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第33話  赤角亭の夜

金色の太陽が西の空に傾き始めていた。


裏庭の雑草はまだ半分も片付いていなかったが、

今日はここまでだ。


オルガとの夕食の約束がある。

待ち望んでいた、肉食い放題だ。


そして……酒も飲めるかもしれない。


楽しみすぎるだろ。異世界最初の飲みだ。


気合を入れて臨もう。


「アクロス、そろそろ支度しましょうか」


「あぁ、そうだな。早く肉が食いてぇよ」


リーネが土のついた手を井戸の水で洗った。


そしてアクロスが、変身魔法をかけ直す。

角が消えて、深紅が焦げ茶に戻る。


クロとフレスには裏庭に水と干し肉を多めに置いておく。


「クロ、フレス、ごめんね。私たち約束があって少し出かけてくるわ。

夜には戻るからいい子にしててね」


リーネがクロとフレスを撫でながら言い聞かせる。


ぴぃ。

フレスが不満げに鳴いた。

翼をばたつかせて、リーネの肩に飛ぼうとする。


「だめなの。酒場に動物は連れていけないわ」


フレスがぴぃぃ、と長く鳴いた。

抗議が強い。


クロはすでに裏庭の隅に丸くなっていた。

「わかってる」という顔だ。尻尾が一度だけ揺れた。


クロの方が大人だ。


「クロ、フレスのことよろしくな」

アクロスもクロを撫でた。


わふ。


リーネは裏口を閉めて、家の鍵をかけた。


「あの二匹を家に置いて出かけるのは初めてだなぁ」


「そうね。でも裏庭なら、宿の囲いよりずっといいわ」


「二匹でちゃんと留守番できるかな」


「大丈夫よ。二匹ともちゃんとわかってくれてる」


「たぶんだけど……」


少しだけ不安になりながらも、

二人は家を出てオルガと待ち合わせている店に向かった。


---


二人は北門に向かって歩く。


金昏の光が通りを橙色に染めていた。


商店の灯りがぽつぽつと点き始めて、

夕方の買い物客と帰宅する職人が行き交っている。


肉を焼く匂い。酒場から漏れる笑い声。グラザの夕暮れは賑やかだ。


北門の手前に、その店はあった。


赤角亭。


木造の二階建て。壁が煤で黒ずんでいるが、それが逆に年季を感じさせる。


入り口の上に看板がかかっていて、鹿の角が二本、交差するように飾ってあった。

角の先端が赤く塗ってある。


入り口の横に長椅子があった。


そこには見知った男が座っていた。


日焼けした首筋。頭に巻き布。

太めの体格に、丸顔の笑い皺。


オルガは膝に手を置き、姿勢よく座って、通りを眺めている。


待ち合わせている時でも町や、人を観察しているように見えた。


だが、二人の姿が目に入った瞬間、顔がぱっと明るくなった。


立ち上がって、両手を広げる。


「おぉー!来た来た!いやぁ待ちくたびれたぞ!」


「すみません、待たせてしまいましたか?」


リーネが恐縮している。


「わはは、冗談だ!わしも今来たところだ!」


オルガは豪快に笑って、アクロスの背中をばんと叩いた。


いてぇ。なんでみんな俺を叩くの?たまにはリーネにしてくれよ。

とアクロスは思った。


「いやぁ嬉しいねぇ!さ、入ろう入ろう!

