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第42話 嘘のない生き方を

白晨の光が窓に届く。

その光でアクロスは目が覚めた。


天井を見つめた。木の天井。見慣れた模様。

自分たちの家の天井だ。


昨夜、裏庭で交わした言葉が頭の中をぐるぐる回っている。

眠れたか、眠れていないかで言えば、眠れたと思う。


討伐の疲労ももちろんあった。体はちゃんと疲れていた。

だが眠りは深くはなかったように思う。


覚悟は決めた。決めたはずだ。

それでも、夜明け前の暗い天井を見ていると、胸の奥がざわつく。


隣の部屋から足音がした。

リーネが出てきた。髪がまた寝ぐせで跳ねている。


「おはよう、アクロス」


「おはよう、なんかその寝ぐせ見るのも久しぶりな気がするな」


笑ってはいない。ただ、優しい顔で伝えた。


「……三つ編みする気分じゃなかったの」


リーネはムッとした表情で言う。


「……ちゃんと、眠れたか?」


「討伐から帰って疲れたからね。意外とちゃんと眠れた。あなたは?」


「同じようなもんだ」


二人で裏庭に出て、井戸で顔を洗った。


冷たい水が肌を叩いて、頭が少しだけ冴える。

歯を磨いて、髪を整えて、変身をかけ直した。


いつもの朝の儀式。

裏庭で。ここなら誰にも見られない。


リーネの手に触れて、光が体を包み込む。

そして自分にもかける。


鏡の中の自分は、もう見慣れた顔だった。


焦げ茶の瞳。丸い耳。人間の肌。

グラザで暮らすために必要だった顔。


嘘の顔だ。


そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ重くなった。

それでも、この顔のおかげで今日まで生きてこられたのも事実だった。


朝ごはんは昨日買った黒パンの残り。

少し硬くなっている。水で湿らせ、竈で軽く炙った。


表面がかりっとして、中は柔らかくなる。


クロとフレスにも分けた。

クロがもぐもぐ食べている。

フレスは棚の上から降りてきて、欠片を啄んでいる。

朝起きた時は、いつも機嫌が悪いはずだが、食べ物の前ではご機嫌だ。


テーブルでリーネと向かい合う。

二人でパンを齧りながら今日の流れを確認した。


「今日は、まずトマスさんのところに行く。

装備の相談。そして——―俺たちの、話をする」


「うん……」


「その後、ハンナさんのところに寄ってポーションのこと。

それからギルドで報酬を受け取って、そのままギルド長との面会だ」


「トマスおじいちゃんへの話は、朝一番がいいわ」


「あぁ。俺たちも腹を括ろう」


リーネが黒パンの最後のひと欠片を口に入れた。


「括ってるわ。昨日の夜に、私もちゃんと覚悟を決めたから」


その声に迷いはなかった。

決意を宿したリーネの声は、澄んでいた。


---


今日は朝食をゆっくり食べた。

そして二人は出かける支度をした。


リーネがドアに手をかけようとしたその時、アクロスが口を開いた。


「リーネ。一つだけいいか?」


「どうしたの?」


「俺のことだが、異世界から来たことや、魔王を目指していることは、

まだ誰にも言うつもりはない。これは、町の人に話をしてもややこしくなるだけだ」


リーネは頷いた。


「確かに。アクロスはどうしたいの?」


「リーネと同じ集落出身で共に逃げてきたことにしておいてほしい。

これは嘘になるが、現実的に考えてここは仕方ない。俺たちは集落で育った幼馴染だ。集落の質問については全てリーネから答えてくれ」


リーネは少しだけ黙った。


「……嘘のない生き方をするって決めた朝に、

また一つ嘘を作るのね」


責めているわけではない。

ただ、胸の奥に残った引っかかりを言葉にしただけだった。


「理想や夢は時に、ただの自己満足やわがままでしかない時もある。

現実を変えるには現実に即した動きをしなければいけないんだ」


「そうね。その通りだと思う」


アクロスは苦く笑った。


