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断章第四話 明けない夜

ドルクは宿の階段を上った。


四階の突き当たり。いつもの部屋。


暗い部屋の窓の隙間から、日の光が一筋だけ寝台の縁に落ちていた。


肩に提げた荷物を机に置いて、ドルクは寝台に腰を下ろした。


長く息を吐く。


三日間の魔狼討伐。短い依頼だった。

それほど苦労はないと思っていた。


だが、最後のあの統率個体はいい相手だった。

あれはおそらく★4相当だろう。


体の節々がいつもより重い。脇腹に打撲。右肩の痛み。全身の擦り傷。


だがドルクが今考えているのは、

体の痛み以上に、残っているものだった。


―――仲間同士に礼は必要ない。


まさか自分から、そんな言葉を口にするとは思わなかった。


自分の口から『仲間』という言葉が出たことを、ドルク自身が驚いていた。


―――お前、いいこと言うなぁ!


あの男は、朗らかにそう返した。


そして今、ドルクは自分の口の端が上がっていたことに気付く。


気付いたが、それを、気付いていないことにした。


腰の曲刀を革帯から外し、机の引き出しから手入れ道具を取り出す。


仕事の後は必ず手入れをする。これは習慣を超えた何かに近い。


刃を布で拭うと、鉄の匂いがふっと立ち上がった。


戦場で何度も嗅いだ匂いだ。


斬って、拭いて。そしてまた斬って、また拭いて。

そうやって、自分と共に生きてきた。相棒のいつもの匂いだった。


曲刀の手入れをいつものように。

すると、いつもの自分が自然に戻ってきた。


そのまま刃を鞘に戻し、寝台に体を倒した。


そしてドルクは目を閉じる。


眠りに落ちるのは、早かった。


---


ドルクは自室の扉を叩く音で目が覚める。


低く規則的な音が三回。


部屋の中はすっかり暗くなっていた。

机の上のろうそくはとうに消えていて、鎧戸の隙間からは夜の藍色が覗いている。


廊下の方からは、酔った男の笑い声と、女の甲高い声が遠く聞こえてきた。

南区画が、いつもの夜の顔を見せていた。


ドルクは寝台からだるそうに体を起こし、扉に近づいた。


「ヴォスだ」


ドルクには声を聞かなくてもわかっていた。

自分の部屋を訪ねる人間など、ガドラの関係者以外にいない。


扉を開けると、薄暗い廊下にヴォスが静かに立っていた。


革鎧。鉄の肩当て。腰に両刃の剣。顔の傷三本。

壁掛けの灯火のせいで、傷の凹凸が普段より深く影を作っている。


腕は組まず、剣の柄に軽く右手を添えている。

急かしもせず、それでいて、いつまでも待つ気はない、という立ち方だった。


いつもの立ち姿だ。

そしてこれからも変わらないのだろう。


「ドルク。会頭がお呼びだ」


「いつだ」


「いますぐだ。ついて来い」


ヴォスはそれだけ言って踵を返した。


ドルクは扉を閉め、曲刀を腰に戻す。

水差しに手を伸ばし、一口だけ水を含んで口の中の乾きを流した。


眠りに落ちる前の鉄の匂いが、まだ舌の奥に残っていた。


宿の階段を降りる。


階段の途中ですれ違った娼婦がドルクを見て、すぐに視線を逸らした。


顔を覚えるのは互いに損だ。これも南区画の暗黙の作法だ。


宿の出口で、ヴォスが煉瓦壁にもたれて待っていた。

胸の前で腕を組み、首だけで通りの様子を眺めている。


ドルクが出てくると、ヴォスは何も言わずに、煉瓦から背を離した。

行くぞ、の合図だった。


二人は南区画の夜の中に出た。


通りには店先の灯りがぽつぽつと灯っている。

飯屋の鍋の匂い。安酒の匂い。


どこかの軒先で男が二人、何かを小声で言い争っている。

別の軒先では女が男の腕を引いて、笑っていた。