今日は腹が破けるほどうまいもん食おう!」


「オルガさん、今日は本当にありがとうございます」


リーネが丁寧に頭を下げた。


「いいんだ!二人と気兼ねなく飯を食うのをわしは楽しみにしてたんだ。

あんたらに世話になったことはこれぐらいで帳尻が合うかどうかもわからん。

今日はわしの奢りだぞ!遠慮は聞かんぞ!」


オルガは最高にご機嫌のようだ。


「そんな……奢りだなんて悪いわよ」


「リーネ嬢ちゃんは、わしをケチな男にしたいのかい?」


「いえ、そういうわけじゃ……」


「なら決まりだ!なあ旦那!」


オルガがアクロスを見た。


「ありがとう!オルガさん!今日は頭がおかしくなるまで食って飲むぞぉ! 」


道中、じっと黙ってたアクロスが急に騒ぎ出した。


あまり喋らなかったのはもはや肉と酒のことしか、

考えられない状態だったのかもしれない。


「わはは!そうだ!さすがだなぁ、旦那!嬉しいよ!」


オルガはアクロスとがっしり肩を組み、店の中へ入っていく。


「……もう、恥ずかしいからお店で無茶苦茶なことしないでよ」


リーネは心配そうに後をついていく。


「リーネ!肉だ!酒だ!遠慮してる場合じゃないだろ!」


アクロスは後ろを振り向きながら早く来いといわんばかりに手を振った。


「そうだ!食うぞ!飲むぞ!」


オルガが乗る。


「わかったから……」


リーネも呆れた顔をして店に入っていく。

その口元は少し緩んでいた。


---


店の中は、匂いの洪水だった。


天井が高くて、太い梁が何本も渡してある。


中央に大きな石の炉があって、鉄の格子の上で肉が焼かれていた。

脂が炭に落ちて、じゅう、と音がする。


煙が天井に向かって立ちのぼり、換気口から外に抜けていく。


テーブル席が二十ほど。半分以上が埋まっている。


冒険者風の男たちが杯を傾けていたり、商人同士が帳面を広げて話し込んでいたり。


奥では獣人らしい長身の男が、人間の冒険者と肩を組んで歌っていた。


賑やかだが、荒れてはいない。

食い物がうまい店は客の質もいい。


アクロスは前世の経験でそれを知っていた。


オルガが手を振った。


「よう、マスター!いつもの席、空いてるか!」


カウンターの奥から、太い腕の店主が手を振り返した。


「空いてるぞ、オルガ!壁際だ!」


そのやりとりは、完全に常連だ。


壁際のテーブルに着いた。

木のテーブルに深い傷がいくつもある。


何年も、多くの人がこのテーブルで賑やかな食を楽しんだ証だ。


オルガが慣れた手つきで注文した。


「炭火焼きの厚切り肉を三人分!

根菜の付け合わせと、パンと、チーズの薄切りもくれ!

飲み物はわしはエール。旦那は何がいい?」


「俺もエールで!」


酒だ。ついに酒が飲める。今日は異世界人生で最高の日だ。


アクロスは早く飲みたくてうずうずしている。

握り拳の両手をテーブルの上に置き、体が上下に揺れている。


「おっ、いいねぇ!旦那!飲める口か!」


「がぶがぶ、いくよぉ!」


アクロスは、酒と肉に頭が支配されてテンションがおかしくなってきている。


「わはは!嬢ちゃんはどうだ?」


「私は果実酒を……。甘いのがあれば嬉しいです」


「りんごの果実酒があるぞ。甘くて飲みやすいやつだ」


「じゃあそれで、お願いします」


リーネはちらちらとアクロスを見ている。

この人、何かやらかしそう。と不安そうに見ている。


注文が通って、すぐにエールと果実酒が運ばれてきた。


オルガが杯を掲げた。


「さぁ、飲もう!再会を祝して!」


三つのグラスがかちん、と合わさった。


オルガがエールを一気に半分飲んだ。

豪快な飲みっぷりだ。


アクロスも負けじとエールを煽った。

冷たい。苦い。だがうまい。最高にうまい。

もう、死んでもいいほどにうまい。


喉を通る時に麦の香りがふわっと鼻に抜ける。


前世のビールとは少し違うが、この感覚は覚えている。

仕事終わりの一杯。あの感覚だ。


「ぷはぁ……っ!うまい!うまいよぉ!オルガさぁん!」


アクロスは店に響く声で叫ぶ。


「はっはは! いい飲みっぷりだな、旦那!」


「……おいしい。甘いのに、ちゃんとお酒の味がする」


リーネは静かにお酒を楽しむ派だった。


「だろう?ここの果実酒はこの辺じゃ一番だとわしは思っとるよ」


「いいお店ですね……」


リーネもおいしいお酒に笑顔になる。


「気に入ってもらえて嬉しいよ。嬢ちゃんたちもよかったら来てやってくれ」


「はい……」


依頼がうまくいった時くらいはこういうお店もいいかも、とリーネは思った。


「ところで、アクロス。あなた、お酒好きなの?」


「好きに決まってる!前は毎晩……いや、まあ嗜む程度には、うん」


「さっきの叫びは、嗜む程度には見えなかったけど」


「細かいことはいいんだよ!」


アクロスはぐいぐい飲んでいる。


---


二杯目のエールが来た。

アクロスはまた半分を一気にいった。


「おいおい旦那、ペースが早いぞぉ」


「いやぁ、うまいんだなぁ! これが!」


「あなた、もう顔が赤くなってきてるわよ……」


「気のせいだよ」


気のせいではなかった。

耳まで赤い。酔いが回り始めている。


アクロスの気分は最高だった。


そしていよいよ、肉が来た。


炭火で焼かれた厚切りの肉。

表面に焦げ目がついていて、中は赤みが残っている。


切った断面から肉汁がじわりと滲み出す。


隣に根菜の付け合わせ。

人参に似た橙色の根菜が、蜂蜜で照りをつけて焼いてある。


焼きたてのパン。外が硬くて中がふわふわ。

チーズの薄切りが小皿に盛ってある。


「さあさあ、遠慮するなよ!冷めないうちに食え食え!」


「待ってたんだよ!これをよぉ!」


アクロスが勢いよく肉を一切れ口に入れた。


噛んだ瞬間、肉汁が溢れた。炭の香ばしさ。肉の甘み。


塩と、何かの香草で下味がつけてある。

噛むほどに旨みが口の中に広がっていく。


串焼きとは次元が違った。


「……っ!!」


アクロスは目に星が散るほどの衝撃を受けた。


「どうだ!旦那!うまいか!?」


「うまいよぉおおお! オルガさぁぁん!最高だ!」


アクロスは感極まって立ち上がり、店中に響く声で叫んだ。


「ちょっと、もう、座ってよ。恥ずかしい……」


リーネが顔を手で隠しながらアクロスの袖を引っ張る。


「がはは!そうだろう!わしはグラザに戻った時は必ずここに寄るんだ。

ここの肉を食って酒を飲む。すると、あぁ、帰ってきた!

