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第38話 魔狼の森

森の入り口は、朝の光の中でもなお暗かった。


木々の隙間から差し込む太陽の光が、地面に細い筋を引いている。

だがその先——―森の奥は、まるで別の世界のように翳っていた。


空気が変わる。

町の方から吹いていた乾いた風が止まって、

湿った土と苔と、かすかに獣の匂いが混ざった空気が鼻に届いた。


鼻の奥がつんとする。生き物の匂い。それもかなり濃い。

木の幹に、三本の爪痕が深く刻まれていた。


地面を抉った獣の足跡がいくつも重なっている。

低い枝が折れて垂れ下がり、その断面はまだ新しい。


ここはもう、魔狼たちの領域だ。


討伐隊の全員が、森の入口の前で足を止めている。


誰も口を開かない。遠吠えは聞こえない。

だがそれがかえって、静けさの中に隠れた獣の気配を際立たせていた。


アクロスがゲルツの前に歩み出た。


「ゲルツさん。昨日の偵察の報告をしておきたい」


ゲルツが振り向いた。

鋭い目がアクロスを見据える。


腕を組んで、顎を引いた。

聞く姿勢だ。


「聞こう」


「群れの本拠地はここからやや北東にずっと歩いた先にある窪地だ。

すり鉢状の地形でそれほど広くはなさそうだ。低い崖と岩場に囲まれているが、

窪地の手前は木が少なく開けている」


リーネが隣に並んだ。


「群れの数は、偵察時点で二十以上。窪地の中と、その周辺に散っていたわ。

それと——―群れに、やっぱり一回り大きな個体がいるみたい」


ゲルツの目が険しくなった。


「統率個体か……やはりいるのか。

それにしてもすごいな、あの二匹。……そこまでお前たちに伝えられるのか」


「俺たちとあの二匹は魔力でつながっていてな。

自分で見てきたように情報を受け取れる」


「言ったでしょ。必ず役に立つって」


ゲルツは禿げ頭を撫でながら言った。


「役に立ちすぎだろ。いい相棒たちだ」


ゲルツが顎に手を当てて考え込んだ。


それから、隊の全員を見回した。


「いいか、全員よく聞け」


声は大きくない。

だが低く張りのある声が、朝の森に沁み込むように通った。


冒険者たちの背筋が自然と伸びた。


「奴らの位置が大体掴めた。作戦を伝える。

正面からまともに二十頭以上とやりあうのは馬鹿のやることだ。

向こうの庭で戦えば、囲まれて終わる。こっちの土俵に引きずり込むぞ」


ゲルツはやはりベテランの冒険者だ。こういうのも慣れているのだろう。


「まず追い込み班が森の中の魔狼を窪地の手前の開けた場所に集める。

追い込み班はアクロス、リーネ、それからクロとフレスだ。

フレスの空からの偵察でどこに散っているかを掴み、クロの咆哮で群れを走らせろ。

リーネは氷の壁で退路を塞いで、群れが逃げないようにする」


クロが耳を立てた。

自分の名前が出たのがわかったらしい。

尻尾がぴくりと動いた。


「群れが開けた場所に入ったら、俺たち、本隊が正面から叩く。

前衛は俺、ドルク、マルコ、アレン、ルッツ。五人で壁を作る。

後衛にレナとゴードン。エリーは補助だ」


「リーネは合流したらレナと、前衛との衝突から外れた魔狼を各個撃破してくれ」


レナとリーネが同時に頷いた。


「統率個体は必ず仕留める。あれが生きている限り群れの統制は崩れない。

だが焦るな。統率個体を狙って前のめりになった時が一番危ない。

