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第41話 泣いて笑って

私は、隣を歩くアクロスを見ていた。


泥だらけで、汗臭くて、髪の毛がなんかうねうねしてる。

私も言えたものじゃないけど。


早くお風呂に入ってさっぱりしたい。


湯屋への道はもう完全に覚えた。


角を曲がって、石段を三つ降りて、のれんをくぐる。


番台のおじいさんの顔も覚えたし、おじいさんもこちらを覚えている。


「やぁ。お二人さん。いらっしゃい」


「こんにちは。二人です」


銅貨三枚ずつ。六枚。


グラザに来てから何度目だろう。

湯屋に通うことは、すっかり私たちの生活の一部になっている。


少し前まで、森の中で体を拭くことしかできなかった頃が嘘のようだ。


「じゃあ、またあとでね」


「あぁ。今日はゆっくり入ろうぜ」


「うん」


よかった。アクロスもゆっくりしたかったのね。

たっぷりくつろごう。


のれんをくぐって、脱衣所に入った。


---


今日は誰もいなかった。

まだお昼だからかな。


貸し切り状態の脱衣所で服を脱ぐ。


淡い藍色のチュニック。焦げ茶の革ベスト。レギンス。ブーツ。


三日間の旅と戦いで、全部が泥と汗と獣の匂いに染まっている。

早く洗いたい。帰ったらまとめて洗おう。


アクロスの分も洗わないと。めんどくさがりだし。

あの人が自分で洗うのを待ってたら家が臭くなっちゃいそう。


そして下着も脱いだ。


壁にかかった小さな銅の鏡に、自分の姿が映った。


変身したままの姿。焦げ茶の瞳。角のない額。丸い耳。

本当の自分ではないけれど、この姿にも慣れてきた。


鏡の中の自分を、少しだけ見つめた。

変身した姿でも肌の色以外は、魔族の時の体と変わりはない。


小柄だ。肩幅は広くない。腕は細い。

この体でも再現されている。


薬草を摘み、革を縫い、杖を握ってきた指。


胸は——―自分では大きいと思っている。

走る時に少し邪魔だけど。


革ベストの紐を締めて押さえないと揺れてしまう。


男の人はこういうところを見るのかな。

アクロスはあまり見ていないと思う。


……でも、見てたら、どうしよう。

たまになぜか鼻の下が伸びている時はある。


腰は細い。くびれがある。


おばあちゃんに「あんたは腰が細いから子を産む時に苦労するかもね」

と言われたことがある。その時は、余計なお世話だと思っていた。


脚は引き締まっている。

集落の山道を毎日歩いて、何日も逃げ続けて、

グラザまで、長い道を歩いてきた脚だ。


女性としては、悪くない体をしていると思う。

褒められたことがあまりないからわからないけど。


レナには野営の時に「うらやましい体ね」と言われた。

アクロスには私の体のことは何も言われていない。


でも、「いい体してるな」とか急に言われたら殴ってしまう。


そうか、だから言わないのかな。


まぁ、あのおっさんにそういうことを言われても困るだけだし。

困る。うん。


鏡から目を外して、浴場に向かった。


---


石の湯船には、今日も澄んだ湯が張られていた。

湯気がもうもうと立ち上がっている。


まずは体をしっかり洗う。


桶で湯を汲んで、頭からかぶった。


「……っ!」


三日分の泥が、一気に流れ落ちていく。


髪を解いて、指を通して洗う。

銀白の長い髪が湯の中で広がった。


枝の欠片。砂の粒。小さな葉の切れ端。

北の森のかけらが、全部流れていく。


湯布でしっかり、丁寧に洗った。

腕。脇。胸。腹。背中は手が届きにくい。

脚。足の裏。指の間。全部。


三日分の汚れを落としていくと、肌の感触が変わっていった。

ざらざらが消えて、ちゃんと自分の肌に戻っていく。


汚れをしっかり落としてようやく湯船に入る。


縁に手をかけて、ゆっくり体を沈めた。

肩まで。首まで。


「……はぁ~」


声が漏れた。気持ちよすぎる。

自分でも止められなかった。


全身が湯に包まれる。

体にずっと力が入っていたことに、今さら気づいた。


