第40話 帰路と帰還
夜明けを告げる、白晨の光が街道沿いの草原を白銀に染めた。
アクロスが目を開けると、
空が薄い紫から白銀へ変わっていく境目だった。
マルコのいびきが聞こえない。
心配になって思わず横を見ると、マルコはまだ寝ていた。
口を半開きにして、妙に幸せそうな顔をしている。
ただ、いびきが止まっていただけらしい。
次の瞬間。
「ふがぁ……!」
盛大ないびきが響いた。
心配して損した。
クロがマルコの腕を枕にして丸くなっている。
一晩中、離れなかったらしい。
漆黒の毛皮とマルコの薄茶のシャツが重なって、
変な色の塊になっていた。
フレスはリーネの肩で片目だけ開けて半覚醒。
寝ぼけ眼で、ぱちぱちと瞬きしている。
朝はいつも機嫌が悪い。
リーネはすでに起きていて、焚き火に枝を足していた。
赤焦げ茶の瞳が、小さな炎の色を映している。
「おはよう、リーネ」
「おはよう。よく寝てたわね」
「そうかなぁ?」
アクロスは伸びをしながら返事をする。
「うん。珍しくいびきかいてなかった。熟睡してたんじゃない?」
「マルコが代わりにかいてくれてたのかな」
「あの人のいびきは本当にすごいわね。
途中で一回、魔狼の遠吠えかと思って杖を握ったもの」
リーネは笑いながら言った。
「たしかにな。あのいびきでも寝れたんだからやっぱ疲れてたんだな」
アクロスはぽりぽりと頭を掻いた。
冒険者たちが一人、また一人と起き始めた。
レナが髪をかき上げながら大きく伸びをして、
アレンがあくびを噛み殺し、ルッツが足首をゆっくり回している。
ゴードンが水を汲みに行き、エリーが荷物をまとめ始めた。
ドルクも起きていた。
焚き火から少し離れた場所で、曲刀の柄を布で拭いている。
いつ寝て、いつ起きたのか。読めない男だ。
マルコが目を開けた。
脇腹に手を当てて、ゆっくり起き上がる。
クロが頭を持ち上げて、ぐるりと大きな欠伸をした。
「……お。痛みがほとんどないぞ。ポーションとお前の魔法、すげぇな」
「よかったな。動けそうか?」
「余裕だ。走れるかもしれねぇ」
マルコは笑ってみせたが、その直後に脇腹を押さえて顔をしかめた。
「……まあ、走ったらたぶんリーネに殺されるな」
「私が殺す前に傷が開くわよ」
リーネが冷たく言う。
「なんなら斧振れるくらいだぞ」
「振るな。絶対に振るな」
アクロスが即座に止めた。
それでもマルコは歯を見せて笑っていた。
こいつの笑顔は本当に人を安心させる。
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朝食を軽く済ませた後、ゲルツが全員を集めた。
「出発の前に伝えておくことがある。報酬のことだ」
全員の耳がぴくりと動いた。冒険者は現金の話に敏感だ。
「今回の基本報酬は一人銀貨十五枚。
これに加えて、素材の売却分等の追加配分がある。ただし素材の査定と計算にはギルドで時間がかかる。全額を確定させるのに午前中いっぱいかかるだろう。
確実に受け取り可能なのは、明日の午後からだ」
「それと——―金が今すぐ必要な奴は言ってくれ。
基本報酬の十五枚だけなら、今日中に清算できるよう話をつけてやる」
アレンとルッツが顔を見合わせて、手を上げた。
「すんません、今日もらえると助かります。宿代がやべぇんで」
「わかった。ギルドに着いたら受付に伝えておく」
アクロスはリーネの方をちらりと見た。
リーネが小さく首を横に振った。急がなくていい、という意味だ。
「俺たちは明日で構いません」
「了解だ」
ゲルツが全員を見渡した。
「ではグラザまで半日もかからん。
怪我人もいる。ゆっくり歩くぞ。それでも昼前には着くだろう。
そろそろ出発する。最後まで気を抜くな」
全員が立ち上がった。焚き火の跡を土で埋めて、荷物をまとめた。
街道を南に向かって、ゆっくりと歩き出した。
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行きとは空気が全然違っていた。
同じ街道だ。同じ草原だ。同じ空だ。
だが見える景色が違う。
行きは緊張で目に入らなかった草花の色が、今日は視界にちゃんと映っている。
黄色く色づき始めた草の穂先。
道端に咲いている小さな白い花。
遠くの丘の稜線の柔らかな曲線。
風が気持ちよかった。
実りの季の終わりの、乾いた穏やかな風。
草の匂いと、遠くの森の匂いが混ざっている。
クロも隊列の周りを走り回り、自然を満喫しているようだ。
フレスも、高く、高く飛んでいる。ここから見ると豆粒より小さくなっている。
行きはあの風の中に魔狼の遠吠えを想像していた。
帰りの風には、何もない。ただの風だ。
清々しい。
マルコがアクロスの隣に並んだ。
大きな体で歩幅が広い。アクロスはやや早足にならないと、並んで歩けない。
「なぁ。アクロス。俺の怪我が治ったら飲みに行こうぜ!
