第5話 交錯する運命
異世界五日目。
秘密基地で迎える、二度目の朝。
クロに顔を舐められて起こされ、
いつもの儀式――拭き、抗議し、諦める――を済ませる。
このやんちゃな子狼は昨日より、一回り大きくなった気がする。
肩幅が、明らかに広がっている。
「お前、ほんと寝てる間にぐんぐん育ってないか?」
わふ。
知らんがな、と返ってきた気がした。
朝飯を済ませ、いつもの滝の前の岩でアクロスはぼうっとしていた。
昨日はフィルが去った後、結局のんびりして過ごした。
基地の細部を整え、鹿の毛皮を干し、橙の柑橘をいくつか採って干物にしてみたり。
仕事と呼ぶには気軽すぎる、家事のような時間だった。
足を水に浸し、赤紫の実を齧り、木漏れ日を浴びる。
クロは浅瀬で前足をぱしゃぱしゃやって遊んでいる。
「平和だなあ……」
しみじみと呟いた、その時だった。
クロの耳がまたピクリと動き、表情が変わった。
アクロスの常に薄く展開している探知魔法にも、反応が走った。
南西。複数だ。
六つの生命反応が、速い速度で移動している。
その前方に、もう一つ。
反応が弱く、揺れている。
走っては止まり、また走り、崩れかけては立ち上がる。
誰かが追われている。
距離が、縮まっていく。
「……」
アクロスはゆっくりと立ち上がった。
水滴が足元に落ち、小石を打った。
関わるべきか――放っておくか。
まだこの世界の理解は浅い。
スキルの扱いも、戦闘の経験も、中途半端だ。
トラブルは、避けたい気持ちが強い。
そして、フィルの言葉が、耳に蘇った。
――今、魔族は各地で迫害されている。
――角や牙は闇市場で高値がつき、賞金稼ぎが横行している。
弱っている反応が、ふらりと揺れて倒れた。
起き上がり、また走る。また崩れかける。
「……ったく」
短く、舌打ちした。
「変身」
光が走り、人間の旅人に切り替わる。
(クロ、ついてこい。吠えるなよ)
(わふ)
---
森の中を、南西へ走った。
身体強化をかけて、最小限の音で枝の間を抜ける。
クロが小さな体で並走する。
生命反応に近づくにつれ、声が聞こえてきた。
「逃がすな!」
「角がでけえぞ!上物だ!」
「囲め、囲め!」
そして、女の声。
「来ないで……っ」
木々の隙間を抜けると、小さな空き地に出た。
その光景が、目に入った瞬間――
胃の奥が、冷たくなった。
倒木に背を預けた、女が一人。
額から後方に伸びる、二本の角。
黒曜石のような艶。先端だけが暗い紫に色づいている。
銀白色の長髪は、汗で額に張りつき、枝や葉が絡まっている。
それでもなお、絹糸のような質感を失っていない。
切れ長の深紅の瞳。瞳孔がわずかに縦長。
頬骨が高く凛とした顔立ちでどうみても美人の類だが、今は泥と擦り傷で汚れ、血の気が失せている。
肌は日焼けした小麦色の肌より少し薄いくらいの褐色肌。
だが、日焼けではないことは一目でわかる。
ノースリーブのチュニックは右肩口が裂け、褐色の肌が覗く。
黒いインナーも破れかけで、豊かな胸が荒い呼吸で上下している。
膝丈のスカートは左太腿が裂け、引き締まった脚がむき出し。
サンダルは片方脱げ、左足首が腫れている。
右手に、白い木の杖。
先端の紫の光は、瞬きの度に弱くなっていく。
恐らく魔力が、尽きかけている。
どう見ても、魔族の女。
そして、その周りに――六人。
赤毛の薄笑い男、先頭。短剣二本。
右に弓の長身、首筋に蛇の刺青。
左に太った双子、手斧と剣。
後方に、投網を担いだフードの男。
そして少し離れた位置に、六人目。
リーダー格。
革鎧に鉄の肩当て。腰には曲刀。
短い黒髪を撫でつけ、鋭い目をした男。
他の五人とは、空気が違った。
踏んできた場数が違う。一目でわかるほどにその男だけは違った。
「なあ、嬢ちゃんよ」
赤毛が軽く言った。
何度も同じことをやってきた男の、落ち着いた声だった。
「おとなしくしてりゃあ、すぐ終わるんだ。