ふくらはぎ。背中。肩。首。顎。

三日間、一瞬も力を抜けなかった場所が、一つずつほどけていく。


そして目を閉じた。


湯気の匂い。石の匂い。湯の温度。

五感の全てが「ここは安全だ」と言っている。


生きている。帰ってきた。

そして風呂に入っている。


ふと、あの金色の目を思い出した。

氷の壁が砕けた瞬間。足が動かなかった。


私はここで死ぬ、と思った。


でも——―ドルクの背中が割り込んできた。

あの曲刀が、あの体が、私と死の間に入ってきた。


……だめだ、今あの時のことを考えるのは、やめよう。


あとでアクロスに、聞いてもらおう。


今は、湯に沈もう。ここは安全だ。


その時、壁の向こうから、声が聞こえた。


「……あ゛ぁぁぁー……!」


壁の向こうから、聞き覚えのある声が響いた。


アクロスだ。

またやっている。


タネルの村の時も、初めてこの湯屋に来た時も、

あのおっさんは湯に入ると必ずあの声を出す。


きっと前の世界でもそうだったんだろう。

ずっと、風呂で「あ゛ーあ゛ー」言い続けてきたのだ。


想像して、少しだけ笑った。


---


どのくらい、浸かっていただろう。

体と心の疲れはもうすっかり湯に溶けきっている。


その時、ガラガラ、と浴場の扉が開く音が聞こえた。

誰か入ってきたようだ。いつものおばあちゃんかな。


ふと扉の方に目をやると、そこには小柄な女の子が立っていた。


「あ……リーネさん」


さっきまで一緒にいた。

討伐メンバーのエリーだった。


栗色の短めの髪。

地味な顔立ちだがよく見ると整っていて可愛い顔だ。


★2短剣使いの子。主に皆のサポートをしてた。

この三日間で話をすることはなかったな。


ずっとレナかアクロスと一緒だった。

こんなに小さい子だとは思わなかった。


「エリーね、お疲れ様。あなたもすっきりしにきたのね」


「はい……。私も、どうしてもすぐお風呂に入りたくて」


「ふふ、わかる」


小柄な子だ。私よりも背が低く、

肩も華奢だった。


けれど、手だけは違う。

爪は短く整えられ、指先には小さなたこがある。

道具を扱い、何かを作ってきた手だ。


エリーは斥候タイプだと思う。

偵察や道具サポートが得意なのかしら。


野営の準備や解体の時はいろいろと動き回っていたのを見た。

道中はゲルツにいろいろと聞いてメモをしながら歩いていた。


エリーは駆け出しの冒険者だと思う。それでも一人で討伐依頼に参加した。


役に立とうとしている努力家の一面は会話をしなくても感じていた。


エリーの背中には一つだけ、古い傷跡があった。

薄く、白く、横に走っている。


これは聞かない方がいい傷だと、直感でわかった。


エリーが体を手早く洗って、湯船に入ってきた。

私の隣に、少し遠慮がちに座った。


「……はぁ。気持ちいい……」


「ね。お風呂って偉大よね」


「はい。冒険者をするようになって、より強く思うようになりました」


「冒険者の前は、何をしてたの?」


「裁縫の見習いでした。師匠のところで、服の直しとか、革の加工とか。

ボタンの付け替えから始めて、最後の方は革鎧の補修もやらせてもらってました」


「エリーは手先が器用なのね。野営の準備も頑張ってたわね」


エリーの頬がほんの少し赤くなった。

湯の熱さだけではない。


「見ててくれたんですか……。ありがとうございます。

私のことなんか、誰も覚えてないって……思ってました」


「短い間だったけど一緒に戦った仲間よ。覚えてるに決まってる」


「嬉しい……。でも私、戦闘はあんまり得意じゃないから……。

みんなが前で戦ってる時、私はあんまり目立たなかったから。

もっと役に立てばよかったのになって……」


エリーは伏し目がちに言った。


「役に立ってるわ。皆が役目を果たしたから皆で帰ってこれた」


エリーが目を丸くした。


「……そう、ですかね」


「そうよ」


少し間があった。

湯気が二人の間をゆっくり流れている。


湯船の中で足先がじんわり温まっていく。


「エリー。あなた、今回一人で参加したのよね?」


