第43話 筋を通すということ
沈黙が部屋を満たしていた。
パイプの煙が一筋、天井に向かって昇っている。
その煙がゆっくりと形を崩していく間、誰も口を開かなかった。
ギースの細い目が、開いたままアクロスを見ている。
ゲルツの手が禿げ頭の上で止まっている。
目を見開いたままだ。
リーネの手が膝の上で握りしめられている。
虫の声も風の音もない。
壁に立てかけた双頭槍の刃だけが、窓からの光を受けて白く光っていた。
最初に口を開いたのは、ギースだった。
パイプをゆっくりと灰皿に置いた。
煙が途切れた。
「……魔族、か」
声に怒りはなかった。驚きもなかった。
ただ——―重い。一つ一つの言葉を噛み締めるような声。
「一つずつ聞く。全てに嘘なく、答えろ」
ギースの細い目がアクロスを射抜いた。
「嘘をついたら——―俺にはわかる」
「はい。嘘はつきません」
アクロスが真っ直ぐに答えた。
声が震えていないことに、自分で少し驚いた。
---
「まず一つ目。
魔族であるお前たちがグラザに来た目的はなんだ」
ギースの声が低くなった。
「なんのためにグラザに来た。
魔族がわざわざ変身までして、人間の町に紛れ込んで、冒険者をやっている。
理由があるはずだ。全部聞かせろ」
アクロスは少し間を置いた。
言葉を選んでいるのではなく、
ちゃんと伝えるために、頭の中を整理している。
「ギースさん。ゲルツさん。理由を説明する前にまず、
俺とリーネの魔族としての姿を見てほしい」
ギースの細い目が、僅かに動いた。
ゲルツが、息を呑む音がした。
「お前たち、本当に……人間に変身してるんだな……」
「あぁ。出会った時から、ずっとだ」
アクロスは苦い顔をして、笑った。
そして、ギースの顔を見た。
「ギースさん。これから話すことを、人間の姿のまま、話すのは違うと思った。
俺たちが、魔族としてこの町で暮らしたいと話すのに——―
人間の姿のままで話すのは、筋が通らない」
リーネも、横で頷いた。
ギースは、しばらくアクロスとリーネを見ていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「いいだろう。見せてみろ」
アクロスがリーネを見た。
リーネが、小さく頷いた。
そして二人は立ち上がった。
リーネの手は、わずかに震えていた。
それでも、彼女は顔を上げていた。
そして二人は同時に言う。
「「——―解除」」
アクロスとリーネは、同時に魔力を解いた。
光は薄く、白い霧のように、二人の周囲に広がった。
派手な光ではない。ただ、嘘の皮を、丁寧に剥ぐ光。
クロとフレスも椅子の下で心配そうに二人を見ていた。
アクロスの肌が、ゆっくりと変わっていく。
人間の肌色から——―青みを帯びた、浅黒い色に。
黒紫の魔紋が、脈打つように明滅し始める。
額の中央から、角が一本。色は黒紫。先端が鋭い。
そして、瞳が変わる。
焦げ茶が静かに沈み、右目に深い琥珀が、左目に鮮烈な紅が浮かび上がった。
左右で異なる色の瞳。
その姿はどこからどう見ても、魔族だった。
それが、アクロスの本来の姿だった。
その隣で、リーネも変わっていった。
日焼けした人間の肌色が、魔族の褐色に深まる。
温かい大地のような色だ。
赤を残した深い茶色の瞳が——―
焦げ茶の薄皮を脱ぎ捨て、鮮烈な深紅に変わる。
血の色ではなく、夕焼けの最後の刹那のような、深く澄んだ赤。
そして、額に——―角が二本。
額から後方に伸びている。黒曜石のような艶。
先端だけが、暗い紫に色づいていた。
銀白の髪と、深紅の瞳。
二本の角を持つ、魔族の女。
そこに立っていたのは、
もう、人間の冒険者を装った二人ではなかった。
角を持つ、二人の魔族だった。
リーネの深紅の瞳が、ギースを見た。
そして、ゲルツを見た。
「——―これが私たちの、本当の姿です」
リーネの声は、震えていなかった。
ゲルツは、二人を見て震えていた。
「……本当に……魔族だ……すげぇ……」
禿げ頭に置かれていた手が、ゆっくりと下りていく。
その手が、何かを掴むものを失ったように、宙で止まった。
「……マジで、角があんじゃねえか」