確実に数を減らせ。数が減れば統率個体は嫌でも前に出てくる。

その時を叩く」


ゲルツが全員の顔を一人ずつ見た。


「全員で行って、全員で帰る。怪我人は出るだろう。

だが死人は出すな。一人も欠けさせるな」


「「了解」」


冒険者たちの声が揃った。

小さな声もあった。震えた声もあった。

マルコの声がでかかった。レナの声はまっすぐだった。

ドルクは声を出さなかった。だが、曲刀の柄に手を置いて、静かに頷いた。


そして、ゲルツが前を向いた。


「——―よし、入るぞ」


森の闇の中に、ゲルツが先頭で一歩を踏み出した。


---


森の中は薄暗かった。


木々の枝が頭上で重なり合い、

朝の光はほとんど地面まで届いていない。


足元には落ち葉が厚く積もって、踏むたびに湿った音がした。

枯れ枝を踏まないように、全員が慎重に歩いている。


一時間ほど歩いたところで、ゲルツが手を上げた。

全員が止まる。


アクロスが前に出た。


「ここから先が、群れの領域だ。住処まではもう少し行った先だな。

斜面を下ったところにある」


ゲルツが頷いた。


「追い込み班、先に行け。窪地の反対側に回ったら、

二回、クロにこちらに向かってくるようにどでかく吠えさせろ。

それが合図だ。二回目の咆哮で俺たちも動く」


「わかった。それじゃ行ってくる」


アクロスたちは、大回りをして窪地の反対側へ移動し始めた。

探知魔法は全開だ。魔狼たちの場所は把握している。


そして、目的地が近づいてきた。


アクロスがクロに目配せした。

クロの深紫の瞳が真っ直ぐ前を見据えている。

尻尾が低い。戦いの姿勢だ。


フレスがリーネの肩から飛び立った。

銀色の翼が木々の隙間を縫って上空に昇っていく。一瞬で視界から消えた。


しばらくして、フレスが旋回して戻ってきた。

リーネの肩に止まり、小さく三度鳴いた。


リーネが頷いた。


「群れは窪地の周辺に散ってる。窪地の中にいるのは半分くらい。

残りは北と東側の林にばらけてるわ」


「散ってる奴を窪地に追い込もう。そこから更に開けた場所へ誘導だ。

クロ、東から回り込んで吠えろ。東の個体を窪地に向かって追い立てろ」


わふ。


低い返事。クロが音もなく右の木立に消えた。

漆黒の体が影に溶けるように見えなくなる。足音が一切しない。


「リーネ。北側に向かってくれ。もうすぐクロが吠える。

クロの咆哮が聞こえたら氷壁を展開だ。逃げようとする個体を壁で止める」


「わかった」


リーネが杖を構えてフレスと共に移動していく。

白銀の木の杖に淡い光が集まっていた。


そしてその数秒後——―


クロの咆哮が森に響いた。


低く、太く、腹の底を揺さぶる獣の声。

マーナガルムの末裔の咆哮は、ただの狼の遠吠えとは次元が違う。

木々の葉が震えた。鳥が一斉に飛び立った。


森の奥で魔狼たちの気配が一斉に動いた。

ざわざわと地面を蹴る足音。パニックに近い動き。

灰色の影がいくつも木々の間を走り抜けていく。窪地の方向に。


窪地から北側に三頭が固まって逃げようとした。


「——―凍結壁フロストウォール


リーネの杖から冷気が噴き出して、

窪地の北側の木々の間に半透明の氷の壁が立ち上がった。

高さは人の背丈ほど。横幅は五メートルはある。


森の特訓で得た経験を、生かしている。


三頭が次々に壁にぶつかった。爪で引っ掻いたが砕けない。

