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第32話 言葉に気持ちを込めて

今日は引っ越しの日だ。

アクロスたちには今日から「家」がある。


秘密基地でも隠れるための仮拠点でもない。


堂々と自分たちの一日を始められる、自分たちだけの場所だ。


今日は、白い太陽が東の空に低く顔を出していた。


宿の窓から、白銀の光を差し込んでいた。


今日もアクロスは支度を整えて、リーネの部屋をノックした。


「リーネ、起きてるか」


「起きてるわ。入って」


扉を開けると、リーネはもう荷物を詰め終えていた。


三つ編みで寝た髪をほどいて、銀白の髪が肩に流れている。


リーネ本来の姿で。

角でベッドとか枕に穴とかあけてないだろうな。


「今日は早いな。もう支度までしちゃって……」


「興奮して早く起きちゃったのよ。……笑わないで」


「笑ってねえよ。俺も似たようなもんだ」


何も言わず、アクロスはいつものように手を差し出す。

リーネとアクロスの手が重なる。


変身シフト


もう、許可を得なくても手を差し出し合えるくらいにはなったんだな。


リミットレス事件はようやく時効を迎えたと言ってもよさそうだ。

それを声に出して聞くと怒られそうだけど。


「さて、行くか。マイホームへ」


「ええ。行きましょう。私たちの家に」


部屋を出るリーネの横顔はもうすでに嬉しそうだ。


ご機嫌なのは助かる。今日は串焼きチャンス、あるかもな。

いや、今日は我慢しとくか。夜はオルガのおっさんと焼肉だ。


アクロスは、いつも通りだった。


---


二人の荷物は荷袋二つに収まっていた。


荷物をちゃんと持つ。ということも大事だ。

人間は生活が便利になればなるほど、傲慢で愚かになるものだ。


何でもかんでも影の中にレルってしまうのもよくない。


ふふ、シャドウレルムで影の中に入れることをレルっちゃうと言う。

昨日思いついた。リーネにも今度言ってみて、反応を見てみよう。


アクロスがまた一人でにやにやしているのをリーネは横目でちゃんと見ていた。


裏の囲いからクロとフレスも連れ出す。


クロが尻尾を振り回しながら、アクロスの横にぴたりとついた。

フレスはリーネの肩できょろきょろしている。


そして二人は宿の主人に出発の挨拶をした。

主人は入り口まで見送って、最後に手を振ってくれた。


「お気を付けて、いってらっしゃい」


「ありがとう。世話になりました」


二人と二匹は大通りを東へ。朝の人通りはまだ少ない。

露店の準備を始めている商人がちらほら。


東通りに入ると落ち着いた空気に変わっていく。


これからは、この空気が「帰ってきたな」という気持ちにさせてくれると思う。


踏み固めた土の道。

石壁の建物が両側に並んでいるが、表通りのような大きな看板や売り声はない。

代わりに鍛冶屋の槌の音が遠くから響いてくる。


通りの角にはパン屋があった。煙突から白い煙が上がっていて、


焼きたての麦の匂いが朝の空気に混じっている。


「あぁ、いい匂いがする……」


「今度、買いに来ましょう」


突き当たりを右に曲がると、


鉄の風見鶏が朝の風を受けて今日も回っている。


---


二人が家の前の道に差し掛かると、

トマスが待っていたかのように玄関に面した窓から顔を出した。


「来たな」


「おはようございます、トマスさん。

まず一週間分は今お支払いできるので、お渡しします」


アクロスがリーネを見た。

リーネが財布から銀貨三枚を数えて、丁寧に差し出した。


トマスはリーネの目を見て受け取って頷いた。

そして銀貨をポケットにしまった。最後まで銀貨には一切目を向けなかった。


「これが、お前たちの家の鍵だ」


鉄の鍵を二つ。リーネに無愛想に差し出した。


「なくすなよ」


それだけ言って顔を引っ込めた。


あっさりすぎて、逆に気持ちいいな。とアクロスは思った。


リーネが小声で言った。