ゲルツの目はまん丸になっていた。だがその声に、敵意はなかった。
驚きと、それから—――どこか、少しだけ嬉しそうなものが、滲んでいた。
アクロスは内心、少しだけ笑いそうになった。
ゲルツらしい反応だな、と思う。
ギースは、何も言わなかった。
ただ、アクロスを見た。それからリーネを見た。
そして、また、アクロスを見た。
リーネの二本角を。アクロスの一本角と、腕の魔紋を。
そして、二人の顔を。
何度も視線を行き来させて、二人の姿を、確かめるように見ていた。
リーネの指先は震えていた。
人間の前で、本当の姿を晒している。
怖くないはずがない。
それでも、彼女は角を隠そうとはしなかった。
やがて、ギースは低く息を吐いた。
ゲルツも息を長く吐いた。そして腕を組み直し、姿勢を戻した。
「……確認した。二人とも座れ」
その声に、嫌悪はなかった。
「その姿を、自分たちからわざわざ見せに来た意味も含めて、
改めて聞こうか」
ギースの細い目が、再びアクロスへ向く。
「なぜ、魔族のお前たちは、グラザへ来た?」
二人は魔族の姿のまま、椅子に腰かけた。
ギースの目がリーネに一瞬移り、またアクロスに戻った。
「山脈の手前、グラザからはずっと北側にある集落が、人間の軍に焼かれた。
多くは殺され、生き残った魔族たちは散り散りに逃げた。
中央回廊側に逃げたものも多い。あなたたちも知っている話だとは思う」
ゲルツは苦そうな顔をして、目を瞑って腕を組んだまま、動かない。
「逃げた魔族は、途中で賞金稼ぎにも追われ、角を持っているというだけで
ずっと、逃げ続けている」
ギースの目が、一瞬だけ細くなった。
「賞金稼ぎ」という言葉に、何か引っかかったような顔だった。
リーネが膝の上の手をさらに強く握った。
だが何も言わなかった。ここはアクロスに任せると決めている。
「それで?」
ギースは顔色を変えず、じっとアクロスの目を見続けている。
「俺たちもそうだ。二人と二匹でグラザから歩いて半日ほど離れた森の中で
身を潜めて暮らしていた。これからのことを話しながら、
どうすればいいのかを考えながら。金も。知り合いもいない。何もない状態でした」
「……続けろ」
ギースの姿勢は変わらない。
「俺たちがグラザに来たのは、道中に出会った旅のエルフがこの町のことを中立の交易町だと教えてくれたからです。種族を問わず暮らせる場所がある。
逃げ回るだけの生活をやめて、どこかに腰を据えたかった」
アクロスが、リーネを見た。
「―——リーネを、もう逃がさなくていい場所に連れて行きたかった」
リーネが僅かに顔を上げた。
「だが俺たちはグラザに行ったことはない。実際どんなところかわからない。
だからまずは魔物の素材の換金と、町の様子を見に行くことを目的に、
俺の魔法で、人間の姿に変身して森を出た」
アクロスは顔を上げたリーネを見なかった。
見たら、自分の声が揺れると思ったからだ。
「そこで荷馬車が故障して立ち往生しているオルガさんと出会った。
一緒にグラザに行こうと言ってくれた。いい人たちだった。
グラザに着いて、最初に素材を換金して、宿に泊まり、町を見て買い物をした。
いい町だと思ったんだ」
「グラザを気に入った、ということか?」
ギースは表情を変えずに聞いた。
「はい。運がよかったのかもしれないが、出会った人たちはみんな、いい人だった」
アクロスの声が少し変わった。
力みが消えて、自然な声になった。
「ギルドでゲルツさんやマルコ、ドルクと会った。リーネはレナと知り合った。
そしてオルガさんとゲルツさんには、トマスさんを紹介してもらった」
ギースの表情が少し変わった。目が開いた。
「お前たちは、トマスを知っているのか?」
「俺たちが今住んでいる家はトマスさんの隣です。
トマスさんが貸してくれた家に住んでます。ゲルツさん、あの時はありがとう」
ゲルツが横で静かに目を伏せた。
「いいんだ。借りられたなら、よかった」
「トマスが……家を……貸したのか」
ギースは、考えるような仕草をしている。
だが変わらずアクロスの目を見ている。
「はい、あの人は……とても、いい人です」
アクロスは微笑みながら言った。
