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第8話  馬鹿みたいな話

北へ旅立って二日目。


朝霧の森を北へ歩く。

リーネの足はだいぶ良くなったようだ。


肩を借りずに歩いて進める。ただし速度はまだ七割程度。

しゃきしゃき歩くことはまだできない。


「リーネ、魔力は戻ってきたか?」


「少しはね。まだ三割ってところ。簡単な氷の魔法なら使えると思う」


「魔法が使えるまで戻ったなら十分だ」


「十分じゃないわよ。万全の状態で★3の力が出せるんだから」


「体調を心配してるんだよ。戦いは俺がなんとかするって」


リーネが何か言い返そうとした時、クロが足を止めた。


耳がぴんと立ち、鼻がひくつく。

低い唸り。警戒の姿勢。


アクロスの探知にも反応があった。


前方百メートル。

生命反応が四つ。獣。


だが普通の獣より反応が大きい。魔力を帯びているのを感じる。


「魔物だわ…!」


リーネの声が硬くなった。

彼女も気配を感じ取ったらしい。


「魔物…どんなやつだ?」


「たぶん魔狼。魔力で変異した狼。群れで動く。★一つから二つ。

一匹なら大したことないけど、複数だと――」


言い終わる前に、茂みが揺れた。


---


灰色の獣が四つ、扇形に散開しながら姿を現した。


普通の狼より二回り大きい。

肩の高さがアクロスの腰ほどある。


毛皮は灰色だが所々が黒ずみ、赤く光る目が爛々と輝いている。


口から涎を垂らし、低い唸りが地面を這うように響いた。


「赤い目。魔力変異の初期型ね。

地脈の魔力の溜まり場に獣が影響されて変異したタイプよ」


リーネはアクロスに説明するように言った。


「なるほどね」


アクロスは親切設計に感心した。


魔物か…初めてだな。聞いた感じだと雑魚の類だろうけど。


リーネが杖を構えた。

先端にかすかな紫の光。弱いが、ちゃんと灯っている。


「リーネ。戦えるのか? 無理をするなよ」


「馬鹿にしないで。私だっていつまでも何もできないわけじゃないの。

二匹は私で受けれる。残り二匹はあなた、いける?」


「当たり前だ。クロ。リーネを守ってやれよ」


わおぅん!気合が入った遠吠え。


魔狼達にも届いたのか。群れの動きが少し固くなった。


クロが低く構え、リーネの前に立った。


子狼のサイズは魔狼の半分以下。

だが紫の瞳に怯えはない。歯を剥き出し、唸り返す。


アクロスは気づいた。

いつものクロと、明らかに違う。


声の太さが違う。地に足がついた構えの重心が違う。


だがそれより何より――目が違う。


毎朝顔を舐め回してくる、あの無邪気な紫の瞳が、今は闘う者の目になっていた。


クロ、どんどん成長してるな。立派な、戦える獣になってきてる。


ゆっくり感心する暇もなく、魔狼が先に仕掛けてくる。


左端の一匹がリーネに飛びかかった。


同時に右端がアクロスを狙う。


残り二匹が左右から挟み込む。


確かに連携している。狼の、群れが行う狩りだ。


リーネが鋭く杖を振った。凛々しい声で叫ぶ。


「凍れ、フリーズ!」


空気が白く弾けた。


杖の先から冷気が噴き出し、飛びかかってきた魔狼の前脚が氷に覆われる。


着地した瞬間、氷の拘束と重みでバランスを崩した。


「クロ、今よ!」


クロが地を蹴った。

氷で動けない魔狼の喉元に食らいつく。


数日前に生まれたばかりとは思えない速度だった。


アクロスが全力で走っても追いついてくる程度には成長していたが、

今の跳躍は違う。正確で、無駄がなく、獲物の急所を本能で捕えている。


子狼の顎が容赦なく深く沈み、魔狼が悲鳴を上げた。

魔狼は体を捻るが動けない。


小さな体とは思えないほどの膂力でクロは抑えきっている。


リーネとクロの連携。初めてなのに息が合ってるな。

俺も負けてられない。