「確かに、格好悪い話だ。でも、全部を一度に晒すことだけが誠実だとは思わない。

今、俺たちが偽らないと決めたのは、魔族として生きることだ」


「……うん」


「いつか、俺の本当のことも話せる時が来ればいいな。

その時まで、この嘘は俺が背負うよ」


リーネは、小さく息を吐いた。


「私も一緒に背負うから。あなた一人の嘘には、しない」


アクロスは頷いた。


「わかった。それじゃ、行こうか」


「ええ」


二人と二匹は、隣のトマスの家の扉を叩いた。


朝の空気が冷たい。

季節が変わろうとしている。


鉄の風見鶏がゆっくり回っている。

東通りはまだ、静かだ。


仕事を始める職人の姿はちらほら見える。


トマスの家から、足音が近づいてきた。

ゆっくりだが確かに一歩一歩が聞こえてくる。


そして、扉が開いた。


トマスが立っていた。


白髪が上品に後ろへ撫でつけられている。白い無精髭。

灰色の麻の上着。


いつものトマスだ。


「朝からなんだ」


「おはよう、トマスおじいちゃん。朝早くからごめんなさい。

少し、時間をもらえますか。相談したいことがあるの」


リーネはトマスの目を見てしっかり伝えた。


トマスの目が二人の顔を見た。

何かを察したのか、一瞬だけ目が細くなった。


「……入れ」


通された居間は変わらず質素だった。


壁に掛けられた古い長剣も、前に来た時と変わっていない。

刃は手入れされているが、柄の革は擦り減って色が変わっていた。

もう二度と握られることはないように見える剣。


テーブルを挟んで三人は座った。

クロとフレスは完全に空気を読んでテーブルの下で大人しくしている。


トマスがお茶を三人分淹れた。

白い湯気がゆっくり立ち上る。


「話を、聞こう」


リーネが、アクロスに小さく頷いた。


アクロスが、姿勢を正した。


「まず、装備のことです。昨日、装備を整えろと言ってくれた。

具体的に俺たちに何が必要か、教えてほしいんだ」


トマスがお茶を一口飲んだ。


そして二人の体を頭から足先まで一度だけ見た。

これだけで全部読み取っている。


「お前は剣が使えない。だが前衛もこなすだろう。最低限、肩当てと腕甲は要るな。革鎧は地味に重い。お前の戦い方には合わんだろうな。

軽い革の胸当て、鉄の肩当てを片方だけつけろ。

利き腕と反対側だ。盾も持たないお前は、その肩当てで受け流すなりはできる」


「肩当てですか……」


「それと腕甲。前腕を守るやつだ。お前は近接と中距離で戦う動き方が得意だな。

腕甲があれば、近接戦で獣の牙を受けても骨が折れにくい」


恐ろしいほど的確だった。戦い方まで見えるのか。

今回の討伐で、まさにそういう場面があった。


「嬢ちゃんは後衛だから重装備は要らん。だが革のブレーサーを着けておけ。

杖を振る腕の手首から肘までを守る革の腕覆いだ。

それと足元は今のブーツでいいが、足を守る革パッドを追加しろ。

足もしっかり守れ。後衛が起き上がれなくなったら前線は終わりだ」


リーネが頷きながら頭に入れている。


「あと二人とも、ポーションは常に二本ずつ持て。赤と青を一本ずつ。

金はかかるが命には代えられん。市場の外れのハンナから買え。いい薬師だ。

ギルドの備品より少し安く手に入る。革の防具や鉄の防具はグロムのところに行け。

あのドワーフは頑固だが腕は確かだ。体格に合わせて調整してくれる」


「ありがとうございます。全部覚えました」


リーネが堂々と言った。

賢いやつだ。あとで教えてもらおう。


トマスがお茶をもう一口飲んで、二人を見た。

元★4剣士の目が、静かに何かを待っている。


「……相談は、それだけじゃないだろう」


見透かされている。この人はわかっている。

装備の話だけでは、朝にわざわざ来るほどの用事ではないことを。


「……あぁ。もう一つ、大事な話があるんだ」


アクロスは手をテーブルの上に置いた。

少し握りしめていることに気づいて、意識して開いた。


「トマスさん。あなたに、俺が今から話すことを聞いてほしいんだ。

