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第31話 トマスのじいさん

二人と二匹はハンナの店の前に着いた。

店は市場の外れだ。


干した薬草の束が入り口に吊るしてあって、苦い匂いが風に乗って漂ってくる。


今日は少しだけ甘い香りが混ざっていた。


「ハンナさん、こんにちは」


リーネが扉を開けて入り口から声をかけた。

クロとフレスはまた入口前で待機だ。


奥のカウンターでハンナが乳鉢を動かしていた。

声に気付いたのかこちらに顔を向けた。


「あらリーネ。もう来たの。まめな子だね」


ハンナは嬉しそうに笑ってカウンター前に来た。


「今日は相談があって。これから薬草を定期的に納品したいんだけど、

何が欲しいか教えてもらえたらと思って」


「商売の話か。いいね、座りなさい」


ハンナが乳鉢を脇に置いて、カウンターの端を空けた。


「この辺りはどんな薬草が採れそう? あとどんな薬草が足りてない?

ちゃんと揃えてから持ってきたいと思って」


「そうだね……」


ハンナが棚を振り返った。


「止血草はいつでも歓迎よ。グラザは冒険者も旅人も傭兵も多い。

怪我する人たちだらけ。品質が良ければ三本あたり銅貨六枚から八枚で買い取る。

量が揃ってればもっと出すよ」


「他には?」


「解熱系の葉も常に不足してる。

あとは……そうだな、もし手に入るなら眠り草が欲しい。

煎じると穏やかに効く睡眠薬になる。夜眠れない冒険者や傭兵が結構いるのよ。

戦場の夢を見るんだって」


リーネが小さく頷いた。


「眠り草は薄紫の花が咲くやつ?日陰の湿った場所に群生する」


「そうだよ。知識があるのはやっぱりいいね。

薬草集めは相手に説明するのが面倒なんだよ」


「父が栽培してた。採取だけじゃなくて種や苗があれば育てられるわね」


ハンナの目が光った。


「……あんた、本格的にやるつもり?」


「できることはやりたいの。やっと、落ち着いて手が動かせるようになったから」


ハンナが腕を組んだ。


「まずはこの辺で採れるものを集めてきなさい。

止血草、解熱系、それから苦止にがどめって黄緑の茎の薬草があるんだけど、

この辺じゃ滅多に見かけない。もし見つけたら、銅貨八枚で買い取るよ」


「苦止。胃の痙攣を抑えるやつね。北では見たわね」


「やっぱり詳しいね。あんたの品なら期待できるわ。

揃ったら持っておいで。うちは安く叩くような店じゃないからね」


「ありがとう、ハンナさん」


「お互い商売。いい品を持ってきてくれるのが一番の礼よ」


ハンナが少しだけ笑った。

疲れた目の奥に、確かな温かみがあった。


アクロスは入り口の横に立って、黙ってそのやり取りを眺めていた。


二人の間には、同業者同士の空気がある。

おっさんが口を挟む余地はない。


「ねえ、ハンナさん」


「どうしたの?」


「ちょっと相談があって……。今泊まってる宿の払いが今日で切れるの。

私たちしばらくグラザにいたいからどこかで部屋を借りたいと思ってる。

……どこか、心当たりないかな?」


「そうね……」


ハンナは顎に手を当てて考えているが、苦い表情だ。


「薬草が育てられるような庭もあって、人があまり通らない場所がいい。

動物も一緒だから、うるさくしても平気なところなんだけど……」


リーネの条件を聞いてますます苦い表情になった。


「うーん。薬師仲間には聞けるけど、私の知り合いではいないかな……。

みんな自分たちの生活で手一杯だし、貸せる部屋を持ってるような人はいないかな」


「そっか……」


「それこそギルドで聞いてみたら?冒険者たちの家の仲介もしてるから。

受付のエミラちゃんか、古株の冒険者に聞けば空き部屋の情報は出てくると思うよ」


「わかったわ。ありがとう」


「リーネ。薬草、待ってるからね」


「うん。集まったら持ってくるわ」


リーネが笑った。


ハンナも笑い返した。


---


ハンナの店を出てギルドに向かう道すがら、

リーネが財布を開いて現在の所持金を確認していた。


「今の手持ちが銀貨六枚と銅貨少し。

宿代が一泊二人で銀貨二枚と食事が銅貨十枚だから……

部屋を早く見つけないと、かなり厳しいわね」


「やっぱり部屋を借りる方が落ち着いていいよな。

毎日財布を見ながらそわそわしたくない」


「そういうことね。月額で借りられるなら、宿に毎日払うより断然お得だと思う」


串焼きの匂いが風に乗ってきたらしい。


そういや昼、食べてないな。とアクロスはお腹をさすった。


クロとフレスもわふ、ぴぃ、と空腹にうなだれている。


---


アクロスたちはまたギルドに戻ってきた。


扉を開けて中へ入ると、見覚えのある太い背中が目に入った。


カウンターの前に立っている男。


日焼けした首筋。頭に巻き布。丸顔の笑い皺。オルガだ。


「あ、オルガさん!」


リーネが声を上げた。


くるっと振り返った顔が、リーネたちを見た途端、破顔した。


「おぉ! 嬢ちゃんに、旦那じゃないか!」


オルガは本当に嬉しそうにアクロスたちに駆け寄った。


「あんたたちのことは別れてからも気になってたんだよ!