ギースは、机の上で、組んだ手を解いた。
「続けてくれ」
「オルガさんとは赤角亭で肉を食って、酒を飲んだ。
泣いて、笑って、騒いだ。最高の夜でした」
アクロスの声に、熱が戻った。
「薬師のハンナさんや鍛冶屋のグロム。パン屋のエリザさん。
討伐ではマルコと仲良くなった。あいつはクロに干し肉をやって、尻尾を振らせようと一生懸命だった。レナも、リーネを飲みに誘ってくれた。
リーネがレナと指切りして約束した時の顔は——―とても嬉しそうだった」
リーネの唇がほんの少し動いた。
泣くのを堪えている。
「トマスさんにも……最初に会った時に聞かれたんです。
お前たちはこの町で何をする気だ。って。俺たちは正直に答えた。
まだわからない、と。でも——―いい加減に過ごすつもりはない、と答えた」
「それで、あいつはなんと言ったんだ」
「お前たちは嘘をつかなかった。それが大事だ。
と言って家を貸してくれました」
ギースの口元が僅かに動いた。
笑いではない。何かを噛み締めている顔だった。
アクロスが一瞬だけ目を閉じた。
そしてアクロスはまっすぐギースを見た。
「確かに俺たちは嘘は言わなかった。でも言えないことも確かにある。
この町で知り合った人たちは、みんな、俺たちを人間だと思っている。
変身した姿しか知らない。本当の俺たちを知らないまま、受け入れてくれている。
——―それは、とても苦しいことだ」
ギースは黙っている。
灰皿の上でパイプの灰が冷えていく。
「偽りの姿の生活で、積み上げたものはいつか崩れると思った。変身はいつかバレる。ごまかし続けるのにも限界がある。バレた時に俺たちの味方がゼロなら、俺たちは終わりだ。でも、自分から正直に話して信頼を築いた人がいれば—――
バレた時にも、俺たちには味方がいる」
「だから先手を打ったと」
「はい。受け身じゃなく、自分から動く。
それが俺たちにとって一番大事なことだと思っています」
---
ギースは目を閉じて、アクロスの話を聞いていた。
そしてゆっくり目を開けて、言う。
「一つ目の質問の答えはわかった。
二つ目の質問だ」
ギースが体を前に傾けた。
細い目の奥に、鋭い光がある。
「なぜ俺のところに来た。お前たちは俺を知らない。初対面だ。
吹き溜まりの事も、なぜ自ら首を突っ込んだ。黙っていればよかった。
正体を探られることもわかっていたはずだ。なぜ、わざわざ事前に正体を明かして、
追い出されるリスクがあるかもしれない賭けに出た?その理由はなんだ」
アクロスはギースの目を見て怯むことなく答える。
「吹き溜まりは放置できない。次にあそこに魔物が集まったら、
今度はグラザの町に影響が出るかもしれない。俺たちにも知り合いや仲間ができた。
魔族の俺たちにだって、何かを守りたいと思う気持ちがあるのは当然だろう」
アクロスは、一拍置いた。
「——―だから、魔族としての俺たちを知った上で、俺たちの力を使ってほしい。
俺は、自分たちの正体を知ってもらった上で、『それでも一緒にやろう』と言いたかったんだ」
ゲルツはじっと目を瞑っている。
体が少し震えていた。
ギースが長く息を吐いた。
椅子の背にもたれて、天井を見上げた。
「お前たちが、目指しているのは、結局のところなんだ。
一言で言え」
アクロスが少し考えた。
そして、まっすぐ言った。
「この町の人たちと本当の姿で、一緒に暮らすことです。
角を隠さなくていい。変身しなくていい。嘘をつかなくていい。
今と同じように一緒に飯を食って、一緒に仕事をして、一緒に笑える。
——―俺たち魔族も、この町の仲間に入れてほしい」
ギースの細い目が、一瞬、見開かれた。
だがすぐに戻った。
「……途方もないことを言うな、お前は」
「はい。わかっています。これは、簡単なことじゃない。
でも俺たちは一歩ずつでも、進みたいんだ。その最初の大事な一歩が、
この町のギルド長、あなたに正直に話すことだと思いました」
---
ギースは何も答えず、口を開いた。
「三つ目の質問だ」
ギースが背もたれから体を起こした。
「お前たちの正体を、他に誰か知っているのか」
「トマスさんです。今朝、俺たちから話しました」
