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第44話 一歩、そしてまた一歩

大通りの屋台が並ぶ一角で、二人と二匹は遅い昼食をとることにした。


串焼きの鶏肉が、炭火の上で脂を落としてじゅうじゅうと音を立てている。

白い煙が立ち上がり、香ばしい匂いが鼻をくすぐる。


「はい、鶏串二本と野菜スープ二つ、黒パン二つね!」


屋台のおばちゃんが威勢よく二人に差し出す。


銅貨八枚。リーネが革の財布の銅貨の側を開いて、数えて払う。


アクロスたちは木のベンチに並んで座り、串焼きにかぶりついた。


「……うまいなぁ」


アクロスが目を閉じてしみじみと言った。


「あなたはほんと、毎回それね。

そんな大げさに感動しないでよ。恥ずかしいわ」


「いやでも、うまいもんはうまい。

うまいと喜んでも誰も損はしないだろう?」


串から肉を歯で引きちぎりながら、アクロスは幸せそうだ。


「たしかにそうね」


リーネも笑顔で鶏串を食べる。


「うん、おいしい」


足元でクロが鼻を鳴らした。

大きな黒い目がじっと串を見つめている。尻尾がぱたぱた揺れている。


「はいはい、あなたの分もあるわよ」


肉をひと切れクロの前に置いた。

クロがぱくりと食べて、満足そうに目を細めた。


フレスはリーネの肩の上で、黒パンの欠片を小さな嘴でつついている。

小さな銀の体がもぐもぐ動いている。


野菜のスープは少しぬるかったけれど、

じゃがいもと人参がごろごろ入っていて優しい味がした。


今日は体より、心が疲れた。

優しい味がじんわり心にも沁みる。


「こうやって外でベンチに座りながら食べるご飯もいいわよね」


「いいに決まってる。もっとやっていこう。このまま串もう一本いけるぞ俺は」


「それはだめよ」


「……はい」


アクロスは素直にスープを啜った。


---


スープの器をおばちゃんに返しながら、リーネは午後の話を始めた。


「トマスおじいちゃんに言われた装備を揃えにグロムさんの店に行きましょう」


「あぁ、そうだな。肩と腕と……足とかだっけ?」


アクロスはすでにうろ覚えだった。


「あなたは肩当てと胸当てと腕甲。私はブレーサーと足を守る革パッドね」


しっかり者のリーネはちゃんと覚えていた。


「あとは晩御飯の野菜とパンも買っておきましょう。

家賃も今日受け取ったお金でトマスおじいちゃんに払いましょう」


頭の中で計算した。


金貨四枚と銀貨十枚。銀貨に換算すると九十枚。


家賃が月、銀貨十二枚。一週間分の三枚は払ってあるから、

残りの九枚を支払う。


装備品はものによるけれど、革の防具なら銀貨十枚から二十枚くらい。

鉄が入ると三十枚以上になることもあり得る。

ポーション四本で銀貨十枚。あとは日用品の補充。食費。


計算すればするほど、お金は有限だということを突きつけられる。


「贅沢はまだできないわ。必要なものを先にしっかり揃える」


家計を真剣に話すリーネを見て、アクロスは思った。

頼りになるな。さすが七十年以上生きてるだけある。


そして——―ふと、口が滑った。


「いつも苦労をかけますな。リーネおばあちゃん」


リーネは間髪入れず、アクロスの肩をパンチした。


ばすんと音が聞こえた。


「なんて?」