いやぁ、こんなに早く再会できるなんて嬉しい偶然だ!」


「私たちも会えて嬉しいわ。オルガさんはギルドに依頼ですか?」


リーネも笑顔で返す。


「そうなんだよ。今度は東の方へ仕事があってね。今は東も物騒でな。

いつもより多く護衛をつけておきたくてギルドに依頼申し込みしていたところさ」


「カイとミラはいないの?」


「カイとミラは今日は別の仕事を頼んでるんだ。

次の東の仕事には、また二人も連れていくつもりさ」


オルガの隣には、もう一人立っていた。


禿げ上がった頭に日焼けした肌。

ゲルツだった。


「よう。さっきぶりだな。忘れ物でもしたか?」


「まぁな。また戻ってきてしまった」


アクロスは頭を掻きながら返事をした。


「俺はここが職場だからな。大体いるんだよ」


ゲルツが笑った。豪快な笑い方だ。


「それよりオルガ、お前もこいつらと知り合いなのか」


「知り合いもなにも!二人にはグラザまでの道中で世話になったんだよ。

盗賊の相手もしてもらって随分助かったもんだ!」


「盗賊だと?荷馬車が襲われたのか?」


ゲルツの顔色が変わり、仕事の顔になった。


「あぁ。最近噂になってたあの森沿いの道だ。どうしたもんかと思ったが、

旦那たちが見事に全員追い払ってくれてな!」


「そうだったのか。盗賊の件は近々処理しようと考えていたところだ。

それにしても、お前らやっぱりただ者じゃなかったな!」


ゲルツがアクロスの肩をばしんと叩いた。


痛いんだって。冒険者はみんな力加減を知らないのか。


アクロスは笑顔だが心の中で文句を言った。


「それで、また戻ってきてどうしたんだ?」


「いや、実はギルドで相談があってさ。

二人と二匹で暮らせる部屋を探してるんだ。宿の前払いが今日で切れるから、

月払いでどこか借りられるところがないかと思ってな」


「なるほどな。部屋か」


ゲルツが自分の禿げ頭を撫でた。


「ギルドでもそういった斡旋の相談はやってるからな。

この辺の空き物件ならいくつか知ってるが……」


「ほんと?えっと、裏口があって、水場があって、連れの動物たちと暮らせて、

少し庭みたいな場所があるところがいいの」


リーネがつらつらと希望物件を伝えた。


ゲルツは果たして暴虐のリーネの要望に応えられるのか。


「いや、なかなか、贅沢だなそりゃ」


ゲルツは軽く笑った。


俺もそう思う。とアクロスはリーネに気付かれないよう頷いていた。


オルガは腕を組んで少し考えている。


「そうなると、限られてくるな……。

そうだ!ゲルツ、あの人のとこはどうだ?」


オルガが口を開いた。


「トマスのじいさんとこだ」


ゲルツの目が少し動いた。


「なるほどな……トマスさんか」


「ゲルツ、お前もトマスのことは知ってるだろう」


「知ってるどころじゃない。俺はあの人に剣の振り方を教えてもらったんだぞ」


ゲルツの声のトーンが変わった。

豪快さの下に、敬意のようなものが混ざっている。


「そのトマスじいさんってのは?」


アクロスが聞いた。


「トマス・ベルグ。元★4の剣使い。この町じゃちょっとした有名人だ。