反転して、群れのいる窪地に向かって走っていく。


フレスが上空から鋭く鳴いた。

監視の目が空にある。逃がさない。


アクロスは雷の魔力を少し練り上げて、木の幹に落とした。

雷の轟音が森に響く。


残りの散らばっていた個体が一斉に窪地に走り込んだ。


「——―入った。全部窪地に入ったわ」


リーネが確認した。


アクロスが振り向いた。クロに指示を出す。

クロが本隊が控えている方向に向けて、大きく吠えた。


合図だ。


---


そしてゲルツたちの本隊も動いた。

窪地の手前は思ったより広かった。


だが、地面には獣の足跡が無数に刻まれ、

あちこちに骨の破片や毛の塊が散らばっている。


獣臭が濃い。ここはもう完全に魔狼の縄張りだ。


窪地から次々と、魔狼たちが飛び出してくる。


そこには、二十頭を超える魔狼が密集していた。


灰色の毛皮。赤い目。唸り声が重なり合って地面を振動させている。

追い込まれたことで群れ全体が興奮状態にあった。


群れの最奥には通常より体がひとまわり以上大きい魔狼がいた。

おそらく統率個体だろう。


魔狼たちは牙を剥き出して、四方八方に威嚇を繰り返している。


ゲルツの声が飛んだ。


「前衛、構えろ。——―攻撃開始ッ!」


戦場が、動き出した。


灰色の毛皮と、光る刃、足音と雄叫びが、一斉に空間を埋める。


まずは先頭のゲルツの長剣が仲間の道を開いた。

横薙ぎの一閃が、飛びかかった魔狼の喉から肩までを断ち切る。


鋼の鳴く音と、肉を打つ鈍い音が、同時に重なった。


その隣で、ドルクの曲刀が音もなく弧を描いていた。


一撃だ。無駄がない。


喉を裂かれた魔狼が地に落ちる前に、ドルクの視線はもう次の個体に移っている。


そして中央には、マルコがいた。


「来いよ!木こり舐めんな!」


巨体が、生きた壁になる。


丸太を叩き割ってきた太い腕から繰り出される斧の一振りが、

魔狼を吹き飛ばした。


左右ではアレンとルッツが、逃げようとする個体を必死で押し返している。

槍の穂先がまだ少し震えているルッツを、アレンが視界の端で常に支えていた。


ゴードンとエリーは、前衛の隙間をカバーするように踏ん張っている。


そして、後衛では——―レナの弓が、鳴った。


ひゅん、と空気を切る音。


一射目が、飛びかかった魔狼の眉間を貫いた。

二射目を、もう番えている。


その隣に、合流したリーネが滑り込んだ。


「——―凍結壁ッ!」


戦場の中央に、氷の壁がせり上がる。

群れが、左右に裂かれた。


氷壁で切り離された三頭が、混乱して足を止める。


「今よ、レナ!」


「任せて!」


レナの弓が連射の音を響かせた。


一射。二射。三射。


壁の向こうの個体が、次々と地に伏す。

形見の弓が、唸るような低音で歌っていた。


「いける!やるじゃない、リーネ!」


「まだよ。次!」


リーネが新たな壁を起こす。


また二頭が切り離される。


レナが間髪入れず射る。弦を引く手に迷いがない。


形見の杖と、形見の弓。


昨夜、焚き火の前で交わした約束が今、戦場で花開いていた。


そして側面——―


漆黒の獣が、影のように走っていた。

クロが前衛の隙間を縫って、孤立した魔狼の喉笛に飛びかかる。


アクロスはクロが押さえた個体に、アクロスソードを正確に突き立てていく。


漆黒の獣と、漆黒の刃。