何かをしてほしいわけじゃない。ただ——―聞いてほしいんだ」


トマスの目が僅かに動いた。

待っていた、という顔ではなかった。


覚悟を見ている目だった。


「わかった。……聞こう」


アクロスがリーネを見た。

リーネが小さく頷いた。


「トマスさん、俺たちは——―魔族だ」


部屋の空気が止まった。


お茶の湯気だけが、ゆっくり立ち上っている。


「俺の本当の姿は、人間じゃない。肌の色が違う。目の色が左右で違う。

腕に魔紋がある。俺は角が一本ある。

リーネの額には角が二本ある。瞳が深紅で、褐色の肌をしている。

今の姿は、俺の魔法で人間に変身したものだ」


トマスは黙っていた。


表情は変わらない。驚かない。怒らない。

お茶の器を手に持ったまま、じっとアクロスの目を見ている。


リーネが続けた。


「私たちの集落は人間に焼かれて、中央回廊まで逃げてきました。

賞金稼ぎにも追われました。ここは中立で、どの種族でも暮らせると聞いて、

ここまで来ました」


声が少しだけ震えた。


「—――でも魔族の姿のままでは怖くて、変身して、嘘をついて、

この町で暮らしてきました。

トマスおじいちゃんにも、嘘をついてきました」


だがリーネの目は、まっすぐだった。


アクロスが言った。


「今日、これからギルドに行き、ギルド長と会うことになっている。

こないだの討伐で、大きな魔力の吹き溜まりが見つかったんだ」


トマスの眉が少し、動いた。

しかし、何も言わない。ただ聞いている。


「俺たちは吹き溜まりの浄化を行うと決めた。

それはただの人間には、できないことだ。俺たちの、魔族の力が必要だからだ。

でも、魔族であることを隠したままでは、筋が通らないから、

ギルド長にも、話そうと思っていた」


アクロスもトマスを真っ直ぐ見た。


「でもその前に—――俺たちが、一番最初に話をしたかったのがトマスさんだった」


トマスは目を閉じた。それだけだ。


「トマスさん。俺とリーネには今、考えていることがあるんだ。

それは、この町の人たちに、俺たち魔族も仲間に入れてほしいんだ。

一緒に、普通に暮らしたいんだよ。魔族の姿で」


トマスはただ、変わらず、聞いている。


「今のこの世界のこと、町の状況もわかってる。難しい話だってこともわかってる。

馬鹿みたいな話だって自分でも思う。でも、俺たちは本気で思ってるんだ」


沈黙が落ちた。


長い沈黙だった。

窓の外で鳥が鳴いている。遠くで犬が吠えた。


トマスがお茶を一口飲んだ。ゆっくりと。


器をテーブルに置いた。小さな音がした。


「……あぁ。わかった」


それだけだった。


「トマスおじいちゃん……驚かないんですか? 私たちを責めないんですか?」


リーネの声が揺れた。


「何も、責めることなんてない。お前たちのことだって、最初から気づいていた。

お前たちから漂う異質な魔力。黒い狼、銀の鳥。白い杖。

人間にしては異質なものが、いくつもあった。

——―だが俺は聞かなかった。あえて聞く必要もなかったからだ」


トマスが二人を見た。

いつもの鋭い目。だがその奥に、温かいものを確かに感じた。


「お前たちはこの町に来て、真面目に暮らしていた。

俺に家賃を払い、昼飯を一緒に食い、近所に引っ越しの挨拶をした。

そしてギルドで仕事もして、町に知り合いも多くできた。

俺が質問した時も、言えないことはあっただろうが、嘘はつかなかった。

そして、お前たちのこの町での生き方にも、嘘はなかった」


「—――俺には、それで十分だ」


リーネの目が潤んだ。

アクロスも、胸の奥が熱くなった。


「トマスさん。ギルド長のこと、教えてくれないか。

どんな人なのか。俺たちの話を、聞いてくれる人なのかどうか」


トマスが少し間を置いた。

壁の長剣に一瞬だけ目をやった。


「ギルド長の名はギースという。双槍のギースと呼ばれる男だ。

あいつとは若い頃からこの町を一緒に、守ってきた。

剣のトマス、槍のギース。そう呼ばれていた時もあった」