ギースの表情が変わった。
今日初めて、はっきりと感情が顔に出た。
驚いていた。
「……トマスが。……あいつが」
「トマスさんは言ってくれた。最初から気づいていたと。
俺たちの魔力。漂う雰囲気。人間にしては異質だと。
でも———あの人は聞かなかった。聞く必要がなかったと言っていた」
「……あいつらしいな」
ギースの声が、かすれた。
「今朝、全部話しました。今ギースさんに話した内容と同じことを。
俺たちが魔族であること。この町で何を目指しているかも」
「あいつは……なんと言ったんだ……?」
ギースは体を起こし、机の上で手を組み、アクロスの目を見た。
「『わかった』と。それだけでした」
ギースが黙っている。
「でも———別れ際に、こう言ってくれました。
『俺も、そういうグラザが見たい』と」
ギースの手がパイプに伸びかけて、止まった。
そしてその手でギースは目頭を押さえた。
大きな手で、顔の半分を隠すように。
指の間から、声が漏れた。
「……そうか。あいつが……そう言ったのか」
しばらく顔を上げなかった。
ゲルツが横で息を呑んでいた。リーネも動かなかった。
やがて、小さく呟いた。
「……そうだったな……メルティか……」
誰に向けた言葉でもなかった。
この部屋にはいない誰かに——―
ずっと昔にいなくなった誰かに向けたような言葉だった。
アクロスもリーネも、その名前に触れなかった。
触れてはいけないと、二人とも直感でわかった。
ギースが顔を上げた。
目が赤い。だが声は落ち着いていた。
「——―わかった」
その「わかった」は、今朝トマスが言った「わかった」と同じ重さだった。
短い。だが中身の詰まった一言。
何十年もこの町を守ってきた男の一言だった。
---
「俺からの質問はこれで最後だ。答えてくれ」
ギースは聞いた。
「お前たちは、人間のことを憎んでいないのか」
真剣な眼差しだった。
この質問には、リーネが答えた。
人間を憎んでいないのか。
それは、簡単に答えられる問いではなかった。
リーネの指が、膝の上で一度だけ強く握られた。
焼けた木の匂い。割れた食器。
母の杖を握ったまま走った夜。
角を切られるかもしれないという恐怖。
それらはまだ、胸の奥に残っている。
それでも、リーネは顔を上げた。
そしてギースを真っ直ぐに見据えて答える。
「ギースさん、私たちは、子供じゃない。
集落が焼かれて、追われたこと。私たちはとても悲しいし、とても怒っている。
でもそれは当然、全ての人間に対してその感情を抱いているわけじゃない」
ゲルツが、目頭を押さえている。
「優しい人間がいれば残酷な人間もいることは知っているの。
獣人も、エルフも、ドワーフも、それは魔族も同じこと。種族がどうこうじゃない。
いろんな人がいろんな想いで生きている。それだけよ」
リーネの深紅の瞳に、迷いはなかった。
集落を焼かれた魔族の女が、人間に自分の気持ちを伝えた。
ギースは目を閉じて言った。
「そうか」
ギースがゲルツの方を向いた。
「ゲルツ。最後に、お前の意見を聞かせてくれ」
ゲルツは目を閉じたまま。目頭を押さえたまま。動かない。
部屋の全員の目がゲルツに集まった。
しばらくの沈黙の後、ゲルツが口を開いた。目が赤い。
「……アクロス。この部屋に入る前に俺は、答えたな」
低い声だった。いつもの張りのある声とは違う。
絞り出すような声。
「あぁ。仲間だと言ってくれた」
「そうだ。お前たちとは死線をくぐった。
背中を預けて共に戦った仲間だ。最初に言った通りだ」
ゲルツは目を赤くして、アクロスとリーネを見て言った。
「お前たちの話は全て、しっかりと俺の胸に届いている。
お前たちの魔族の、本当の姿も見た。それでも俺は、もう一度言おう。
―――お前たちと、俺は仲間だ」
ゲルツの声がはっきりと部屋に響いた。
「ギースさん。俺が言えることは、それだけです」
リーネの目から涙がこぼれた。
声は出さなかった。
頬を伝う一筋が、光の粒になって、淡く瞬いた。
魔族の、本当の涙だった。
アクロスが「ありがとうございます」と言った。
声が震えていた。堪えきれなかった。
---