ドルクはヴォスの数歩後ろを歩いた。

ヴォスの背中は一切振り返らない。


こちらが付いてきているかを確かめない。

それでいて歩く速さは、ドルクの足にきっちり合わせている。


傭兵という生き物は、皆そうだ。

わかりにくいようで、わかりやすい。


---


ガドラ商会の店先にも、まだ灯りが灯っていた。

表向きの店舗もまだ開いている。


扉の前にはいつものように革鎧の用心棒が二人。

ドルクの顔を見て、黙って中へ通した。


店内には買い物客が一組だけ残っていて、

店員が薬草を量って包んでいるところだった。


店内を素通りして店の奥、鉄の金具で補強された重い木の扉。

扉の横の用心棒が、ドルクを見て扉を引いた。


「ドルク、お疲れさん」


「ああ」


三年。この光景は何一つ変わらない。


扉が閉まる重い音とともに、外の喧騒が遠くなった。


---


そして応接室は、外の世界と切り離されていた。


壁は厚いレンガ。床には南から運ばれた厚い絨毯。

いつものように革張りの大きな椅子に、ガドラは座っていた。


ろうそくの明かりに照らされたガドラの顔は、昼間よりも穏やかに見えた。

だが瞼の奥の目は、昼でも夜でも、同じ色をしている。


「ドルク君。お帰り」


今日も変わらず穏やかな声だった。

声を荒げたところは見たことがない。


というより、その姿を見た者はすぐにこの世からいなくなるのだろう。


「討伐の件、既に話は聞いているよ。

統率個体が予想より厄介だったそうじゃないか」


「ええ。あれは危険でした。★4相当かと」


「うむ。だが全員生きて帰ってきた。それが何よりだな」


ガドラはグラスをひと口だけ舐めるように飲んだ。

ろうそくの灯りが赤い液体に反射して、グラスがほんのり光った。


「ドルク君、掛けなさい」


ドルクは向かいの椅子に座った。

革の椅子は毎度のことながら、自分の体格には少し大きすぎる。


ガドラは指輪で机をこつ、と軽く鳴らした。

それから少しの間、何も言わなかった。


「あの件のことだ。ドルク君」


ガドラがそう言った時、ドルクはすでに姿勢を整えていた。

あの件、で通じる話は一つしかない。


「あれから、私の方でも人を出して調べさせた」


ガドラの声は急がない声だった。


「結論から言おう。何もわからなかった」


ドルクは顔を上げなかった。


「つまり―――『何もない』ことが、わかった」


ドルクはゆっくりと目だけを上げた。


ガドラの瞼の奥の目は、

冷たくはなかった。考える目だった。


「私の商売敵、王国内の関係者、周辺商会、町長の衛兵隊。

そのすべてに目を通した。あの森の前後、不審な動きはない」


「……はい」


「組織的に動く者がこの一帯にいるなら、必ずどこかに足跡が残る。

何かを買う、何かを運ぶ、誰かと会う、宿を取る、人を集める。

そういう動きは、隠そうとしても、私の網のどこかには必ず引っかかる」


ガドラは椅子の背に体を預けた。


「だが、なかった。一つもない。何もない」


ドルクは黙っていた。

ガドラの言葉の積み方が、いつもより丁寧だった。


これは結論を急がない男が、結論にたどり着いた時の話し方だ。


「ここまで何もないと、見方を変えるしかない」


ガドラは両手を机の上で組んだ。


「私の見立てを話そうか、ドルク君」


「はい」


「あの娘は、『森に入るまで』は一人で逃げていた」


ドルクは表情を変えずに頷いた。


「だが、『森に入ってから』は二人以上になっている」


「………」


「たまたまだろう。それは、通りすがりの腕の立つ魔族だ。

魔族でなければおかしい。そしてそれは、たまたまあの娘と道が交わった。

『浄化』を逃れた者同士が、手を取りあったのかもしれない」