って全身が生の喜びに包まれるんだよ!」


「いいな! それ、あんた最高だよ……」


アクロスは無心に食いながら返事をした。


リーネも一切れ口に運んだ。

目を閉じて、ゆっくり噛んでいる。


「……すごい。火の通し方が絶妙。表面だけ高温で焼いて、

中は余熱で仕上げてる。これは、鹿肉ですか?」


「おぉ、嬢ちゃん、料理人みたいだな。ここにはいろんな動物の肉があるが、

店の名前の通り赤角鹿の肉が特にうまい!この肉がそうさ!」


「赤角鹿……すごくおいしい。覚えておきます。

私、料理が好きなんです」


「そうかぁ!いやぁ、旦那は幸せ者だなぁ」


「アクロス、聞いた?」


「うん、聞いてるよ。すごくおいしいよ」


何も聞いていない。

肉に意識が全部もっていかれている。


「ほんと殴ってやりたいわ」


オルガが腹を抱えて笑った。


「わはは!二人のやりとりは本当に最高だ!わしも嬉しくなる!」


「……もう」


リーネの耳が赤い。

果実酒のせいか、それ以外のせいかは不明だ。


---


肉を食べ進めながら、アクロスが思い出したように報告した。


「オルガさん。俺たち、トマスさんに家を借りられたよ。

二人に紹介してもらったおかげだ」


オルガの顔がぱっと明るくなった。


「おぉ!そりゃよかったな!あのじいさんが、貸したか。

旦那たちはよほど気に入られたんだなぁ」


オルガは深く頷いている。


「だがな……わしもゲルツもな、

あんたたちにならあのじいさんも貸すだろうと思ったんだ。だから話した」


「ほんとに助かったんだ。ありがとう」


「わはは!気にするな!礼代わりにじいさんとの話を聞かせてくれ!

あのトマスが普通に貸すわけないからな!」


アクロスは頷き、トマスとのやり取りをかいつまんで話した。


「じいさんには三つ質問されて、嘘はつくなと、怖い顔で言われた」


「ははは!あの人らしいな。トマスはいつもそうなんだ。

耳より先に目で知る。そして口で確かめて、行動で決める。昔からそうだ」


「オルガさんはトマスさんと長いの?」


リーネが聞いた。


「もう二十年以上の付き合いだな。わしがまだ駆け出しの行商人だった頃、

最初にグラザに来た時に知り合ったんだ。あの頃のトマスはまだ四十手前で、

町じゃ一番の剣士だった。背筋がぴんと伸びていてな、

黙って立ってるだけで周りの空気も変える男だった」


「今はちょっと猫背だけどな」


「はっはは!まあ歳には勝てんよ。だが目だけは変わっとらんだろう」


「ああ。鋭い目だったよ」


「あれでもだいぶ丸くなった方だぞ。若い頃はもっと怖かったらしい。

ゲルツが教わってた頃は毎日泣かされてたって言ってたよ」


オルガがエールを一口飲んで、少し声を落とした。


「トマスは不器用な男でな。人付き合いが苦手なわけじゃないんだ。

人を大事にしたい気持ちが人一倍ある。ただ、彼の人生にもいろいろあった。

だから本当に信じられる相手にだけ、扉を開けるようになった」


「お昼ごはんにも誘ってもらったの。昔の癖で二人分作ってしまうって言ってたわ」


リーネが静かに言った。


オルガの目が一瞬だけ遠くなった。


「……そうか。トマスが、その話をしたのか」


少し間があった。


「わしからは詳しくは言えない。トマスも語らないだろう。だがその話はな、

トマスにとってはとても大事な部分なんだ。

あの家に古い二脚の椅子がずっと残ってるのは、そういうことだ」


二脚の椅子。


初めてトマスの家に入った時に、少しだけ気になったあの古い椅子。

誰かが長い間使い込んだ跡のある、あの椅子。


「あんたらが家を借りてくれたのは、たぶんトマスにとっても良かったと思う」


オルガがにっと笑った。

だがその目の奥に、友人を案じる温かさがあった。


「わしから言うのは変な話だがな、大事にしてやってくれんか。あの偏屈爺さんを」


「もちろんだ」


アクロスは笑顔で返す。


「リーネなんかもう、『トマスおじいちゃん』って呼んでるからな」


「大事に付き合います。トマスおじいちゃんは優しい人だもの」


「おじいちゃん!?はーっはっはっは!

