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【短編】勇者、お前ら俺なしで宿の予約もできなかったのか~追放された補助役は辺境の村で必要とされます~  作者: 磯辺


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3/3

戻ってこいと言われたが、もう遅い

 翌朝。


 小屋の中には、昨日干したアレンの外套から、まだかすかに川泥の匂いが漂っていた。


 完全には乾いていない。

 乾いてはいるが、泥の匂いは残っている。


 昨夜、アレンが眠ったあと、俺は外套を戸口の釘から外し、火の気の残る竃の近くへ移しておいた。


 旅の苦労というものは、布にも染み込むらしい。


「……すまない」


 床に敷いた毛布の上で、アレンが目を覚ました。


「起きて最初に謝るな」


「昨日、何度も謝った気がする」


「正確には、謝ってから洗って、また謝って、寝た」


「最悪だな」


「昨日のお前よりはマシだ」


 アレンは何も言い返せなかった。


 昨夜、村長に頼んで泊めてもらう予定だったが、アレンは井戸で服を洗ったあと、俺の小屋の前で力尽きた。


 村長の家まで運ぶ方が面倒だったので、結局、小屋の床に毛布を敷いた。


 勇者はよく眠った。


 魔王軍の大型魔物と戦う男が、村の古い毛布一枚で泥のように眠る姿は、なかなか見られるものではない。


「体は」


「軽い」


「腹は」


「減っている」


「正直だな」


「昨日学んだ。腹は隠せない」


「勇者が学ぶことか?」


「今の俺には大事だ」


 俺は豆の粥を椀によそい、アレンに渡した。


「食え。熱いから、今度はゆっくりだ」


「分かっている」


 アレンは慎重に椀を受け取った。


 昨日よりは人間らしい速度で食べている。


 少しは学習能力があるらしい。


 外では、朝の村が動き始めていた。


 鶏の声。

 水路を流れる水の音。

 畑へ向かう村人たちの足音。


 いつもの朝だ。


 ただ、小屋の中に勇者がいることだけが、いつもと違った。


 アレンは粥を最後の一口まで食べ終えた。


 椀の底に残った豆まで、きちんと木匙でさらっている。


 それから、椀を机の端に置き、毛布から立ち上がった。


 まだ少し足元はふらついていたが、昨日よりはずっとましだった。


「レオ」


 アレンは俺の机の前まで歩いてきた。


「昨日の話の続きをしたい」


 俺は机の上に置いた紙を片付け、手を止めてアレンを見た。


「頼む。もう一度、俺たちと来てくれ」


 アレンはまっすぐ俺を見た。


 昨日のような空腹の限界はない。

 泥だらけの外套もない。

 目の下の隈はまだ残っているが、声は少し戻っていた。


 勇者アレン。


 追放した側の男。


 そして今、追放した相手に頭を下げようとしている男。


「魔王軍との戦いは終わっていない。俺たちが動けなければ、困る人がいる。お前の力が必要だ」


「俺の力?」


「ああ」


「俺は戦えない」


「違う」


 アレンは首を振った。


「俺たちに足りなかったのは、戦う力じゃなかった」


 俺は何も言わなかった。


 アレンは続ける。


「宿を取ること。道を選ぶこと。飯を確保すること。金を分けること。商人やギルドと話をつけること。そういうものを、俺たちは全部軽く見ていた」


「昨日聞いた」


「分かっている。だが、言わせてくれ」


 アレンは膝の横で拳を握った。


「俺は、お前を軽く見ていた」


 小屋の中に、朝の光が差し込んでいる。


 その光の中で、アレンは言った。


「戦えることだけが強さだと思っていた」


「……」


「俺が間違っていた」


 その言葉は、たぶん本心だった。


 昨日のように腹が鳴って誤魔化されることもない。

 泥まみれで情けなく見えるわけでもない。


 朝の静かな小屋で、アレンはただ、間違いを認めていた。


 俺は窓の外を見た。


 村の入口へ続く道が見える。

 昨日、アレンが倒れかけていた場所だ。


「俺は」


 俺はゆっくり口を開いた。