ギースが椅子から立ち上がった。
壁の双頭槍に目をやった。
両端の刃が窓からの光を受けて白く光っている。
黒光りする硬木の柄。何十年と握ってきた柄。
「アクロス、リーネ。吹き溜まりの件だ」
ギースの声が変わった。
さっきまでの「聞く者」の声ではない。
それは判断する者——―責任者の声だった。
「お前たちだけで行かせるわけにはいかん。作業中の護衛が必要だ。
巣穴の物理的な破壊にも人手がいる。周辺の魔物が寄ってくる可能性もある」
「ギースさん……」
アクロスは、ギースを見て言った。
リーネも顔を上げた。
「本来なら、俺はお前たちをすぐに信じるべきじゃない」
ギースは静かに言った。
「アクロス、リーネ。この町にも、多くの想いがある。
人間だけじゃない。獣人も、ドワーフも、エルフも、商人も、旅人もいる。
俺が判断を誤れば、この町の全員を危険に晒す」
アクロスもリーネも、黙って聞いていた。
「だがな」
ギースは双頭槍を見た。
「町を守るってのは、危険なものやわからないものを全部追い出すことじゃない。
この町を守ろうとしている者の想いを、見誤らないことだ」
「だから、俺も行こう」
アクロスとリーネが目を見開いた。
ゲルツも驚いた顔をした。
「ギルド長が自ら、ですか」
「あの規模の吹き溜まりを放置したら次は、この町にも何か起きる可能性は高い。
北の森から魔物が溢れ出せば、街道の安全も、町の治安も、脅かされる。
—――ギルド長の仕事は書類を捌くことじゃない。この町を守ることだ」
ギースが双頭槍に手を伸ばした。
黒光りする柄に、大きな手が触れた。
長い指が柄を握る。
「……久しぶりに、こいつを振りたくなった」
ギースの口元の皺が動いた。
――—笑った。この部屋で初めて。
その笑顔を見て、アクロスは思った。
この人は書類仕事をしている時より、
槍を握っている時の方がずっと生き生きしている。
そしてギースは二人に向き直って、にやりと笑って言う。
「アクロス、リーネ。お前たち魔族の力を、貸してくれるか?」
アクロスとリーネは、力強く頷いた。
「もちろんだ。一緒に行こう。ギースさん」
「私たちの力を使ってください」
ギースは頷いた。
ゲルツはまた目頭を押さえている。
「よし。段取りは俺が決める。メンバーの選定、日程、装備、全部任せろ。
お前たちは浄化の手順を完璧に仕上げておけ。日程はまた連絡する」
「わかりました」
アクロスとリーネは頷いた。
「ゲルツ。お前も来い」
「もちろんです!」
ゲルツが即答した。迷いがなかった。
ギースがアクロスとリーネに向き直った。
「お前たちに一つ言っておく」
「はい」
「お前たちが魔族だということは、今この部屋にいる者以外にはまだ言うな。
広げる時は俺の判断で、しかるべき時に、しかるべき形でやる。
絶対に焦るな。一歩ずつだ」
二人は黙って頷く。
「それと——」
ギースがパイプを手に取った。
火はつけなかった。ただ手の中で転がしながら、言った。
「お前たちがこの町のためにその力を使って、『仲間』を大切にするなら、
俺も、お前たちの味方だ。ギルド長がどうとかは関係ない。
一人の人間として、この町の仲間として。俺がお前たちを守る。わかったか?」
ギースはアクロスたちに背を向け、顔だけ振り向いた。
横顔だったがその目は開かれていて、その奥に温かいものが見えた。
「ありがとう、ギースさん」
「ありがとうございます」
二人は真っ直ぐにギースに礼を伝えた。
「トマスも同じ気持ちだろう」
パイプを口に咥えた。火のないパイプから、煙は出ない。
「さて。忙しくなるな。お前たちは今日は帰れ。
わかってると思うが、その姿で外に出るなよ」
ギースはまたにやりと笑った。
---
アクロスたちは、変身魔法をかけ直してから、ギルド長の部屋を出た。
ゲルツも出てきた。
二人の顔を見て、大きくため息をついた。
「はぁ~、お前らマジで、勘弁してくれ。寿命が縮まったぞ……」
だが顔は笑っている。
「騙していて、悪かった。ゲルツさん」
アクロスは伏し目がちに言った。
リーネも申し訳なさそうな表情をしていた。
「騙していた、と言えばそうなのかもしれないがな。
