第9話 二人と一匹の場所
廃墟を離れてまたしばらく歩いた。
二人と一匹は黙々と北へ歩く。
焼かれた集落のことについて各々、何か考えているようにも見えた。
突然、クロが進路を逸れた。
北への道筋から外れ、東の茂みに鼻を突っ込んでいる。
尻尾が水平。警戒ではなく興味の姿勢。
「どうしたんだ、クロ。何か見つけたのか?」
クロに聞いたが、返ってくるのは曖昧な反応。
アクロスの顔を見て、何かはあるよ。知らんけど。と言いたそうだ。
「危険」でも「獲物」でもない。
何かはある、としか言いようがない感覚。
「…リーネ。ちょっと待っててくれ。見てくる」
「わかった。けど…気を付けてよ」
クロは頷いて茂みの中へ入った。
アクロスも続く。
茂みが深い。
背の高いシダ植物が腰まであり、
蔦が木と木の間にカーテンのように垂れ下がっている。
人が通った形跡はない。
数ヶ月どころか、何年も踏み入れられていないような自然の密度だ。
クロとアクロスは蔦のカーテンを潜り抜けた。
枝が顔を叩き、蜘蛛の巣が額に貼りつく。
「うぉえっ…おい、クロ。どこまで……」
クロを追い、蔦を掻き分けた先で、足が止まった。
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急に開けた場所に出た。
周囲を背の高い木々が取り囲み、上を樹冠が覆い、
蔦と茂みが壁のように外界を遮断している。
まるで天然の隠し部屋のようだ。
広さは十五メートル四方ほど。地面は平らで、踏み固められた土。
草はまばらにしか生えていない。
かつて人が使っていた場所だとわかる。
そして奥に――建物があった。
石積みの平屋。
幅六メートル、奥行き八メートルほど。
屋根は分厚い板葺きで、苔と落ち葉に覆われているが崩れていない。
壁も健在。窓は小さく、鎧戸が閉まっている。
入り口は太い木の扉。錆びた鉄の蝶番。
取っ手に蔦が絡んでいる。
「…………」
アクロスは周囲を見回した。
廃墟の集落からはここまで、茂みと蔦に阻まれてまっすぐは来られない。
道らしきものもない。
ここは、知っていなければ、見つけられない場所。
クロが扉の前に座り、振り返った。
尻尾が揺れている。
どうよ。いいもの見つけただろ。という顔をしている。
「ほんとに、お前……よく見つけたな」
わふ。得意げ。
アクロスはわしゃわしゃとクロの頭を撫でる。
探知を展開したが、建物の中に生命反応はない。
人も獣もいない。
だが微かに――魔力の残滓がある。
壁や扉に染みついた、古い魔力。
「集落の倉庫か何かか…?
本村から離れた場所に物資を隠してたのかもな」
アクロスとクロは、リーネを呼びに戻った。
茂みを抜けるのにリーネは苦労した。
蔦に髪が絡まり、
「ちょっと待って引っかかった」
を三回繰り返して、ようやく隠し空間に出た。
銀白の髪に葉っぱがたくさんついている。
アクロスが笑いながら何枚か取ってやった。
「……ありがとう」
リーネは耳を赤くして小さく言った。
「ここは…?」
「クロが見つけた。たぶん集落の離れの倉庫か何かだな」
リーネが建物を見て、目を細めた。
壁に近づき、石の表面を指先で撫でる。少し間を置いてから、静かに言った。
「……石積みの魔族建築ね。壁に強化術の痕跡がある。
それも相当古い。百年以上は前の施術だと思う」
「百年。じゃあとっくに住んでた人は死んでるのか」
「そんなことはないわ。魔族は長くて五百年生きるものもいる。
人間とは寿命が全然違うわよ。あなたも魔族でしょ?」
「そ、そうだよな…」
これはまた、危うい失言をしてしまった。
「中、見てみるか?」
「ええ…入ってみましょう」
扉の蔦を引き剥がし、取っ手を引いた。
錆びた蝶番がぎい、と軋んだ。
重い。だが動く。
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石積みの建物の中は暗かった。