泣く子も黙る、あの鬼のトマスを正面からおじいちゃん呼ばわりする嬢ちゃんがいるとは!いやぁ、こりゃ傑作だ!」


オルガがテーブルを叩いて笑った。

涙が出るほど笑っていた。


「いやぁ、お腹が痛い。ゲルツにも聞かせてやりたいよ。

『トマスおじいちゃん』は怒らなかったのか!?」


「最初は怒って拗ねてたわ。

でも最後には『勝手にしろ』って言ってくれたの。嬉しかった」


「あのトマスが拗ねてるって!最強の嬢ちゃんだな!

そりゃめちゃくちゃ気に入られてるな。『勝手にしろ』はトマスの精一杯の許可だ」


オルガが笑いの涙を拭いた。


「いやぁ、いい話を聞いた。今度トマスに会ったら言ってやろう!

『おはよう。トマスおじいちゃん』ってな」


「やめてよ……私たちが怒られそう」


「はっはっは!」


---


話は自然に広がっていった。今度はオルガの話になる。


「わしは、明後日から東回りの行商になるんだがな」


オルガがエールをお代わりしながら言った。


「今度はガルド連峰の手前まで行くんだ。ドワーフの鉱石を仕入れてな、

この町や南の商人に卸す。東にはデモニア高地の中に続く唯一の山道があってな。

最近はアルセイドの軍が山道から中央回廊までびっしり駐屯しているらしい。

魔王が討伐されてからだ。誰も事情がわからず不穏な空気になっている」


「東に人間たちの軍……魔王軍はもう壊滅したんじゃ?」


リーネが返す。


「そうだ。だから余計に皆困惑している。魔王軍の残党処理にしては数が多すぎる。

明らかに何かに備えている雰囲気らしい。二人も気に留めておいた方がいいぞ。

近く何かが起こるかもしれん」


「なんだか怖い話だな……教えてくれてありがとう」


東には何故か大勢の人間軍か……。覚えておこう。


「反対の西の方はどうなっているの?」


リーネが聞いた。中央回廊の情報はいくらでも欲しい。


「今は大きな騒動は聞いてないがな。西にはエルフのシルヴェーンがあるんだが、

あそこは基本的に人間は入れない。たまに交易で出てくるエルフがいるくらいだ。

エルフの木工品は素晴らしいんだが、なかなか手に入らん。

わしも一度しか取引したことがないよ」


「エルフはこの町でも珍しいのね……グラザ付近は今どんな感じなんですか?」


「魔物は増えた。だがギルドや各町の自警組織でなんとか今はやれてる。

この辺りの集落はどこも小さいが、人は温かい。タネル村に行っただろう?