二匹と一人の連携は、まるで何十回もこなしてきたかのように噛み合っていた。


空からは、フレスの甲高い声。

旋回する銀の翼が、戦場を見下ろしている。


魔狼の位置が、フレスからリーネへ、リーネからレナへ、絶え間なく流れていく。


群れの数が半分を切った。

あちこちに灰色の体が転がっていた。


前衛の息が上がり始めている。

だが、押せている。確実に、追い詰めている。


——―だがその時。


群れの奥で、空気が変わった。


ひと際大きな魔狼が、ついに動いた。


通常の魔狼よりひとまわり以上大きい。

額には赤黒い紋が、あった。


その目は——―赤ではなく、金色だった。

明らかに異質な個体。


周囲の魔狼とは、纏っている気配が違う。

毛皮が逆立ち、低い唸りが地面を伝って響いている。


残った群れの個体が左右に割れて、道を空けた。


統率個体が地面を蹴った。


速い。


レナとリーネを狙って、まっすぐ突っ込んでくる。


一番最初に動いたのは、マルコだった。


マルコはずっと、最初からあの個体を見ていた。

雑魚を叩きながらも、視界にはあの異質な狼を常に入れている。


ゲルツの言葉を覚えていた。

数が減れば統率個体は嫌でも前に出てくる。その時を叩く。


そしてついに動いた。

その一歩を、マルコは見逃さなかった。


「——―来るぞッ!」


ゲルツが叫んだ。


だがマルコは誰よりも早く、前に出ていた。

全員の、前に。


マルコは統率個体の突進を、斧で受け止める。

衝撃が腕から全身に走る。マルコの巨体でもなお、押されるほどの圧力。

大きな両足で踏ん張ってもなお地面を抉りながら後ろに下がっていく。


受け止めた——―マルコはそう思った。


だがその瞬間、統率個体の鋭い爪がマルコの脇腹を抉った。


まるで、邪魔者を振り払うかのように。

鋭い爪が革鎧の隙間を通って、肉を裂いた。


「ぐあぁっ——―!」


マルコが叫び声をあげて膝をつく。

脇腹から血が地面にぼたぼたと落ちる。


斧の柄を握る手が震えている。

だがマルコは斧を決して手放さない。


歯を食いしばって、立ち上がり、なお前へ。

必死な顔で統率個体を抑え続けている。


アクロスがマルコを助けにすぐさま動いた。


統率個体はマルコにもう一度、前足を振りかぶる。


「マルコッ!」


アクロスの手から漆黒の刃が一瞬で現れる。


漆黒の刃と魔狼の爪がぶつかる。

金属音のような硬い音が戦場に鳴り響いた。


統率個体が後ろに跳んだ。間合いを取り直す。

金色の目がアクロスを値踏みするように見ている。


「下がれ! マルコ!」


「すまねぇ……やらかしちまった……」


マルコは脱力し、這うように下がりながら、

血だらけの顔で、笑った。


「めちゃくちゃ痛ぇ……怖ぇよ……。

でも、前に出れた……俺、ちゃんと動けたよ……」


——―怖くても、動けるやつが信用できる。


アクロスが昨日の朝に言った言葉だ。

マルコがそれを、自分の血で証明してみせた。


アクロスの胸は、熱くなった。


だが今は感傷に浸っている暇はない。


統率個体が再び地面を蹴った。


今度はアクロスが正面から突進を受けた。

アクロスソードで体全体を使って受ける。だがものすごい衝撃だ。


……なんだこれ!?身体強化かけてなかったら余裕で死ねる!

マルコはこれを生身で受けてたのか……根性ありすぎだろ!