ガドラの声に少しだけ温度が乗った。


「そう考えればおおよそ、辻褄が合う。

組織なら必ず足跡が出る。それがないということは、個人の結託だ」


ドルクはガドラの目をまっすぐに見た。


「だがやつらはこちらに明確な敵意があるわけではない。ただ、助けただけだ。

結果、我々の仕事を潰した自覚もある。やつらがわざわざ報復に来ることもない。

我々のような存在は予感しているだろうが、何も知らないに等しい。

ただ、距離と時間を稼ぐ手段として君たちの記憶を消した。殺しもせずに」


ガドラの口の端がほんのわずかに上がった。


「やつらは賢く、能力もある。だが甘ったれた素人でもある。

私は嫌いではないがね。ドルク君もそのおかげで無事帰ってこれたんだ」


ドルクの背筋にすっと冷たいものが落ちた。


賢いから嫌いではない。

だがそれは、賢くなければ嫌いだ、ということでもある。


だが賢くても、敵にまわった場合。

ガドラがどう処すかを、ドルクはよく知っている。


「うむ」


ガドラがもう一度グラスをひと口飲んだ。


「結論はそこに置くとして、一つ、君に試したいことがある」


「試す、ですか」


「そうだ。試すというほどのことでもないがね」


ガドラが机の引き出しに手を伸ばした。

木の引き出しが、滑らかな音を立てて少しだけ開く。


引き出しから紙が一枚抜き出された。

粗いざらついた紙。人相書きだった。


ガドラはそれを机の上にゆっくりと置いた。


ドルクの目にそれが映った瞬間、こめかみの奥で何かが鈍く脈打った。


銀の長い髪。褐色の肌。切れ長の深紅の瞳。


半月前に自分が見せられた、あの似顔絵だった。


「もう一度、よく見てみなさい」


ろうそくの明かりが紙の上で揺れて、絵の輪郭をかすかに震わせていた。


ドルクは目を絵に向けた。


視界の縁で靄がわずかに動いた。

何かが見えそうで見えない。


像が浮かびかけて、すぐにまた靄の向こうに沈む。

こめかみの奥が鈍く痛む。


ドルクは奥歯を軽く噛んだ。


ほんの一瞬、表情筋が強張った気がした。

そのことにドルク自身が気付いていた。


そしてそれをガドラの目が見ていることも、ドルクは気付いている。


ガドラは何も言わない。

ただ指輪をこつ、ともう一度鳴らしただけだった。


「何か、思い出したかね?」


「……特には、何も」


ドルクは目を絵から外した。


「うむ」


ガドラはしばらく黙った。


机の上の羊皮紙。天井の隅。ドルクの顔。

ガドラの目がいつものようにゆっくりと、それらを舐めた。


何かを並べ替えている目だった。


そして人相書きを引き出しに戻した。

木の引き出しが、再び滑らかに閉まる。


絵が見えなくなった瞬間、ドルクのこめかみの痛みはふっと消えた。

靄がまた、いつもの濃さに戻った気がした。


「うむ。わかった」


ガドラは椅子の背から体を起こした。


「君の謹慎は、今日で終わりにしよう」


ドルクは目を上げた。


「実は少し大きな仕事が入りそうでね。詳しい話は追って伝えるが、

君の腕がまた要りそうだ。君を遊ばせておく余裕は、もうない」


「ありがとうございます」


「うむ。今回の件は、私の中ではこれで片づいた。

下がっていい」


ドルクは椅子から立ち上がり、もう一度深く頭を下げた。


扉の手前で、ガドラの声が背中に追いついた。


「ドルク君」


ドルクは立ち止まった。振り返らない。


「君は賢い男だね。それは私も知っている」


「………」


「だが、賢いだけでは人は生きていけない。それも、私は知っている」


ドルクは答えなかった。

そのまま扉を開けて、部屋を出た。


---


店を出て路地に出た。


夜の空気が、ふっと頬を撫でた。

昼の喧騒が引いた後の、南区画特有の空気だった。