若い頃はアルセイド王国軍にも所属してたし、元冒険者だ。

四十過ぎたあたりからはグラザの自警団長をやってたんだがな。もう六十だ」


オルガは言いながら、顎を撫でている。


「何年か前に引退して今はのんびり一人で暮らしてる。トマスじいさんは東通りの奥に物件を持っていたはずだ」


ゲルツも頷く。


「へぇ、トマスじいさんは俺たちにも家、貸してくれるかな」


「いい話ね。一度会ってみたいわね」


人の縁ってのは大事だな。と二人は頷き合っていた。


「だがな……」


希望を持った表情をした二人に、ゲルツは苦笑いをしながら言う。


「今はただの、偏屈じいさんだ」


ゲルツが言った。


「そうなんだよ」


オルガも言う。


ゲルツは禿げ頭を撫でながら伏し目がちだ。


「トマスさんは長いことグラザにいるし、間違いなく信用できる人なんだ。

俺にとっては恩人で、師匠みたいなもんだ。

若い頃に剣を教えてもらってた時はグラザでは一番の剣士だった」


ゲルツは苦笑いする。


「だが今は、年のせいもあるのか、人付き合いをほとんどしなくなってな……」


「嫌われてるわけじゃないよ」


オルガが補足した。


「ただ、歳を取って不器用になっただけなんだ。

いい男なんだ。わしはまだ付き合いがある。たまに顔を見に行くぐらいだがな」


オルガはにっこり笑った。


この二人が紹介してくれる人なら、

変人だとしてもきっと会う価値はあるだろう。


アクロスは、自分のおっさん目利きには自信があった。


この二人はいいおっさんたちだ。

ならトマスじいさんもきっといいおっさん、いやじいさんだと思う。


「オルガさん、ゲルツさん。もしよければ、

俺たちにトマスさんを紹介してくれないか?会ってみたいんだよ」


ゲルツが少し考えて、頷いた。


「俺が紹介状を書いてやろう。俺の名前を出せば、

さすがに門前払いにはならないと思う。たぶんだが……」


ゲルツは途中、微妙に自信がなさそうだったが、

大丈夫だろう。と思い直したのか、キリッとした表情で続けた。


「ただし——―あの人は、人を見る目が異様に鋭い。

気に入らなきゃ断られるぞ」


「ありがとう。断られてもいいんだ。

二人の話を聞いて、俺は、とりあえず会ってみたいと思ったんだ」


ゲルツは頷いて、カウンターの裏から紙とペンを持ってきた。


さらさらと何かを書いて、丁寧に折ってアクロスに渡した。


「これを持っていけ。東通りを突き当たりまで行って、右に曲がった先だ。

二階建ての石造りの建物で鉄の風見鶏が目印だ。そこがトマスさんの家だ」


「ありがとう。二人とも」


リーネも頭を下げて二人に礼を言った。


「おいおい、礼はまだ早いぞ。

あの人がお前たちを気に入るかどうかは俺にもわからんぞ……」


ゲルツが腕を組んでオルガを見た。


「そういえばオルガ。三日後にはまた出るんだったな」


「ああ。今度の東回りでは、最低でも十日ほどは出ることになるかな。

だがその前に、二人にはこないだの礼をまだ返し切ってないことが心残りだ」


オルガが片目をパチリとさせながらアクロスとリーネを見た。


「二人とも、よければ明日の夜にでもうまいもの食いに行かないか?