口より手の方が早かった。

そしてアクロスの反応を見ることもなく歩きだす。


アクロスが肩を押さえてうぅ……と言いながら後ろに続いた。


これが暴虐のリーネか……。魔拳のリーネでもいいかもしれない。

恐ろしい。とアクロスは心の中で呟いていた。


クロとフレスも呆れて、リーネの隣を歩いていた。


---


アクロスたちは屋台で夕飯のおかずとパンも買ってから、

グロムの鍛冶屋に向かった。


カン、カン、カン。

いつもの槌の音が、通りの奥から聞こえてくる。


この音を聞くと東通りに帰ってきたなと思う。


パン屋のエリザの焼く匂いと、グロムの槌の音。

この二つが、東通りの音と匂いだ。


扉を開けると、炉の熱気と鉄の匂いがむわりと押し寄せた。


「グロムさん。こんにちは」


リーネが声をかけると、奥の炉の前からグロムが振り返った。


茶色の顎髭。革の前掛け。前腕が丸太のように太い。

リーネの胸ほどの背丈だが、この通りで三十年やってきたドワーフの職人だ。


「おぉ! アクロスとリーネだったな! 何の用だ?」


「今日は、防具の注文と買い物をしに来ました。

まずは私たちの防具をお願いしたいの」


「防具か。革と鉄があるが……お前たちは革だな」


「うん。トマスおじいちゃんに私たちに必要な装備を教えてもらったの」


グロムの目がぎらりと光った。


「トマスが言ったのか。ならちゃんとしたものを出さんとな。

あいつに『グロムの仕事は雑だ』なんて言われたらたまらん」


言いながら作業台の前に出てきた。

顎髭をもしゃもしゃ触っている。


「まずはアクロスだ。こっち来い」


アクロスが前に立った。

グロムが低い位置から全身を見上げた。


肩。腕。胸。腰。脚。

小さな手が、アクロスの肩を掴んで回した。


「ふん。前衛もこなすが剣士じゃないな。

ん? なんかお前……右肩が腫れてないか? 怪我でもしたのか……?」


「……はい、こないだの討伐で少し……」


アクロスは隣の女に肩パンされて腫れているとは言えなかった。


リーネは目を伏せていた。


「そうか。トマスは何と言った」


「アクロスは左肩に鉄の肩当て。前腕に革の腕甲。軽い革の胸当て。

私は肘までを守るブレーサーと足を守る革のパッドをつけろと言ってました」


目が泳いでいるアクロスの代わりにリーネが答えた。


「妥当だな。あいつの目は衰えてない。

肩当ては軽い鉄で作る。お前に重いものを乗せても動きが死ぬだけだ。

腕甲は牛革の二枚重ね。鉄は巻かん。手首の返しが鈍る。

胸当ては薄めの一枚革。鎖は入れない。お前には邪魔だ」


トマスの見立てを、グロムが職人の目で確認して的確に形にしていく。


「次、リーネ。来い」


「杖を振るのは右腕です」


「右の前腕にブレーサー。締めすぎると杖の振りに干渉する。

紐で調整できるように仕立てる。左手にもアクロスと同じ腕甲がいるな。

魔狼の牙くらいは防げる。足元は膝と脛を守る革パッドを追加だな」


グロムが棚から革の端切れを引っ張り出して、リーネの腕とアクロスの肩に当てた。

太い指が器用に寸法を取っていく。


見た目は無骨なのに、指先はとても繊細だ。


「仕上がりは、四日後だな」


「ありがとう、グロムさん」


「出来が良けりゃ礼を言ってくれ」


ぶっきらぼうだけど、口元が少しだけ緩んでいた。