おまえの角は金になる。それから――おまえの体も、色々と使い道がある」
アクロスは、少し離れた木の陰から、その光景を見ていた。
ラノベでは、「でた、いつものやつ」と思っていた展開。
実際に目の前で起きてみると、なかなかどうして、気分が悪い。
胸の奥で、小さく、何かが動いた。
---
枝を、わざと踏んだ。そして声をかける。
「おーい」
間の抜けた声で、アクロスは空き地に出る。
六人が一斉に振り向いた。
弓の男が、反射的に矢先をこちらに向ける。
だが、そこにいたのは、くたびれた革ジャケットのおっさんと、足元の黒い子犬だった。
「あー、悪い悪い、驚かせたか。 道に迷っちまってさ」
両手を軽く上げて、へらりと笑う。
クロが心得たように尻尾を振り、きょとんとした顔で男たちを見上げる。
完璧な「人懐こい飼い犬」の演技。
赤毛が、目を細めた。
「……誰だ、あんた」
「旅の者だよ。アクロスってんだ」
頭を掻きながら、続ける。
「南の方に町があるって聞いて歩いてたんだけど、森に入ったら方角がわかんなくなっちまってね」
赤毛がリーダーの男をちらりと見た。
男は目を細めて、アクロスを値踏みしている。
「ここは危ねえぜ、旅人。俺たちは今、仕事中でな」
「仕事?」
首を傾げ、初めて気づいたように、空き地の奥を見る。
「うわ……角が生えてる。なんだあの女」
「魔族だよ。あんた魔族は初めてか?
こいつらの角や血、全てが金になる。そして俺たちは賞金稼ぎだ」
「へえー、魔族ねえ。初めて見たわ」
目を丸くして食いつく。
赤毛が、得意げに語り始めた。
小物は、自慢が好きだ。
「なかなかの上物でな。角だけで、金貨二十枚は堅い」
「金貨二十枚! すげえな!」
「しかも生きたまま売りゃあ、闇市場でさらに値がつく。
特に、若い女はな」
「へー、闇市場って、どこにあんの?」
「近場ならグラザだ。ここから南に半日。裏に回りゃあ、何でも売れる」
「へえー、いいこと聞いた」
「コル」
低い声が、切った。
リーダーの男が腕を組み、赤毛を見据えていた。
「ベラベラ喋りすぎだ」
赤毛のコルが、口をつぐんだ。
リーダーの男の鋭い目が、アクロスに向く。
「旅人。お前、どこから来た」
「北の山脈側の、小さい村だよ」
「武器は」
「見ての通り手ぶら。犬が一匹いるだけ」
クロが、間抜けな顔でぱたぱた尻尾を振った。
「この辺の森を丸腰で歩くのは、自殺行為だ」
「食い物と水を探してたら、ついつい深入りしちまってな」
リーダーの目が、アクロスの全身を数秒、舐めた。
何かを測っている。
だが結局、肩の力を抜いた。
ただのおっさんと、判断したらしい。
「……用が済んだなら、行け。南に向かえば一本道だ」
リーダーの男は指で方角を示した。
「悪いな、助かるよ」
ぺこりと頭を下げて、くるりと背を向けた。
---
アクロスは、歩き出した。
一歩。二歩。三歩。
背中越しに、声が聞こえる。
「さあて嬢ちゃん。邪魔が入ったが、続きといこうか」
赤毛のコルの声。
そして――
「やめて……来ないで」
魔族の女の声。震えている。
だが、泣いてはいない。
「角は……あげるから……それ以上は……」
歯を食いしばる音。
杖を握る手が、白くなるほど力を込めている音。
もう魔力なんか残っていないのに、それでも杖を手放さない。
四歩目。
五歩目――は、踏み出せなかった。
「コル、投網。フェイ、脚を押さえろ。暴れたら杖を折れ」
リーダーの男の冷たい声が聞こえる。
「了解っス」
「いやだ……やめて……っ」
アクロスの足は、完全に止まっていた。
(行くな。関わるな。ここは引くのが、賢い)
頭がそう言っている。
だが、足が動かない。
胸の奥で、何かが煮えている。
怒りとか、正義感とか、そんな大層なものじゃない。
もっと単純な、もっと根っこにあるもの。
……俺は。何のためにこの世界に来たんだ?