「お前たちが嫌いになったわけじゃない」


 アレンの肩が少し動いた。


「でも、戻る気はない」


「……なぜだ」


「戻っても、また同じことになるからだ」


「俺たちは変わる」


「昨日一日でか?」


 アレンは言葉に詰まった。


 俺は椅子に座り、机の端にあった父の古い方位磁針を指で軽く押した。


 針が揺れる。

 そして、また北を向く。


「俺は、あのパーティでずっと後ろにいた。お前たちが戦っている間、次の宿を確認して、次の道を見て、食料を数えて、壊れた馬車をどうするか考えていた」


「ああ」


「でも、お前たちはそれを見ていなかった」


「……ああ」


「見ていない仕事は、すぐ軽くなる」


 アレンは黙っていた。


「お前たちは強い。そこは疑っていない。だが、俺の仕事を『誰でもできる雑用』だと思っている場所に、俺は戻れない」


「今は思っていない」


「今はな」


 俺は立ち上がった。


 机の上に置いていた折れた釣り竿を手に取る。


「でも、人はすぐ忘れる。戦闘に勝てば、また気が大きくなる。宿が取れて、飯があって、道に迷わなければ、それを当たり前だと思う」


 俺は釣り竿の折れた部分を見た。


「当たり前を作る仕事は、当たり前になった瞬間に見えなくなる」


 アレンは何も言わなかった。


 俺は釣り竿を机に戻す。


「それに、俺にはここでやることがある」


「この村で?」


「ああ」


 そのとき、戸の外から声がした。


「レオ、起きてるか?」


 村長だった。


「起きています」


「すまんが、今日の昼に来る商人の件で相談がある。昨日の話だと、隣村の相場を見せて交渉するんだったな?」


「はい。去年の買い取り価格と、今年の麦の出来を見せれば、少なくとも一割は上げられるはずです」


「一割か」


「無理に押すと来月来なくなるので、最初は半割増しで出して、落としどころを一割にしましょう」


「また難しいことをさらっと言う」


「普通の交渉です」


 村長は笑った。


「あとで頼む」


「分かりました」


 村長が去ると、今度は子供たちが顔を出した。


 アレンは気まずそうに、俺の机の横から一歩下がった。


 ちょうど戸口から姿が見える位置だった。


「レオ兄ちゃん、釣り竿直った?」


「まだだ」


「えー」


「商人の交渉が終わったら直す」


「勇者様も釣りできる?」


 アレンが少し困った顔をした。


「釣りは……あまり」


「じゃあレオ兄ちゃんの方がすごいな!」


「それはどうだろうな」


「だって勇者様、昨日、予約なしで泊まろうとしたんでしょ?」


 アレンが完全に固まった。


 俺は冷めた目でその勇者の横顔を見て、それから子供たちの頭を軽く小突いた。


「事実を大きな声で言うな。お前らはさっさと桶を片付けてこい」


「はーい!」


 子供たちは笑いながら走っていった。


 その後ろ姿を、アレンはしばらく見ていた。


「ここでは」


 アレンがぽつりと言った。


「お前は、楽しそうだな」


「そう見えるか」


「ああ」


 俺は答えなかった。


 楽しい、というほど単純ではない。


 この村にも面倒はある。

 水路は詰まる。

 橋は古い。

 商人は安く買い叩こうとする。

 子供は釣り竿を踏む。


 だが、ここでは俺の仕事が誰かの明日に繋がる。


 それが見える。


 ただ、それだけのことだ。


「レオ」


 アレンはもう一度、俺を見た。


「それでも、俺たちは困っている」


「知っている」


「俺たちだけでは、また失敗するかもしれない」


「するだろうな」


「断言するのか」


「昨日の話を聞いた後で、しないと思える方がおかしい」


 アレンは少しだけ苦笑した。


 昨日よりは、まともな顔だった。


「だから」


 俺は棚から紙を取り出した。


 昨夜、アレンが寝たあとに書いたものだ。


「これを持っていけ」


「これは?」


「今後一か月分の最低限の行動表だ」


 アレンが紙を受け取る。


 その目が、だんだん真剣になっていく。


 紙には大きく項目を書いておいた。