「グロムさん、もう少しいいかしら。日用品と、あと武器も見たいの」


「あぁ。好きに見ていいぞ」


二人は壁際の棚を見て回った。


小ぶりの砥石。革の手入れ油。縫い針と丈夫な麻糸。

全部必要なものだ。


リーネは縫い針を手に取った時、エリーの手を思い出した。

彼女の指先には裁縫のたこがあった。


今度一緒に依頼に行くことがあったら、縫い物のこと教えてもらおうかな。

とリーネは思った。


アクロスは剣の並んだ棚の前で立ち止まっていた。


「なぁ、リーネ」


「ん?」


「俺も何か、手に持てる武器を一つ持っておいた方がいいかな。

基本的には魔法だけどさ、いつまでも素手なのもどうかなと思って」


「そうね。物理的な武器は一つくらい持っておくべきだわ。

魔法を使えない状況もあるかもしれないから」


「グロムさん、相談していいか。護身用の剣を一本持ちたい。

大きすぎないやつで、素人でも扱いやすいものを頼む」


グロムが炉の前から歩いてきた。

アクロスの手を取って、掌を開かせた。


指の長さ。握力。手首の太さ。全部を触って確かめる。


「お前は……剣術を知らんな」


「……ほとんど、使ったことない」


「正直でいい。戦い方をろくに知らんくせに格好だけで、

長剣や大剣を振りたがる馬鹿が一番始末が悪い」


棚から一本を抜き取った。


短めの片手剣。刃渡りは腕の長さよりやや短い。

柄は黒い革巻きで、鍔は小さく実用的。飾りは一切ない。


「これは、ショートソードだ。重心が手元寄りになっている。

握って振ってみろ」


アクロスが受け取って、軽く振った。


「……軽い。思ったより全然軽いな」


「見た目は地味だ。だが良い鋼を使ってる。手入れをすれば十年は使える。

型を知らん人間が持つなら、これが一番死ににくい」


グロムが腕を組んだ。


「いいか。剣は道具だ。格好をつけるもんじゃない。

生きて帰るための道具だ。命を守る物だ。忘れるな」


「……ありがとう、グロムさん」


アクロスの声が少し低くなった。


職人の言葉は短いが、重い。


「私もナイフを一本もらえるかしら」


グロムが棚からナイフを一本出した。


刃渡りは掌より少し長いくらい。片刃。


柄は滑りにくい木と革の組み合わせ。腰に差せるサイズ。


握ってみた。リーネの手にすっと、馴染む。


「これ、薬草の採取にも使えそう」


「もちろん、使える。元々そういう用途の形だ。

だが刃は鋼だから、革も切れる。いざという時は突ける」


「すごくいいわ。これにします」


グロムが値段を言った。


ショートソードが銀貨十二枚。ナイフが銀貨四枚。日用品が銅貨十五枚。

二人分の防具一式で、銀貨二十枚。


防具は四日後に受け取りで、その時に支払い。


今日支払うのは、ショートソードとナイフ、それから日用品の分だ。


リーネは財布から銀貨十六枚と銅貨十五枚を支払った。


痛い出費。でも命を守る大事な買い物だ。


「グロムさん。四日後にまた来るわね」


「おう。……お前ら、ちゃんと食えよ。

二人とも、もう少し肉をつけた方がいい。俺みたいにな!」


グロムは豪快に笑いながら言った。


「ちゃんと食べてるんだけどね」


「足りてねえだろ。アクロスが悲しそうな顔してるぞ」


「わかるか、グロムさん……!