ファルティシアに言った言葉が蘇る。
「俺、新しい世界で、魔王やりたい」
「次は、自分で決めてえんだ。全部」
自分で決める。
全部。
なら――今この瞬間も、俺が決めるんだろうが。
決めるってのは、簡単に言えば、
—――――覚悟の話だ。
見て見ぬフリをするのがおまえの、覚悟なのか?
賢く立ち回った気になって、同じ魔族を見捨てて、やり過ごすことで、
魔王になれると思っているのか?
少なくとも魔王ってのは、
仲間や領域を自らの力で守っていく存在だろう。
この森を三日間歩き回って、
水を飲んで、飯を食って、滝を見つけて、基地も作った。
ある意味、俺の森でもある。
そんな森で、俺の目の前で、俺と同じ種族の、女を追い回して好き放題されて。
同胞の危機、自分の領域踏みにじられて、
黙って見て見ぬふりして、帰る魔王がどこにいるよ。
―――――自分に問いかけ、自分で答える。
「…………そりゃそうだ」
声が漏れた。
決めた。
そして足の向きは反転する。
---
「なあ」
穏やかな声。
六人が、振り向いた。
「まだいたのか」という顔の赤毛。
リーダーの目が、僅かに鋭くなった。
アクロスは、気付けば空き地の真ん中に立っていた。
「もう一つだけ、聞いていいか」
「……何だ、旅人。さっさと行けと言ったろ」
「うん。行こうとした。
だけどな、どうしても、無理だった」
ポケットから手を出した。肩の力を抜く。
深く、息を吸った。
「お前ら、やめる気は、ねえよな」
「当たり前だろ。これが仕事だ。三度目は――」
「そうか」
アクロスが、目を閉じた。
一秒。
「じゃあ、もう、旅人はやめだ」
しっかりと、目を開けて言う。
「解除」
アクロスの全身に光が、走った。
焦げ茶の革ジャケットが裂けるように消え、黒のロングコートが姿を現す。
小麦色の肌が、青みを帯びた浅黒に変わり、黒紫の魔紋が腕に脈動を始めた。
丸い耳が鋭く尖り、額に角が生え、焦げ茶の瞳が右は琥珀に、左は紅に、燃えた。
立襟のコートが、風もないのに揺れた。
暗紫の裏地がちらつき、バンテージの下から紫光が漏れる。
どこからどうみても、魔族の男が、そこに立っていた。
琥珀と紅のオッドアイが、六人を見据える。
森が、一瞬、静まった。
鳥が黙り、虫が止まった。
アクロスから漏れた、抑え切れない魔力が、この周囲の空気を、変えていた。
赤毛のコルの顔から、血の気が引いた。
「……ま、魔族……!?」
弓の男が反射的に矢を構えた。
手が、震えている。
双子が後ずさる。
投網のフード男は、その場で凍りついた。
リーダーの男だけは、動かなかった。
だが、曲刀の柄に手を伸ばす動作が、一瞬だけ止まった。
それは、他の五人より遥かに濃い「警戒」のサインだった。
リーダーの男はうすら笑いを浮かべて言う。
「……ただのおっさんの旅人、じゃなかったな」
「ああ、悪いな。化けてたんだ」
アクロスは、首をごきりと鳴らす。
「改めて自己紹介する。俺はアクロス。名前は本当だ。
それ以外は、全部嘘だけどな」
にっと笑った。犬歯が、紫光に光る。
「色々教えてくれて、助かった。
グラザのこと、闇市場のこと――
おかげで、お前らがどういう奴らか、よく分かったよ」
コルの顔が、嵌められた、と歪んだ。
「はっきり、お前達に言おう。その魔族の女を放せ」
魔族の女は、木に寄りかかったまま、口に手を当てて、呆然と見ていた。
「ふ、ふざけんな! 魔族が二匹に増えただけだろ!