アクロスの目は跳んできた魔狼をしっかり捕えている。


ドルクのあの剣速と比べると全然遅い。

身体強化は既にかけている。


赤い目。開いた顎。牙。涎。


全て、見えている。


容赦なく、拳を叩き込む。

顎の下から突き上げる激しいアッパー。


魔狼の頭が縦に勢いよく跳ね上がり、

空中で一回転してそのまま地面に激しく衝突する。


魔狼はそのままぴくぴく痙攣して動かなくなる。


「よし!」


残り一匹が横から飛んでくる。


回避する。


だが爪がコートの袖を裂いた。


速いな。

こいつだけ他の狼より一回り大きい。

群れのリーダーか。


魔狼のリーダーが着地し、体勢を整える。


アクロスの周りを距離を取りながらぐるぐると周る。


「これはどうだ?」


左手を地面に叩きつけた。


アクロスを中心に円を描くように地面に霜が走り、

魔狼の足元に氷の地面ができ上がる。


氷は脆いが、足場を乱す程度なら十分。


魔狼が氷を踏んで滑った。

その一瞬に踏み込み、距離を詰める。


思い切り後頭部に手刀を叩き込み。


メキィ、と重い音。

魔狼はその勢いのまま地面にべたりと抑えられ、そのまま動かなくなった。


アクロスは振り返りリーネの方を見た。


既に――終わっていた。


一匹目はクロが喉元に食いついたまま押さえつけ、

二匹目はリーネの氷で全身を凍りつかせていた。


氷漬けの魔狼が、氷の中で赤い目だけをぎょろぎょろ動かしている。


「……殺してないのか」


「魔力が足りなくて仕留めきれなかっただけ。不本意な結果よ」


言いながらも、息が上がっている。額に汗。


三割の魔力で魔物を制するのは相当な負荷だったはずだ。


「十分だ。お見事だな」


リーネの褐色の頬が微かに赤くなった。視線を逸らす。


「……あなたこそ。素手で魔狼を殴り倒す魔族なんて初めて見たわ」


「俺、武器は持ってねえんだよ…」


「なにそれ。言い訳なのか、自慢なのか、よくわからない」


---


残り二匹の魔狼にきっちりとどめをさしてから、

アクロスはクロの頭を一度撫でた。


クロは撫でられながら、尻尾を振っていた。

いつもの無邪気な振り方だ。さっきの闘う目は、もうない。


目の前の脅威が消えた瞬間に、ちゃんと獣の顔をしまえる。

それが、また少し怖いくらいに大人びて見えた。


お前、ある日、急に進化とかしちゃいそうだな。


クロはわふう、と首をかしげている。


なんとなく「そうかも」と言っているような顔に見えた。


「リーネ。魔物を倒したら魔核を、取り出せたりするんだよな?」


「ええ。胸の奥にあるわ。……あなた、魔核の取り方知らないの?」


「もちろんやったことないよ」


「……何がもちろんよ。本当にどこから来たのよ…」


呆れ顔のリーネが、手際よく教えてくれた。


風の刃で胸を開き、心臓の裏側にある小さな結晶を取り出す。


小指の爪ほどの赤黒い石。

微かに温かい。


「これが魔核よ。★一つの魔狼のものだから大した価値はないけど、

四つでも町で売れば銅貨数枚にはなると思うわ」


「おぉ、ちゃんとお金になるのか」


「ならなきゃ冒険者達が魔物を進んで狩る理由がないでしょ…」


四匹分の魔核を回収した。

いつかは町に行ってちゃんと換金してもらわないとな。


「あとね。魔狼の毛皮も素材になる。革なめしすれば防具の裏地に使える。

牙も。魔物の部位は全部に値段がつけれるわ」


「へえ。無駄がないな」


「魔物は自然のサイクルの一部よ。倒したら余さず使う。

それが……昔から当たり前だったの」


リーネの声が少し翳った。

焼かれた集落での生活を思い出しているのだろうか。


始めての魔物退治だ。

採取できるものはきっちり取っておこう。


---


午後。


森はだんだん深くなり、地形が険しくなってきた。

岩場が増え、木々も太く暗い。