あんな感じの村が街道沿いに点在してる。北に行くほど人が減って、

山脈に近づくと冒険者や猟師しかいなくなるがな」


オルガが肉をもう一切れ口に放り込んだ。


「街道を歩いてるとな、同じ道でも季節で景色が変わる。

会う人も変わる。でもな、変わらないものも確かにあるんだ」


前にも言っていた。これはオルガの信条のようなものかもしれない。


「二人と会えたのも、街道のおかげだ。

自分の足で道を歩かなきゃ、拾えない縁ってのがあるんだ。

わしは、稼いだ金より拾えた縁を大事にしたいんだよ」


オルガがにかっと笑った。

商人の顔ではなく、ただの人懐っこいおっさんの笑顔だった。


---


肉と酒が腹に入り、少し落ち着いてきたアクロスはさりげなく聞いた。


「オルガさんは、魔族と会ったことあるんですか」


オルガの表情は変わらなかった。嫌悪も、恐怖も、構えもない。

普通の話題として受け取っている。


「あるさ。昔は年に二、三回は取引してた。

中央回廊の北寄りにいくつか魔族の集落があってな。薬草が特に質が良かったんだ。

人間の薬師じゃ真似できない品質のものを出してくる。

こっちは穀物や塩を持っていく。普通の商売だったよ」


「今は?」


「ここ二、三年は会ってないな」


オルガの声が少しだけ静かになった。


「集落がいくつか焼かれたって話はわしもよく聞く。

残ってるところも、今は人間とは距離を置くようになったらしい。

仕方ないわな。そんな仕打ちをされりゃ、もう人間を信用なんてできないだろう」


「オルガさんは魔族に偏見とか、ないんですか」


リーネがグラスを持ったまま聞いた。

声は落ち着いていた。


「ないさ」


オルガがあっさり言った。


「角が何本生えてたって、ちゃんとした商品を出して、

ちゃんと対価を払う相手なら、わしにとっちゃ大事な取引相手だ。

人間の商人の方がよっぽど嘘つきが多いぞ」


笑って言ってるが、本音だろう。


「魔族の薬師がな、取引の最後にいつも薬草を一束おまけにくれたんだ。

『道中で怪我したら使え』ってな。

……彼らもな、商売人でありながら、心を持った人なんだよ。

それをわしは身をもって、よく知っている」


リーネの瞳が少し揺れた。噛みしめるように聞いている。


オルガがエールを一口飲んだ。目元に少しだけ皺が寄った。

笑い皺の中に、別の感情も混じっていたように見えた。


「このあたりにも魔族の集落は、あったんですか」


リーネが聞いた。


「あった。というべきか、今はわからん。

一番近いところはグラザから北に半日ちょっと行った森の中だな。

小さい集落だが、薬草と革細工が上手い連中がいた。子供の魔族もいた。

二、三年前まではたまに市場にも来てたが……。わしもこの一年は寄れてない」


オルガはエールの杯を見つめていた。


リーネとアクロスは、目を合わせた。

間違いない、あの燃やされた集落だ。


「わしはな、商売ってのは相手がいて初めて成り立つものと思ってる。

人間だろうが魔族だろうが、お互い顔を見て、話ができて、信用ができる。

ならば、角が生えてようが、羽が生えてようが、尻尾が生えてようが、

わしには関係ないよ」


リーネの手が膝の上で小さく動いた。


「……オルガさんは、いい人ですね」


「いい人じゃないよ。わしは商人だ。いい取引ができる『相手』は大事にするのさ」


オルガがまたにっと笑った。


だがその目は、優しかった。


---


アクロスが三杯目を飲み終えるころ、

オルガが話題を変えた。


「ゲルツから聞いたが、二人とも試験ではすごかったらしいじゃないか!」


「いや、そんな大したことは……」


アクロスが戸惑うように答える 。


「あのゲルツを降参させるなんて、大したことだよ!