いい飯屋があるんだ。その店は肉がうまいぞぉ!?」


「あぁ、行こう!」


アクロスが即答した。


リーネがじとっと横目で見た。


「……何だよ? せっかく誘ってくれてるんだから行こうぜ」


「それはいいけど、あなたの返事のことよ。返すのが早すぎない?

いやらしいわよ。肉って聞いた瞬間に目が光ってたし」


「光ってねえよ」


「光ってた。クロと同じ反応してたわよ」


「クロいじりはもういいって」


「わはは!相変わらずあんたらは仲がいいな!」


オルガは笑った。


クロが足元でわふと鳴いた。

心外だと言いたげな顔だが、串焼きの匂いの方に鼻が向いていた。


「じゃあ、明日の金昏の頃に北門近くの『赤角亭あかつのてい』で待ち合わせしようか!目立つ看板が出てるからすぐわかるぞ!」


「わかった。楽しみにしてる」


アクロスは既に口の中がよだれでいっぱいだった。


「わしの店にもまた暇があれば顔を出してくれ。北門を出て少し行ったところに倉庫兼店舗がある。いつでも寄ってくれよ!」


「ありがとう、オルガさん」


リーネが頭を下げた。


オルガが「では、また明日な」と笑って、

手を振りながらギルドを出ていった。


---


ゲルツも片手を挙げて別れの挨拶をした後、

受付の奥に入っていった。


「ね、アクロス。せっかくだからここでお昼、食べていかない?」


リーネがギルドの奥を見た。


ギルドの奥には酒場と食堂を兼ねた空間が広がっていた。


丸太を組んだ頑丈な机と椅子。昼時で席は半分ほど埋まっている。


方々から漂う冒険者たちの昼食の匂いが、

革と汗の匂いに混じって妙に食欲をそそった。


「その言葉を待ってたんだ、リーネさん。

さっきから腹が減って頭がどうにかなりそうだった」


「でしょうね」


リーネは笑いながら奥へ歩く。


カウンターで頼んだのは、野菜と豆の煮込み料理がひと皿ずつと、

黒パンが二切れ。合わせて銅貨四枚。


リーネが財布から出しながら、少しだけ眉を寄せた。


「……まあ、必要経費ね」


「まあまあリーネさん。そんな財布のことばかり気にしなさんな」


「もう……あなたはほんと呑気ね」


リーネはため息をついた。


テーブルに着くと、クロがアクロスの足元に丸くなった。

フレスはリーネの肩から降りて、テーブルの端に止まっている。


豆の煮込み料理は素朴な味だった。野菜が柔らかく煮えていて、

塩加減もちょうどいい。


豆が底に沈んでいて、掬うとほくほくした食感が口に広がった。


「……素朴な味だけど、美味しい」


「あぁ、凝った味じゃないがちゃんと出汁も取れてる」


「あなた、なんか味にうるさくなったわね」


「お前の飯を食ってるからかな」


感想を言わずに無言で食べてるとお前が不機嫌になるから癖づいてきたんだ。

と言うのは止めておいた。


「……それって、褒めてるのよね?」


「うん……褒めてるよ」


リーネの目を見ず、スープを見ながら言った。


フレスがテーブルの端から首を伸ばして、リーネの皿を覗き込んだ。

ぴぃ、と小さく鳴く。


「あなたは後でね。豆なら分けてあげるから」


フレスがぴぃぴぃと抗議した。

今すぐがいいらしい。


リーネが豆をひと粒つまんで指先に乗せた。

フレスが嘴でついばんで、満足げに羽を膨らませた。


クロが足元からくぅ、と鳴いた。


「ちゃんと、お前にもやるからな」


アクロスもパンをちぎってクロに食べさせた。

クロが一口で飲み込んだ。尻尾が二回振れた。


周りの冒険者たちがクロとフレスをちらちら見ていたが、

誰も声をかけてこなかった。


ギルドの食堂には、変わった組み合わせの連中がいくらでもいる。

ここは、そういう場所だ。


アクロスたちはすぐに食べ終えて、皿を返した。


多少腹はふくれたが腹いっぱいにはまだ遠い。


あぁ、早く明日の夜にならないかな、とアクロスは思った。


「さて。トマスさんのところに行ってみるか」


「ええ。行ってみましょう」


アクロスは肉への想いを封印してまた歩き始める。


「紹介状があるとはいえ、気に入られなきゃ断られるのよね」


「まあ、それでも行ってみるしかないよな」


「あなたのその楽観的なところ、羨ましいわ」


「俺は考えても仕方のないことは考えないだけだよ」


「……それを楽観的って言うのよ」


そう言ってアクロスの隣を歩く。

杖を右手に持って、フレスを肩に乗せ直す。


クロが先に入り口に向かった。