なんとか受けとめたが、反撃をしなければ敵は倒せない。


だがアクロスは剣の使い方がわからない。


だがこの状況で……やったことない、できない。は通用しない。


本気で、真剣に、がむしゃらでも、動くしかない。

アクロスは自分を叱咤激励する。


アクロスもまた、恐怖と勇気を綯い交ぜにしてがむしゃらだった。

マルコは見せてくれた。だから、自分も見せる。


魔狼から追撃の振りかぶりが来た。

身体強化で動きはしっかり見えている。


アクロスソードを盾代わりに、また体全体で受けた。


今度は返す刃で魔狼の肩口を斬った。やけくそに近い動きだったかもしれない。

だが、漆黒の刃は毛皮と肉を裂いた。魔狼からは赤黒い血が流れ出る。


統率個体はやや下がり、アクロスに向かって怒りの咆哮を上げる。


その隙を逃さない。

距離が作れればこっちのものだ。


右手のアクロスソードに、魔力を込める。そして魔狼めがけて放つ。


アクロスソードはまっすぐに魔狼の体に向かって飛ぶ。


統率個体の肩あたりに刀身が半分ほど突き刺さる。

金色の目が驚愕に見開き、苦痛の咆哮を上げる。


「やるじゃないか!アクロス!便利な剣だな!」


ゲルツの声だ。すぐ横にいた。

駆けつけてくれたのか。


そしてドルクも駆けつけた。間髪入れずに魔狼に追撃をする。

ドルクの曲刀が喉を裂き、ゲルツの長剣が頭蓋にとどめを叩き込んだ。


統率個体はべしゃりと崩れ落ち、動かなくなった。


残りの魔狼が散り散りに逃げ始める。

統制を失った群れが、四方に走っていく。


「追い込め!逃がすなよ!」


ゲルツの声が飛ぶ。


終わりが見えた。勝てる。

これで全員で帰れる。


誰もがそう思った。


その瞬間だった。


---


空気が、裂けた。


魔狼の咆哮―——だがそれは、これまでのものとは、明らかに違った。


低く、重く、地の底から這い上がってくるような響き。

木の葉が、その声に震えて落ちた。


その時、フレスが——―いきなり、高い悲鳴を上げた。


ぴぃっ!ぴぃっ!ぴぃっ!