あいつは三十年近く剣だけで生きてるんだぞ!どうやったんだ?」


「いやぁ、氷で足を固めて、雷で囲んだだけですよ」


「すごい魔法じゃないか!それを『だけ』って言うのか!」


オルガは笑った。


「嬢ちゃんもすごかったんだって? レナを杖で圧倒したとか」


「圧倒はしてないの。レナさん、強かったから。私も必死だった」


「二人とも謙虚だねぇ。でも★3で仮登録ってのは立派なもんだ。

この町じゃそうそういないんだぞ」


オルガが肉の最後の一切れをパンに乗せて食べた。


「ゲルツとは長い付き合いでな。あいつから冒険者の話はよく聞くんだ。

最近だと曲刀の男の話も聞いた。わしもギルドで一度だけ見たことがあるな。

雰囲気が他の冒険者とは明らかに違う」


「ドルク……ですか」


オルガがドルクを知っているのは意外だった。

アクロスは聞いておきたい。と思った。あの男とは妙な縁がある。


「おぉ、旦那も知ってるのか?」


「試験の時にギルドにいました。少しだけ話もした」


オルガが頷いた。


「ゲルツから聞いた話だが、ドルクは三年ほど前にこの町に流れて来た男だ。

以前からたまにギルドで依頼を受けてはいたが、何故かここ最近はよく顔を出すようになったらしい。腕は確かだそうだ。★3の剣士で依頼はきっちりこなす。

だが動きと目が傭兵のそれだという。あの剣の振り方は戦場を生きた人間だとさ」


「戦場……ドルクは元傭兵なんですか?」


「おそらくはな。ここに来る前の経歴はわからんらしいが、

本人も隠す気はないようだ。傭兵ってのはな、冒険者や旅人とも違う。

冒険者は何でも屋だ。だが傭兵は、戦争屋だ。戦場で命を使って金を稼ぐ者たちだ。

価値観がかなり違う。単純に善人とか悪人とか、そういう話でもないんだ。

奴らはプロなのさ。良くも悪くもな」


リーネが果実酒のグラスをゆっくり回しながら聞いている。


「傭兵の中にはな、魔族の討伐を請け負う連中もいる。

今や南ではそれが一番金になる仕事だからな。魔族の角一本で金貨が動く世界だ。

傭兵にとっちゃ、魔族は敵でも味方でもなくて——―値段がつくもの、なんだよ。

あいつらは、自分たちの命すらもそういう考えで割り切る時がある」


「ドルクも……そういう仕事を?」


「わからん。だがな、ゲルツが聞いた話だと。

ドルクは冒険者ギルドの仕事もするが、南区画の闇市場と繋がりがあるらしい。

出入りしてるのを見た者がいると言っていた」


沈黙が一拍落ちた。


アクロスの中で、ドルクの像が変わった。


出会った時は、リーネを捕えようとしたただの悪党のリーダー。

そして「記憶を消した敵」だった。


ギルドではアクロスたちを見て、「面白いものを見せてもらった」と言った。

去り際にアクロスを見て、曲刀の柄に触れて、すぐ離した男。


今は、自分たちの命すらも金勘定にする元傭兵。

南区画の闇市場と繋がりのある闇が深い男になった。


アクロスたちのこれからに、まだ影響を与え続ける存在になるかもしれない。


そして明後日、この男と一緒に森に入ることになる。


「だからって悪い男だと言いたいわけじゃないよ」


オルガが付け足した。


「わしも直接話したことはないが、ゲルツの話を聞く限りは筋は通す男らしい。

依頼を受けたらきっちりやる。仕事中は仲間も簡単には見捨てない。

だが仕事が終われば関係ない。そういうタイプだ」


「背中は預けていいが……」


「心は決して預けるな。傭兵ってのはそういう生き物だ」


オルガが笑って言ったが、目は笑っていなかった。


討伐で一緒になることは、まだオルガには言わなかった。

心配は、かけたくなかった。


---


話が一段落して、

四杯目のエールが来た頃だった。


オルガが肉の追加を頼んで、取り分けてくれた。

アクロスは相変わらず、がぶがぶ飲んでいる。


「ほら旦那、もっと食えもっと飲め。まだ若いんだから遠慮するなよ」


「ドルクさぁん、俺、若くないよぉ……」


アクロスはもう完全に酔っていた。オルガとドルクもわからなくなっている。

顔が赤い。目がとろんとしている。


だが箸は止まらないし、杯も止まらない。


「わははは!わしゃオルガだ!曲刀なんか持ってないぞ!面白すぎるだろ!」


「わしから見りゃ旦那も十分若いんだがな! 嬢ちゃんも、ほら、もう一切れ」


「もう十分いただいてるわ……」


「肉は食える時に腹いっぱい食う!腹が裂けても食う!それがわしの信条だ!」


リーネが笑った。


「じゃあ、もう少しだけ」とパンに肉を乗せて食べる。


「最高っすよぉ、オルガさぁん」


アクロスは机に顎を乗せて相槌を打っている。

今度は間違えていない。


リーネは冷たい目でアクロスを見ている。


オルガが笑いながら肉を頬張る。


そして、アクロスも手を伸ばした。


肉を口に入れた。噛んだ。旨い。


エールをまた一口。

うまい。少しだけ苦い。だがそれがいい。


周りの喧騒が、耳に心地いい。

笑い声。杯が合わさる音。炭がはぜる音。


目の前にオルガがいる。にこにこしながらエールを飲んでいる。


隣にはリーネがいる。りんごの果実酒で頬が少し赤くなっている。


ここは異世界の酒場で、テーブルを囲んでいるのは異世界の行商人のおっさんと、

いつか、ラノベで読んだような魔族の女の子だ。

そして自分は、二週間前にトラックに轢かれた、これまた別の異世界のおっさんで。


——―ふいに。


何かが、胸の奥で崩れた。


離婚してからの二年間。

一人の夕飯。弁当。缶ビール。テレビの音。

誰かと向かい合って飯を食う機会が、いつの間にかなくなっていた。


職場の飲み会はあった。でもあれは仕事の延長だ。

帰りの電車で、酔いが覚めるのと一緒に、全部消えてしまうような時間だった。


今は違う。仕事じゃない。


真剣に生きると決めた、新しい人生の一場面だ。


そして、目の前に、心から笑ってくれる人たちがいる。


それが、こんなに——―


「……おい、旦那? どうしたんだ?」


オルガが覗き込んだ。


アクロスの目から、涙がこぼれていた。


ぽろぽろと。止まらない。


本人が一番驚いていた。


「あ、あれぇ……なんだ、急に」


「え、ちょっと、アクロス?」


リーネが慌てている。


「な、泣いてるの? 何、どうしたの? お腹痛いの?」


急に泣き出すおっさんを見てリーネはテンパっている。


「違う。違うんだぁ。お腹には幸せが詰まってるんだ。ただ——―」


言葉にならない。


肉がうまくて。久々の酒が温かくて。

向かい合って笑いながら飯を食ってくれる人がいて。


それだけのことが、こんなにも——―


「すまん……。肉と酒がうますぎたんだよぉ。うおぉん!」


号泣するおっさん。出た言葉がそれだった。


「うわはは! 旦那は泣き上戸だったか!最高だな!

この男、肉と酒で泣いてるぞ!」


オルガが腹を抱えて笑った。テーブルを叩いて笑った。


隣のテーブルの冒険者が何事かと振り返るほど笑った。


「いやぁ、旦那!あんたと出会えてほんとによかった!

肉と酒で泣くおっさんは初めて見たぞ! こんなに笑った夜は久しぶりだ!

はっはっはっは!」


アクロスは袖で目を拭いた。


「……笑うなよぉ、ぐすん、ぐすん」


アクロスがずびずびと鼻をすすりながらエールを飲んだ。


泣きながら飲んでいる。だが杯は手放さない。


「いいぞ!ほら旦那、もう一杯いっとけ!