トマスの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。


「★4の槍の達人だ。あいつの武器は双頭槍。槍のようだが両端に刃がついていて、

それを棒術のように回転させる。片方で受けて、もう片方で斬る。攻防一体の槍」


「双頭槍か……かっこいいな」


アクロスは厨二心をくすぐられてちょっとワクワクした。


「俺とあいつの実力は、若い頃は五分だった。一対一ではな。

だが、あいつの本領は集団戦や乱戦だ。

ギースの振るう双頭槍は相手の数など関係ない。

戦場で本気で戦うあいつを、止められるやつなどいない。

そう思えるほどの戦いぶりだった」


トマスは懐かしそうに語る。


「だが俺は引退した。あいつはまだ現役だ。

この町を守りたいという気持ちが、五十を過ぎてもまだ槍を握らせている」


トマスがお茶を飲み干した。


「ギースは——―この町を、心から愛している男だ。

どんな種族でも受け入れ、誰でも暮らせるというこの町の在り方に、

こだわっている男だ。種族を問わず暮らせるこの場所を守りたいと思っている。

南側の闇市場が広がっていることも、治安が悪くなっていることも、

あいつは誰より憂いている」


「信頼できる人なんだな」


「だが、甘い男じゃない。お前たちの覚悟を真剣に見るだろう。

口先だけではあいつには通じない。

まっすぐ、本気で、話せ。そうすれば、おそらく聞いてくれるだろう。

俺はそう思う」


「ありがとう。トマスさん」


アクロスとリーネが立ち上がった。


「トマスおじいちゃん。話を聞いてくれて、嬉しかった」


「……礼はいい。さっさと、行ってこい」


いつもの無愛想。


「……だが俺も、見たいと思う。お前たちが言った、そういうグラザを」


トマスは言った。

椅子に座ったまま、窓の方を向いて。


「トマスさん」


アクロスは微笑んで言う。


「なんだ。まだ何かあるのか」


「ギルドから帰ってきたら、また来るよ。

その時、俺たちの本当の姿、見てくれないか?」


アクロスはリーネを見た。


リーネは驚いた表情をしていたが、すぐに、微笑んで頷いた。


「トマスおじいちゃんに、見てほしいの」


「……わかった。待っている」


アクロスとリーネも頷き、頭を下げて、扉を閉めた。


そしてトマスは一人になった。

窓からはアクロスとリーネの二人の後ろ姿が見えている。


東通りの土の道を並んで歩いていく。

小柄な女と、中背の男。

男の足元には黒い犬が走り、女の肩の上では銀の鳥が止まっている。


四つの影が、朝の光の中で揺れている。


トマスは壁の長剣に目をやった。


擦り減った柄。何度も巻き直した革の跡。

もう握ることのない剣。


そして、その隣の小さな棚。古い陶器の花瓶。

花は、もう何年も挿していない。水をやる者も、いない。


視線を窓に戻した。

二人の後ろ姿が角を曲がろうとしている。


トマスは小さく口を開いた。


「—――メルティ。

お前が、ずっと見たいと言っていた景色が、見られるかもしれんな」


誰もいない部屋で、静かにそう言った。


窓の外では、鉄の風見鶏が今日もゆっくり回っていた。


---


ハンナの薬草店に二人は向かっていた。


扉を開けると乾燥した薬草の匂いが一気に鼻に入ってくる。

棚に瓶がびっしり並んでいて、それぞれにラベルが貼ってある。


ハンナが奥から顔を出した。

リーネの顔を見て厳しい顔が少し柔らかくなる。


「あら、リーネ。今日はどうしたの?」


「おはようハンナさん。今日は聞きたいことがあって寄ったの」


リーネの声が少し高くなった。

この店に来るといつもこうなる。同業者の前でだけ出る声だ。


「ポーションのことなんだけど——―興味があって。

材料の構成って、ハンナさんはわかる?」


ハンナの目が光った。薬師の目。


「赤のポーションなら、基本の材料はわかるよ。

回復草の根を煮出して、火精石の粉末を混ぜて、蜜蝋で安定させる。

分量と手順にコツがあるけどね。

私は完成品を仕入れて売ってるだけで、作ったことはないね」