「これで残りは銀貨三枚と銅貨いくらか。

……本当に節約しないと」


「わかってるさ」


「ほんとに?朝から串焼きのこと考えてる顔してたわよ。

なんかにやにやしてたし、また変なこと考えてたでしょ」


「考えてないよ」


なんでわかるんだよ。と内心ドキドキしていた。


家の前に立ち、アクロスとリーネは自然と目が合う。

リーネが頷いた。


「よし、入ろう」


鍵を回して、中に入った。


家の中は、昨日の下見で見た時と変わらない。


だが今日からは、ここが自分たちの場所だ。


二人と二匹で暮らす、自分たちの家だ。


入り口を入ると、すぐにリビング。


石の壁。木の床。天井は低めだが圧迫感はない。

窓が一つ。朝日が差し込んで、埃が光の筋の中をゆっくり舞っていた。


そして、木のテーブルが一つ。椅子は二脚。

前の住人が残していったものだろうか。


テーブルの表面に細かな傷がついていて、誰かが長い間使い込んだ跡がある。

壁際には棚が一つ。中身は空だった。


リビングと言っても六畳ほどの広さか。

二人と二匹が暮らすには広くはない。


けれど、今の俺たちには十分だ。

アクロスは思う。


リビングの奥が台所。


石造りの竈がある。煤で黒くなっているが、

石の組み方がしっかりしていて崩れていない。


作業台もある。水瓶が隅に据えてある。

裏の井戸から汲めば使える。


台所にも、壁に打ち付けている棚があった。

棚には鉄の鍋が一つと、木の器がいくつか置いてあった。


リーネが竈を覗き込んだ。

手で石を確かめて、火口の状態を見ている。


「……使えるわ。石の組み方もしっかりしてる。火の通りはよさそう」


「そんなのわかるのか?」


「竈は火の通り方が命よ。片側だけ熱くなるような竈はよくないの。

ちゃんと作ってあって、いい竈だと思うわ」


リーネの目は既に張り切っている。

市場で塩を選んでいた時と同じ目だった。


台所の横には裏口の木扉。開けるとそこは裏庭だ。


日陰と日当たりが半々。隅に石積みの井戸。

雑草が腰の高さまで伸びている。


裏庭の突き当たりに板囲いの小屋。

簡易なトイレだ。穴式。


素朴だがちゃんと使えそうだ。

森の拠点ではアクロス流簡易トイレだった。


今までも、そこにはお互い触れずにいた。

ちょっと、行ってくる。がお互いの合図だ。


これを話題にしようものなら即座にリミットレス事件の再来だ。

おっさんの軽口には十分気をつけねば。


あくまでギリギリを攻めていかないと。


アクロスはいつも通り、真面目な顔でくだらないことを考えていた。


「どうしたの?また考えごと?」


リーネがアクロスの顔を覗き込む。


「感動してるんだよ。お前が求めてたものがほんとに全部揃ってるから」


「ほんとよね……」


リーネは後ろ手を組み、裏庭を見渡しながら、確かめるように歩いている。

そしてゆっくり振り返って、アクロスに笑顔を向けた。


「今、すごく嬉しいの」


真っ直ぐなその笑顔は、白い太陽よりも、眩しく見えた。


裏庭は、草に覆われた小道が正面へと繋がってはいるが、

三方を建物の壁と塀に囲まれていて基本的には外から見えない構造になっている。


リーネが裏口の扉を閉めて、辺りを見回した。


「……ねぇ、アクロス、変身解いていい?」


小さく呟いた。


「あぁ、小道も今は草に覆われてる。人は入ってこないだろう」


リーネの口が小さく動く。

リーネの体から光があふれ出てくる。


二本の角が伸びて、深紅の瞳が戻った。

銀白の髪が朝日を受けて光る。


リーネは、体を思いっきり伸ばし、深呼吸した。


「……おかえり、リーネ」


アクロスは忘れずに言う。


「ただいま、アクロス」


リーネはとても嬉しそうに返事をした。


「……ようやく、ちゃんと息ができる。

……空を見上げても、怖くない場所ができた」


その一言の重さを、アクロスは黙って受け取った。


クロとフレスも裏庭で既にくつろいでいる。

アクロスたちはしばらく裏庭で、時間がただ流れるのを感じていた。