鼻をひくつかせて、外の匂いを確かめている。


二人と二匹は、ギルドを出て東通りへ向かった。


---


東通りは、南北の大通りに戻り、そこから町の東に延びた通りだ。

静かな通りでこの辺りは、住宅が多いようだ。


石畳ではなく踏み固めた土の道。両側に二階建ての建物が並んでいるが、

表通りほど人通りがない。


日当たりは悪くないが、どこか落ち着いた空気が漂っている。


そして、ゲルツに教えてもらった道を思い出しながら、

東通りの突き当たりを、右に曲がった。


トマスの家らしきものはすぐに見えた。


二階建ての石造りの建物。入り口の上に、鉄の風見鶏。

錆びているが、風を受けてゆっくりとくるくる回っている。


「ここだな……」


なんだか飛び込み営業をする時の気持ちになってきた。

アポなし訪問だ。急にどなり散らされたりしたら流石にちょっとへこんでしまう。


「なんだか、緊張するわね」


リーネも同じ気持ちのようだ。


「まあ大丈夫さ。俺たちにはゲルツさんの紹介状がある」


今は、おっさん同士の絆の力を信じよう。


「紹介状があっても、気に入られなきゃ断られるって言ってたでしょ」


「そん時はそん時だって」


「……わかったわ」


リーネが小さくため息をついた。


アクロスが、木の扉を叩いた。

コン、コン、コン、と間を置いて三回ノックする。


しばらく待っていると、中から足音が聞こえてきた。

ゆっくりだが、一歩ごとに床が軋む音が伝わってくる。


そして扉が開いた。

そこにはじいさん、に見える一人の男が立っていた。


見た目は年相応。六十は超えていそうだ。

白髪を後ろに撫でつけた上品で自然な髪型だった。

顎には少し白い無精髭があった。


背は高い。アクロスと同じくらいの背丈だ。

だがやや猫背で、左肩が少し下がっていた。


顔は彫りが深く、眉は太くて、その下の目が鋭い。

若い頃は立派な剣士だったのが骨格から見てとれる。


灰色の麻のシャツ。ゆったりとした麻のズボン。

足元は草履のような室内履き。寝間着姿のような格好だ。


「……誰だ」


トマスは低い声だった。そして愛想も何もない。

だが、敵意も感じない。


ただ、面倒くさそうに二人と二匹を見ていた。


そして、片方の眉だけが一瞬ぴくりと動いた。


「俺はアクロスと言います。隣はリーネ。

ゲルツさんからの紹介で来ました。これを見てください」


アクロスが紹介状を差し出した。


トマスが受け取って開いた。

目だけが動いて、中身を読む。


「……ゲルツか。

あの禿げ頭の小僧が俺に誰かを紹介するなんて珍しいな」


トマスは紹介状を折り直してポケットにしまった。


「で。何の用だ」


「俺たちに部屋を貸してくれる大家さんを探しています。

オルガさんとゲルツさんに相談したらトマスさんを紹介してくれました」


「オルガとも知り合いなのか。まあいい。この家の隣が空いてる。

小さくて古いが一軒屋だ。だが、俺は誰にでも家を貸すわけじゃない」


トマスの目がまた動く。アクロスからリーネに。

それからクロ、フレスをもう一度、確認するように見た。


「お前たちは旅人か?」


「そうです。一昨日グラザに来ました」


「お前、剣は?」


「剣は持ったことがありません」


「手紙に書いてたぞ、ゲルツを負かしたんだってな」


「あぁ、ギルドで登録の試験をしてもらっただけです。

俺とリーネは少し魔法が使えます」


トマスの眉が動いた。面白い、という動きではない。

じっくりと値踏みしているようだ。


「歩き方は思いのほか安定してるな。何回か、戦いは経験してるみたいだが、

剣を持ったことがないのは本当だな。お前は剣どころか武器を使ったことがない」


アクロスは内心驚いていたが平静を装った。


この少しの間でそこまでわかるのか。


やはり、ただの爺さんではなさそうだ。


「入れ。俺は立ち話は嫌いだ。年だからな」


顎でアクロスたちを促して、トマスは家の中に入っていった。


---


トマスの家の中は質素だった。

だが整理はきっちりとされて掃除も行き届いているようだ。


中は石壁に木の床で天井が高い。

家具は最低限で、棚にも本が少しだけ置いてある。


そして壁には古い長剣が一本掛かっていた。

刃は手入れされているが、柄の革が擦り減っていた。


「座れ。動物たちも入れ。汚すなよ」


「はい。ありがとうございます」


(クロ、大人しくしとけよ)