 宿は三日前に予約。


 地図は燃やすな。鍋敷きにもするな。


 旅費、装備費、研究費、緊急費は袋を分ける。


 商人ギルドへの連絡日は赤で記入。


 薬草箱の赤札は飲むな。


 ガルドに道を決めさせるな。


 エルナに財布を持たせるな。


 ミリアに料理当番をさせるな。


 大型魔物を倒したら、素材を捨てる前に討伐部位を塩漬けにする。


 ギルド指定の刻印がある部位は必ず馬車に積む。


 エルナに乾燥魔法を使わせる。


 事務手続きは街に着いてから。


 困ったら、まず謝れ。


 アレンは最後の行で止まった。


「困ったら、まず謝れ」


「一番大事だ」


「そうか」


「昨日の宿屋にも謝れ」


「ああ」


「柱の弁償は、まず金で払え。希少触媒ではなく」


「肝に銘じる」


「保存食は、今からトーマスさんに連絡を入れる。今回は俺から紹介状を書く。ただし、次からはお前が自分で頼め」


 アレンは深く、重くうなずいた。


「分かっただけで終わるな。書け」


 俺は引き出しから炭筆を取り出して渡した。


「外でも書けるやつだ。インクをこぼすなよ、という注意から始めたくない」


「そこまで信用がないのか」


「昨日の話を聞いた後で信用できると思うか?」


「……思わない」


 アレンは紙の余白に、ぎこちない字で書き始めた。


 宿、三日前。


 地図、燃やさない。


 謝る。


 字は少し歪んでいた。


 だが、昨日よりは前に進んでいる。


「これで、俺たちは戻れるのか」


「戻れるかどうかは、お前たち次第だ」


「レオは来ないんだな」


「行かない」


 アレンは紙を握りしめた。


「……分かった」


 それから、ゆっくり頭を下げた。


「すまなかった」


 昨日も聞いた言葉だ。


 でも、昨日より少し重かった。


 アレンは頭を下げたまま、ぎゅっと拳を握りしめていた。


 聖剣を握るためのその手が、微かに震えている。


「俺は、何も見ていなかった……」


 絞り出すような声だった。


 勇者アレンが、自分の無知に、本気で打ちのめされている顔だった。


 俺はすぐには答えなかった。


 窓から差し込む朝の光が、机の上の古い方位磁針を照らしている。


 その静かな針を見つめたあと、俺は小さく息を吐いた。


「顔を上げろ」


 アレンは顔を上げた。


「謝罪は受け取る。……ただし、戻らない」


「……ああ」


 アレンは小さくうなずいた。


「いつか」


 アレンは少し迷ってから言った。


「俺たちがちゃんと変われたら、その時は、また会いに来てもいいか」


「用件による」


 俺の返事に、アレンは一瞬だけ言葉を詰まらせた。


 それから、覚悟を決めたように小さく笑った。


「……ああ、分かっている。毎週来るなよ、と言いたいんだろ」


 先回りされた。


 俺はため息をついた。


「分かっているなら来るな」


「善処する」


「もう怪しい」


 少しだけ、アレンが笑った。


 俺も少しだけ笑った。


 それで十分だった。


     ◇


 昼前。


 アレンは村を出ることになった。


 村長に礼を言い、井戸を借りた礼も言い、なぜか鶏小屋の前でも頭を下げていた。


「そこには謝らなくていい」


「昨日、間違えて入ったから」


「鶏には謝っておけ」


 アレンは真面目に鶏へ頭を下げた。


 村の子供たちが腹を抱えて笑っている。


 勇者の威厳は、昨日から行方不明だ。


 俺は乾いた外套を渡した。


 まだ少し泥の匂いは残っている。


「完全には落ちなかった」


「十分だ」


「次は泥が乾く前に洗え」


 アレンはさっき渡した炭筆を取り出し、慌てて紙の端に書いた。


 泥、すぐ洗う。


 その字を見て、子供の一人が言った。


「勇者様、宿の次は洗濯も勉強するの?」


「そうらしい」


 俺が答えると、アレンは耳を赤くした。


「レオ」


「何だ」


「本当に、ありがとう」


「礼なら、ちゃんと宿を予約してから言え」


「ああ」


 アレンは真剣にうなずいた。


 そして、村の入口へ向かって歩き出した。