やっぱり肉はいっぱい食わないと駄目だよな!」


ここぞとばかりにアクロスは攻勢に出る。


「おうよ!リーネ。旦那にはしっかりうまいもん食わせてやらないと、

家に帰ってこなくなるぞ!がはは!」


「もう……わかりました……」


リーネはじろりとアクロスを横目で睨んだ。


アクロスはリーネから目を逸らして言った。


「グロムさん、ありがとう。また来るよ」


「おう、またな」


グロムは言いながらもう炉に向き直っていた。

大きな背中。焦げだらけの前掛け。


カン、カン、カン。

槌の音が、また響き始めた。


---


店を出ると、午後の双昼の光が眩しかった。


アクロスがショートソードを腰の帯に通して、位置を確かめている。

慣れない武器がぶら下がっているのが落ち着かないのか、何度も位置を直している。


「ふふ、似合ってないわね」


「うるせぇ。これから似合うようになっていくんだよ」


「そうね。頑張ってね」


リーネもナイフを腰に差してみた。


軽い。でも、確かにそこにある。

杖とは違う重み。自分の手で選んだ、小さな武器。


「さ。トマスおじいちゃんに家賃を払って、

報告に行きましょう」


「あぁ。ギルドでの話も全部聞いてもらわないとな」


東通りに戻ってきた。

見慣れた石畳。鉄の風見鶏。


トマスの家の前に立つと、少しだけ緊張した。


朝、ここで魔族だと打ち明けた。

そして自分たちの姿を見てほしいと言った。


それからまだ半日しか経っていないが、なんだかまた緊張してきた。


リーネが扉を叩いた。


足音が聞こえる。

ゆっくりだけど確かな一歩一歩。


そして扉が開いた。トマスが立っている。

いつもの灰色の麻の上着。白い無精髭。鋭い目。


「来たか」


「トマスおじいちゃん、ギルドから戻ったわ。

報告させてください」


「入れ」


いつもの質素な部屋。壁の長剣。お茶の匂い。


クロがいつものようにテーブルの下に伏せた。

フレスもリーネの肩から飛んで、クロの隣に降り立った。


二匹もトマスの家はもう慣れたものだ。


また、トマスが三人分のお茶を淹れた。

テーブルに湯気が立つ。


アクロスが話し始めた。


「ギースさんとゲルツさんに、話してきた。

俺たちが魔族であることも、吹き溜まりのことも、この町で何をしたいのかも」


トマスは黙って聞いている。


器を両手で包み、湯気の向こうから二人を見ていた。


「それで、二人の前で……俺たちの、魔族の姿も見せた」


ほんの僅かに、トマスの眉が動いた。


リーネが続ける。


「怖かった。でも、私たちが魔族としてこの町で暮らしたいって話をするのに、

人間の姿のままじゃ違うと思ったの」


「……そうか」


トマスは、それだけ言った。


だが、朝に聞いた「そうか」とは少し違う響きがあった。


驚きでも、心配でもない。


二人が自分たちで選び、自分たちの足で一歩進んだことを、

静かに受け止める声だった。


「ギースは、なんと言った」


アクロスが答えた。


「最初は質問されたよ。俺たちが何のためにグラザに来たのか。

どうして吹き溜まりの件に関わるのか。人間を憎んでいないのか」


「あいつは、この町を預かる立場だ」


「あぁ。だから、俺たちも全部話した。俺たちがこの町で暮らしたいこと。

本当の姿で、この町の仲間として生きたいこと」


アクロスは、自分の胸に手を置いた。


今でも、あの部屋の緊張感が残っている。


ギースの細い目。ゲルツの止まった手。

そして、本当の姿を晒した隣で震えていたリーネの指先。


「ギースさんは、俺たちの力を貸してほしいと言ってくれた。

吹き溜まりの浄化には、自分も同行するって」


トマスが、お茶を飲みかけた手を止めた。


「ギースが、自ら行くと言ったのか」


「ギースさんは、ギルド長の仕事は書類じゃない。この町を守ることだ。って」


トマスの口元が僅かに動いた。


「……あいつらしいな。

いくつになっても、落ち着かんやつだ。行動で語りたがる。昔からな」


「それから、俺たちが魔族だってことは、まだ他の人には言うなと言われた。

広げるなら、時機と方法を考えてからだって」


「正しい判断だ」


トマスは頷き、続けた。


「世界は、願っただけで変わるほど優しくはない。魔族を恐れる者もいる。