しばらくしてからリビングに戻って、二人は横の小部屋を確認した。


窓のない三畳ほどの空間。部屋というよりは納戸。

荷物を置くか、寝場所にするか。


「この部屋、どうする?」


リーネが考える仕草をしながらアクロスに聞いた。


「お前が使うか?これでも部屋だし、俺は広間で適当に寝るよ」


「ありがとう。そうさせてもらおうかな」


リーネが自分の荷袋を納戸に置いた。


「木の床だし、なんか寝床でも作るか?それとも市場で布団でも買うか?」


「もう少し稼げたら考えましょ。

とりあえずは持ってきた毛布とか、荷袋や服を敷いて寝るわ」


「リーネさん、苦労かけますな」


俺は布団で寝たい。とはとても言えなかった。


「いつものことでしょ」


「否定しねえのかよ」


「事実だもの」


クロがリビングの真ん中でくるくると回って座り込んだ。

ここが俺の場所だ、という顔だ。


フレスがリビングの棚の上に止まった。少しでも高い場所がいいらしい。

見下ろして、ぴぃと鳴いた。


二人と二匹。

新しい場所に、それぞれが居場所を見つけた。


---


荷解きと簡単な掃除を終えたのは、双昼の少し前だった。


リーネも変身魔法をかけ直して、少し家の周辺を歩いてみることにした。


「この辺りの道を覚えておきたいの。

ギルドと市場との距離感、何がどこにあるか」


「そうだな。今日はゆっくり散歩するか」


庭で日向ぼっこをしていたクロとフレスも戻ってきた。


二人と二匹は東通りへ向けて歩く。


東通りは朝より人が増えていた。職人らしい男たちとすれ違う。


トマスの家の斜め向かいの八百屋の店先では、老婆が野菜を並べていた。


「あら。あの家から出てきたってことは、新しくここに来たのかい?」


老婆がリーネに声をかけた。


「珍しいね。あの偏屈トマスに気に入られるなんて」


老婆は笑って言った。


「気に入られたかは……わからないですけど」


リーネは苦笑いしながら答える。


「トマスは気に入ってなきゃ家を貸さないよ。

前の住人が出てから二年、誰に聞かれても断ってたんだから」


「そうなんですか」


「ま、若い子が来てくれて、通りが華やかになるのはいいことだよ。

うちの野菜も今度買っとくれ」


「はい。買いに来ます」


リーネが少し照れくさそうに頭を下げた。


家の前の道の奥には、鍛冶屋があった。


入り口の前に鉄の金具や刃物が並べてある。

中から槌の音が聞こえる。


槌を叩いているのは、低身長でがっしりした体格の男だった。


背丈は人間の大人より頭ひとつ以上低い。だが横幅が広い。


太い腕に革の前掛け。

赤銅色の肌に、茶色い顎髭がもじゃもじゃと伸びている。

額が広く、眉が厚く、目が小さくて鋭い。


これは、きっとドワーフだ。


アクロスが思わず、足を止めた。


初めて見るドワーフ。本物だ。


「何だ。何か用か」


低い声。ぶっきらぼうだが、商売人の声でもある。


「俺たち、トマスさんに隣の家を借りて引っ越してきたんだ。

挨拶させてくれないか?」


「ほう! あのトマスの隣か。なら、仲良くしようじゃないか。

俺はグロムだ。この通りで三十年近く鍛冶をやっとる。

革も取り扱ってるからな。装備のことでも日用品でも何でも言ってくれ」


にかっとグロムは笑って言った。前歯が一本無かった。


「ありがとう。俺はアクロス。こっちがリーネ。

こちらこそ、よろしくお願いします」


アクロスとリーネは頭を下げて挨拶する。


「ああ。よろしくな」


グロムがアクロスに手を差し出した。アクロスも応えた。


グロムの手は決して大きくはないが、握力が尋常ではない。

指の関節は鉄のように硬かった。


「……握力、すごいですね」


この世界の人は初対面で力比べする習性があるのか。いてぇって。


「ドワーフだからな。これでも若い頃よりは弱くなった」


「これで弱くなったの……?」


「あんたもいい握りだ。鍛冶屋の見習いに来るか?」


グロムは豪快に笑う。