「はい。私は、知り合いがいなくて……。ギルドの掲示板で募集を見て、

申し込みました。パーティーも組んでないし、★2の新人だし、

正直、場違いだったかもしれません……」


「場違いなんかじゃないわ。一人で参加するのは勇気がいるでしょう?」


「……正直、怖かったです。集合した時、みんな知り合い同士で。

私だけ誰も知らなくて。声をかけるのも緊張して」


エリーが湯の中で膝を抱えた。


「でも、ここで引いたら私、これからもずっとこのままだと思って。

裁縫を辞めて冒険者になったのに、怖いから依頼を受けないなんて、

何のためにグラザに来たのかわからなくなるから……」


エリーの声は小さかったが、芯があった。

大人しそうに見えて、その奥に折れない何かがある。


こういう子は、静かに強くなっていく。


「いい子ね、あなた」


「え……?」


「いい子だって言ったの」


エリーが困ったように笑った。

褒められ慣れていない顔だ。


——―私も、そういう顔をしていた気がする。

いや、今でもしているかも。


「あの、リーネさん」


「ん?」


「リーネさんの氷の壁、すごかったです。

あの壁がなかったらレナさんの弓は当たらなかったと思います。

私、横から見てて、すごいなぁって」


「……ありがとう。でも最後の壁は砕かれちゃった」


「砕かれても、リーネさんは立ってた。

私だったら、あの場面では立ってすらいられなかったと思います」


エリーが真剣な目で言った。

まっすぐな視線。嘘がない目。


「……立ってたわけじゃないの。足が動かなかっただけ。

怖くて動けなかった。あの時助けてもらわなかったら、私はここにいないわ」


「リーネさんならきっと、次はもう、ちゃんと動いてると思う」


まっすぐな言葉だった。この子は他人を励ますのが上手だ。

本人は気づいていないだろうけれど。


「……ありがとう、エリー。

今度一緒に依頼に行く機会があったら、また組もう」


「はい!ぜひ!私、リーネさんのそばで補助します。

なんでも、手伝わせてください!」


エリーの顔がぱっと明るくなった。

さっきまでの遠慮がちな空気が消えて、年相応の笑顔が出た。


——―なんだか、放っておけない子だ、と思った。


---


湯屋の外に出ると、アクロスは壁にもたれてぼーっとしていた。


髪が濡れている。さっぱりした顔。

さっきまでの泥だらけのおっさんが、ちゃんと人間のおっさんに戻っている。


「アクロス。お待たせ」


「おう。だいぶゆっくりしてたな。あれ、その子は?」


エリーがぺこりと頭を下げた。


「アクロスさん。お疲れ様でした」


「あ。エリーか!偶然だなぁ!

……仕事終わりの風呂は最高だったろ?」


なんだか、おっさんの鼻の下が伸びている気がする。

エリーに変なこと言ったら殴ろう。


「はい。生き返りました」


三人で大通りに向かって歩いた。

通りでは屋台がいくつか出ていた。


立ち並ぶ屋台の一つでは、エールを売っていた。


アクロスがちらりと屋台を見た。

いや、これはちらりどころじゃない。


体は前へ進んでるのに、首はずっと屋台を向いてる。

このまま進めばアクロスの首が折れてしまう。


よっぽど、飲みたいのね。


わかりやすいおっさんだ。

でもアクロスもちゃんと頑張ってたもの。私は魔族だけど、悪魔じゃない。


ちゃんと労ってあげないと。


「……ねぇ、アクロス。一杯だけ、飲む?」


私が言うと、アクロスは驚いた顔をした。

目が潤んで見えるのは気のせいかしら。


「……い、いいのか? 禁酒令は……」


アクロスは少し震えている。


「今日だけ特別よ。お疲れ様の乾杯くらいしましょう。

エリーも一緒にどう?」


「え、私もいいんですか?」


「いいのよ。きっとおいしいわよ」


三人で木のジョッキを受け取った。銅貨二枚ずつ。


「じゃあ―――みんなお疲れ様!」


三人でジョッキを合わせた。コン、と木の軽い音がした。


アクロスが一口飲んで、目を閉じた。


「……あ゛ーー! うまい!