湿った石畳の匂い。安宿の窓から漏れる油の匂い。


遠くの方で、誰かが酔って歌っている。


ドルクは息を一度、長く吐いた。


ガドラはもう、何かに気付いただろう。


絵を見た瞬間、確かに頭の中の何かが動いた。

靄の中で、何かが輪郭を持ち始めようとした。


ガドラは何も言わなかったが、それは「気付かなかった」のではない。

気付いていて、何も言わなかった、というだけのことだ。


ガドラは、今回の件は片づいた。とわざと言った。

だが口で言っただけで納得したわけではない。


腰の曲刀に指先を当てる。

柄革の擦り減った凹凸が、いつも通りの感触で指の腹に当たった。


「……お前は、覚えてるんだろうな」


刀は答えない。

だが鉄の温度は、いつも通りだった。


ドルクは足を、南区画の奥へ向けた。

体の痛みも、そろそろちゃんと診てもらわなければならない。

頭の中の靄のことも、ちょうどいい機会だった。


夜風が少しだけ冷たかった。


---


南区画の中央通りから、奥へ、奥へ。

表通りの賑わいが、二度路地を折れるうちに遠くなった。


三度目の路地を折れた先に、看板のない木戸があった。


通りからは見えない場所だ。

そこは知る者だけが知っている戸口だった。


木戸の上の小さな窓から、橙色の灯りがぽつんと漏れている。

夜遅くまで開いている診療所だ。


ドルクが知る限り、パメラは夜でもほとんど店を閉めない。

傭兵も娼婦も、医者を必要とするのは大抵、夜だからだ。


ドルクは木戸を三度叩いた。


「開いてるよ」


女の声が中から返ってきた。

よく響く声だった。


夜の路地には似合わない、澄んだ声だ。


ドルクは戸を開けて中に入った。


---


診療所の中は、

橙色のろうそくの明かりに満ちていた。


机の上に二本、薬棚の脇に一本。

それぞれが穏やかに揺れて、部屋の隅々まで柔らかい影を落としていた。


奥に診察台。手前に薬棚。薬棚の中には小瓶が整然と並んでいる。

壁際の小さな寝台に、子供が一人毛布をかけて眠っていた。


七つか八つくらいの痩せた男の子だ。

寝息は浅く、けれど穏やかだった。


部屋の中央の小さな机には、女が座っていた。


金髪を後ろで一つに束ねている。束ね方は丁寧だ。ほつれはほとんどない。

目は狼のような鋭さと母のような柔らかさが同居している。

金の瞳。そして右目元にはほくろ。


肌は健康的で柔らかな白さだった。日に焼けてもいないが、青ざめもしていない。

白衣は洗いたてのように清潔だが、肩から羽織っているだけだった。


その下は白いシャツ。前のボタンは上から三つ開いていて、

鎖骨の下まで無造作に肌が覗いている。


腰から下は、黒のタイトなスカート。脚の脇に長いスリットが入っていて、

椅子の上で組んだ脚の太腿が、その隙間からのぞいている。

足元は革紐の細い、洒落たサンダル。


白衣がなければ、医者というより、

酒場の女主人のような出で立ちだった。


その女は机の上で肘をつき、煙草を片手に持っていた。

細く長い指。爪は短く整っている。


「あら、ドルク。久しぶりだね」


女が煙草を持ったまま、こちらを見た。


「……パメラ」


「相変わらず、あんたは間が悪いね」


パメラが煙草を灰皿に置いた。


「今ちょうど、その子に飯を食わせ終わって一服してたとこ。

あんたが歩幅をあと半歩短くして歩いてたら、ちゃんと吸い終わってたのにね」


ドルクは奥の寝台で眠る子供を、ちらりと見た。

痩せた肩。毛布から覗いた腕が、まだ細い。


「お前は、いつでも吸ってるだろう」


「あはは。これが私の生きがいだからね」


パメラは煙を長く吐いた。生粋の愛煙家なのは見てわかる。


「この子供は?」