「はは、遠慮しておきます」


グロムが「そうか」と鼻を鳴らして笑った。


東通りから大通りに出て、ギルドの方向を確認した。


「ここから大通りに出てまっすぐ南に歩けば、

半刻もかからずにギルドね。市場はギルドの手前を東に入った広場。

ハンナさんの店はそこからさらに少し」


「この町に入った時の北門は大通りを逆方向だな。こっちも半刻くらいか」


「南区画は……大通りをずっと南に行った先ね。今は近づかなくていいわ」


リーネが声を少し落とした。


ギルドの前を通りかかった時、入り口から出てきた冒険者とすれ違った。


頭の両側に三角の耳が立っている。犬っぽいが男の獣人だ。

尾てい骨のあたりから、ふさふさした尻尾が覗いていた。


革鎧に短剣。顔と大まかな体つきは人間と変わらない。

耳と尻尾、あと爪が長くて濃い顔つきをしていた。


お、獣人だ。今度はハーフかな。前見た獣人は歩く犬みたいだったけど……。

色んな種がいるのか。


アクロスは新たな獣人との出会いにまた感動していた。


かわいいハーフの女の子獣人との出会いはまだかな。

そろそろ新たな出会いイベントがあってもいいと思うんだけど……。


アクロスは顎をぽりぽりと掻いている。


すれ違いざま、獣人もアクロスたちをちらりと見た。

だがそれだけだった。


特に何も言わず、通りの向こうへ歩いていった。


「獣人の冒険者ね。ハーフね」


「獣人も色々いるんだな。ドワーフに獣人、いいねぇ」


「ふふ、あなたにとっては新鮮でしょうね」


「ドワーフの鍛冶屋に、獣人の冒険者……この町では、

人間以外の種族も普通に歩いてるのね」


リーネが小さく呟いた。


その声に、ほんの少しだけ安堵が混じっていた。


---


散歩から家の前に戻ってきたところで、隣の家の窓から声がした。


「おい」


トマスが窓からひょこっと顔を出した。


「昼飯を作りすぎた。食うか?」


笑えるほど不器用な誘い方だった。

だが、断る理由はない。


「トマスさん、声をかけてくれてありがとう。いただくよ」


「ありがとうございます。トマスさん」


二人は笑顔で答える。


「……多く作ってしまっただけだ」


トマスは目をそらして愛想なくそれだけ言った。


---


二人と二匹はトマスの家のテーブルに着いた。


トマスの昼食はシンプルだが、ちゃんと手料理だった。


野菜と肉の煮物。硬パンを薄く切ったもの。

さらに塩焼きした肉。それと白湯。


野菜は柔らかく煮えていて、塩の加減が適切だった。


「……この煮物、おいしい」


リーネが少し驚いた顔で言った。


「肉だ……。最高だ……」


アクロスは静かに大興奮している。


「一人暮らしが長いからな。飯くらい作れるようになる。

量はある。しっかり食べていけ」


トマスがパンを千切って口に放り込んだ。


「量の加減をたまに間違う。二人分、作っていた癖が抜けなくてな」


トマスは一瞬だけ目を伏せて、すぐに煮物に視線を戻した。

それ以上は何も言わなかった。


二人分。意味深すぎるだろ。

でもまだ突っこんではいけない気がする。


アクロスは今は何も聞かずに黙って肉をばくばく食べた。


リーネも、今は聞かなかった。


クロがテーブルの下で伏せている。だがアクロスの足をぽんぽんと叩いている。

フレスはリーネの肩からテーブルの端に降りて、肉をじっと見つめていた。


「動物たちにも、食わしてやれ」


トマスは、窓の外を見ながら言った。


「ありがとう。トマスさん」


アクロスは礼を言った。

クロにも腹いっぱい肉を食わせてやろう。


リーネが肉をひと切れ裂いて、手に置く。

フレスが嘴でつついて、ぴぃと鳴く。


クロは肉をばくばく食べている。


トマスがフレスを見た。


「その鳥。変わった色だな。銀の羽毛なんて見たことがないぞ」


「綺麗でしょう?大事な相棒よ」


「そうか」


トマスはそれ以上聞かず、煮物を口に運んだ。


しばらく黙って食べた。


静かだが、居心地の悪い沈黙ではなかった。