お前とは話してぇことが山ほどある!」
「いいな。どこかうまい店知ってるのか?」
「南通りに『樽亭』ってのがあってな。飯がうまくて酒が安い。
でも肉が分厚いんだよ。焼いた厚切り肉に粗塩振っただけのやつがあるんだが、
これが薪の火で焼くからたまらねぇんだ。噛むと肉汁がじゅわっと出てきてな」
「やめろ。朝から腹が鳴るだろ」
「がはは!楽しみにしてろ!」
「ただ俺、酒は禁止されてるから……聞いてみないと」
「誰に」
「リーネに」
「わはは!尻に敷かれてやがるな!
ダメだったらお前は飯だけ食って、俺がうまそうに酒を飲むのを見てろよ!」
「リーネの許可を勝ち取ってやるさ」
「ところでお前の家、どこだっけ?」
「東通りの奥だ。鉄の風見鶏がついてる家の隣。
大家はちょっと変わったじいさんだけど、いい人だぞ」
「へぇ。俺は西通りの長屋だ。安いけど広い。一人には十分すぎるくらいだ。
場所教えるから、いつでも来いよ。酒場が駄目なら家飲みもいいだろ!」
「おう。お前も近くにくることあったら寄れよ。リーネの飯はうまいぞ」
「うらやましいなぁ!遠慮なく行くぞ!」
「多分リーネに怒られるから覚悟しろ」
「なんでだよ。怖ぇよ。普通に歓迎してくれよ」
おっさん二人は相変わらず楽しそうだ。
後ろで、レナとリーネが並んで歩いている。
「帰ったらお疲れ会しよ!約束したでしょ、指切りもした!」
「……もちろんよ。レナと話したいこといっぱいあるわ」
「嬉しい!あたしもよ。お店はどこにする?」
「レナが決めてよ。私、町のお店あまり知らないから」
「じゃあ任せて。あたしが連れてってあげる。マルコたちも呼ぶ?」
「別にいいけど、うるさくなるわよ?