「青のマジックポーションは?」


「そっちはもう少し複雑。月光草の葉と清水石の削り粉を扱うところまでは、

薬師の仕事。でも——―最後の工程で普通の薬師には壁がある」


ハンナが棚から瓶を一つ取り出した。

マジックポーションだ。


「最後に、魔力を液体に定着させる必要があるの。

魔力を練り込んで、飲んだ人の回路に染み渡るようにする工程。

これは薬師の知識だけじゃできない。魔法の知識がいるの。

その部分が私にはわからないわ。私は魔法は使えないから……」


リーネの目が輝いた。


「……魔力の定着。もしかしたら、私できるかもしれない」


ハンナが目を丸くした。


「本当に?リーネ、もしポーションが自作できるなら、

それはとんでもないことよ。自家製のポーションを扱える店なんてほとんどないわ」


「すぐに成功するかはわからないけど、やってみたいと思ってるの」


「いいね……あんたほんとに素敵よ。それならむしろ私も一緒に協力させてほしい。

もし本当にポーションが作れたら、この町の冒険者や衛兵、町の人たちに

もっと安く届けられるかもしれない」


ハンナがぐっと身を乗り出してきた。興奮しているように見える。


「ほんとに? すごく心強い……」


リーネも同じ顔をしていた。

薬師同士が新しい可能性を見つけた顔だ。


「リーネ。私が材料のリストや手順、作成法をまとめておく。

知り合いをあたって、マジックポーションについても調べておくわ。

私もずっと興味はあった。でも一人ではなかなか取り組めなかったことなの。

次に来てくれた時に進められるよう私も準備しておくわ。

焦らずにやっていきましょう」


「ありがとうハンナさん。数日したらまた寄るわ」


ハンナは黙って頷いた。

もう頭の中には様々な思考が広がっている顔だった。


そしてリーネとアクロスは店を出た。


ここではアクロスは完全に空気になっている。

そのまま黙って、リーネが普段は見せない表情を楽しんでいた。


クロが足元で尻尾を振り、フレスがリーネの肩に飛び乗った。


「いい感じだったな」


「そうね!すごく楽しみになった」


トマスさんの家での緊張した表情は消え、

純粋に嬉しそうで、楽しそうな表情だった。


「まだ何もできてないけど。でも——―やれる気がしてる」


たぎっているようだ。


「ハンナさんは、薬師としての知識はあるけど、魔法は使えない。

私は作成の知識はまだないけど、魔法が使える。

——―お互いに、足りないものを補える」


リーネが、しみじみと言った。


「これって……魔族と人間が、一緒に何かを作るってことよね。

ちょっとずつだけど」


アクロスの胸が、温かくなった。


リーネは、自分の頭でちゃんと考えている。

昨夜の「グラザを魔族が住める町にする」という話を、

既に具体的な行動に移し始めている。


「いい顔だ、リーネ。お前は今、燃えているな」


「……うるさいわね。変な言い方しないで」


言いながらも、リーネの口元は緩んでいた。


---


ギルドが近づいてきた。


まだ午後とは言えない時間だが、じっと待ってもいられなかった。


リーネは先程の表情とはうってかわって、また緊張した表情に戻っている。


「いよいよね……」


「あぁ」


二人と二匹はギルドに入る。

クロとフレスはずっと大人しくしている。


今日はそうしたほうがいい日なのだと理解しているように。


この先どうなるかはもはや二人には予想できない。


受付のエミラが二人を見かけて、にこりと笑った。


「アクロスさん、リーネさん。お待ちしておりました。

ちょうど今、報酬の準備が整いました」


エミラがカウンターの上に革袋を置いた。袋自体はそんなに大きくない。


「今回のお二人への報酬は、金貨四枚と銀貨十枚になります」


「え!金貨!?」


「どういうことかしら……」


アクロスとリーネはおろおろ慌て始めた。

袋には手を付けず目線がエミラと袋を行ったり来たりしている。


袋に触れてはいけないような。貧乏人丸出しの反応だった。