連続して、けたたましく。

いつもの偵察の冷静な声ではない。

警告の絶叫だった。


クロも、姿勢を低くして唸りを上げた。

だがその唸りには、いつものクロにはない震えがあった。

漆黒の毛皮が、明らかに逆立っている。


二匹が——―まったく、気配を察知できなかった。

それが、何より恐ろしかった。


全員の視線が、窪地の北側、岩の陰に集まる。


そこから、一頭の魔狼が、ゆっくりと現れた。


「なんだ……!この魔狼は……統率個体が、もう一体だと!?」


ゲルツが目を見開いて叫ぶ。


足音はなかった。

土を踏む音すら、伝わってこない。


「さっきのやつより断然やばそうだよ!!みんな油断しないで!」


レナも皆に注意を呼び掛ける。


さきほどの統率個体より、さらに一回り大きい。

肩の高さが、大人の人間の胸ほどある。


毛は灰色ではない——―黒に近い、深い闇の色だ。


額の紋は、赤黒く、見てわかるほどに脈打って明滅していた。

呼吸するように。まるで心臓のように。


そして両前足の爪が、異常に長い。

地面を踏むたびに、土が、ざくりと抉れていく。


金色の目が、ゆっくりと、周囲を一望した。


そして、まっすぐに——―


リーネを、見た。


「来るぞ!くそっ、後衛を狙ってやがる!陣形を作れ!」


ゲルツたち前衛が進路を防ぐように立ちはだかる。


「——―ッ!」


リーネは全身に怖気が走った。

金色の目と視線が絡んだ瞬間、肌が粟立った。


これまでの個体とは格が違う。本能がそう告げていた。


「リーネ!下がれ!」


アクロスも叫び、陣形の隙間を埋めるように構える。


魔狼が、地面を蹴った。


速すぎる。さっきの統率個体の比じゃない。


アクロスの身体強化を使った目でもギリギリ見えるかどうか。

見えても体の反応が追い付かない。


地面が爆ぜた。土と石が後方に激しく飛び散る。


黒い巨体は右へ左へ飛び回り、全員を翻弄しながら、

前衛の間を簡単にすり抜けた。


そして、弾丸のように進む。


まっすぐ、リーネに向かって。


「リーネッ!」


レナが叫んだ。弓を引く。

焦って、引ききる前に放った。


矢は魔狼の肩に当たった。が、弾かれる。

分厚い毛皮は貫けない。


リーネが杖を振った。


「凍結壁―——ッ!」


全力の氷の壁が立ち上がる。

だが、恐怖で集中力が足りない。イメージが追い付かない。


氷は厚いが、以前のリーネの氷と変わらないものだった。


魔狼は、一切速度を落とさず、氷壁に突っ込んだ。


そして氷の壁は——―砕けた。


一撃で。


氷の破片が飛び散る。冷気が霧になって視界を奪った。

白い霧の中を破片が舞い、リーネの頬を切った。


その霧の向こうから——―金色の目がリーネに迫っている。


だがリーネの足は、動かない。


体が竦んでいた。杖を握る手が震えていた。

頭では動けとずっと叫んでいた。


足を動かせ。横に跳べ。なんでもいい。


だが足は、凍りついたように動かない。


恐怖が全身を支配していた。


あの目。あの牙。あの速度。


何もかもが、自分の手に負えないと体が理解してしまっている。


——―死ぬ。


リーネの視界が、スローモーションのように遅くなる。

それでも体が、動く気配はない。


魔狼の牙が、リーネの眼前に迫っている。


口を大きく開けて、笑っているようにも見えた。


金色の目がだんだん大きくなっていく。


すでに、魔狼の息が顔にかかりそうな距離まで来ている。


だが、リーネに魔狼の牙が、届くことは、なかった。


ガギィイン!