泣きながら飲む酒も悪くないだろ!」


「もう、おっさん二人で泣いたり笑ったりしないでよ。

周りがすごい見てるわよ」


「うぅ、見ないでくれよぉ……ぐすん」


「わはは!やめてくれ!こんなの笑うに決まってるだろう!

これは一生話のネタにするからな!」


リーネは柔らかい表情ではあるが、笑ってはいなかった。


少しだけ微笑んで、目を伏せて、果実酒のグラスに視線を落とした。


この人が泣いている理由は、たぶん、私だけが知っている。


前の世界で四十三年間、ただの人間として普通に生きてきた人。

突然、家族とも何もかも別れて、一人ぼっちになった人。


その人が今、何もわからない異世界の酒場で、

向かい合って、笑い合って、食事をする相手がいることに泣いている。


リーネは何も言わなかった。


ただ、テーブルの下でそっとアクロスの手に触れた。


ほんの少し。

指先が触れるだけ。


すぐに離した。


慰めるでも、からかうでもない。

ただ、ここにいる、と伝えるような触れ方だった。


アクロスは泣きながら、ちらりとリーネを見た。


だがリーネは何食わぬ顔で果実酒を飲んでいた。


酒の酔いか、気恥ずかしさなのか、わからない。


でも耳は、赤くなっていた。


---


アクロスが落ち着いてきて、オルガが笑い疲れた頃、


「はぁ、わしも笑い疲れた。嬢ちゃん、旦那をそろそろ休ませてやろう」

と言ってお開きとなった。


会計はオルガが全部持った。


「オルガさん、本当にいいの? 結構な額だったわ……」


「いいんだ。嬢ちゃん、わしは商人なんだ。

いい取引をしたい相手には金を惜しまんのだ。あんたたちとの縁は、金じゃ買えん。

今夜は最高の夜だった。またあんたたちと会いたい。だからわしは喜んで払うんだ」


そして、三人は店を出た。


夜の通りに月明かりが落ちていた。

大月が東の空に高く昇っていて、石畳に青白い影を作っている。


オルガが二人に向き直った。


「わしは明後日には東に発つ。だが、十日ほどで戻る予定だ。

その頃にはあんたらも討伐から帰ってるだろう。

帰ったら、またここで飯を食おう!」


「ええ。もちろん。約束よ」


「約束だぁ、オルガさぁん……」


アクロスはもう完全にダメになっている。


「よし! 約束だぞ!」


オルガが大きな手を二人に差し出した。

そして三人でがっちりと握手した。


オルガの手は、大きくて温かかった。


「ではまたな。二人とも、帰りも気をつけてな」


「オルガさんも行商、ほんとに気を付けていってきてね」


リーネもしっかり伝える。


オルガの最後の一言は、少しだけ声が低かった。

いつもの明るさとは違う、年長者の本音のような響き。


オルガが手を振って、夜の通りを北門の方へ歩いていった。


大きな背中。巻き布の頭。

少し揺れる歩き方。


月明かりの中を、ゆっくりと遠ざかっていく。


二人はしばらく、その背中を見送った。


---


赤角亭からの帰り道。二人だけの夜の大通り。


アクロスはまだ千鳥足だった。

エールを結局四杯以上飲んだ。久しぶりのお酒で、飲みすぎた。


「アクロス!ちゃんと歩いてよ。ふらふらしないで」


「歩いてるよ。ちゃんと歩いてるよ」


「歩いてないの!もう三回、壁にぶつかったでしょ」


「壁の方が寄ってきたんだ」


「寄ってくるわけないでしょ!」


リーネが呆れた顔をしているが、隣から離れない。

何気なく歩幅を合わせてくれている。


夜風が顔に当たって、少しずつ酔いが冷めていく。


「オルガさん、ほんとにいい人ね」


「ああ。最高だぁ。あのおっさんは最高おっさんだぁ」


「はぁ……酔ってるわね」


「酔ってるけど、ちゃんと本音だぁ」


「わかってるわよ」


少し歩いてから、リーネが言った。


「大泣きして、すっきりした?」


「泣いてないよぉ。あれは嘘泣きだぁ」


「それこそ嘘よ……」


「……半分は、酒のせいだ」


「残りの半分は?」


アクロスは少し黙った。

夜風がまた顔を撫でた。酔いがさらに薄れていく。


「……おっさんだからな。歳だな」


リーネが足を止めた。


アクロスも止まった。


「歳じゃないわよ……」


リーネが前を向いたまま言った。


「それは、歳のせいじゃないの」


それ以上は言わなかった。


月明かりの中、二人はまた歩き出した。


---


二人はやっと家に着いた。


リーネが鍵を開けた。

アクロスは隣でふにゃふにゃしてただけだ。


家に入り、裏口も開けると、クロが飛び出してきた。

尻尾が全力で回転している。


前足をアクロスの膝にかけて、顔を押し付けてきた。


「おー、クロぉ。ただいまぁ。いい子にしてたかぁ」


アクロスがクロの頭をわしわし撫でた。