 数歩進んだところで、立ち止まる。


「レオ」


「今度は何だ」


「この道で合っているか」


 俺は目を閉じた。


 早い。


 あまりにも早い。


「どこへ行くつもりだ」


「仲間たちが待っている町の近くへ」


「なら左だ」


 アレンは右を見ていた。


「……左か」


「左だ」


「危なかった」


「危なすぎる」


 俺は簡単な地図を取り出し、アレンに渡した。


「これを見ろ。燃やすな。濡らすな。鍋敷きにするな。ガルドに渡すな」


「分かった」


「その返事を信用したい」


「善処する」


「やっぱり信用できない」


 アレンは苦笑した。


 村の子供が俺の服を引っ張る。


「レオ兄ちゃん、あの人、誰?」


 俺は遠ざかるアレンの背中を見た。


 泥の匂いの残る外套。

 腰の聖剣。

 手には行動表と地図。


 王国の勇者にしては、ずいぶん荷物が情けない。


「昔の職場の人だ」


「また来る?」


 アレンは分かれ道の前で、今度はちゃんと地図を開いていた。


 だが、地図を上下逆さまにしている。


 俺はため息をついた。


「……たぶん来る」


 子供は不思議そうに首をかしげた。


「毎週?」


「それは困る」


 俺は歩き出しかけたアレンに向かって声を張った。


「アレン!」


 アレンが振り返る。


「地図が逆だ!」


 アレンは手元を見た。


 それから、少しだけ笑って、地図を正しい向きに直した。


 今度こそ、左の道へ歩き出す。


 勇者の背中が、少しずつ小さくなっていく。


 俺はそれを見送った。


 魔王軍との戦いは、まだ終わっていない。


 アレンたちは、また失敗するかもしれない。


 きっと失敗する。


 だが、今度こそ、あいつらは自分の足で道を選ぶはずだ。


「レオ兄ちゃん!」


 子供たちが釣り竿を持って走ってきた。


「釣り竿、今日直る?」


「商人との交渉が終わったらな」


「また後回し?」


「村の塩と油が先だ」


「じゃあ手伝う!」


「商人相手にお前らを出したら、飴玉一袋で丸め込まれる」


「ひどい!」


「事実だ」


 子供たちは笑っている。


 村長がこちらに手を振っていた。


 薬師のおばあさんが、棚の札を見ながら満足げにうなずいている。


 水路の水は、朝の光を受けて静かに流れていた。


 俺は方位磁針を取り出す。


 針は、今日も静かに北を向いていた。


 戦いは剣だけでするものじゃない。


 父の声が、どこかで聞こえた気がした。


「さて」


 俺は釣り竿を受け取った。


「まずは、商人との交渉だ」


 村の朝は、今日も忙しい。


 勇者パーティに戻る暇など、しばらくなさそうだった。


 そして俺は、それでいいと思っていた。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


本作はひとまず、この第3話で完結です。


「戦闘ではなく、宿の予約や補給計画が崩れると勇者パーティも困るのでは?」という発想から書き始めた作品でした。


派手な能力ではなく、誰かが当たり前にやっている仕事の大切さを描けたなら嬉しいです。


ただ、正直に言うと作者自身も、


「この勇者パーティ、放っておいて大丈夫なのか?」


と思っています。


特にガルド、エルナ、ミリアあたりは、まだまだ何かやらかしそうな気がします。


もしご好評をいただけるようでしたら、


・道に迷って隣国へ行く剣聖

・研究費で全財産を溶かす賢者

・料理で新たな伝説を作る聖女

・毎回なんだかんだでレオを頼りに来る勇者パーティ


といった連載版を書くかもしれません。


少しでも面白かったと思っていただけましたら、


ブックマーク、評価、感想などで応援していただけると嬉しいです。


いただいた反応は、今後の執筆の大きな励みになります。


改めて、最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

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