こっちは六人いるんだ、撃て!」
コルが叫んだ。
完全に、虚勢の声だった。
「せこい賞金稼ぎが、六人か。――足りねえだろ」
アクロスが一歩、踏み出した。
身体強化を今の自分にできる限り、全力でかける。
初めての対人戦。やれるか。
---
男から弓が、放たれた。
矢が、真っ直ぐに宙を切る。
アクロスの眉間を狙った、正確な射線。
アクロスは、左手を上げた。
身体強化。五感の加速。
矢の軌道が、ゆっくりに見えた。
これならいける。見える。動ける。
指の間に、矢を滑り込ませる。
掴んだ。
掌に、ぴり、と熱が走った。
鏃の先端で、指の腹が薄く切れた。
血が、にじんだ。
「うお…あぶねえな」
マンガを見て憧れていた動きだったが、紙一重だな。
矢を、ぱきりと折って、地面に捨てる。
完璧に止めた、なんて思い上がりはない。
ギリギリ間に合っただけだ。
あと一秒、判断が遅ければ、間違いなく死んでいた。
これは現実だ。遊んでる場合じゃないな。
これが、人間の武器だ。
鹿の角や蹄とは、まったく違う。
殺す目的で作られた、殺す目的で扱われるもの。
アクロスの精神も戦闘モードに、深く入った。
「うわあああっ」
動転したコルが、出鱈目に斬りかかってきた。
二本の短剣。下段、上段。
素人のアクロスの目から見ても、素人の太刀筋。
だが決して遅くはない。油断するな。
よく見て反応する。
右の短剣を、手首ごと掴んでひねった。
コルの手から、短剣が落ちる。
同時に左の短剣が来る。
体勢を崩した男の一撃にしては鋭い。
避けきれなかった。
目では見えているが自分の動作が上手く追い付いていない。
魔法の効果は十分でも、自分に戦闘経験が足りなさすぎる。
左の二の腕を、すぱり、と裂かれた。
熱い。腕全体が染みるように鋭い痛みが走る。
これが切られるってことか。
血が、コートの裂け目から滲んだ。
「っ……」
体は強化されている。
だが、皮膚は皮膚だ。切れる。痛い。
慣れればきっと体を固くして防ぐこともできるのだろう。
だがまだそこまで集中が出来ない。
体勢を崩したコルの襟首を掴み、双子の片方に向けてぶん投げる。
人間の体が人間に、かなりの勢いで衝突した。
二人まとめて、もんどりうって倒れる。
弓の男が、二の矢をつがえようとしていた。
そうはさせない。
身体強化全開で、間合いを一気に詰めた。
弓を上から手のひらで押さえつけ、弦を弛める。
弓の男が、至近距離でアクロスのオッドアイと目が合い、声を失った。
「弓は一発外したら、次はねえんだよ」
とりあえずシンプルに顔面を殴った。
多少の加減はした。
だが、頬骨が砕ける感触が、しっかり拳に残った。
身体強化の拳は、思っていたより、効く。
弓の男は二メートル吹っ飛んで、白目を剥いて倒れている。
死んではいない。
意識を確認する。胸が、上下している。
意識的に、力を加減した。
殺さない。というか殺せない。
人を殺すには、まだ全然覚悟が足りてない。
投網のフード男は状況が悪いと判断したのか、全力で逃げ出した。
なりふり構わず背を向けて、全力疾走する。
(クロ!あの男を逃がすな!)