小さな窓から差し込む光は鎧戸に遮られて、ほとんど入ってこない。
アクロスが指先に小さな炎を灯した。
黒紫の火が室内を照らす。
埃の匂い。乾いた石の匂い。
だが腐敗の匂いはない。
部屋は一つだけの単純な造り。
壁際に石の棚が三段。奥に木の作業台。
天井から太い梁が走り、そこに鉄のフックがいくつかぶら下がっている。
干し肉やハーブを吊るすためのものか。
棚を確認する。
ほとんど空だった。
集落が襲われる前に持ち出されたか、
あるいはもともと大したものは置いていなかったか。
だが完全に空ではない。
一段目。陶器の壺が三つ。蓋付き。開けてみると、一つは空。
一つに乾燥した薬草の束。もう一つに粗い塩の結晶。
「おい、リーネ!塩だ、塩があるぞ……!」
アクロスの目が光った。ずっと欲しかったものだ。
今まで橙色の実の果汁で誤魔化してきたが、肉を焼くのに塩があるのとないのとでは天と地の差がある。
「塩…いいわね」
リーネが後ろから顔を覗かせた。
二段目。革の袋が二つ。一つは空。もう一つの袋には火打ち石と鉄片。
それから蝋燭が五本。蝋燭は埃を被っているが、芯はまだ使える。
三段目。布の束。雑巾のようなものが何枚か。
毛布もある。薄手だが、虫食いもカビもない。二枚ある。
魔力を帯びた建材のおかげか、全て保存状態がいい。
それから、灰色の麻の外套が一着。
サイズは大きめ。
「布切れ数枚と…毛布二枚に外套。塩。薬草。火打ち石。蝋燭」
リーネが数えながら棚の物を吟味している。
「多くはないけど…助かるよな」
作業台の引き出しを開ける。
中に小刀が一本。刃渡り十五センチほどの、素朴だが頑丈そうな作り。
柄は木で、刃は黒ずんでいるが研げば使えるだろう。
「お、刃物もあるぞ…」
「……武器が何もない人には、特にありがたいわね」
嫌みではなく、本当にそう思っている声だった。
アクロスは苦笑いした。
リーネは薬草の束を調べている。
「……これ、熱冷ましの薬草。乾燥状態なら長持ちする。煎じれば薬になるわ」
「お前、薬草のことがわかるのか」
「父が薬師だったって言ったでしょ。基本的なものは教わってるの」
「頼りになるね」
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建物の外に出て、改めて空間全体を観察した。
周囲を木と茂みと蔦が囲む天然の隠し部屋。
上空は樹冠に覆われ、よほど真上から覗かない限り見えない。
知らなければ普通に通り過ぎる。
わざわざ人が入るような場所じゃない。
「なあリーネ。ここは荒らされた痕跡がないよな」
「……ええ。集落は焼かれたのに、ここには手がついてない」
「つまり襲撃した連中はこの場所を知らなかった。見つけられなかった」
「そうね。本村からも離れてるし、道もない。
集落の人間でも、ここを知ってたのは一部だけだったんじゃないかしら」
アクロスは腕を組んだ。
建物の状態。魔力強化された壁と屋根。
崩れていない。雨漏りもなさそうだ。
広さは二人と一匹が寝泊まりするには十分。
作業台もある。棚もある。
外の空間は平らで、焚き火を起こすスペースもある。
水源はあるか――探知を広げる。身体強化で気配を探る。
音が聞こえるな。探知でも何か感じる。湧き水だろうか。
「水もありそうだ。少し見てくる」
「ほんと?」
クロと一緒に確認しに行った。
崖のような段差があり、岩肌の割れ目から透明な水が細く湧き出ている。
量は少ないが、二人と一匹の飲み水ならなんとかなりそうだ。
戻るとリーネが建物の前に座り、壁にもたれていた。
長い移動と戦闘で疲れているはずだ。
「リーネ、水場があったぞ」
「よくわかったわね? それも不思議魔法?」
「探知と五感強化の魔法だな」
「私もある程度、探知は習得してるけど水場まではわからないわ…」
「そうなのか? とりあえず便利なやつだと思ってくれてたらいいよ」