トマスという人間は、無理に会話を繋ごうとしない。


食事の時間は食事に使う。そういう男のようだ。


煮物を食べ終えた頃、アクロスが口を開いた。


「トマスさん。この町のこと、少し教えてもらえますか。

俺たち、グラザに来たばかりだから、よく知らないんです」


「何が知りたいんだ」


「成り立ちとか。どういう町なのか」


トマスが白湯を一口飲んだ。


「百と三十年ほど前の話だ。その時はまだ南では争いが多かった。

領主同士の争いが主だ。アルセイド王国が建国されたばかりでな。

その争いに巻き込まれた民が北へ大勢、逃げた。その連中がこの場所に辿り着いた」


「争いから、逃げてきた人たちの町なんですね」


リーネが静かに言った。


「そうだ。最初はただの野営地だった。テントと焚き火だけの難民の集まりだ。

だがここは場所が良かった。今ほど街道も整ってはいないが、大きな平原だ。

南北にも、東西にも往来しやすい場所だ。水場も多くあった」


「そこから、交易の要所になったのか」


アクロスが言う。


「ああ。逃げてきた者の中に商人もいた。そいつが最初に市を開いた。

そこで商売を始めたんだ」


トマスがパンの最後のひと切れを口に入れた。


「南の人間たちと北、西、東の様々な種族とも、取引を始めた。

中央回廊の北寄りには魔族の集落、西にはエルフの拠点や、獣人の町があった。

東に行けばドワーフたちもいる。様々な種族の品が人間の商品と交換される」


「元々、逃げてきた者が作った町だ。だから逃げてきた者を追い返さない。

それがこの町の唯一の決まりだった。その最初の取りまとめ役が——―」


「グラザ・ヴェルンという男だ。町の名前はそいつから取った。

ヴェルン家は今も代々町長をやっている。今の町長はグリフィス。五代目だな」


トマスが器を脇に寄せた。


「町長のヴェルン家が主に町の治安を管理して、各区画の代表者と商業ギルド、

冒険者ギルドの代表で町全体を運営してる。権力を持った領主はいない。

中立地帯だから、どこの国にも属していない」


「人口はどれくらいいるんですか?」


リーネが尋ねる。


「住人で言えば、三千人ほどか。行商人や旅人を入れると四千以上はいるかもな。

二十年前は二千もいなかった。ここ十年、交易がより太くなって人が増えた」


トマスが白湯の器を手の中で回した。


「同時に、金の匂いに寄ってくる連中も増えた」


アクロスは少し間を置いてから聞いた。


「さっき歩いていて、ドワーフの鍛冶屋や、獣人の冒険者を見かけました。

この町では普通なんですか」


「普通だ。鍛冶屋のグロムは三十年ここで鍛冶をやっとる。

腕は確かだ。獣人の冒険者もギルドに何人かいる。この町は出自で人を分けない。

少なくとも——―建前上はな」


「建前上、というのは」


「今の南側は違う。逃げる者を追う者も集まった」


トマスの声が少し低くなった。


「俺は若い頃、軍にいた。南のアルセイド王国だ。

南部の人間にとって、人間以外の種族は……異物に見られることが多い。

獣人は二級市民。エルフやドワーフも偏見で見られ、警戒される。

人間とは扱いに差がある」


「魔族は?」


リーネが聞いた。声は平静だった。


「アルセイド王国では魔族は、闇の者。敵のようなものだ。そう教わる。

軍にいた頃、魔族は『いつか来る脅威』として扱われていた。

ほとんど誰も、顔も見たことがないのに、魔族を脅威だと教え込まれる」


トマスが少し間を置いた。


「光の神ルミナスの信仰が強い国でな。闇は悪。魔族は闇の種族。そう教えられる。

だから敵。単純な論法だ」


アクロスは黙って聞いていた。


「俺もそう思っていた。若い頃はな。魔族は危険で、人間の敵で、

いつか戦争になるから備えなければならない。そう信じて剣を握っていた」


「……それが、変わったんですか」


「グラザに来てからな」


トマスが窓の外を見た。


「ここに来て、初めて魔族を見た。ただの行商人だった。