なんだよこれ、うますぎるだろ……」


アクロスは指で目頭を押さえていた。

また泣くのかしら…… 。


アクロスは子供みたいに嬉しそうな顔をしてごくごく飲んでいる。

この顔をするのは、反則だと思う。


見てる私も嬉しくなってしまう。


私も一口飲んだ。苦い。でも、おいしい。

喉を通って、体の奥にじんわり広がっていく。


湯上がりの体に、冷たいエールが染みる。

アクロスが泣くのもわかる。


エリーが小さくジョッキを傾けて、少し顔をしかめた。


「にがっ……でもおいしい、です」


「エリー、無理しなくていいわよ」


「いえ、飲みます。これが冒険者の味ってやつですよね」


まっすぐだ。こういうところが、この子のいいところだ。


アクロスが笑った。


「エリー、お前いいやつだな。

今度レナとリーネの女子お疲れ会にも呼んでもらえよ。

俺とマルコのおっさんお疲れ会でもいいぞ」


「え、いいんですか?」


「もちろんよ。でもおっさんお疲れ会はだめよ」


「え?なんでだよ」


アクロスは不思議そうにしている。

ほんとにこのおっさん、頭おかしいのかしら。


「ダメにきまってるでしょ!おっさん二人と若い女の子一人なんて!」


「ひどいよ……」


アクロスが本気で傷ついた顔をした。


「エリーは、私とレナと行くのよ。

おっさんたちとは、できるだけ関わっちゃだめ」


エリーは、くすりと笑った。


その笑顔の端で、一瞬だけ、目が潤んだ。


仲間として誘われることは、

この子にとっては、きっと私が思っている以上に大きなことだったのだ。


「……はい。ぜひ、行きたいです」


声は少し震えていた。

けれど、笑顔だった。


「ええ。行きましょう。また声かけるからね」


私も笑顔で返した。


「じゃあ私はこれで。そろそろ帰らないと。

リーネさん、アクロスさん。今日はありがとうございました」


エリーがぺこりと頭を下げた。


「あぁ。お疲れさん。ゆっくり休めよ」


「エリー。またね」


私たちもエリーに笑顔で手を振った。


エリーは笑顔でもう一度頭を下げて、

通りの向こうに歩いていった。


小さな背中だった。


だが、まっすぐ歩いていた。


---


二人は帰りに市場に寄った。夕飯の買い物だ。


野菜の串焼きを二本。そして塩漬け肉。

そして黒パンを二つ。


買い物をしながら、銅貨を数えた。


「……これ以上は、明日の報酬が入るまで我慢よ」


「わかってるさ」


「ほんとうに?さっきのエールのお店を見つけた時、

首が折れそうになってたわよ」


「それは仕方がないだろ。お前もうまそうに飲んでたじゃん」


「またあなた、クロと同じ目をしてたわ」


「クロは酒飲まねぇだろ!」


いつものやりとりだ。落ち着く。


市場を出て、帰り道に薬草を売っている露店が目に入った。

足が止まった。


「……明日、ハンナさんに会いたいな。

ポーションの中身のこと、聞いてみたいの」


「そうだな。ギルドに行く前に寄ってみるか」


何かをやりたいと言った時に、ちゃんと聞いてくれる。

いつも受け入れてくれるのはアクロスのいいところだと思う。


---


買い出しをして私たちの家に帰宅。


クロとフレスが飛び込んでくる。かわいい私の大事な家族。


もちろんアクロスも。言葉では素直に言えないけど。


年齢的には弟?おっさんの弟は嫌だな。

おっさんだから兄?でも兄弟というのは違う気がする。


私には兄弟姉妹はいないから、それ自体どんな感じなのかわからないけど。


それともお父さん?お父さんではない。

私のお父さんは一人だけ。


やっぱり夫なのかな。よく他の人たちには言われるけど。

言われても別に、嫌じゃない。


ただ、恥ずかしいだけ。


恋愛や男女の関係については正直、私はまだよくわからない。

私の今までの生き方には、そういうものは全くなかったから。


魔族の男女が番となり、夫婦になる。

それは本当に特別なことだから。


人間の感覚とは少し違う。


アクロスはどう思ってるのかな。