「そうね…そう思っとくわ」
リーネは慣れてきたのか、驚くのも面倒になってきたのか。
雑な反応になってきている。
「それよりさ、リーネ。ここをしばらく仮拠点にしないか?」
リーネが顔を上げた。
「北の山脈を目指すにしても、
お前の魔力が回復するまでは動き回らない方がいい。足もまだ完治してない」
「……それはそうだけど」
「この場所は条件がめちゃくちゃいい。
建物が残ってる。水もある。集落跡も近い。まだ使える素材も拾えるかもしれない。
何より――敵に見つかりにくい」
リーネは建物を見上げた。苔に覆われた屋根。
魔族の手で積まれた石壁。
「……ここに住んでた人たちのもの、勝手に使っていいのかな」
「使った方がいいと思うぞ。放っておいても朽ちるだけだ」
「…………」
リーネが黙って、壁に手を触れた。
褐色の指先が石の表面を撫でる。
「……この壁、まだ魔力が残ってる。この家を建てた人の込めた魔力」
「大事に使わせてもらおう」
リーネが小さく頷いた。
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アクロスとリーネは、日没までに最低限の整備をした。
まず建物の中を簡単に掃除する。
埃を払い、床を掃き、蜘蛛の巣を取る。
小刀で鎧戸の蝶番を削って動くようにし、窓を開けて換気。
作業台を軽く拭き、棚を整理し直す。
「寝床は……」
毛布が二枚ある。だが床も石だ。
硬い。体が痛くなりそうだ。
「とりあえず、落ち葉でも集めてくるか」
外の茂みから大量の落ち葉を抱えて戻り、建物の奥の二箇所に山を作った。
寝台はまた明日以降に作るか。
その上に毛布を敷く。
「よし。アクロス式落ち葉マットの完成だ。これで商売したいくらいだ」
「すぐ路頭に迷いそうな商売ね」
一緒に動いていると、リーネがてきぱきと仕切り始めた。
棚の配置を「薬草は上段、食料は中段、道具は下段にした方がわかりやすい」と組み直し、蝋燭を「緊急用にとっておく」と別に仕舞い込む。
アクロスが見落としていた建物の隅の小さな水漏れの跡を見つけて
「ここに荷物を置いたら雨の日に濡れちゃう」と指摘した。
「なんか急に、生き生きしてない?」
「集落でも、こういう事は私がやっていたから」
さらっと言っていたその一言に、元の暮らしの記憶が詰まっているのがわかった。
アクロスはそれ以上を聞かなかった。
壁の窪みに光る苔を詰めた。大事にポーチに入れておいた分だ。
紫の淡い明かりが灯り、石壁の建物が一気に住居の顔になった。
建物の外、開けた空間に焚き火の炉を作る。
石を丸く並べ、中に枯れ枝を積む。
火を点ける。
橙色の光が揺れ、石壁に影を落とした。
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そして夕食。
今日は魔狼の肉を串に刺して焼いた。棚にあった塩を振る。
「ちょっと待って」
リーネが手を伸ばした。
「塩は焼く前に薄く揉み込んだ方がいい。肉の奥まで染みるから」
「……あ、そうか」
「リーネは料理とかするの?」
「集落で父の世話しながら暮らしてたんだから当たり前でしょ。
あなたがいろいろ知らなすぎるだけよ」
「ぐ……ごもっとも」
言われた通りにやり直す。
塩を揉み込んで、改めて串に刺して火にかけた。
じゅう、と脂が弾け、今度は明らかに香りが違う。
塩が肉の旨みを引き出している。
ひと口ぱくり。
「……っ!」
アクロスの目が見開かれた。
「塩だ。塩の味がする。うめえ……!」
三日間塩なしで過ごした舌に、塩味が染みた。
橙の果汁も良かったが、塩は塩だ。
代わりがない。
リーネも齧って目を丸くした。
「……おいしい。魔狼の肉って臭みがあるけど、塩で焼くとこんなに変わるのね」
「塩は偉大だぞ。人類の発明ベスト5には入る」
「人類って……あんた魔族でしょ」
「あ、あぁ。まあ、なんだ。たとえ話だ」