憎む者もいる。お前たちを利用しようとする者も出るだろう」


リーネの指が、膝の上で僅かに動いた。


トマスは、その動きを見逃さなかった。


「だがな。だからといって、諦めるというのは違う」


リーネが顔を上げる。


「ギースが一歩ずつと言ったのなら、その通りに進めばいい。

焦って全てを失う必要はない。まずは目の前の吹き溜まりのことからだ」


「はい」


リーネは、はっきりと頷いた。


「それと、ゲルツさんも……変わらず仲間だって言ってくれたわ」


声に、少しだけ涙が混じった。


「本当の姿を見た後でも、もう一度、仲間だって言ってくれたの」


トマスの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


「ゲルツらしいな」


「その後は、角のまま寝たら枕と布団が破けるのかって聞かれたわ」


「……相変わらず馬鹿だな」


トマスが呆れたように言った。

だが、声の奥には笑いがあった。


一通りの報告を終えると、アクロスとリーネは目を合わせた。


朝、約束したことがある。


アクロスが、静かに口を開いた。


「トマスさん。俺たちの本当の姿を、見てほしい」


リーネも、胸の前で両手を握った。


「朝、約束したでしょう。

私たちの姿を、見てほしいって」


トマスは、二人を順に見た。


「あぁ。見せてもらおう」


アクロスとリーネは椅子から立ち上がった。


二人はテーブルの脇に、並んで立つ。

窓からの光が二人に向かって、斜めに差していた。


クロとフレスもテーブルの下から顔を出す。

二匹も見守っている。


リーネがアクロスの方を見た。

小さく頷いた。


その目には、もう迷いはなかった。

リーネの手はもう、震えていなかった。


二人はまっすぐにトマスを見ていた。

そして、唱えた。


「「——―解除リリース」」


二人の体から、光が放たれる。

纏っていた光が、ゆっくりほどけていく。


アクロスの肌が、青みを帯びた浅黒い色に変わっていく。

革ジャケットの袖口から覗く前腕に、黒紫の魔紋が脈打ち始める。


右目には深い琥珀。左目には鮮烈な紅。

額の中央には、黒紫の一本角が現れる。


リーネの姿も変わっていく。


人間の肌色は、温かみを帯びた褐色へ。

焦げ茶だった瞳は、深く澄んだ紅へ戻る。


そして、銀白の髪の間から、二本の角が姿を現した。


黒曜石のような艶を持つ角。

先端だけが、暗い紫に染まっている。


二人は、本当の姿でトマスの前に立っていた。


トマスの表情は変わらない。


だが、その目には、遠い何かを懐かしむような温かさがあった。


トマスは、まずアクロスを見た。


鋭いが、どこか温かい。

何かを見極めるような、目だった。


それから、リーネを見た。


視線が、二本の角から深紅の瞳へ移る。


リーネの指先が少しだけ動いた。


隠そうとしたわけではない。

ただ、何かを言われる前の、わずかな緊張だった。


それを、トマスは見逃さなかった。


「……何も、隠さんでいい」


それから低い声で続けた。


「……綺麗な角だな」


そう言ったトマスの目は、ただ、優しかった。

鋭さもない、ただ優しいと感じるだけの目だった。


初めて見る目だった。


そしてリーネの目から、一筋の涙が、落ちた。


「……ありがとう」


言葉が震えた。


頬を伝う一筋の光は、淡く瞬く。


トマスはそれを見て、目を少しだけ細めた。


「……そうか。魔族の涙は、こうなるのか」


驚いていなかった。

むしろ、初めて知ったことを噛み締めているような顔だった。


アクロスは何も言わずに、リーネの背中にそっと手を当てた。


正体を打ち明けた時にも、トマスは受け入れてくれた。

まず、同じ人として認めてくれた。生き方に嘘はなかったと言ってくれた。


そして、自分たちの本当の姿を見たうえでトマスが二人に最初に伝えた言葉は、

恐怖でも警戒でもなく、綺麗だという言葉だった。


それはリーネにとって、どんな慰めよりも大きかった。


トマスはアクロスへ視線を戻した。


「アクロス。お前は……随分と目立つ姿だな。

なんだその腕。初めて見たぞ」


「リーネには綺麗って言ったのに……」


アクロスは少し悲しくなった。


「一本角に左右違う色の目、おまけに腕に妙な紋様まである。