「南の路地の隅で震えてたよ。親はもう、いないね。たぶんだけど」


パメラは新しい煙草を口に咥えた。


「腹に何かが入れば、子供はよく眠るものさ」


そしてマッチを擦り、火を点ける。


細く白い煙が立ち昇って、ろうそくの明かりの中で、

ゆっくりと天井に消えていった。


「で、あんたは? どっか怪我でもしたの?」


「討伐の帰りでな。少し縫う傷もある」


「あら。あんたが自分から縫いに来るなんて珍しいね」


「それだけでもない」


「金、持ってるなら何でもいいわよ」


ドルクは懐から銀貨を取り出し、机の上に置いた。

銀貨が木の机にあたって、小さく硬い音を立てた。


パメラが銀貨を指で数えてポケットにしまう。


「それじゃ見てあげる。とりあえず服脱ぎな」


---


診察台の上で、ドルクは上半身を露わにした。


ろうそくの明かりが、傷の上を斜めに照らし出した。

脇腹の打撲は、皮膚の下で黒く血が滲んでいる。


右肩から二の腕にかけて、擦り傷が走っていた。


パメラの指が肋骨の上をゆっくりと辿った。

指先はひやりと冷たかった。


「この打撲。けっこう深いね」


「どでかい魔狼の一撃を受けた」


「ここは捻挫かね。右肩」


「どでかい魔狼に吹っ飛ばされた」


「あんたら、傭兵はね」


パメラは軟膏を瓶から指で取った。

薬草と何かの油の混ざった、独特の匂いがした。


「体に傷を作らないと仕事した気にならないんだろ」


軟膏を打撲のところに塗る。

塗る指先からほんのわずかに、黒い靄のようなものがにじみ出た。


ドルクの脇腹にひやりとした感覚が走った。

それから痛みが、ふっと後ろに引いた。


いつものパメラの闇魔法だ。


「縫う傷もあるね」


「あぁ。縫ってくれ」


パメラは答えずに針を取り出した。

細い銀の針。糸は通っていない。


針自体に、闇魔法を乗せて使うのがパメラの流儀だった。


擦り傷の中で、皮膚が大きく開いている箇所が二箇所。

針が指の動きとともに肉を寄せていく。


パメラの指の動きは慣れている。


針に乗った闇魔法が、傷口の縁をゆっくりと引き寄せていく。

傷の周りに、黒い細い線が薄く浮かんで、肌の中に溶けていった。


縫合の途中で、痛みはもう、ほとんどなくなった。


「はい、終わりだよ」


針を抜いた。

血はもうほとんど出ていなかった。


ドルクは息を吐いた。


パメラはもう一本、煙草を咥えた。

そして火を点ける前に、ドルクの顔を見た。


ろうそくの明かりが、パメラの目の中で揺れている。


「で。まだなんかあるんでしょ?」


「……ああ」


ドルクは診察台の上でしばらく黙った。

それから口を開いた。


「最近、頭の中で靄がうごめく感覚がある」


パメラの煙草を持つ手がほんの一瞬止まった。


「いつから?」


「半月くらい前から」


「その靄はずっと感じる?」


「普段はそれほどでもない。

だがあることを思い出そうとするとその靄のせいで思い出せない」


「なるほどね」


「……仕事の絡みだ。それ以上は言えん」


パメラは火を点け、ゆっくりと一口煙草を吸う。

しばらく何も言わずに、ドルクの顔を見ていた。


「ちょっと診てやるよ」


パメラは右手の親指をドルクのこめかみに突き立てた。


親指に黒い光が灯る。


パメラは目を閉じて、何かを探っているのか集中している。


そしてパメラはゆっくりと目を開けると、口の端を上げて言った。


「あんた、やっぱりやられてるね。間違いないよ」


「………」


「でも……闇魔法でもないね。呪いに近いかも。制御はなんか雑だけど……

探れば、はっきり感じ取れるわ。」


パメラは笑って続ける。


「これは……本当に記憶にだけ作用してるのかしら?