私のこと。


そういうことも考えてるのかな。

あのおっさんは。


そんなことを考えながら、テーブルに夕飯を並べた。


ほんとは作ってあげたかったけど。今日くらいはいいよね。


野菜の串焼き。肉の薄切り。黒パン。

クロとフレスにも分ける。


出来合いの惣菜だけど、自分たちのテーブルで食べると味が違う。


「おいしい」


「あぁ。家で食う飯はやっぱり落ち着くなぁ」


窓の外が暗くなってきた。もう夜だ。

食事も終わり、二人で片付けをした。


フレスが棚の上で丸くなった。クロが窓際で伏せた。


心が落ち着く、いつもの静かな夜。


---


「なぁリーネ。ちょっと、裏庭に出ないか」


アクロスが言った。

声の温度が、さっきまでと違っていた。


野営の時にも、話したいことがあると言っていた。


またきっと重い話。

でもそれは、いつも私たちが今より、前に進むための大事な話。


彼はいつもちゃんと話をしてくれる。

でも、どんな話だとしても、私は彼と前に進むと、もう決めているけど。


二人で裏庭に出た。変身を解いた。


角が戻ってきた。深紅の瞳も。褐色の肌も。


夜風が角の先端を撫でた。自分の体に戻った安堵がある。


たった三日だけど、すごく久しぶりだと感じた。


アクロスも変身を解いた。


青みがかった肌。オッドアイ。額の一本の角。

腕の魔紋が夜の闇の中で静かに明滅している。


「おかえり、リーネ」


アクロスは私のお願いを、守ってくれている。


きっとアクロスはめんどくさいと思ってるんだろうけど。

それもわかってる。でも言ってほしい。


それでも、アクロスはちゃんと笑顔で言ってくれている。

言葉でなかなか伝えるのは恥ずかしいけど、私はそれがすごく嬉しい。


「ただいま。アクロスも、おかえり」


私も、ちゃんと気持ちを込める。

何も隠さないでいい。逃げないでいい。

何も気にせずに、ただいまとおかえりを毎日伝え合う。


私は、そんな世界で生きていたい。

だから、アクロスと一緒にいる。


「やっと、落ち着けるな」


アクロスも魔族姿の方が落ち着けるんだ。

元々人間だから、人間の姿の方が落ち着くと思ってた。


「うん。夜風が、すごく気持ちいい……」


アクロスは少し笑いながら頷いて、話し始めた。


「リーネ。明日のことと、これからのことを話したいんだ」


アクロスの琥珀と紅の目が、まっすぐ私を見ていた。


「……うん。聞くわ」


また、裏庭の石に並んで座った。


「まず、明日のギルド長との話だ。

吹き溜まりの浄化を正式に提案し、俺たちにやらせてもらうようにする」


「うん。でも……その前にあなたは何か、伝えたいことがあるんでしょう?」


アクロスが少し間を置いた。


「……ああ。やっぱりわかるか?」


「あなたを見てれば、わかるわ。何か、また大きいことを言おうとしてる」


あなたの隣にずっといようと決めたその時から、

あなたのことは何だか見ているだけでわかってしまう。いや、感じ取れる。


だから私は迷わずにあなたの話を聞ける。


「……そうだ。聞いてくれるか?」


アクロスが小さく笑った。

でもすぐに真剣な顔に戻った。


私は黙って頷く。


「依頼からの帰りにいろいろ考えていたんだ。

まず、あの規模の吹き溜まりをどうにかすること自体が、おそらく普通の★3の冒険者には不可能だろう。そして、ギルド長は必ず聞いてくるだろう。

『お前たちは何者だ』と」


「……」


それはそう思う。


「俺たちがいくら普通の冒険者だと言い張っても、あれをどうにかした後では逆に、俺たちはもう確実に普通じゃないだろう」


あの規模の魔の吹き溜まりをどうにかできるのは、魔族。

あとは学問所で聞いた限りでは南側の神官たちだけ。


「だから―——ギルド長には、俺たちが魔族であることを話そうと思う」


時間が、一瞬止まった気がした。


私たちが魔族であることを、人間に、ばらす。


「……アクロス。本気で、言ってるの?」


「あぁ、本気だ」


「それがどういうことか、わかってるの?