アクロスなんて店で何しでかすかわかんないんだから……」
リーネはため息をついた。
「あはは!あんたたちほんと仲良しね。でもそれがいいのよ。
それが冒険者なの。にぎやかな方が、ご飯もお酒もおいしくなるの」
「……そういうものかしら」
「そういうものよ。保証するわ」
レナが笑った。リーネも少しだけ笑った。
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丘を越えた。
街道の先に、グラザの町が見えた。
レンガの外壁に囲まれた建物の群れ。
北門の石造りの門柱が、双昼の光を受けて白く光っている。
屋根の向こうに、ギルドの看板がかすかに見える。
全員が足を止めた。
マルコが声を上げた。
「おお……アクロス、見えたぞ。俺たちの町に、帰ってきたぞ!」
レナが髪をかき上げた。
「ベッドが恋しいわね~」
アレンが「風呂に入りたい。三日ぶりだ」と言い、
ルッツが「飯が食いたい。温かいやつ」と続けた。
ゴードンが「俺は彼女の顔が見たい」と言って、エリーに笑われた。
ドルクは何も言わずに、列の最後尾で黙って町を見ていた。
あの男には、帰りを待つ誰かがいるのだろうか。
口々に言う。全員の顔がほころんでいた。
アクロスも見ていた。
あの町の中に、自分たちの家もある。
リーネが隣でつぶやいた。
「……帰ってきたわね」
「ああ。ちゃんと帰ってきた」
クロが尻尾を振った。
フレスがリーネの肩で、ぴぃと短く鳴いた。
二匹とも、この町の匂いを自分たちの家の匂いとして覚えているらしい。
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そして、全員で北門に着いた。
衛兵が二人、門の前に立っていた。
討伐隊の姿を見つけて、手を振っている。
「おう。帰ってきたか。全員無事か?」
ゲルツが答えた。
「全員無事だ。負傷者はいるが、歩ける」
「北の森にギルドから討伐隊が出てるのは聞いてたよ。
群れはどうだった」
「安心しろ。一掃してきた。詳細はギルドに報告する」
衛兵が口笛を吹いた。
「やるじゃねえか。これで町の連中も安心するな。ご苦労さん」
衛兵がゲルツの肩を軽く叩いた。
こういう何気ないやりとりが、帰ってきた実感を生む。
門をくぐった。
石畳を踏む足音が、草原の土の感触と全然違う。
町の匂い。人の声。食堂の匂い。馬の蹄の音。
露店の売り声が遠くから聞こえる。
なんだか懐かしい、と思った。まだこの町に来てから十日も経っていないのに。
命のやり取りを終えて帰ってきたからだろうか。
そしてギルドの前に到着し、
ゲルツを先頭に、討伐隊の全員がギルド前で足を止めた。
「よし! あとは採取した素材をギルドに運ぶ。その後、解散するぞ」
「アクロス。素材を頼む。俺は回収の職員を呼んでくる」
ギルドの前で、ゲルツが言った。
「あぁ。出しとくよ」
アクロスは広場の隅に寄って、足元の影に手をかざした。
そして自分の影に手を入れて、魔狼の毛皮の束を、ずるりと出した。
続いて、牙を詰めた麻袋。そして、濁った赤い光を放つ魔核。
荷物を出し終えると、くらっと立ちくらみのような感覚がアクロスを襲った。
これだけの量だ。出し入れする時の消費もでかい。
ギルドの裏から職員が二人、荷車を押してきた。
すでに外に積み上がっていた素材の山に、職員が目を丸くしている。
「これ全部、あんたが持ってたのか……?」
「まぁな。便利魔法だ」
アクロスは少し得意げだ。
「ほんとに便利よね。背負って帰ってたら全員筋肉痛よ……」
レナが呆れたように笑った。
「ほんとだぜ。森でこいつが全部吞み込んでくれたから、
俺たち身軽に帰ってこれたんだからな」
マルコが、自分の手柄のように胸を張った。
ゲルツが魔核の数をざっと数えて、満足そうに頷いた。
「助かった。すべてきっちり査定に回す。
これだけありゃ、追加配分も悪くない額になるだろう」
最後の魔核を職員に手渡して、アクロスは影を閉じた。
「アクロス、魔力の消費は大丈夫なの?」
リーネが心配そうに聞いた。
「マジックポーションで回復していたから大丈夫だったよ。
魔力的には結構な消費だったな」
「やっぱり……。マジックポーションが私たちには必需品ね……」
そして運搬が終了した後、再度集合した。
ゲルツが一人ずつ顔を見た。
「皆ご苦労だった。全員で行って、無事、全員で帰ってきた。
胸を張ってほしい。お前たちは、やり遂げた。報酬の件は朝伝えた通りだ。
今日欲しい奴は受付に言え。全額は明日の昼だ。
今日は帰って、風呂に入って、早く寝ろ。以上!解散だ!」
「「お疲れ様でした!」」
冒険者たちの声が揃った。
行きの出発の時より、ずっといい声だった。
そして冒険者たちは、それぞれの帰路へ散っていく。
マルコがアクロスに大きく手を振った。
「じゃあな、アクロス!怪我治ったら連絡するからな!