でも、俺は妙に納得したんだ」
ゲルツが禿げ頭を撫で始めた。
いつものゲルツだ。
「あの雷。あの剣。あの収納魔法。リーネの氷壁。
クロの咆哮。フレスの偵察能力。全部、人間として見ると不自然だった。
ずっと引っかかっていた。何かがおかしい。そうは思っていた。
——―だが真相は、俺の想像をはるかに超えていた」
ゲルツが静かに頷いた。
「でも今こうして聞いて、全部繋がった。全部説明がつく。
むしろすっきりした」
ゲルツがアクロスを見た。そしてリーネを見た。
二人の目を、交互に。
「それに、俺にとって一番大事なところはお前たちの正体じゃない」
「ゲルツさん……」
「あの森で、お前たちは一度も逃げなかった」
ゲルツの声が太くなった。いつもの、背中で隊を引っ張る声だ。
「危険な場面は何度もあった。
だがお前たちは諦めず、俺たちと協力して、最後まで戦った。
あの金色の目の化け物を、一緒に倒した。
——―それは絶対に嘘じゃない」
「ありがとう」
アクロスとリーネは笑顔で頷いた。
やっぱりこのおっさんは最高のおっさんだ。
「それで、いいじゃないか」
ゲルツはいつものように、がははと笑った。
「あ、一つ聞き忘れてたことがあったな」
ゲルツは禿げ頭をパチンと叩いた。
新しいパターンだ。
考えてる時は撫でて、思い出した時は叩くんだな。
「なにを聞きたいんだ?」
「角のまま寝たら、枕と布団は破けたりしないのか?」
ゲルツは目を輝かせながら聞いた。
何を言ってるんだこのおっさんは。
「意外にならないんだよ。リーネは寝相が悪いからなるかもしれないが……」
アクロスは真面目に答えてあげた。
リーネが横でじとっと睨みつけながら答えた。
「破けちゃう魔族も多いわよ。だから魔族の寝間着には角カバーもあるもの」
いや、マジか。初めて知ったわ。
アクロスは動揺したが、ここは平静を装った。
「まぁ、魔族にも色々いるんだよ」
「しかし……本当に角があるんだな」
「ええ。あなたの頭より格好いいでしょう?」
ゲルツが一瞬固まった。
それから、がはは、と笑った。
禿げ頭を盛大に撫でながら。
「言うじゃねえか、リーネ!
俺の頭はこれはこれで風格があるんだぞ!」
「あぁ、その禿げ頭もかっこいいぞ」
「禿げって言うな!これは剃ってるんだよ!」
いや、マジか。
アクロスはまた動揺した。
そして、三人で笑った。
ゲルツはギルドの外まで見送ってくれた。
笑顔で手を振って別れた。
二人と二匹は外の空気を吸った。双昼の光が眩しかった。
クロがようやく、わふぅ~と長い溜息のような声を出した。
フレスもぴいぃぃ~と伸びをするように羽を広げる。
「クロとフレス。今日は本当に賢かったわね。ありがとう」
リーネがクロをわしゃわしゃ撫でて、フレスの首をころころ撫でた。
二匹ともとても嬉しそうに目を細めていた。
空気になってくれていてありがとう。とアクロスも黙って頷いていた。
リーネは深く、長い息を吐いた。
「……無事、終わったわね」
「あぁ。なんとか次に進めたな」
「……怖かった。ずっと、怖かった」
「俺もだ。心臓がずっと跳ねてた」
「でも―――よかったと思う」
「あぁ」
大通りに人が行き交っている。
露店の売り声。子供の笑い声。馬車の車輪が石畳を転がる音。
いつものグラザの昼下がりだ。
何も変わっていない。
町の人たちは何も知らない。
でも—―俺たちは、変わった。
嘘を一つ下ろした。一番重いやつを。
「リーネ」
「ん」
「飯、食おう。腹減ったよ」
「……もう」
リーネが少しだけ笑った。
グラザの大通りを、二人と二匹が歩いていく。
双昼の光が二色に重なって、レンガの外壁を温かく照らしている。
今日、この町に本当の意味で仲間が増えた。
トマス。ギース。ゲルツ。
全員おっさんだけど。
三人とも、「わかった」と言ってくれた。
「仲間だ」と言ってくれた。
「味方だ」と言ってくれた。
やることは相変わらず山ほどある。
でも今は——―もう少しだけ、この昼下がりを歩いていたい。
隣にリーネがいて、足元にクロが走って、肩の上にフレスがいる。
四つの影が、グラザの通りに伸びていた。