この町で魔族だとバレたら、追い出されるだけじゃ済まないかもしれない。

賞金稼ぎが来るかもしれない。ギルドも敵になるかもしれない」


声が震えた。


「せっかく作った私たちの居場所が、全部なくなるかもしれないのよ……」


怖い。


一緒に歩くと決めた。何か大きなことを考えているのはわかった。

それでも、この話は怖い。


胸の奥が潰れそうだった。

私の心が、持たない。


「わかってる」


「わかってて、言ってるの?」


「わかってるからこそ、言ってる」


アクロスの声は静かだった。

怒りでもなく、興奮でもなく、覚悟を決めた人間の声だった。


私はその声を知っている。

森の中で、「魔王になる」と言った時と同じ声だ。


「……お願い。理由を聞かせてほしい。ちゃんと。全部……」


アクロスは私の目を見て、私の肩の上に手を置いて、頷いた。


討伐に出発する前夜を、少しだけ思い出した。


「リーネ。俺たちは今、この町で人間として暮らしている。

そして家がある。知り合いや友だちもできた。生活していくための仕事もある」


アクロスはゆっくりと話している。

目はまっすぐ私を見ている。


「エリザさんやトマスさんが心配してくれる。マルコが飲みに誘ってくれる。

レナがお前を笑わせてくれる。

さっきのエリーだって、仲間に入れただけで泣きそうになってた。でもな……」


アクロスは間を置いた。辛そうな表情をしている。


「―——それは全部、俺たちの嘘の上に成り立っているものなんだ」


胸の奥を、鋭いものが突き刺した。


でも、同時に強い反発も湧いた。


「……嘘じゃない」


アクロスが目を見開いた。


「レナと話したこと、マルコが命を懸けたこと、エリザさんが心配してくれたこと、トマスおじいちゃんが待っていてくれたことも。全部、本物よ。嘘じゃない」


声が震えた。

怖い。けれど、全部が嘘の上にあるだなんて思いたくない。


アクロスはしばらく黙っていた。


やがて、ゆっくり頷いた。


「……そうだな。言い方が悪かった。

俺たちがもらったものは、本物だ」


アクロスの手が、膝の上で強く握られた。


胸が、痛んだ。


「………」


「だからこそ、嘘がなくても成り立つ関係を、一つずつ作りたいんだ」


アクロスの言うことはわかる。

けど……


「まずは明日のギルド長だ。ちゃんと理由がある。

吹き溜まりの浄化は、普通の冒険者にはできない仕事だ。

魔族の力があるからこそできる。それを隠したまま提案しても、説得力がない。

俺たちの正体を知った上で、それでも力を貸してくれと俺は、言いたい」


「ギルド長が信頼できるかどうか、まだわからないわ……」


「だから、明日の朝にトマスさんと話そうと思う。

あの人に、ギルド長がどんな人間なのか聞く。

それから、ギルド長との話にはゲルツさんにも同席してもらう」


アクロスは、私の目を見た。


「一度に全部を明かすつもりはない。信頼できる相手を、一人ずつ選ぶ。

それでも駄目だった時は……この町を出る覚悟もしている」


「……この町を、出る覚悟……」


「最悪の場合だ。でも、最悪を想定した上で動かないと……

最悪が来た時にどうしようもなくなる。前の世界でも散々そういう場面を見てきた」


こういう時のこの人の言葉は、軽くない。


「……それでも、リスクは大きいわ」


「大きい。だが、このまま嘘をつき続けるリスクはもっと大きい。

変身は、いつかはバレる。バレた時に理解者がゼロなら、俺たちは終わりだ。

でも自分から打ち明けて信頼を築いた相手がいれば。

―――バレた時にも、俺たちには味方がいる」


いつまでも変身で誤魔化し続けるのは難しいのもわかる。


「リーネ。俺たちは受け身じゃなくて、自分から動かなければいけないんだ。

これからも。いつだって。俺たちにはそれが一番、大事なんだ」