無声指示をすると、クロは「わかってるって」とでも言いたそうな目をしていた。


クロとフレスも大人しくついてきた。

フレスはクロに乗っている。


「賢いやつらだな」


トマスは愛想なく言っていたが、少し口の端が上がっていた。


トマスとアクロス、リーネはテーブルを挟んで向かい合って座る。


テーブルに椅子は四脚あるが、

トマスとアクロスが座っている二脚だけは、妙に古めかしかった。


トマスが水差しと木のコップを三つ持ってきて、水を注いだ。


そしてアクロスとリーネの前にも一つずつコップを置いた。


「今から三つ聞く。嘘は言うな」


「わかりました」


アクロスは両手を膝の上に置き、拳は軽く握った状態。

そして背筋を伸ばした。


数々の就職面接を乗り越えてきた、熟練の面接姿勢でトマスと対峙する。


「一つ目。お前たちは訳ありだな。何から逃げている?」


一つ目からど直球な質問だった。


アクロスはリーネを見た。リーネが小さく頷いた。


「逃げているわけではありません。ただ、見せられないものはあります」


「それは能力か。それとも過去か」


「両方です」


トマスが水を一口飲んだ。


「二つ目。嬢ちゃんのその杖。ただの木じゃないな」


リーネの指が杖の木肌を無意識に撫でた。


「この杖は大事なものです。母から受け継ぎました」


「受け継いだってことは、母親はもういないのか」


「……はい」


「そうか」


トマスはそれ以上聞かなかった。


「三つ目」


トマスがアクロスを見た。

より鋭い目になる。


だがその瞳の奥には、何か、想いを感じる。


「お前たちは、この町で何をする気だ。

金を稼いで通り過ぎるだけか。それとも、ここに根を下ろすのか」


アクロスは少し考えた。

これに関してはまだ何も決まっていない。


嘘は言うなと言われた。

正直に答える以外はない。


「まだわからない。グラザにずっといるかどうかも決めてない。

でも今は、ここでしばらく足場を固めたいと思ってる。

金を稼いで、情報を集めて、次に進むための力をつけたい」


「通過点ってことか」


「通過点かもしれない。でも、いい加減に過ごすつもりはない」


沈黙が落ちた。


トマスが水の器を見つめている。


長い沈黙だった。


フレスがクロの上で身じろぎした。

クロが尻尾を一度だけ振った。


「……いい加減に過ごすつもりはない、か」


トマスはすぐには答えなかった。


アクロスの膝の上に置かれた手を見る。

握りしめてはいない。だが逃げる形でもない。


次にリーネを見る。

杖を抱きしめるように持ちながらも、視線は逸らしていない。


最後に、足元の黒い獣と、銀の鳥を見た。

二匹とも騒がず、ただ主人たちの呼吸に合わせるように静かにしている。


「……わかった」


トマスは短く言った。


「隣の家は月額で銀貨十二枚だ。週で三枚だ。