樽亭だぞ、忘れんなよ!」
「忘れねえよ。楽しみにしてる」
レナがリーネの腕を軽くつついた。
「お疲れ会、決まったら教えるからね。
フレスちゃんもまたね〜」
フレスがぷいとそっぽを向いた。
「……日常に戻ったわね、この子」
リーネが小さくため息をついたが、口元が笑っていた。
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皆が散った後。
ドルクがまだギルドの前にいた。
壁にもたれかかって、空を見上げている。
双昼が近い。白い太陽と金色の太陽が並びかけていた。
その光が、ドルクの鉄色の目に映っている。
アクロスが近づいた。声をかける。
「ドルク」
「……なんだ」
「お前に、ちゃんと礼が言いたかったんだ」
ドルクが空から視線を降ろした。鉄色の目がアクロスを見ている。
「礼はいらん。仕事だ。そう言った」
「知ってる。だが、俺は礼が言いたい。
仕事にはな、感謝ってものが必ずついてまわるもんだ。
それをちゃんと、受け取るのも仕事だぞ。ドルク」
おっさん臭い、説教臭い言い方になってしまったが、伝えたかった。
ドルクが黙った。
右手の指先が、曲刀の柄をゆっくり撫でている。
考えている時の癖だろうか。
数秒の沈黙。
「……お前も一緒に戦っただろう。
お前は同じ仕事をした仲間だ。仲間同士に礼は必要ない」
アクロスは目を見開いた。それも一理ある。
だが、それよりも。
ドルクから仲間という言葉が出たことに一番驚いた。
「お前、いいこと言うなぁ!」
アクロスは笑いながら言った。
ドルクは鼻を鳴らして笑った。そして続ける。
「あの雷も、剣も、見たことのない力だった」
ドルクは短く息を吐いた。
「だが、それ以上に悪くなかったのは、お前の目だ。
前だけじゃない。仲間を見て戦っていた」
「………」
「傭兵団にもいた。そういう奴は、信頼される」
アクロスの胸の奥が、じんと熱くなった。
あの焚き火の前で聞いた声が蘇った。
『飯は一緒に食った。毎日な』
ドルクは今、その傭兵団の仲間と同じ場所にアクロスを置いた。
そんな気がした。それがどれだけ重いことか。
「……ありがとう。お前にそう言ってもらえると、嬉しいよ」
「感想を言っただけだ」
ドルクが壁から背を離し、歩き出した。
「ドルク」
足が止まる。振り向かない。
「また一緒に戦えたら、心強い」
長い沈黙。そして空を見ながら言った。
ドルクの横顔が見える。
「また肩を並べて戦うかもしれない。だが、あるいは——―」
ドルクは言いかけて、止めた。
その時、アクロスにはドルクが確かに笑っていたように見えた。
ドルクはまた前を向き、
そのまま歩き出して通りの向こうに消えていった。
アクロスは黙ってその背中を見送った。
——―背中は預けていいが、心は決して預けるな。
ふと、オルガの言葉を思い出した。
ドルクの背中が消えた通りを、もう一度見つめてから、
アクロスはリーネのもとに戻った。
---
「アクロス、リーネ。ちょっといいか」
ギルド前に戻るとゲルツが声をかけてきた。
「明日、お前たちも報酬を取りに来るだろう?