お前は目立ち過ぎだな」


これは、あれだ。

お年寄りが、今風の金髪姿の派手な若者を見て、ちょっと引いた感じのあれだ。


いやいや、でもここでその反応は違うだろ。とアクロスは思った。


「いや、そこは格好いいとか言ってくれてもいいんじゃないか?」


「自分で言うことか」


「ゲルツさんは結構、興味津々だった」


「あの馬鹿と俺を一緒にするな」


トマスは少しムッとして言った。


リーネが涙を拭いながら、小さく笑った。


その笑顔を見てアクロスも笑う。


トマスは二人を見て、鼻から短く息を吐いた。


「二人ともいいかげん座れ。

お前たちの姿は見世物じゃないだろう」


「あ、はい」


アクロスとリーネは、魔族の姿のまま椅子に座った。


トマスは二人の前の器に改めてお茶を足した。


「茶も冷めた。飲め」


「……ありがとう」


リーネは両手で器を持った。


湯気が、深紅の瞳の前をゆっくり通り過ぎる。


一口飲む。温かい。

リーネは器を持ったまま、俯いた。


「……おいしい」


小さく、そう呟いた。


トマスは何も言わなかった。

ただ、自分の器を手に取り、同じように茶を飲んだ。


三人で、しばらく黙ってお茶を飲んでいた。


窓の外から、鉄の風見鶏がかすかに軋む音が聞こえる。

遠くでは、グロムの鍛冶場から槌の音が響いていた。


魔族の姿で、人間の家に座り、人間の淹れた茶を飲む。


追い出されることもなく。武器を向けられることもなく。

ただ、お茶の置かれたテーブルを囲んでいる。


そんなことが、本当に起きているなんて。

リーネには夢のようだった。


やがて、トマスが器を置いた。


その音は小さかった。

けれど、部屋の空気が変わった。


「アクロス。お前に一つ言っておくことがある」


「はい」


アクロスは姿勢を正した。トマスのこの雰囲気は、

何か大事なことを言う気がした。


「お前は——―もう少し、戦いを理解する必要がある。わかるな?」


アクロスは姿勢よくしたまま頷いた。


「討伐から戻った時のお前たちを見た。

体の使い方を知らん者の疲れ方だった。危険な目にも、あったな?」


トマスの声は静かだった。

責めているのではない。ただ、事実を告げている。


アクロスとリーネは頷いた。

このじいさんは本当に見ていたように言う。


「お前には力がある。魔法も、魔力量も、おそらく並の冒険者とは比べ物にならん。

だが、力があることと、戦えることは別だ」


アクロスの拳が、膝の上で強く握られた。


「負けないための具体的な方法。体の動かし方。間合いの読み方。呼吸法。

相手の動きを読むこと。攻撃の前に、まず自分が死なない位置にいること。

——―そういう技術、知識、生き残るものだけが知りうる戦闘の秘訣。

それらがお前には圧倒的に足りていない」


アクロスは何も言わなかった。言い返せないのだ。

それは本人が一番わかっている。


トマスがアクロスの目を見た。


「今のままではお前はいつか負ける——―それでは、リーネを守れんぞ」


リーネが、はっと顔を上げた。


自分の名前が出るとは思っていなかったのだろう。

驚きと不安が、深紅の瞳に浮かんでいた。


アクロスの表情は、真剣だった。

悔しさではない。もっと深いところに刺さっている顔。


自覚している一番、人に突かれたくないところを、

一番信頼している人に、正面から指摘された。


「……はい。自分でもわかっています」


「俺は今、おまえが死ぬという言葉ではなく、あえて負けると言った。

これには大きな違いがあるぞ。アクロス。

俺が今から言うことを、お前はしっかり肝に銘じなければいけない」


トマスは真剣そのものだ。

アクロスは背筋を伸ばし、頷く。


「お前自身は既に自分の命についての覚悟は決めているだろう。

だがな、お前がこれからも行動を起こし、前に進んで、進むほどに、

お前と信頼で結ばれた、お前の仲間が周りに集まる。そいつらはお前を守るんだ」


リーネもハッとした表情になった。


トマスは淡々と続ける。


「それが何を意味するか。それはな、お前が負ける度に、お前はおそらく死なない。

お前以外の大事な仲間がお前をかばって一人ずつ、死んでいくぞ」


アクロスは背筋が寒くなった。

自分が負けても自分は死なない。誰かが代わりに死んでいく。