鋼の金属音が大きく鳴り響き、

リーネと魔狼の口の間に何かが割って入ってきた。


それは、曲刀だった。


そして、リーネの目の前には一人の男の背中があった。


革鎧。鉄の肩当て。撫でつけた短い黒髪。

汗の匂いと、鋼の匂い。


―――ドルクだった。


ドルクは曲刀一本で、牙を受け止めている。

刃と牙が噛み合って、激しい金属の悲鳴を上げている。


腕が軋んでいる。足が地面に沈み込んでいる。

両足が土を掻いて、ずず、と後ろに押されていく。

今にも吹き飛ばされそうだ。


それでも。


ドルクは一歩も退かなかった。

そして叫ぶ。


「——―何をしている!体を動かせ!」


低い声だ。振り向きもしない。


背中しか見えない。

だがその声が、リーネの体を動かした。


時の体感が、スローモーションから現実の速度に戻る。


リーネは、走れた。レナがリーネの腕を掴んで引いた。


「こっち!」


ドルクは押し返され、魔狼の前足がドルクに容赦なく振り下ろされる。

ギリギリ、曲刀で逸らす。だが衝撃で体が横に吹き飛んだ。


ドルクは受け身を取りながら地面を二回転がって、すぐに立ち上がる。

口の端から血が垂れている。肩当ては歪んでいた。


だが、曲刀は手放していない。


アクロスがドルクに駆けつける。


二人は一瞬だが目が合った。


だが二人に言葉はなかった。


先にドルクが動いた。

考えるよりも先に。意識よりも先に。


俺が動けば、アクロスも反対に回るか。

やつにとどめを任せる。


なぜかはわからないが、ドルクは確かにそう思った。

そして、そう動いた。


ドルクは前に出る。あの何もかもが異常な魔狼の前に。


曲刀を低く構えて、魔狼の正面に立つ。

金色の目がドルクを捉えた。魔狼は、笑うように牙を剥いた。


「いい目をしてるじゃないか。遠慮なく来いよ」


ドルクは口を結んでいるが、笑っているようにも見えた。


魔狼が恐ろしい速度でドルクに飛びかかる。


ドルクは迷わず横に跳んだ。跳びながら、曲刀で前足を斬りつける。

深くはない。だが注意を引くには十分だ。


魔狼がドルクを追う。


ゲルツが右から走り込んできた。


長剣を両手で握り、全体重を乗せて振り下ろした。

ゲルツの刃は魔狼の後ろ足を深く斬った。


魔狼の鮮血が飛び散った。

その血は先ほどの統率個体より赤黒く、飛び散った血からは紫色の靄が滲んでいる。


魔狼が苦悶の咆哮を上げた。

後ろ足がよろめく。バランスが崩れた。


動きが一瞬止まった。


「―——今だッ!」


ゲルツが叫んだ。


「アクロスッ、やれ!」


ドルクも叫ぶ。


アクロスががら空きの背後に飛び込んだ。


アクロスソードを両手で握り、

魔狼の脇腹に、全体重を乗せて突き刺した。


黒紫の刃が、根元まで沈んだ。

刃が肉を割く感触が両手に容赦なく伝わってきた。


魔に浸食された血が大量に手に流れてくる。

熱い。その血は確かに熱かった。


魔狼が絶叫した。禍々しい、鼓膜が破けそうなほどの声だ。


アクロスは剣から手を放し、魔狼と距離を取った。

だが魔狼は口から血を吹き出しながらも、アクロスを睨みつける。


アクロスは——―魔力の回路を開いた。


原初の奔流——―雷。


雷撃の滑走路を、一切の加減など考えず、魔力を込めて描いた。

これで、決める。


そして、アクロスは突き刺さった漆黒の刃を指差した。


「—――雷よ、落ちろ!」


激しい轟音と共に、紫電が一直線に漆黒の刃に走る。


眩いほどの白い光が森を灼き、けたたましい轟音が反響して、空気が裂ける。

地面が揺れた。一瞬で焦げた匂いが鼻を突く。


剣から魔狼の体内に雷撃が走り回り、魔狼は後ろ足で立ち上がり、絶叫する。

魔狼の全身、目、鼻、耳、口のすべてから煙が噴き出す。


そして、巨体はゆっくりと横に倒れた。

地面を揺らし、土煙が上がった。


魔狼の動きは、完全に止まった。


金色の目から、光が消える。額の紋の明滅も、消えた。


——―そして、静寂。


誰も、動かなかった。


魔狼に刺さったアクロスソードは霧のように溶けて、消えていた。


アクロスの膝ががくりと揺れた。


右腕が痺れている。指先の感覚が薄い。

胸の奥から、ごっそり魔力を引き抜かれたような空虚さがあった。


アクロスは膝に手をついた。

汗が地面にぼとぼとと落ちる。


「……はぁ~……さすがに、終わったか?」


ゲルツが長剣を地面に突き立てて、額の汗を腕で拭った。

息が上がっている。だが目は周囲を見回して、まだ警戒を解いていない。


数秒の沈黙の後、ゲルツが大きく息を吐いた。


「——―あぁ。終わった」


辺りを見回す。

魔狼の死骸があちこちに転がっている。


灰色の毛皮と、血と、溶け残った氷の壁の欠片。


だが——―


全員、生きていた。


マルコが岩に背を預けて座り込んでいた。

脇腹を手で押さえている。指の隙間から血が滲んでいる。息も荒い。


リーネが駆け寄って、止血剤をマルコの傷口に当てた。