金貨四枚。銀貨十枚。

銀貨に換算すると九十枚。


「……エミラさん。なんか多くないか。

基本報酬は二人で銀貨三十枚って言ってたけど、こんなに多いと怖いんだが」


アクロスはもじもじしている。


エミラはそんなアクロスを一切いじらず、いつものように笑顔で説明する。


「内訳をご説明しますね。基本報酬がお二人分で銀貨三十枚。間違いありません。

その額に加えまして、クロちゃんとフレスちゃんへの特別報酬が銀貨十枚ずつ。

ゲルツさんの申請で、お二人のパーティメンバーとして今回の依頼での偵察活動と戦闘貢献が正式に評価されました」


「クロとフレスの分まで……」


リーネが嬉しそうに言った。


「残りの銀貨四十枚分は討伐素材の売却分の追加配分です。

こちらもゲルツさんの推薦で、収納魔法による素材の品質保持と、

★4相当の統率個体の撃破貢献を考慮して、少し多めに割り当てられています」


ゲルツ。あのおっさん、最高のおっさんだ。ちゃんとやってくれていた。


「本当に……ありがとうございます」


リーネが受け取った。

革袋を両手で大事に包むように受け取る。


「アクロス。これでしばらく生活に困らないわ……」


リーネの目が潤んでいる。

いつも苦労をかけてしまって、すまんな。


アクロスは内心、反省していた。


だが気持ちとは裏腹に、パンしか食べてない腹がつい本能で口を開いてしまう。


「リーネ。今日は祝いだ。串焼きとエールをがっつりいこう」


「だめよ」


「……いや、一本くらい」


「だめなの」


「まずはトマスおじいちゃんへの家賃。装備の購入。ポーションの常備。

使うべきところに、まず使う。大事に使っていかないと」


「わかってるよ……」


今はまだ、おっさんを甘やかすわけにはいかないようだ。


---


エミラが変わらず笑顔で言った。


「ゲルツさんとギルド長もお待ちです。面会の準備もできています」


二人の顔が一気に引き締まる。

ここからが本番だ。


エミラに案内されて二人と二匹はゆっくり奥の廊下を歩く。


リーネが隣にいる。今日は空気になってくれるクロとフレスも黙ってついてくる。

リーネの手が僅かに震えているのが、横目でわかった。


ふと、アクロスは立ち止まった。


「リーネ。ギースさんとゲルツさんに、魔族の姿を見せていいか?」


リーネは目を見開いた。


「アクロス……。本気なの?」


「あぁ。魔族としてこの町で生きたいって話をするのに、

人間の姿のままじゃ、違うと思った」


リーネは俯いて少し考える。だがすぐに顔を上げた。


「……わかった。私も、本当の姿で話すわ」


「ありがとう。リーネ」


「さ、行きましょう」


リーネの表情から、不安が消えたわけではない。

それでも、迷いはもうなかった。


二人はまた、歩き出した。


廊下の突き当たりに重い木の扉がある。

その手前にゲルツが立っていた。


いつものように、禿げ頭を撫でながら、二人を見た。


「二人とも、来たな。緊張してるだろうが普通にしてろ。

ギルド長は怖い顔はしてるが、話のわかる男だ」


「ゲルツさん」


アクロスが足を止めた。


「なんだ」


「一つだけ、聞いていいか?」


ゲルツが首を傾げた。


「……ゲルツさんは俺たちを、信じてくれるか?」


ゲルツの眉が動いた。

不思議そうな顔をした。なぜ今そんなことを聞くのか、と。


だがアクロスの目を見て——―真剣なのはわかった。


禿げ頭を撫でる手が止まった。

ゲルツの表情も変わる。


「お前たち二人とは死線をくぐった。

あの森でお互い背中を預けて、共に命を懸けて戦った。

——―死線をくぐって共に戦った仲間だ。信じるもなにもない」


アクロスが頷いた。


その言葉が、胸の奥に沈んだ。温かく、重く。


「……ありがとう」


ゲルツが頷き、扉を開けた。


---


アクロスたちはギルド長の部屋に入った。


広くはない。石壁に木の床。窓が一つ。

棚に書類が積まれていて、机の上にも紙が散らばっている。


どう見ても、書類仕事が好きではない男の部屋だ。