ここで無声指示を出す。
黒い影が、地を這うように飛んだ。
子狼が、男の足首にがぶりと噛みついた。
「ぎゃあっ!」
ばたぁんと転倒し。投げ網が絡まり、自分が投網に捕まった。
動けば動くほど絡まっていく。
自業自得の、間抜け絵面。
しばらくは動けないだろう。
「ナイス、クロ!」
わふ。
残るは、双子の片方と、リーダー。
双子の生き残りは、手斧を構えて、ガタガタ震えていた。
アクロスが視線を向けただけで、手斧が手から滑り落ちた。
「……ゆ、ゆるしてくれ」
「あんたら、その女に同じこと言われて、許したのか」
短く、聞いた。
だが答えは返ってこなかった。
ただキョロキョロしながらガタガタと震えている。
震える男に手をかざし、魔力のオーラを放出する。
黒紫の怪しく光るもやもやが手斧の男の方ににじり寄っていく。
「お前はもう、終わりだ」
謎のハッタリで脅かしてみる。
「ひいぃあああ!」
男の股からじょわぁ…と水気がひろがる。
膝から崩れ落ちて勝手に男は恐怖に呑まれて気絶した。
五人を沈黙させた。残るは、一人。
---
リーダーの男は、曲刀を抜いていた。
構えにはしっかり熟練の剣士の雰囲気を感じる。
低い体勢。刃先が、まったくぶれていない。
他の五人とは、明らかに格が違う相手だ。
部下が全滅しても、冷静に相手を観察している。
こういった荒事で生きてきたような、プロの目だった。
「いい動きだった。お前は何者だ?」
「アクロスだ。名前は嘘じゃない」
「アクロス。俺はドルクだ」
堂々と名乗り返してきた。
それ自体が、この男の格を示していた。
今から殺し合うかもしれない相手に、名を明かす。
戦士の作法だろうか。
「お前、ただの魔族でもないな」
「さあな。変な魔族とは言われるかもな」
「面白い返しだ。体術はそこそこ。だが問題は――」
ドルクが、半歩、踏み込んだ。
「この曲刀の相手をしたことがあるかどうかだ」
その通りだった。
剣を持った、そして剣を扱い慣れた人間と戦うのは、
もちろん生まれて初めてだ。
身体強化があっても、剣の間合いの経験値は、ゼロだ。
素手と曲刀では、リーチが違う。
リーチの差は、命の差だ。素人でもわかる。
「……かもな。さっきから冷や汗が止まらない」
短く、答えた。
そしてドルクが、動いた。
---
最初の一撃は、横薙ぎだった。
コルとは比べ物にならないほど早く、正確で、容赦がない。
腰の高さを、左から右へ。
身体強化全開で、とにかく後ろに跳ぶ。
ギリギリ見えてはいる。
コートの裾が、切られた。
着地の瞬間、既に間合いは詰められ、二撃目が迫っている。
返す刀の、振り上げ。
躊躇なく首を狙っている。
相手の殺す覚悟を肌で感じた。
背中に冷たい汗が噴き出る。
首を必死にのけぞらせて回避する。
頬を、刃の腹がかすめた。
浅い切り傷。血が、ひと筋。
熱い。怖い。今、命のやり取りをしている。
熱いと感じる時点で、紙一重だ。
あと一センチ、刃が深ければ、頚動脈が裂けていた。
あー!やべえ!こいつは、本気でやばい!