しっかり押さえて、血を止めていく。


「じっとしてて。出血が多いわ。動いたら悪化する」


「すげえいてぇよ……でも、みんな生きてるな」


マルコが痛みに顔を歪めながらも、歯を見せて笑った。


クロがマルコの傍に来て、地面に伏せた。

鼻先をマルコの腕にぐいと押しつけて、そこから動こうとしない。


「……おっ、クロ。

お前、俺を心配してくれてんのか」


わふ。


小さく、一度だけ鳴いた。

尻尾が三回、振れた。


マルコの目が潤んだ。


「やべぇ。痛みより嬉しさで泣けてくるなこれ」


「泣くなら血が止まってからにしなさい。動くんじゃないの」


リーネが呆れた声で言ったが、その口元は少しだけ笑っていた。


レナの肩に、銀色の影が降りた。


フレスだった。


レナの肩に——―初めて、止まった。


「えっ……フレス?」


フレスが小さく、ぴぃと鳴いた。

重さが肩に乗っている。


銀色の羽毛が頬に触れた。温かい。


「嘘。嘘でしょ。朝はそっぽ向いてたのに」


レナの目がじわりと潤んだ。


「戦いの間ずっとレナのことも見てたわよ、この子。

私のことを助けてくれたのもちゃんと見てる。

ありがとう、レナ」


リーネが手当ての手を止めずに顔だけレナに向けて言った。


「あたし……合格ってこと?」


フレスがもう一度、ぴぃと鳴いた。


レナが泣きそうな顔で笑った。


ドルクは少し離れた場所に立っていた。

曲刀の血を布で丁寧に拭いている。慣れた手つき。


口の端の血は、もう乾いて黒くなっていた。


アクロスがドルクに近づいた。


「ドルク。ありがとう。

お前がリーネの前に入ってくれなかったら——―」


「俺は、仕事をしただけだ」


ドルクが短く言い切った。


「お前、俺の動きを——―」


「勝手に体が動いた。それだけだ」


ドルクが曲刀を鞘に収めた。

布を畳んで、腰の袋にしまう。


だがその横顔は、いつもの硬さとは少し違った。

焚き火の前で語った、あの静かな表情に近い。


ドルクがアクロスをちらりと見た。


「アクロス、悪くない戦いだったな」


それだけ言って、背を向けた。


アクロスはその背中を見つめた。


この男と初めて会った時は、リーネを捕らえようとしていた。

その男は今日、リーネを守った。自分の命を使って、迷いなく。


俺があの時、ドルクを殺していたら、今日、リーネは死んでいたかもしれない。

俺はあの時、ドルクを殺さなかった。そして、リーネは助かった。


あの記憶消去が正しかったのかどうかは、まだわからない。


だが決して、間違ってもいなかった。

アクロスは、そう思えた。


ゲルツが声を上げた。


「負傷者の手当てを急げ。動ける者は周囲の警戒と魔狼からの素材回収だ。

素材についてはギルドが一括して買い取り、参加した全員に報酬を追加配分する。

——―皆、本当に、よくやった」


森の木々の隙間から、昼の光が窪地に差し込んでいた。

戦いの匂いが風に流されていく。


血と土と、焦げた空気。


その中で、全員が生きて立っていた。


アクロスが空を見上げた。

木々の隙間から覗く空は青くて、白い雲が流れている。


「……全員で帰る、か」


昨夜、焚き火の前で自分に誓ったことだ。

今、それは叶っている。


——―確かに、前に進んだ。そう思えた。


クロがアクロスの足元に来て、鼻先を膝にぐいと押しつけた。


「お前もよくやったな」


わふ。


フレスがレナの肩からひょいと飛んで、

リーネの肩に戻ってきた。ぴぃと甘えた声で鳴いた。


「フレスも、よく頑張ったわね」


ぴぃ。


リーネがマルコの手当てを終えて立ち上がった。


杖を握り直して、アクロスの隣に来た。


「……アクロス。すごく、怖かった」


リーネはアクロスの袖を掴む。安心したのか。手が震えている。


「あぁ、本気で危なかった。駆けつけてやれなかった。すまない……」


アクロスは唇を噛み締めて、目を伏せていた。


リーネを、守れなかった。

ドルクがいなければ、リーネは間違いなく死んでいただろう。


アクロスは本気で反省していた。


魔法も技も、戦闘技術も、これから本気で磨かなければいけない。


考えて、行動できることは山ほどある。


「アクロス。みんな、動けたわ。そして私も生きてる」


リーネが、袖を掴んでいた手を、ゆっくりとアクロスの手に重ねた。

震えていた指先は、もう、震えていなかった。


「お互いの反省会は家に着いてからにしましょう。

今は、無事を喜んで、グラザに帰りましょう。みんなで」


「……そうだな。みんなで、帰ろう」


あの町には、知り合いもたくさんいる。

無事帰ったことを伝えよう。


町の灯りが、冒険者たちの帰りを待っている。


帰る場所がある。


それがどれだけ幸せなことか、


今の自分たちには——―よくわかっている。


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