それも、分かっている」
アレンは立ち上がった。
疲れ切っているくせに、姿勢だけはまっすぐだった。
勇者らしい、と少しだけ思った。
それが腹立たしくもあった。
「レオ」
「何だ」
「戻ってきてくれ」
アレンは頭を下げた。
勇者が、俺に向かって。
「俺たちには、お前が必要だ」
言葉だけなら、三か月前に聞きたかった。
いや。
三か月前に聞いていたら、俺はたぶん戻っていた。
でも今は違う。
窓の外で、子供たちの声が聞こえる。
村長が誰かに水路の話をしている。
薬師のおばあさんが、棚の札を確認しながら鼻歌を歌っている。
この村には、俺が直しかけているものがまだある。
橋も。
水路も。
薬草箱も。
折れた釣り竿も。
俺はアレンを見た。
「今日は泊まっていけ」
アレンが顔を上げる。
「レオ」
「話は明日だ」
「でも」
「粥を流し込んだばかりの勇者に、人生の重大決定をさせるな」
「それは……そうかもしれない」
「あと、今のお前は臭い」
「すまない」
「村の井戸を借りろ。服は洗え。外套は俺が干しておく。聖剣だけ綺麗なのが余計に腹立つ」
アレンは戸口に掛けた外套を見た。
「……すまない」
「謝る前に洗え」
俺は立ち上がり、戸を開けた。
外には、桶を洗い終えた子供たちが戻ってきていた。
「お前ら」
「はーい!」
「井戸の場所を勇者様に教えてやれ。あと、村長に客が一人泊まると伝えてくれ」
「勇者様、泊まるの?」
「たぶん」
「宿の予約は?」
子供の一人が首をかしげた。
アレンが固まる。
俺は言った。
「この村に宿はない」
「じゃあ勇者様、どうするの?」
「村長に頼む」
「予約なしで?」
子供の言葉が、やけに鋭かった。
アレンの肩がびくりと揺れる。
俺は少しだけ笑った。
「今から頼めば間に合う」
「よかったね、勇者様!」
子供たちは笑いながら走っていった。
アレンはその背中を見送り、ぽつりと言った。
「……子供にも宿の心配をされる勇者か」
「成長の第一歩だな」
「どこがだ」
「宿の大切さを知った」
アレンは何か言い返そうとして、やめた。
俺は戸口にもたれ、夕暮れの村を見た。
明日、こいつはもう一度言うだろう。
戻ってきてくれ、と。
そして俺は、答えを出さなければならない。
静かな田舎暮らしは、どうやら本当に終わりかけている。
いや。
終わらせる気はない。
俺はこの村で、まだやることがある。
アレンは井戸の方へ歩きながら、ふらついた。
子供たちが慌てて支える。
「勇者様、こっち!」
「そっちは鶏小屋!」
「井戸はこっち!」
「……すまない」
俺は頭を抱えた。
道案内からか。
魔王城は、まだ遠そうだった。