頭の中で、警鐘が全力で鳴り響いている。
だがドルクは、休まない。
三撃目、四撃目が、間断なく来る。
低い重心を維持したまま、体ごと刃を振り回す。
腕の力ではなく、体軸の回転で斬ってくる。
美しいほどの死の螺旋が繰り出す容赦のない一刀。
全力で飛び回りなんとか回避する。それしかできない。
幸い、身体能力は俺の方が上らしい。
剣の動きは、読めない。
当たり前だ。曲刀で殺しにかかられるのは人生で初めてだ。
躱した瞬間、もう次の刃が来ている。
何度も、後退した。
かわすので、精一杯だった。
反撃に、出られない。
背中が、木に当たった。
逃げ場がなくなった。
ドルクの目が、それを見た。
口元が、わずかに引き締まった。
決まった、と思っているのだ。
仕方ない。
これは試合じゃない。
卑怯と言われようが、何だろうが――勝てる手で、勝つ。
右手に、必死で火球を作った。
拳大。黒紫。
遊びで作った魔法じゃない。
相手にぶちかますための魔法。命を繋ぎ止める為の防衛手段。
ドルクの目が、わずかに見開かれた。
「炎――黒い炎、だと?」
全力で投げた。
顔ではない。足元に。
直撃は狙わない。牽制だ。
ドルクが横に跳んだ。
火球が地面に勢いよく着弾し、轟音が響く、土が焦げて、ガラス化した。
土煙が舞い上がる。相手の視界は切れた。
その隙に、木から離れる。
自分の位置をまず変える。
だが、ドルクは即座に体勢を立て直していた。
動揺は感じない。冷静に土煙の中からアクロスを探している。
いや、感じようとしている。
すぐに見つかる。そして冷静に間合いを詰められる。
すぐさま斜め上からの斬り下ろしが来た。
今度は身体強化の腕で、刃を受ける。
正確には、「受けた」というより、「刃の腹を、手のひらで叩いた」だった。
身体強化された手のひらは、刃をわずかに逸らす程度の勢いは、持っていた。
だが、ドルクの体重が乗っていた。
上手く流せず、掌が、裂けた。
真っ赤な血が、刃を伝って滴る。
「……っ」
歯を、食いしばった。
これは、勝てないぞ。
このまま剣戟を続けたら、間違いなく、死ぬ。
体術じゃ、無理だ。
魔法を一発撃つだけじゃ、足りない。
ゆっくり考えてる場合じゃない。
全部、同時に、出せ。
---
アクロスは一気に距離を離し、体勢を低くして
両手を、地面と空に向ける。
不思議な体勢に思わず警戒をしたのか一瞬だがドルクの動きは止まる。
土。風。氷。炎。
四つの魔法を、同時に、発動した。
がむしゃらだ。とりあえず全力でやってみる。
★がどうとか考えている場合じゃない。とにかく必死だ。
集中が分散する。各魔法の精度が、目に見えて落ちる。
それでいい。
精度なんか、今は要らない。
足元の地面が、ドルクの真下で、急に隆起した。
腰の高さまで、ぼろぼろの土の柱。だが勢いだけはある。
ドルクの体が、急に上に持ち上げられて、バランスを崩す。
同時に、氷の槍が、ドルクの顔の前に発射された。
二十センチの、不格好な氷塊。
ドルクの反射神経が、咄嗟に首を振って避ける。
ドルクの顔が歪む。意表は突いた。
だが向こうも必死だ。
そして、その瞬間――
風の刃が静かに、ドルクの右手首を撫でた。
「――ぐっ!」
ドルクの右手首の腱が、風の刃で切れた。
曲刀が、地面に落ちた。
だがすぐさま左手でドルクは曲刀を拾い、体勢を整え始める。
まだだ。
勢いよく飛んできた火球がドルクの足元にまた着弾した。
ドルクは横に飛んで回転しながら受け身をとる。
だが視界は黒紫の閃光と煙でまた塞がれた。
四つ、同時。
どれも単体では決定打にならないが。