ドルクにも、言われた言葉を思い出した。


―――お前は大事な人をいつか失う。


あいつが言ったあの言葉はここでも繋がってくる。


俺をかばって、リーネが死ぬかもしれない。


アクロスの目が変わった。


「ありがとう、トマスさん。本当に大事なことを教えてくれた」


「だから、お前は簡単に負けてはいけない。お前自身のためだけじゃない。

お前と共に歩く者を、生きて帰すためにだ」


アクロスは頷いた。そして強さを求める目になった。


「トマスさん。俺に、戦い方を教えてください」


トマスは、わずかに頷いた。


「そのつもりだ」


「え——―」


「俺とギースで、お前を鍛える」


アクロスは目を見開いた。


「吹き溜まりの仕事の日程が決まるまでは、午前中は俺のところへ来い。

この家の裏庭でやる。基礎からだ。体の動かし方。足運び。受け方。攻め方。

どんな戦い方にも共通する、ただ生き残るための負けないための技だ。

その腰の剣の使い方も教える。お前の体で、お前の戦い方で、

死なない方法くらいは叩き込んでやれる」


トマスが椅子の背にもたれた。


「ギースには俺から話しておく。

あいつは槍を含めた中距離の間合いと、集団戦についての全てを教えるだろう。

俺は近接戦闘における体捌きと、一対一の戦い方を徹底的に教える」


トマスはアクロスの目を見た。


「嫌なら、断ってもいいぞ」


「断りません。断るわけがない!」


アクロスが即答した。椅子から立ち上がって、頭を下げた。


「よろしくお願いします。トマスさん」


トマスは黙って頷いた。


そしてちらりと——―壁の長剣に目をやった。


もう握ることはないと思っていたであろうその剣。

擦り減った柄。何度も巻き直した革。


何か、考えている。でもそれは口にしなかった。


「明日の朝からだ。日が昇ったら来い。遅れるなよ」


「はい」


リーネは、黙って二人のやり取りを聞いていた。


アクロスが本気で強くなろうとしている。

その理由の一つに、自分を守ることがある。


胸が温かくなる。


けれど、同時に怖かった。


もし、アクロスが死にそうになった時、自分がそばにいたなら。

きっと、考えるより先に飛び込んでしまう。


そして、その逆もある。


自分を守ろうとして、アクロスが死ぬ。


そんなことだけは、絶対にあってはならない。


アクロスだけに強さを求めて、甘えているわけにはいかない。

自分にも、できることがある。

魔力の扱いも、薬も、守るための魔法も、もっと磨かなければならない。


ふと、昼間のことを思い出した。


鶏串を食べながら馬鹿なことを言って、

自分に肩を殴られて情けない声を出していたアクロスが、


今は真剣な顔でトマスに頭を下げている。


そういうところが、私がこの人を信じられる理由なのだと思う。


「リーネ」


トマスがリーネを見た。


「お前には、お前のやるべきことがある」


「はい。アクロスのこと、よろしくお願いします」


トマスの目が少しだけ柔らかくなった。


「アクロスの昼飯は俺が食わしといてやる。どうせ余るからな。

お前も暇があったら寄れ」


「……ふふ。ありがとう。トマスおじいちゃん」


---


そして二人はまた変身魔法をかけて、トマスの家を出た。

帰り際に今月の残りの家賃もしっかり払っておいた。


トマスは、また銀貨を一切見ずにリーネの目だけを見て、


「急がんでいいと言ったんだがな」


とぼやいてポケットに銀貨を突っこんだ。


夕方の東通り。金昏の光がレンガの外壁を赤く染めている。


職人たちが仕事を終えて帰っていく。子供の声が路地の奥から聞こえる。

馬車が一台、石畳の上をごとごと通り過ぎた。


いつものグラザの夕暮れだ。


隣のアクロスを見た。


腰にはさっき買ったばかりのショートソードがぶら下がっている。

まだ全然似合っていない。


でもさっきとは、顔つきが違う。


「明日から大変ね」


「トマスさんの稽古、絶対キツイよぉ、リーネぇ……俺、辛いよぉ……」


「『よろしくお願いします、トマスさん』」


リーネのアクロス声真似だ。

なぜか口をとがらせてアクロスっぽくしている。


「いや、ほんと似てない。見てる俺が辛くなるぐらい似てない」


リーネは少し耳を赤くして、何もなかったかのように続ける。