月で一度に払えないなら週で払ってくれてもいい。動物も好きにしろ。

ただし建物を大きく傷つけたりしたら弁償だ」


「……俺たちに、貸してくれるのか」


「ああ。貸してやる」


トマスは短く言った。


「お前たちは、嘘をつかなかった。それはわかった。

最近の若いのは聞かれたことに答えずに別のことを喋りたがる。

お前は質問に正面から答えた。嬢ちゃんも、余計なことを言わなかった。

それが大事だ」


トマスが立ち上がった。


「見せてやる。ついてこい」


隣の建物は確かに大きくはない。


トマスの家と同じ石壁で中に入ると木の床。窓はひとつだった。


玄関から中に入るとそのままリビングのような部屋がひとつ。

隣には納戸のような小部屋がひとつ。奥には小さいが台所もある。


裏口は台所の横にあって、そこから裏庭に出られるようだ。

簡易的なトイレもあった。


そしてアクロスたちは裏庭に出た。


それほど広くはないが、

アクロスとリーネの二人が並んで朝の体操が気持ちよくできるくらいの広さはある。


日陰と日当たりが半々で、隅に井戸が一つ。

雑草が伸びているが、土の状態は悪くない。


周りを建物の壁や木に囲まれていて人目にもつかなそうだ。


リーネが裏庭を見た瞬間、柔らかい笑顔になった。


「……この裏庭、すごくいい。薬草も、育てられそう」


声が弾んでいた。


「薬草でも畑でも勝手にしろ。ついでに草むしりもしておいてくれ」


トマスが無愛想に言った。

だが口調は、ほんの少しだけ丸くなっていた。


「今は誰も使ってないからな。明日からでも入っていい。

鍵は二つ渡す。なくすなよ」


「ありがとう、トマスさん。すごくいい家……」


リーネが頭を下げた。

丁寧で、真っ直ぐで、嘘のないお辞儀だった。


「本当にありがとう。早速、明日から使わせてほしい」


アクロスも頭を下げた。


「わかった。明日、また声をかけろ。その時に鍵を渡す」


トマスが少しだけ目を逸らした。

そしてまた、二人を見て言った。


「家賃はきっちり払えよ。そして町の人間に迷惑をかけるな。

この家を貸す条件は、それだけだ」


オルガさんとゲルツさんが言う通り、確かに偏屈不器用じいさんだ。

でも俺は、こういう人は好きだ。


アクロスはそう思った。


---


アクロスたちがトマスの家を出る頃には、

双昼を過ぎ、傾き始めた光が通りを斜めに照らしていた。


「嘘みたいにすんなり、家が決まったわね……」


「ああ。ほんとにな」


「ゲルツさんとオルガさんのおかげよ。紹介状がなかったら門前払いだったと思う」


「ほんと。人の縁ってのは大きいな」


「そうね。本当にありがたいわね……」


リーネが杖を右手に持ち直して、少しだけ肩の力を抜いた。


今日一日でいちばん柔らかい表情だった。


「ねぇ、アクロス。これから湯屋に行かない?