私は黙って考えた。


アクロスの言っていることは、理屈としては正しい。

でも理屈と感情は別だ。


ずっと、角を隠して逃げてきた。

人間に見つかれば殺されるか、売られる。


それがこの世界の現実だった。


でも——―


この十日間で出会った人間たちの顔が浮かんだ。


トマスおじいちゃんは「かまわんのだ」と言ってくれた。

マルコも驚くだろうけど、きっと笑って「そうか、すげぇな!」とか言いそう。

レナは「リーネなのは変わらないわ」って言ってくれるかな。

オルガも酒の席では魔族だからどうこうはない。と言っていた。

ゲルツも頭を撫でながら「そうか」で終わるのかも。


皆、私が抱えている不安なんか、気にしなさそうな、気持ちの良い人たち。


あの人たちに、今、嘘をついている。

毎日、毎日、嘘をついている。


全部、角を隠して。


確かに——―少しずつ、苦しくなってきていた。

自分でもこれは仕方ない、と諦めていたこと。


「ほんとうに、言うのね……?」


何度確認しても、心のざわつきはまだ消えない。

理解はできる。でも私は一度すべてを失った。


そしてようやく落ち着いた日常を感じ始めた。


それを、また―――失うかもしれない。


「……トマスさんには明日の朝、聞いてもらおうと思っている。俺たちの話を。

あの人が、一番理解してくれる可能性が高い。

俺たちの前で、魔族でもかまわんとはっきり言ってくれたんだ」


トマスおじいちゃん。確かに話すなら一番最初に話をした方がいいかもしれない。


「そしてあの人には、ギルド長がどんな人間なのかを聞いておきたい。

恐らく知っているだろう。★4の剣士で三十年もこの町にいるんだ。

それにあの人は多分、俺たちのこと、もう気づいてる。

ただ、聞かないでいてくれているだけだ」


「……それは、私もそう思う」


こういう時のアクロスは本当に現実的に、真剣に考える。

感情で話を進めない。普段とは違う、成熟した思考をする。


「他の人たちは、明日次第だ。慎重に判断していきたい」


「……わかった」


沈黙が落ちた。


虫の声。月の光。夜風が私の髪を、揺らしている。

私の考えは、正直、まだまとまらない。


「リーネ。もう一つ、言いたいことがある」


「……まだ、あるの?」


もう心が重い。

明日のことを考えるだけでも今日は眠れないかもしれないのに。


「……ある。一番大事なやつだ」


アクロスが立ち上がった。


そして三つの月を見上げている。

青白い大月が一番高い。紅月と影月が、その両脇にある。


魔紋が腕の上で静かに光っている。

紅と琥珀の目が月の光を受けて、深い色を湛えていた。


「俺たちがこの町でするべきこと。ここで暮らす理由、つまり俺たちの目的を言う」


「私たちの、目的……?」


「俺は、いや俺とお前で。

この町を——―グラザを、魔族が住める町にする」


心臓が跳ねた。体が熱くなっていく。


「魔族が角を隠さなくていい。変身しなくていい。

この町の人たちと一緒に飯を食って、一緒に仕事をして、一緒に笑える。

この町を、そういう場所にしたい。いや、するんだ。俺たちで」


「……アクロス、でも、それは……」


自分でもわかる。声が震えている。


「俺は、魔王になるって言っただろ。あの馬鹿みたいな話の時に。

魔族が安心して暮らせる場所を作るのが、魔王の仕事だ」


アクロスの声は、静かだった。


「魔族が怯えずに暮らせる場所を作る。

角を隠さず、名前を偽らず、腹が減ったら飯を食って、

嬉しい時には笑える場所を作る」


目の奥が、熱くなっていく。


「魔王の仕事は派手な戦争でも、人間たちを力で滅ぼすことでもない。

地味で、面倒で、気の遠くなるような仕事だが、これが一番大事なことだ」


月の光が、アクロスの角を照らしていた。