四つ同時は、さすがに人間の処理能力ではすぐに対応できない。
---
身体強化全開で、ドルクに全力で踏み込んだ。
勢いのままドルクの胸に肩からぶつかる。
メキィと骨の軋む音が聞こえる。ドルクの体が大きく折れ曲がる。
なりふり構わない全力の突撃。
ドルクの曲刀は手から離れて地面を滑っていく。
二人とも、地面にもんどりうって倒れた。
そしてアクロスはドルクに馬乗りになる。
ドルクの首を、左手で押さえつけ、右手で黒紫の炎をまた生み出す。
勝ったと思った。
だがその瞬間、アクロスの左脇腹に、冷たいものが、
押し当てられている感触に気づく。
ナイフだった。
ドルクが、ブーツに隠していた小型ナイフを、左手で抜いていた。
そして、その切っ先が、アクロスの脇腹の、ちょうど肝臓のあたりに、押し当てられている。
「……」
「……」
二人の目が、合った。
アクロスの左手はドルクの首を抑え、右の掌には、小さな黒紫の炎が灯っていた。
ドルクの顔の、目と鼻の真ん中、距離十センチ。
撃てば、顔面が消し炭になる。
ドルクの左手のナイフは、アクロスの脇腹に、もう数ミリで皮膚を破る位置まで、入っている。
このナイフが押し込まれれば、一瞬でアクロスの内臓に届く。
クロが近くでドルクに向けて獣の呻き声をあげて威嚇している。
だがクロも状況は分かっている。下手に動けない。
魔族の女は一歩もうごけず座り込んでいる。
相変わらず腰が抜けているように呆然としている。
完全な、相打ちの構え。
森の音が、消えていた。
互いの呼吸の音だけが、聞こえる。
ドルクの目が、アクロスを見上げていた。
それは、戦いを満喫した戦士の目だった。
口の端が少し上がっている。
お互いの生死はもはや問わない。良い戦いをした。
その満足感が目に出ている。
諦観でも、憎しみでも、恐怖でもない。
だがその瞳の奥、ずっと奥で違う何かも感じる。
死に場所を探しているような。そんな虚ろな暗い光。
その目の理由を訊きたかった。
だが、訊かなかった。
数秒の沈黙の後、ドルクが、短く言った。
「いいぞ、殺せ。それともお前が死ぬのか?」
アクロスは、答えなかった。
そのまま、しばらく、見つめ合った。
確かに殺せる。殺すことはできる。
今、この一手で。
だが――殺さない。いや、殺せない。
掌の炎を、ふっと消した。
ドルクの左手から、ナイフを、もう片方の手で叩き落とした。
ドルクの肩を地面に押さえ、無力化する。
ドルクは、抵抗しなかった。
できなかった、というより、もうしなかった。
「……今は、まだ、殺さない」
アクロスは低く、言った。
「お前を殺す日が、いつか来るのかもしれない。
だが、それは今日じゃないだろう」
ドルクは口の端を上げてアクロスの目をまっすぐに見た。
「……いい答えが聞けたな。その時が、楽しみだ」
低い声。
「……それで、今日はどうするんだ?」
ドルクはにやりと笑い、聞いた。
「縛らせてもらう。それだけだ」
近くの蔓を、風の刃で切って、ドルクの両手と足を縛った。
血が出ている右手首には、自分のコートの裏地を裂いて、止血の布を巻いた。
殺すための布じゃない。
生かすための布だった。
ドルクは、不思議そうに、その手当てを、見ていた。
---
六人、全員、無力化した。
コルと弓の男と双子の片方は、気絶。
失禁双子は、自主的に座り込み、震えている。
投網は、自分の網に絡まったまま、泣いている。
ドルクは、木の根に背を預け、両手を蔓で縛られた状態で、静かに座っていた。
クロが、六人の周りをぐるぐる巡回している。
番犬の仕事を、覚えたらしい。
アクロスは、自分の体を確認した。