それなら薬でも可能性はあるわ。

ふふっ。あんた、かなり難儀な術を雑にかけられてるね」


「どうにかできるのか……?」


「体の動かし方や無意識で、何かに反応してない?」


「……身に覚えは、ある」


ドルクは、それ以上は答えなかった。


「それ、思い出したいの?」


「……あぁ。できるか?」


ドルクは自分の声が、思ったより低くなったことに気付いた。


パメラは煙草を灰皿に置いた。


「私では記憶を直接いじることはできないね。というか普通できないから。

そういうことができるってだけで相手は別格だよ。私の手には余るね」


「………」


「だけどね。そういう体に残る魔法の作用を緩める薬なら、あるよ。

魔法を解くわけじゃない。だけど、あんたにかけられた魔法の効果がもし、

多少でも薄くなってるなら、その薬の作用がいい結果をもたらすかもしれないね」


「それを、頼めるか?」


「金貨一枚だ。高いとは言わせないよ。頭に作用するんだ。

安物で済ませたいなら、路地裏の祈祷師にでも頼んだほうがいい。

あと、結果は保証しない。失敗しても金は返さないよ。それでもいいの?」


「ああ」


「わかった。結局は、あんたの頭と体、意思次第で結果が決まると言っていい」


ドルクは懐から金貨を一枚渡した。

パメラがそれをポケットに収めた。


「あ、言い忘れてたけど……」


パメラは薬棚の前に立った。

ろうそくの明かりが、白衣の背中に黄色く落ちた。


「おい、金を貰ってから言うことか?」


「気に入らないならやめていいって。とりあえず聞きな。

副作用がある。飲んだ直後に意識はすぐに落ちる。

そして起きた時、頭の中がしばらくめちゃくちゃになることがある」


「めちゃくちゃ、だと?」


「頭の中ってのは繊細なんだよ。そしてこの薬は結果の積み重ねでできた代物だ。

あんたの頭がどんな理屈でそうなったのかはわからない。

この薬で記憶が戻ったとしてもどんな理屈で戻ったのかは私にも説明できない」


パメラは棚から小さな瓶を取り出した。

濃い藍色の液体が、ろうそくの明かりの中で、深い色に揺れていた。


「これはここで飲みな。飲んだら奥の寝台で、しばらく横になっていきな。

今あんたを宿に帰すわけにはいかない。

途中で意識が落ちたら、身ぐるみ剥がされて終わりだね」


「……わかった」


ドルクは瓶を受け取った。

瓶は指の中で、ひやりと冷たかった。


「パメラ。ひとつだけ、いいか?」


言いながらドルクは蓋を開ける。

匂いは苦いような酸っぱいような。言葉では言い表せない。


「なに?」


パメラは煙を吐きながら答える。


「この薬は……、苦いのか?」


パメラは目を丸くした。


「あはは!あんた、なに子供みたいなこと言ってんの?