山脈に少しずつだが、近づいている証拠だろうか。


クロが突然、足を止めた。


いつもの警戒姿勢ではなかった。


耳は立っているが、尻尾が下がっている。

鼻をひくつかせ、何度も同じ方向を嗅いでいる。


困惑している。


「クロ、何かあるのか?」


クロは明確な反応を返さない。「危険」でも「獲物」でもない。

ただ、何かがある。


アクロスも探知を集中させる。

生命反応はない。人も獣も魔物もいない。


「……何もいないよな」


だが何かが引っかかる。


探知の端に、微かな違和感。

魔力の残滓のようなものがぼんやりと漂っている。


「とりあえず、行ってみよう」


木々を抜けた先に、開けた場所があった。


最初は自然の空き地だと思った。


だが足元を見て気づいた。


石畳。

苔に覆われ、草に埋もれかけているが、人の手で敷かれた石畳。


「…………」


顔を上げると、廃墟が見えた。


石と木で組まれた家屋が六棟。


いずれも屋根が崩れ、壁が割れている。


蔦が建物全体を覆い、窓から木の枝が突き出ている。


だが、崩壊の仕方が自然のものではなかった。


壁が外側から破壊されている。焦げ跡が残っている。

石材が弾けるように砕けた痕。


それは、まるで攻撃を受けて壊されたであろう家々。


広場の中央に、かつて井戸だったであろう石組みがあった。

水は涸れている。


そしてその奥に、一本の木が立っていた。


周囲の木々とは明らかに異質な、銀色の幹を持つ大樹。


葉は落ちているが、枝の形は優美で、かつては美しかったのだろう。


リーネが立ち止まっていた。


動かない。銀白の髪が風に揺れている。深紅の瞳が、広場を見渡している。


「……リーネ?」


返事がない。


「おい、リーネ。大丈夫か」


「……大丈夫…聞こえてるわ」


小さな声だった。


「この銀の木は…魂送りの木。

魔族の集落には必ず一本植えてある。死者の魂を大地に還すための――」


リーネが足を踏み出した。


ゆっくりと銀の木に近づき、指先で幹に触れた。


目を閉じる。一秒、二秒。


「……まだ、生きてる」


指先に力が入った。


「木が生きてるうちは、ここに還った魂も消えていない」


指をゆっくり離した。


目を開けると、深紅の瞳が静かに濡れていた。


泣いてはいない。ただ、滲んでいた。


「……ごめん。うちの集落の魂送りの木のこと、思い出した」


「……そうか」


何も言えなかった。


「ここは、魔族の集落の跡よ。焼かれたのよ。

私のところと同じように、人間に」


声が震えた。一瞬だけ。

すぐに飲み込んだ。


---


二人とも、無言で廃墟を歩いた。


崩れた家屋の中に、生活の痕跡が残っていた。


割れた陶器の欠片。

焦げた木の食器。

壁に描かれた絵――

子供が描いたらしい、拙い線で太陽と花と、角のある人物同士が手を繋いでいる。


台所だったらしい場所に、焦げた鍋が転がっていた。

中に炭化した何かの残骸。それが何だったかは、もうわからない。


寝室の跡。

崩れた寝台の横に、小さな布人形が泥に半分埋もれていた。


角が二本ついた、素朴な手作りの人形。


アクロスが拾い上げた。


汚れているが、縫い目は丁寧だ。

誰かが、時間をかけて作ったもの。


アクロスは、自分の額の一本の角に、無意識に触れていた。


この人形を縫った誰かにも、角があった。


この人形を抱いて眠った子にも、角があった。


そしてそれを、なくそうとした人間たちが、いた。


「…………」


胸が苦しかった。

怒りではない。もっと深い場所にある痛み。


転生前の人生で、色々な職場で色々なものを見た。


リストラされた中年。パワハラで壊れた若手。


不遇な外国人実習生の生活環境。


多少の理不尽はどこにでもあるものだ。

なんて少し、悟ったように生きていた。