左の二の腕、裂傷。右の掌、深い切り傷。
左の頬、浅いひと筋。左の脇腹、皮膚が破れる寸前で止まった、チクチクする痛み。
左手の指、矢で切れた小さな傷。
これで済んだのは奇跡だな。
死ななかったのが、不思議なくらいだった。
紙一重を、何度も渡り歩いた。
心臓が、まだ早鐘を打っている。
「……はぁー生き残ったのか…」
ぼそっと呟いた。
とりあえずは勝った。
だが、勝ち方を間違えれば、死んでいた。
それを、忘れないでおこう。
ふと、視線を感じた。
もはや彼女のことを忘れかけていた状態に近いかもしれない。
それほどアクロスは追い詰められた状態だった。
魔族の女の方を見た。
倒木に背を預けて座りこんだまま、深紅の瞳を限界まで見開いて、
アクロスを凝視していた。
少し、震えている。
さっきまで人間の旅人だった男が、変身を解いて魔族になり、六人の賞金稼ぎを一人で全員、制圧した。
最後の一人とは、見てるこちらの胃が痛くなるほどの戦いだった。
なぜこんな状況なのか。
全ての理解が、追いついていない顔だった。
アクロスは、足を引きずるようにして、女のところまで歩いた。
血だらけのコートと、傷だらけの手のまま。
魔族の女の脇に、しゃがみ込む。
なるべく、穏やかな声を出した。
「よう。もう大丈夫だ」
「…………」
深紅の瞳が、アクロスの顔を、舐めるように見た。
角。尖った耳。青みがかった肌。魔紋。オッドアイ。
「……あなた……魔族、なの?」
「ああ。人間に化けてた。
一回、お前を見捨てて去ろうとした。悪かったな」
「……なんで……人間のフリなんか……」
「色々、事情があってな。――とりあえず足、見せろ」
「え?」
有無を言わせず、左足首を確認した。
腫れているが、骨は折れていなさそうだ。
「歩けるか?」
「……たぶん、少しは……」
「立てるか」
「立てない、と思う。腰が抜けてる。」
正直な答えだった。
無理をしない、嘘をつかない。
それが、この女の素のように見えた。
「……なんで、私を、助けたの」
ぽつりと、女が訊いた。
「あなたには関係なかった。私は知らない他人。
私は助けても、あなたに何の得もない女」
「まぁ、そう言うな」
へらりと、力の抜けた笑いがこぼれた。。
「見捨てて帰る方が、たぶん、寝覚めが悪いんだよ。理由なんかそんなもんだ。
俺もお前も生き延びた。それでいいじゃないか」
「…………」
女は黙って何かを考えているような顔だった。
クロが、とことこと歩いてきて、女の膝の横に、ちょこんと座った。
紫の瞳で、見上げる。
尻尾が、ふりふりと振れた。
女の顔が、ほんの一瞬だけ、ふっと緩んだ。
「……この子、あなたの仲間?」
「ああ。クロだ。俺の大事な旅の相棒だ」
おそるおそる伸ばされた手に、クロが鼻先を押しつけた。
すんすんと匂いを嗅ぎ、それから、ぺろり、と舐めた。
「……温かい」
長く、一人で逃げていたのだろうか。
胸が苦しくなるような響きが、その一言には、あった。
「お前の名前、聞いていいか」
「……リーネ」
「リーネか。――俺はアクロスだ。よろしくな」
「…………よろしく」
小さな、声だった。
「立てなきゃ、運んでやるぞ。
近くに俺の家がある。とりあえず、そこで休むか?」
「家……? 森の中に?」
「あるんだよ。ちょっと前にできたばっかりだ」
リーネが、信じられないという顔で、アクロスを見上げた。
アクロスは、リーネに右手を差し出した。
血と泥のついた、傷だらけの手だった。
リーネは、少し躊躇って、それから――小さく頷いて、自分の手を、その手のひらに重ねた。
その手は、思っていたより、ずっと、冷たかった。