危なかった。
クロにも塩味の肉を分ける。
ばくばく食べている。いつもより尻尾の振りが激しい。
塩の力は種族に関係なく感動を与える。
赤紫の実をデザートにし、水筒で喉を潤す。
「…………ふう」
大満足。焚き火が温かい。
石壁の建物が背後に控え、風を遮っている。
隣にリーネがいて、足元にクロがいる。
滝の秘密基地よりずっと「暮らし」に近い。
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食後のまったりした空気。
リーネは毛布を肩にかけ、焚き火に手をかざしている。
クロがリーネの膝の上で丸くなっている。
すっかりお気に入りの場所になったらしい。
うらやましいぞ。
「ねえ、アクロス」
「ん?」
膝の上のクロが顔を上げる。
こいつも聞いているのか。
紫の瞳が静かにアクロスを見ていた。
焚き火を見つめたまま、静かな声だ。
「あなたって、どこで育ったの。
北の山脈の小さな村って言ってたけど、あれは賞金稼ぎへの嘘でしょ」
「……まあ、そうだな」
「魔族の常識を知らない。魔核のことも知らなかった。
魔族の魔法とは全然違う魔法を使う。どう考えても普通の育ち方じゃない」
リーネが横目でこちらを見た。
責めているのではなく、純粋に知りたい目だ。
「……遠いところだよ。ここからは本当に、遠い」
「どのくらい遠いの?」
「言葉では伝えられないくらい」
「……そう」
リーネが視線を焚き火に戻した。
「いつか話してくれるって言ったの楽しみにしてる。急かさないけど」
「あぁ」
しばらく二人とも黙った。火の爆ぜる音だけが響く。
「なぁ、この建物、魔法で少し改造していいか」
「改造?」
「寝台もあった方がいいし、壁に棚を増やしたい。
あと、屋根の隅に煙抜きの穴を開ければ中でも火が焚ける」
「……あんたの魔法って、あの石の壁も削れるの?」
「やってみないとわからんけど、たぶんいける。
魔力で強化されてるから普通の石より硬いだろうけど」
「……好きにすれば。ここの持ち主はもういないんだし」
言い方は素っ気なかったが、リーネの声には容認以上のものがあった。
「明日からいろいろ考えてみよう。とりあえず、
今日は早めにゆっくりぐっすり、寝よう」
「そうね。久しぶりにゆっくり眠れそう」
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食事が終わり、建物の中に入った。
光る苔の紫の明かり。
落ち葉マットレスの上の毛布。
リーネが奥の寝床に横になり、毛布を被った。
クロが当然のようにリーネの横に潜り込む。
「……この子、私のところに来ちゃったけど」
「いいよ。温かいだろ」
くそ。うらやましいぞ。なんてスケベな獣だ。
「……うん」
滝の秘密基地を思い出す。
あれは俺とクロの場所だった。
こじんまりとしていたが、全部自分で作り上げたものだ。
ここは違う。
二人で掃除して、二人で棚を整理した。
建物の中の配置が、もう自分一人では思い浮かばなかった配置になっている。
ここは、二人と一匹の場所だ。
正直に言えば、滝の基地より好きになるかもしれない。
明日はいろいろ改造してみよう。
もしかしたら集落の廃墟から使える素材を拾ってこられるかもしれない。
魔力が回復したらリーネに探知を手伝ってもらえれば、もっと広い範囲の食料や危険を把握できる。
やることは多い。でも今夜は眠ろう。
「おやすみ、リーネ」
「…………おやすみ」
小さな声。だが聞こえた。
クロが小さな寝息を立て始めた。
リーネの寝息もすぐに続いた。
疲れていたのだろう。眠りに落ちるのが早い。
アクロスはしばらく天井を見ていた。
三つの月が鎧戸の隙間から細い光を差し込んでいた。
青白い光が石の床を三本の筋で照らしていた。
だんだん、瞼が重くなってきた。
石造りの建物の中に、三つの寝息が重なった。