壁に——―トマスから聞いていた、双頭槍が立てかけてあった。


両端に刃がついた槍。

柄は黒光りする硬木で、長さは男の身長ほどある。


刃は鋼。使い込まれた光沢がある。刃の根元に細かな傷が無数に走っていた。

実戦で幾度も打ち合ってきた痕だ。


この武器を回転させながら戦う男がいるのだと思うと、背筋が伸びた。


そして、机の向こうには、その男が座っていた。


白髪混じりの長い黒髪を後ろに一つに束ねている。

前髪と横髪は自然に垂らしていた。


目が細い。笑っているのか睨んでいるのか判別がつかない目だ。

顎が角張っていて、口元に深い皺が二本走っている。


普段はよく笑うのだろうか。だが今は全く笑っていない。


五十代だろう。だが背筋はまっすぐだ。

椅子に座っていてもわかる。


この男は現役だ。


濃紺の麻シャツに革のベスト。

右手にパイプを持っていて、白い煙が細く立ち上っている。


前腕が異常に太い。シャツの袖がぱんと張っている。

双頭槍を回し続けてきた腕だ。


そして男が口を、開いた。


「お前たちが、アクロスとリーネか」


声は大きくない。だが部屋の隅まで届く。


ゲルツと同じ種類の声だ。だがゲルツより少し柔らかい。


「ゲルツから聞いているぞ。今回の討伐ではよくやってくれたそうだな。

とりあえず、座れ」


二人は、応接用の長椅子に座った。

ゲルツはギースの横に立った。


「俺が、グラザ冒険者ギルドのギルド長。ギースだ」


ギースがパイプの煙を細く吐いた。

煙が天井に向かって伸びていく。


「まずは吹き溜まりの件だ。ゲルツから報告は受けた。

北の森の巣穴の奥に大規模な魔力の吹き溜まりがあると。

放置すれば魔物が再び集まる。対処が必要だ。

——―お前たちは吹き溜まりを浄化できると聞いたが、詳しく説明してくれるか?」


「はい。私から説明させてください」


リーネが姿勢を正してギースを見た。


吹き溜まりの仕組み。地脈の裂け目から魔力が漏出し、

閉所で滞留して濃度が上がり続けている。


考えられるいくつかの対処法。


そして物理的にも、巣穴を壊し埋め戻す必要があること。


リーネの説明は簡潔で正確だった。


ギースが黙って聞いている。

パイプの煙を吐く間隔が長くなった。集中している。


そしてリーネの説明は終わった。


ギースがパイプを口から離した。


「……筋は通っている。理屈も大体わかった。だが聞きたいことがある」


ギースの細い目がアクロスを見た。


「あの規模の吹き溜まりを魔力を流し込んで浄化するのは、

普通の★3の冒険者にはできない仕事だ。

お前たちには、それができると言うのか。それはなぜだ」


リーネはアクロスを見た。


「理由を、聞かせろ」


そして、アクロスもリーネを見た。


リーネが頷いた。小さく。だがはっきりと。


アクロスは、前を向いた。


そしてギースの細い目を、まっすぐ見た。


「ギルド長。理由の説明をします。だがその前に、

俺たちにはあなたたちに打ち明けなければならないことがあります」


ゲルツが横で僅かに体を動かして目を細めている。

手が禿げ頭に向かっている。何が来るかわからない緊張。


アクロスが息を吸った。


ここだ。ここで言う。


覚悟は決めた。リーネと一緒に。


トマスが「行ってこい」と言ってくれた。

ゲルツは「仲間だ」と言ってくれた。


あとは——―自分の口で言うだけだ。


「俺たちは―——魔族です」


部屋の空気が、凍った。


パイプの煙が一筋、天井に向かって昇っていく。


ギースの細い目が―——ほんの僅かに、開いた。


ゲルツの動きが止まった。


アクロスを見て目を見開いている。


禿げ頭に手が置かれたまま、ピクリとも動かない。


アクロスの隣で、リーネの手が膝の上で強く、握りしめられていた。


震えている。でも顔は上げたままだった。


沈黙が、部屋を満たした。



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