その時に、吹き溜まりの件でギルド長を交えて話がしたい」
「あぁ。大丈夫だ」
アクロスが頷いた。
「俺から話は通しておくが、お前たちの口から直接説明してもらった方がいい。
あの規模の吹き溜まりは、ギルドとしても放置できん」
「準備しておきます」
リーネが頷いた。
「頼んだぞ」
ゲルツが禿げ頭を撫でた。
「それと、お前たちの今回の功績は大きいぞ。新人としては異例だ。
きっちり評価してやるからな。楽しみにしてろ」
ゲルツがにやりと笑って、ギルドの扉を開けて入っていった。
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そして、二人と二匹で帰路につく。
大通りから東通りに入る。
踏み固めた土の道。
遠くから鍛冶屋の槌の音が聞こえる。
パン屋の煙突から白い煙が上がっていた。あの匂いだ。
エリザのパン屋の前を通りかかると、
店先に立っていたエリザが二人に気づいた。
「あらあら!二人とも!帰ってきたのね!」
エリザが駆け寄ってきた。
粉のついたエプロンがはためく。
「心配してたわ!怪我はしてない?大丈夫?」
「大丈夫です。無事に終わりました」
二人とも笑顔で頷く。
「よかった〜!ご夫婦揃って無事で何より!」
夫婦じゃない。とはリーネも言わなかった。
慣れたのか諦めたのか。
「リーネ。お昼のパン、買っていくか」
「そうね。お腹空いたわ」
焼きたての白パンを二つと、保存用の黒パンを一つ。
エリザが袋に入れながら言った。
「銅貨五枚ね。あ、ちょっと待って」
奥の棚から蜂蜜色の丸い甘いパンを一つ取り出した。
「おまけよ。無事に帰ってきたお祝い。
二人とも疲れた顔してるわ。今日は甘いものを食べてゆっくり休みなさいね」
エリザがにっこりと笑った。
「ありがとうございます!おいしそう!」
「いいのよ。あなたたちが無事に帰ってきた姿を見て、あたしもホッとしたの。
また買いに来てね」
エリザが笑った。明るい、屈託のない笑顔。
リーネがパンを受け取った。
もうすぐ、家だ。
---
東通りの奥。
鉄の風見鶏が風を受けてゆっくり回っている。
自分たちの家の前に来た。
隣の家の軒先には、トマスが座っていた。
外の長椅子に腰を下ろして、白い湯気の立つ器を手に持っている。
おじいちゃんの日向ぼっこだろうか。
まさか……。俺たちを待っていたのだろうか。
トマスは二人に気づいた。
「無事に、帰ってきたか」
低い声。無愛想だが、声の底に温度がある。
「ただいまトマスさん。依頼も無事に終わってちゃんと帰ってきたよ」
アクロスは笑顔で言う。
「怪我は?」
「大丈夫だ。仲間に怪我人は出たが、全員でちゃんと帰ってきた」
トマスの目が細くなった。元★4剣士の目が、二人を見ている。
服の汚れ、靴の擦り減り、顔色。立ち方。全てを読む目だ。
「全員でか。——―そうか。それが一番だ」
トマスが器のお茶を一口飲んだ。
「トマスおじいちゃん。明日、ギルドから報酬を受け取ってくるわ。
家賃の一ヶ月分、明日にはちゃんと支払えるから……」
トマスが手を振った。
「急がんでいい。その金でお前たちはまずは装備を整えろ」
「装備?」
アクロスとリーネは目を丸くした。
「肩当てや鎧。小手。身を守る装備にポーション類だ。お前たちは身軽すぎる。
激しい戦いだと装備ひとつ道具ひとつで生き死にが変わる。
今回の依頼で、それを痛感しなかったのか?」
アクロスとリーネは目を合わせて、真剣な顔になった。
このじいさん、まるで見てきたかのようだな。と少し怖くなった。
トマスの言う通りだ。
「ありがとう、トマスおじいちゃん。またいろいろ相談に乗ってもらっていい?」
「かまわん。いつでも寄れ」
トマスが少し笑った。
笑うと頬の皺が深くなって、怖い顔がほんの少し穏やかになる。
「怪我がないなら、今日はゆっくり休め。飯を食って湯屋に行ってさっさと寝ろ。
戦いの後に一番効く薬は、飯と風呂と寝ることだ」
「あぁ。そうするよ」
アクロスも笑顔で返事をした。
「……大事な、ことだ」
トマスが器を傾けて、最後の一口を飲み干した。
椅子から立ち上がり、自分の家に戻っていく。
扉に手をかけて、振り返らずに言った。
「お前たちが無事で、安心した」
それだけ言って、扉が閉まった。