力加減がおかしい。それになんか臭い。

クロは嫌そうな顔をして、ちょっと離れた。


フレスも飛び出してきて、リーネの肩に着地した。

ぴぃぃと長く鳴いた。


「ただいま、フレス。ごめんね。遅くなっちゃって」


リーネがフレスの頭を指先で撫でた。

フレスが首をリーネの顎に擦りつける。


小さな家のリビングに、温度が戻ってきた。


「さ。もう遅いわ。水を飲んで今日は早く寝ましょう」


リーネが水瓶から器に水を注いで渡した。


アクロスが一気に飲み干した。


「ぷはぁ……水もうまいなぁ……」


「それは酔ってるからよ。はい、もう一杯。ちゃんと飲んで」


「はぁい」


「変な返事しないで」


リーネが水をもう一杯注いだ。

アクロスがまた飲んだ。


「さ、私はもう寝るわよ。あなたも早く横になりなさい。

明日は朝から動くんだからね」


リーネが納戸に向かって歩き出した。


その足に、突然、何かが絡みついた。


アクロスだった。


床に這いつくばって、

リーネの足首にしがみついている。


「リーネぇ……寂しいよぅ……おいていかないでくれよぅ……」


「は?」


リーネは無表情になる。


「ひとりはやだよぉ……」


完全に、ただの酔っ払いのおっさんだった。


魔王を目指す男が、床の上で女の子の足にすがりついていた。


「いや、あなたね」


リーネの声が低くなった。


「いい歳した大人が何やってるの?」


「うおぉ、リーネぇ……」


「こら、離しなさい」


「いやだぁ」


いらっとしたリーネの右足が動く。


どかん。


的確に、アクロスの肩を蹴り飛ばした。

手加減はしてある。たぶん。


アクロスが蹴られた勢いのままごろんと仰向けに転がった。


そしてそのまま、目を閉じて動かなくなった。


「……すぅ」


アクロスは寝ていた。


蹴られた衝撃で気絶したのか、もう限界だったのか。

たぶん両方だ。


「……この人は、ほんとなんなの」


リーネが腕を組んで、

床に転がったアクロスを見下ろした。


大の字。口が半開き。

すでに寝息が聞こえている。


クロが心配そうにアクロスの顔を舐めた。

反応がない。完全に落ちている。


「このまま放っておいたら風邪ひくわね……」


はぁ……とため息。


リーネがアクロスの腕を掴んで、引っ張った。

重い。体格のいい大人の男の体重だ。


「ん……んぅ……」


「起きないなら引きずるからね!」


リーネはずるずると、おっさんを引きずった。


リビングの真ん中まで運んで、毛布をアクロスにかけた。


頭の下に畳んだ上着を枕代わりに敷いた。


クロがアクロスの足元に丸くなった。定位置だ。


尻尾がぱたんとアクロスの足首に触れている。


「まったく……」


リーネがしゃがんで、アクロスの顔を覗き込んだ。


おっさんの赤い顔。無防備な寝顔。


さっきまで酒場で泣いていた男。

肉がうまくて泣いたと言い張った男。


ほんとは、この人もずっと寂しかったんだと思う。


リーネはふと思い出した。


『ただ、一人は寂しいだろうよ。俺もお前も。それだけだ』


初めてアクロスと会った時だ。


前の世界で四十三年生きて、家族と別れて、一人になった。


こんなみっともない泣き方ができるのは、

この人がちゃんと心を持って、生きているからだ。


リーネの手が、そっと動いた。


アクロスの髪に触れた。


指先で、軽く撫でた。一度だけ。


「……ほんと、手のかかる人」


呆れた声だった。


でも顔は、笑っていた。


優しい笑顔だった。


フレスが納戸の入り口で、ぴ、と小さく鳴いた。

待ってる、という声だった。


リーネが立ち上がった。


アクロスの寝顔をもう一度見て、


「おやすみ、アクロス」


小さく言って、納戸の扉を閉めた。


扉の向こうで、毛布にくるまりながら思った。


明日、アクロスに伝えなきゃ。


お酒はしばらく禁止。

月に一回くらいは……まあ、いいかもしれないけど。


串焼きが月二回だから、お酒は月一回。


「おっさんの管理項目が増えていくわね……」


小さく呟いて、目を閉じた。


閉じた目の裏には、さっきの光景がまだ残っていた。


酒場で泣いていた横顔。帰り道の千鳥足。


足にしがみついてきた時の、情けない声。


全部、みっともなかった。


でも全部、あの人の嘘のない姿。


「……しょうがないおっさんね。ほんとに」


私が暴虐のリーネなら、おっさんは号泣のアクロスね。


リーネの口元が、暗闇の中で少しだけ弧を描いた。


隣のリビングからは、大きないびきが聞こえていた。

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