この薬は苦くて、辛くて、不味いわよ」


パメラは大笑いしながらドルクを煽っていた。


ドルクは顔をしかめた。


「ちっ……」


ドルクはゆっくり口に含んだ。

舌の根がひりつく。構わず一気に飲み下した。


「ドルク。飲んだら、すぐに横になりなさいよ」


パメラの声が、いつもより少し優しかった。


「もし暴れたら私の可愛い闇が、

がちがちにあんたを縛りあげるから安心しな」


ドルクはゆっくり奥の寝台に向かった。

子供が眠る寝台とは離れた壁際。そこに横になる。


天井の梁が視界に入った。ろうそくの光が揺れている。

パメラの煙草の煙が、視界の縁をゆっくりと流れていく。


ドルクの瞼が自然と重くなっていく。

意識が深い水の底に沈んでいくような感覚だった。


最後に見えたのは、変わらず机に座って、

煙草を吸うパメラの白衣の襟だった。


---


森の匂いがする。


それは土と、苔と、木の匂いだった。


ドルクは目を開けた。

木漏れ日が瞼を焼いた。


これはいつもの夢だが、いつもの夢ではなかった。


景色が、鮮明だった。意識がはっきりとしている。


そして森の輪郭が、靄の向こうに沈んでいない。


木の一本一本の幹の色まで見えた。


滝壺の水飛沫の、一粒一粒の方向まで見えた。


夢の中のドルクは、空き地に立っていた。

横にコル、フェイ、双子のアンディとランディ、ブラン。


視線の先には、銀髪の魔族の娘がいた。

褐色の肌。切れ長の深紅の瞳。

チュニックの右肩が裂け、スカートの左太腿が裂けている。

サンダルは片方脱げて、右手に白い木の杖を握っていた。


杖の先端の紫の光は、瞬きのたびに弱くなっていた。


そこに、足音が近づいてきた。


枝をわざと踏む、軽い音だった。


男が、ふらりと空き地に出てくる。


くたびれた革ジャケット。手ぶら。足元には黒い子犬。


「おーい」


間の抜けた声だった。旅装のおっさんだ。


ドルクの心臓の鼓動が跳ねる。


この間の抜けた声。その姿。俺は、知っている。


……その姿は、あいつにそっくりだった。


そしてくだらない会話が続く。

あいつによく似た男は、頭を下げて背を向けて歩き出した。


あいつは、去ったはずだった。


だが戻ってきた。


「もう一つだけ、聞いていいか」


その声はもう、間の抜けた声ではなかった。


男の周りに、光が走った。


焦げ茶の革ジャケットが消え、黒のロングコートが姿を現した。

小麦色の肌が、青みを帯びた浅黒い肌に変わった。

丸い耳が尖り、額に一本の角が生えた。


そして、焦げ茶の瞳が―――

右が、琥珀に。左が、紅に。燃えている。


―――この目。 こいつだ。


ドルクの体に、電気のような感覚が走った。


俺は、こいつを知っている。


旅装のおっさんとオッドアイの男。


その繋がりに気付いた瞬間、頭の奥で何かが音を立てて砕けた。


―――アクロス。お前か。


そして夢の中の景色が、早送りのように流れていく。


曲刀を抜いた自分。振るう自分。頬を掠めた刃。

黒紫の火球。炎、土、風、氷。肩からぶつかってくる。

地面に倒れた自分。馬乗りにされて、首を押さえつけられた自分。


そして―――顔の前に灯った、黒紫の炎。

脇腹に押し当てた、自分のナイフ。


あと一手で、二人とも死ぬ間合い。


紅と琥珀の目が、ドルクを見下ろしていた。


「いいぞ、殺せ。それともお前が死ぬのか?」


アクロスは答えない。見つめ合う。


そしてアクロスは、掌の炎を消した。

ドルクの左手からナイフを叩き落とした。


俺の肩を地面に押さえつけた。


俺は、抵抗しなかった。


「……今は、まだ、殺さない」


アクロスは低く言った。


「お前を殺す日が、いつか来るのかもしれない。

だが、それは今日じゃないだろう」


―――そしてこの台詞。


「……いい答えが聞けたな。その時が、楽しみだ」


自分の声だった。

そしてドルクは、続けて言葉を投げた。


「アクロス……お前は、人を殺したことがないな?」


「ただのわがままだな」


「そして―――お前は、大事な人をいつか失う」


アクロスはまっすぐに自分の目を見返した。

そして答えた。


「覚えておくよ、おまえのその言葉」


夢の中の景色が、ふっと揺れた。


倒木に背を預けた銀髪の娘が、呆然とこちらを見ていた。

深紅の瞳がまっすぐに、アクロスを見ていた。


その瞳は、アクロスだけを、見ていた。


あの娘は、恐らくアクロスの隣にいた。あいつだ。