だがこれは違う。

家ごと燃やされた人々の生活の痕跡。


敵意を持った集団に容赦なく全てを奪われる惨劇。


前の世界の理不尽とはスケールが違う。


これこそまさに、理不尽。


という言葉がしっくりくる。


「……ここには、何人くらい住んでたんだろう」


「家が六棟。魔族の家族は小さいから、一棟に一人から三人。

十人ちょっと…かな」


「生き残りは…?」


「わからない。……でも、私達の集落と同じ。この焼け方。

人間達は一人も逃がすつもりはないわ」


リーネの声は平坦だった。

それは、自分の集落を焼かれた時と同じ怒りを、必死に押し殺している声。


アクロスは布人形を見つめている。


角が二本ついた、笑顔の人形。


それをそっと自分のポーチに入れた。


「……ねぇ、何してるの」


「この人形は、持っていようと思った」


「なんで…」


「……今見たものを、忘れないように」


リーネは拳を強く握りしめる。


二人ともしばらく、何も言わなかった。


--


廃墟集落の広場に二人は戻った。


銀の木の下にアクロスとリーネとクロが立っている。


「リーネ…」


「…なに?」


「この世界で、魔族の集落はいくつ焼かれたんだろう…」


「……わからないわ。けど、私たちの集落だけじゃないのは確か。

南部国境沿いの集落は、ほぼ全滅って噂を聞いた。

中央回廊の小集落も次々と。十や二十じゃない、もっと多くの…」


「………なんで、そんなことをするんだ」


「そんなこと、わからないわ。私が教えてほしい」


リーネの体は震えている。拳に力が入っている。


「魔王がいなくなって半年。たった半年で」


アクロスは銀の木を見上げた。


葉のない枝が空に向かって伸びている。

死んではいない。


冬の木のように、眠っているだけのように見えた。


ファルティシア。お前は知ってたんだな、この惨状を。


あの時の一瞬の痛みの響き。


「何が起きているか、私は知っています」と言った声。


だが語らなかった。自分で見て、感じて、理解しろと。


俺は……見たぞ。そして感じたぞ。


布人形がポーチの中で重い。


ずっと、何かをやらされる側だった。


誰かの都合で動き、誰かの尻ぬぐいをし、文句を言わず働いた。


でも、もう違う。なら――


この光景を前にして、俺は、何を決める。


「……リーネ」


「なに?」


「お前は俺に聞いたよな。何者かって」


「ええ…」


「全部は言えない。でも一つだけ、今、言えることがある」


リーネが深紅の瞳でこちらを見た。


「俺は――

こういう景色をこの世界から、なくしたいと思ってる」


風が吹いた。

銀の木の枝が揺れ、かさかさと乾いた音を立てた。


リーネは何も言わなかった。


だがその深紅の瞳に浮かんでいたのは、疑いでも困惑でもなく。

かすかな、とてもかすかな――光。


「…それは、誰でも思うことだわ。

でもそれは、誰にでもできることではないの」


「わかってる」


「そう…わかってるんだ」


「でも、なくしたいから、なくそう」


「……馬鹿みたいな話ね」


リーネは少しだけ、笑っている。

呆れているのか。それとも別の何かを感じているのか。


「そうかもな…」


アクロスは、銀の木を目に焼き付けるように見ていた。


--


二人と一匹は廃墟を後にした。


当てもなく、まだ北へ進む。山脈を目指して。

追われることなく休める場所を探して。


振り返ると、銀の木の枝が夕陽に照らされて、一瞬だけ金色に光った気がした。


クロが足元をちょろちょろ走り、リーネが隣を歩いている。


二人と一匹の影が、森の奥に伸びていく。


ポーチの中の布人形は、歩くたびに小さく揺れていた。



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