「元★4の剣士が直々に教えてくれるのよ。贅沢な話だわ」


「贅沢とか言ってる余裕あるかな。殺されるかもしれん」


「大丈夫よ。死なない方法を教えてくれるんでしょう」


リーネが笑いながら言った。


「いや、それはそうなんだけど……」


二人で家に入った。

クロが真っ先に駆け込んで、いつもの窓際で伏せた。

フレスが棚の上に飛んで、羽を繕い始めた。


荷物を整理した。

今日買ったものをテーブルの上に並べた。


砥石。革の手入れ油。縫い針と麻糸。アクロスのショートソード。リーネのナイフ。そして晩ごはん。


小さなテーブルの上に並んだそれらを見て、リーネは思った。


朝、この家を出た時には不安と恐怖でいっぱいだった。


夕方、家に帰ってきた。買った荷物だけじゃない。

いっぱいいろんな気持ちを受け取って私たちは帰ってきた。


トマスは「鍛えてやる」と言ってくれた。

ギースは「守る」と言ってくれた。

ゲルツは「それでも仲間だ」と言ってくれた。


全部おっさんだけど。


この信頼と思いも、全部、今日一日で手に入れたものだ。


「リーネ」


「ん?」


アクロスがテーブルの向かい側に座った。

ショートソードを手に取って、じっと見ている。


「トマスさんに言われたこと、その通りだと思う。

……北の森で、お前が危なかった時、俺は助けてやれなかった」


アクロスがずっと気にしているのは分かっていた。


北の森で、私が動けなくなったこと。

ドルクがいなければ、私はきっと無事では済まなかったこと。


その話になるたびに、胸の奥が小さく縮む。


私が弱かったから、この人にそんな顔をさせている。

そう思うと、息が少し苦しくなった。


「そんなことない。あなたはちゃんと——―」


苦しまないで。悩まないで。

そう伝えたいけど、それはこの人のためなのか。自分が楽になりたいだけなのか。


今の私にはわからなかった。


「いや、あの時ドルクがお前を守らなかったら、

お前は——―」


アクロスが言葉を切った。


「だから、強くなるよ。ちゃんと強くなるって俺は決めたから。

冗談言いながら、お前と笑いながら、一緒に歩いていたいから」


そんな表情でそんなことを言うアクロスを見た私は、

ただ、この人を抱きしめたいと思った。


けど、そんな勇気は私にはない。


この人の優しさに甘えてしまう、そして嬉しくなってしまう。


でも、私も強くなりたい。守りたいし支えたい。


そう思った。


そしてリーネは胸に手をあてて、伏し目がちに顔を赤くしていた。


「魔王が辛いよぉ~なんて言ってたら、だれもついてこないわよ」


リーネは照れ隠しのように言った。

声は少し震えていた。


アクロスが笑った。


「そうだな。いつもありがとな」


「……急にそういうこと言わないでよね」


リーネは赤い顔でふいと窓に顔を向けた。


窓の外は金昏から茜色に変わっていた。

双昼の太陽が二つとも、西の屋根の向こうに沈もうとしている。


アクロスがショートソードを鞘に戻した。


「今夜、吹き溜まりの浄化の手順も詰めよう。

リーネの知識がないと俺だけじゃ組み立てられない」


「そうね。ちゃんと話しましょう。

あと明日以降のことも。私のやるべきことも整理したいし」


「あぁ。飯でも食いながら、ゆっくり話そう」


クロが窓際であくびをした。大きな口を開けて、ふあぁ、と。

フレスは棚の上でもう丸くなっている。


ギルド長の部屋でずっと空気になっていてくれた二匹の相棒。

クロもフレスも、二人の今日の大変さを、ちゃんとわかっている。


「アクロス」


「ん?」


「今日もいい一日だった」


「あぁ。そうだな」


「明日は、もっといい一日にしましょう」


魔族が本当の姿で人間の町を歩くこと。一緒に飯を食い、仕事をし、笑うこと。

その道は、きっと簡単ではない。


それでも今日。


この町の小さな家の中で角を持つ二人は、

本当の姿のまま人間とお茶を飲んだ。


今はそれでも十分だった。

確かに進んでいた。


アクロスが笑った。夕暮れの光の中で、いつもの気の抜けた笑顔。


夕暮れが、静かに夜に変わろうとしていた。

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