―――リーネ。


俺が、魔狼から守った女。


そうか。この時、あの二人もまた、初めて出会ったのか。


あいつらは、魔族であり、人間の姿に変身して、今、グラザにいる。


そして、靄の最後に蘇ったのは、他の誰でもない、自分の声だった。


―――記憶を消されても、俺の体は……覚えているぞ。


その通りに、なった。


夢の中でドルクは立ち上がろうとした。

だが、立ち上がれなかった。


視界が暗くなっていく。

意識が夢の底から、上に引き上げられた。


---


ドルクは寝台の上で、上半身を起こした。


額に汗が噴き出していた。そして肩で息をしていた。

心臓の音が、自分の耳の中で鳴っていた。


天井の梁。ろうそくの光。煙草の煙の匂い。


机に座ってこちらを見ているパメラの顔が、視界の中に入った。

ろうそくが一本だけになっていた。


他のは、消したのだろう。

部屋全体が、来た時より暗かった。


パメラは煙草を口から離して、灰皿に置いた。


「お帰り、ドルク」


低い声。鋭い目。


それは、容体を確認している医師の声だった。


ドルクは答えられなかった。


「あんた、ひどい顔してるよ」


パメラは立ち上がって、寝台のそばに来た。

白衣の裾が、毛布の縁をかすかに擦った。


水差しからグラスに水を注ぐ。

ドルクの手にグラスを握らせた。


ドルクは水を一口飲んだ。喉の奥がひりついていた。

冷たい水が、胸の中の熱を、少しだけ押し戻していった。


「……今は、夜か?」


「もう、真夜中だね」


ドルクはグラスを両手で握った。

手が、震えていた。


パメラは机の椅子に戻った。


新しい煙草を咥える。また火を点ける。

ぽっと小さな赤い光が点いて、すぐに細い煙に変わった。


「あんたが何を思い出したかは、聞かないよ」


煙草を一口吸ってから、パメラは言った。


「でも、あんたが言いたいなら、聞いてやるけど?」


ドルクはしばらく何も言わなかった。

膝の上の両手を見ていた。震えはまだ、止まらなかった。


それから、ゆっくりと口を開いた。


「……パメラ」


「ん?」


「俺は、どうすればいい?」


パメラの目が一瞬、丸くなった。

それからゆっくりと、笑った。


「ははっ!あんたでも、人にそんなこと聞くんだね!」


ドルクは目を伏せた。


「珍しいこともあるもんだ」


パメラは笑いながら煙草の煙をゆっくりと吐いた。


「だけどその答えは、私は持ってないよ。これはあんた自身の話だ。

あんたはずっとそうやって、自分で決めて生きてきたんだろ?」


ドルクは答えられなかった。


「ま、一つだけ言っておくなら……」


パメラは煙草を灰皿に置いた。

机に両肘をついた。


ろうそくの明かりが、束ねた金髪の縁を黄色く染めていた。


「思い出したからって、すぐに動かなくていいんじゃない?」


低くてよく響く声だった。


「あんたの体は、あんたが思ってるよりずっと正直だ。頭より、心よりね。

体はもう、答えを出してるんじゃないか?」


「………」


「あんたはその答えを、まだ、自分で受け取りたくないだけさ」


ドルクは何も言わなかった。

天井を見上げた。


梁の影が、ろうそくの光でゆっくり揺れていた。


その揺れの中で、討伐からの帰り、穏やかな焚き火の音が、

ドルクの耳の奥に戻ってきた。


全員で焚き火を囲んで会話をした夜。

俺も、共に囲んだ。珍しい夜だった。


そして解散後、ギルドの前。

最後にアクロスと交わした言葉。


―――また一緒に戦えたら、心強い。

―――ありがとう。お前にそう言ってもらえると、嬉しいよ。


あいつらは、最初から俺があの時の男だと気づいていたはずだ。


なぜだ。わからない。


なぜ、あいつらは俺に礼を言い、俺の『仲間』という言葉を、あんなに喜んだのか。


思い出すと、余計に何もかもがわからなくなる。


ドルクは目を閉じて、長く息を吐いた。


「……パメラ」


「ん」


「水を、もう一杯もらえるか」


パメラは笑った。

煙草を咥え直しながら、立ち上がった。


「いいよ。おまけだ」


水差しが傾いて、グラスに水が落ちる音がした。

夜の静けさの中で、その音だけがはっきりと聞こえた。


奥の寝台の子供は、まだ眠っていた。

寝息は浅く、けれど穏やかだった。


ドルクの頭の靄は晴れた。


だが、朝はまだ来ない。

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