「誰かがやらないといけない。だから、俺たちがやろう。その場所を作ろう」


アクロスが私の肩にまた、両手を置いた。

そして、私の顔を、目を、真っ直ぐ見る。


「リーネ。俺は……それを現実にするために、この世界に来たんだ」


目が熱くなるのが、止まらない。


泣かないと決めたのに。


「俺は、変身を解除した時じゃなくて、そのままのお前の姿に。

毎日、ただいまとおかえりを言いたいんだ」


心臓が大きく跳ねた。


私たちは、やはり繋がっていた。

アクロスも同じことを考えて、今、この話をしている。


アクロスもきっと私が何を考えているのかは感じていたのかもしれない。


その言葉に、涙が止められなかった。


涙が頬を伝っていく。


私たち魔族の涙は、流れる時には光になる。

魔核から流れる魔力がそうさせているのか。なぜ光るのかはわからない。


光の粒が頬を伝う。


角の根元が震えている。自分でも制御できない。


「……ほんと、馬鹿みたい」


あの時。二人でもう、迷わないと誓ったのに。

私は迷ってしまっていた。でもアクロスは迷っていなかった。


迷った私は、馬鹿みたい。そう思ったから、言葉に出た。


アクロスの言葉で私の迷いは消えた。


「そうだ。この馬鹿みたいな話を現実にする。俺とお前でな」


あの森の中で、初めてこの人の夢を聞いた時と同じ言葉。

この言葉は私たちの合言葉になってきている。


「こんな、無茶苦茶な話、普通考えられないわ。

魔族が人間の町で普通に暮らすなんて。今のこの世界で、そんなことが——―」


声が震えた。


「でも——―」


涙を拭った。


拭っても止まらない。


「私もそういう場所が、欲しかった。ずっと。ずっと欲しかった。

角を隠さなくていい場所。怯えなくていい場所。

私だって―――ただいまとおかえりをこの姿で、普通に言いたい」


アクロスが私の方を見た。


紅と琥珀の目が、月の光の中で揺れていた。

泣いている、ようには見えなかった。


でもアクロスの目の奥に、同じ熱いものが溜まっているのがわかった。


「リーネ。だから、やろう。俺たち二人で」


「……うん」


「時間はかかる。何年もかかるかもしれない。途中で何度も失敗するかもしれない。

でも一歩ずつ、一人ずつ、信頼を増やしていく。そこに種族は関係ない。

本当の『仲間』たちを作っていこう。馬鹿みたいに地道にな」


「……あなたらしいわね」


アクロスは、笑った。


月の光の中で、魔紋が静かに脈打っている。


私も笑った。泣きながら。


今日、アクロスの前で初めて、ちゃんと泣けた。


裏庭の夜空の下で、二人が並んで月を見ている。


私はずっと、独りで森を走っていた。

息を切らして、血を流して、角を隠して。


毎日、明日が来ることが怖かった。


今でも怖くはある。


でも怖さの先に今は、かけがえのない希望も見える。


この人は——―こんなにも大きな夢を、静かな声で、真剣に、語る。


「……ねぇ、アクロス」


「ん」


「私、すごく嬉しかった」


「あぁ」


ちゃんと伝わったのかな。

私たちはきっと繋がってるから伝わってるわよね?


いっつも『あぁ』か『そうだな』で済ませようとする。

これはアクロスの悪いところだと思う。


それだけ言って、私たちは、裏庭の狭い空から見える星たちを黙って眺めた。


明日は忙しくなる。やることが山ほどある。


さっきまでは全部が不安で怖かった。


でも隣にあの人がいてくれれば……


その全部が——―今は楽しみ。


私は今、隣のおっさんが語る夢を、自分の夢にしようとしている。


そんな私も、馬鹿みたい。


でも——―それでいいと、今の私は思える。



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