エリザと同じ言葉だった。口調は真逆だが、中身は同じだ。
「……本当にいい人ね」
「あぁ。口が悪いだけでな」
「あなたと似てるわね」
「……俺、愛想はあると思うんだけど」
「さあ。どうかしら」
リーネがくすりと笑って、ポケットから鍵を取り出した。
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扉を開けた。
見慣れた部屋。木のテーブル。椅子が二脚。壁際の棚。
窓から差し込む双昼の光が、床の上に四角い白を描いている。
二日ぶりに帰ってきた、自分たちの家だ。
リーネが荷物を下ろして、深く長い息を吐いた。
「……ふぅ」
クロが部屋の中をぐるりと一周歩いて、いつもの窓際の場所に伏せた。
尻尾がぱたぱたと二回動いた。ここが自分の場所だと、わかっている。
フレスがリーネの肩から棚の上に飛んで、
銀色の羽を畳んだ。定位置だ。もう目を閉じている。
テーブルにパンを並べた。
白パン二つ。黒パン一つ。エリザからもらった甘いパン一つ。
クロとフレスの分も、取り分ける。
クロがぱっと顔を上げた。匂いに気づいたらしい。
尻尾を振りながら、ふらりと近づいてくる。待ちきれない顔だ。
フレスは匂いで目を開けた。食欲が睡眠欲に勝った。
「さぁ、食おうか」
「そうね、いただきます」
椅子に座った。向かい合って。
白パンをちぎった。柔らかい。
口に入れると、小麦の甘みがじんわりと広がった。
何も特別なパンじゃない。エリザのパンだ。
だがこれが、うまい。
「……おいしいわね」
「あぁ」
リーネが甘いパンに手を伸ばした。
一口齧って、ゆっくり咀嚼して——―
目がきらきらした。本人は気づいていない。
いつものやつだ。
「……蜂蜜が入ってる。これ、すごくおいしい」
蜂蜜パンを半分にちぎってアクロスにも渡す。
「エリザのおまけだからな。明日も寄ろう」
「うん。そうしましょう」
しばらく、ただ食べた。
静かな昼食だった。
特別なものは何もない。パンと水だけ。
だがこの何でもない時間が、
戦いから帰ってきた二人には、かけがえのないものだった。
食べ終わって、少しぼんやりした。
アクロスが口を開いた。
「リーネ」
「ん」
「湯屋、行こう。もう限界だ」
リーネの顔がぱっと明るくなった。
「そうね!私も行きたかった。
体中が泥と汗と獣の匂いでべたべたよ。もう限界」
リーネが立ち上がって、
着替えを荷袋から引っ張り出した。
てきぱきとまとめる。
「クロとフレスは留守番ね。帰ってきたらあなたたちも洗ってあげるから」
クロが顔を上げた。
置いていかれるのは不満らしい。
「すぐ帰ってくるから。いい子にしてろ」
わふ。
不満だが、許した。
フレスは棚の上で丸くなっている。
もう寝ている。切り替えが早い。
リーネが着替えの袋を肩にかけた。
「さ、行きましょ」
「あぁ」
扉を開けて外に出た。
東通りには、いつもの町の音が満ちていた。
遠くから聞こえる鍛冶屋の槌の音。
走っていく子供たちの笑い声。どこかの家から聞こえる犬の鳴き声。
双昼の光が二色に重なって、
踏み固めた土の道に柔らかな影を落としている。
隣を歩くリーネの横顔を、ちらりと見た。
泥だらけで、汗まみれで、
髪の先に、枯れ葉が一枚ついていた。
「……何見てるのよ」
「いや。髪に葉っぱ、ついてるぞ」
「えっ。どこよ」
リーネは髪をぱたぱたと触る。
「右の後ろだ。ほら」
アクロスが手を伸ばして、リーネの髪に触れ、枯れ葉を取った。
小さな枯れ葉だ。
北の森から連れて帰った、小さな旅のお土産。
「……ありがと。気付いてたなら早く言ってよね」
リーネは少し頬を膨らませている。
少し耳が赤かった。
「今、気づいたんだよ」
「嘘。ずっと見てたんでしょ」
「見てないっての」
「ちゃんと、見ててよ!」
リーネの頬がさらに膨らんだ。
「いや、理不尽すぎるだろ。さすが暴虐のリーネだな」
アクロスは笑った。
葉っぱ一枚で、文句を言われて、笑う。
そんな当たり前の時間が、戻ってきた。
明日からは、また忙しくなる。
吹き溜まりのことも、装備のことも、考えなければならない。
それでも今は。
隣を歩くリーネと、クロとフレス。
ちゃんと帰ってこれた。
この喜びを大事にしたい。アクロスはそう思った。