角を二本生やして、堂々と市場に立っていた。

薬草を売って、鉄を買って帰っていった。驚くほど、普通の商売人だった」


「拍子抜けした?」


「したな。自分がずっと恐れていたものが、目の前で干し肉の値段を交渉していた。

馬鹿らしくなったよ」


リーネの指が膝の上で小さく動いた。


「十年前までは、この町に魔族の行商人も年に何度か来ていた。

市場で人間の隣に立って商売をしていた。

中央回廊の人間の集落では、魔族の集落と物々交換で交易もあった。

子供が一緒に遊んでいることもあった」


「南と中央回廊じゃ、全然違うんですね」


「全く違う。南は会ったことがないから怖い。中央は隣にいたから知っている。

知っている相手を怖がる理由はないんだ。……ただ」


トマスが声をさらに落とした。


「魔王が倒されてから、それは変わり始めた」


「どう変わったんですか」


「南からの連中がこの町に多く流れてきた。奴らは追う者だ。

商人の顔をしてるが、商人じゃない。魔族の角や血が金になると知って、

それを仕入れに来ている。南区画の闇市場で実際に取引されている」


「町長のグリフィスもいい男なんだがな。南側の有力者が商業ギルドにも力を持っていてな。強く出られん状態だ。闇市場を取り締まるだけの衛兵もいない」


「今は……魔族がこの町で角を出して歩いたら、どうなる?」


アクロスが聞いた。慎重に、だが逃げずに。


トマスが少し考えた。


「十年前なら何も起きなかったな。だが、今は、何も保証できない。

町の大多数の人間は、魔族に強い悪感情を持ってるわけでもない。

会ったことがないんだから、知らない。それだけだ」


トマスはアクロスとリーネの顔を見て続けた。


「だが南から来た連中は別だ。あいつらにとって魔族は金の成る木だ。

アルセイド王国の教えもある。追うだろう。そういう連中がこの町にもいる」


長い沈黙が落ちた。


フレスがテーブルの上で身じろぎした。

クロがテーブルの下で、尻尾をアクロスの足首に巻きつけていた。


トマスが口を開いた。


「俺にも魔族の知り合いはいた。グロムと三人で酒を飲んだこともある」


「あいつは笑う時に変な癖があった。声を出さずに、肩だけ揺れるんだ」


トマスが器の中の白湯を見つめた。


「今は、もういない」


それ以上は語らなかった。


窓の外で風が吹いた。

風見鶏がきしむ音が聞こえた。


---


長い沈黙のあと。


トマスがゆっくりと顔を上げた。


そしてアクロスとリーネを、交互に見た。


ゲルツの紹介状。見たことのない材質の杖。


三つの問答で嘘をつかなかった二人。


銀の羽毛の鳥。深紫の瞳を持つ黒い狼。


トマスは三十年以上、この町を、この町にいる者を見てきた男だ。

そのトマスの目が、二人の前で静かに動いていた。


「お前たちに、一つだけ言っておく」


トマスの声が、静かに、だが確かに響いた。


そして、リーネの杖を一瞬だけ見た。


「仮に——―お前たちが、魔族であったとしても」


リーネの息が止まった。


「俺は、かまわんのだ」


リーネは膝の上で拳を強く握っている。

両の拳が震えていた。


「この家を貸したのは、お前たちが嘘をつかなかったからだ。

お互い、まっすぐに、言葉を交わした。そこに種族は関係ない。

俺は人を見る。人を見て、そしてお前たちの心を感じた。だから家を貸した。

それだけだ」


またしばらくの沈黙。


アクロスが、口を開きかけた。


トマスが片手を上げて遮った。


「俺は、伝えただけだ。聞いてはいない。聞く気も、ない」


その手が、少しだけ震えていた。


「ただ、この町で生きるなら——―余計なことに首を突っ込むな。

正義感で動くと死ぬ。それだけは、覚えておけ」


重い言葉だった。


だが敵意ではない。

それは敵意とは正反対のものだった。


年長者の、不器用な、それでも確かな——―心配。


リーネが立ち上がった。


テーブルを回って、トマスの前に立つ。


トマスがリーネを見上げた。


リーネの目は焦げ茶のままだ。

偽りの目の色。だがその目の中にあるものは決して偽りではなかった。


「なんだ」


「——―話してくれてありがとう。トマスおじいちゃん」


トマスの顔が固まった。


「……おい。誰がおじいちゃんだ」


「トマスおじいちゃんよ。六十を過ぎてるって言ってたもの」


「そういうことじゃない。

この町で俺に面と向かっておじいちゃんと言うやつなんていない」


「ここにいるわ。

トマスおじいちゃんは、私たちの大事なおじいちゃんよ」


トマスが眉間に皺を寄せた。

怒っているのか。戸惑っているのか。


だが目の奥が、ほんの一瞬だけ、揺れていた。


ずっと、一人で暮らしてきた男。


その男が、若い娘の姿をした魔族に「おじいちゃん」と呼ばれた。


「……おじいちゃんはやめろ。トマスでいい」


「私がトマスおじいちゃんって呼びたいの」


「おじいちゃんはいらない」


「だめよ。私はおじいちゃんって言葉に気持ちを込めてるの」


「何を言ってるんだお前は」


アクロスが思わずぷっと吹き出した。


トマスがアクロスを睨んだ。


「何がおかしいんだ」


「すまないな。リーネがこうなったら言うことを聞かないんだよ」


実年齢はトマスさんより年上のおばあちゃんだけどな。

とアクロスは心の中では思っていた。


「お前も、大概なやつだな」


トマスが眉間に皺を寄せながら、腕を組んだ。


フレスがぴぃと鳴いた。

賛成らしい。


クロがテーブルの下からわふと返した。

満場一致だった。


トマスがそっぽを向いた。


「……疲れた。勝手にしろ」


その声は、怒っていなかった。


窓から差し込む双昼の光が、

テーブルの上の空になった器を照らしていた。


---


トマスに礼をいって家を出た後、二人は我が家の裏庭に出た。


リーネは、変身を解いて雑草を抜き始めた。


クロが穴を掘って土を飛ばした。

掘った穴にフレスが降りて、何かを見つけたらしくぴぃぴぃ鳴いている。


虫だった。フレスが飛び退いた。


「フレス。あなた鳥なのに、虫が苦手なの?」


ぴぃ!フレスは頷いている。


「ふふ、女の子だものね」


リーネが笑った。


アクロスも雑草の根を引っこ抜きながら聞いた。


「どうだった。トマスさんの話」


リーネの手が少し止まった。


「……正直に言うわね」


「ああ」


「すごく、嬉しかった……」


短い答えだが、これ以上ない感想だった。


「集落を出てから、ずっとこの姿を隠して生きてきた。

人間の町で角を出せない。見つかったらどうなるかわからない。

それがずっと、重たかった。苦しかった」


リーネが土のついた手を見た。


「でもトマスおじいちゃんは——―きっと気づいている。

たぶん。確信はないかもしれないけど、それでも、『かまわん』って言ってくれた」


「ああ」


「人間の中にも、ああいう人がいることが、私はすごく嬉しかった。

ハンナさんともオルガさんとも違う。本当の意味で受け入れてくれたのを感じた。

私たちも、魔族もこの町で生きていいんだ。って初めて思えたの」


リーネの声は震えていた。だがすぐに戻った。


「泣いてないわよ……」


「わかってるって」


「泣かないって決めてるの」


「リーネ、お前は強い女だ」


「その変な言い方はやめて」


リーネが雑草を力いっぱい引き抜いた。

根がぶちっと切れて、土が飛び散ってアクロスの顔にかかった。


「……わざとか?」


「わざとじゃないわ。でもちょっと面白い」


「……まったく」


リーネが声を出して笑った。


クロが泥だらけの前足でアクロスの膝を踏んだ。


「お前もか……」


わふ。


裏庭の雑草はまだ半分も片付いていなかった。


こうして、ただ、土にまみれて笑顔でいられることは、

なんだか、とても自然なことだ。


アクロスも、今はまだ狭い空を見て、笑顔になった。



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