朝から歩き通しだし汗もかいたわ。明日は引っ越しで忙しくなるしね」


「いいこと言うよね、リーネさん。賛成だ」


---


湯屋は前回と同じ場所だった。


入り口で銅貨を払い、男女に分かれる。


前回のようにアクロスは叫ばなかった。

かけ湯をして、ゆっくり湯に浸かる。


さすがに二度目は冷静でいる。毎度取り乱しはしない。


変身を維持したまま、目を閉じて天井を見上げる。

やっぱり風呂は、最高だ。


あの森の拠点も、落ち着いたら様子を見に行きたいな。

あそこにも風呂をつけて、いつかは俺たちの別荘に改造するんだ。


アクロスはそんなことを考えながら至福の時間を堪能した。


そしてアクロスが男湯から出ると、リーネが先に出て待っていた。


髪が少し濡れていて、まだ湯気が残っている。


藍色のチュニックの襟元がわずかに開いていて、

鎖骨に水滴が一粒残っていた。


「……何見てるのよ」


リーネはじとっとした目で睨んできた。


やはり、おっさんの不純な視線は気付かれてしまうのか。


「え……いや。さっぱりしたなと思って……」


えっちだな。と言いそうになった。危ない。


「あなたもね。少しは町で過ごす旅人らしくなったんじゃない」


「俺は最初から完璧な旅人姿だろ」


「野宿の浮浪者だったじゃない」


「ひどい言い方だな。リーネなんか破れた服でふともも丸出しで走り回ってたろ」


「殺すわよ」


怖かった。


---


無事、宿に戻ったのは金昏の手前だった。


二つの太陽が西に傾いて、空が橙と薄紫の境目に差しかかっている。

通りの灯りがぽつぽつと点き始めていた。


宿の入り口で、主人を見つけた。

恰幅のいい中年の男で、エプロンの紐を結び直しているところだった。


「すみません。俺たち明日の朝、出ます」


「そうですか。三日間の利用ありがとうございます。ゆっくりできましたか?」


「もちろんです。お世話になりました。食事もおいしかったです」


「ありがとうございます。またいつでも利用してください」


主人が丁寧に頭を下げた。

感じのいい人だ。


「トマスさんには明日一週間分を先に払いましょう。

今の手持ちだとそうするしかないわ」


「そうだな。明日は引っ越しとオルガさんと飯だし、明後日から金を稼ごうか」


「そうね。薬草も集められる日帰りの討伐の依頼とかあればいいわね」


裏の囲いにクロとフレスを連れていく。


クロが柵に入り、尻尾を振り回していた。

フレスも柵の杭の上に止まった。


リーネがフレスの頭を指先で撫でた。

フレスが目を細めて、首をリーネの顎に擦りつけた。


クロがアクロスの手に鼻を押し付けてきた。

ぐいぐいと。


「わかったわかった。飯、また持ってくるからな」


「ねえ、クロ。フレス」


リーネがしゃがんで、二匹の顔が見える高さまで下がった。


「明日から、新しい場所に引っ越すわよ。

宿の裏じゃなくて、ちゃんとした家。裏庭があって、井戸もあるわ。

また、みんなで一緒に暮らせるのよ」


クロとフレスはわかってるよ。と言いたげに頷いた。


「今まではここで寝てもらってたけど、明日からは同じ屋根の下よ。

朝も夜も、一緒」


クロの尻尾がゆっくり大きく揺れた。


一緒の家で暮らせるのが嬉しいのか。


それとも、話をしているリーネが嬉しそうなのを喜んでいるのか。


フレスがぴぃと短く鳴いて、リーネの手の甲にくちばしを押し当てた。


「……ちゃんと、わかってるのね。あなたたち」


アクロスは少し離れたところで立って、

その光景を眺めていた。


「さ、夕飯にしましょうか」


夕飯はいつも通り、宿の食堂で取った。

この宿での夕食は今日で最後だ。


今日も野菜スープと黒パン。塩漬けの肉の薄切り。


「この宿の飯、最後だな」


「そうね。最初に食べた時は、感動したものよね」


「そうだな。お前、目を細めてスープ飲んでた」


「あなただって泣きそうになってたでしょ」


「なってないよ」


「なってたわよ……」


リーネが少し笑った。


「明日から自分で作れるのが楽しみ。

トマスさんの台所、見た感じ料理道具は揃ってそうだった」


「頼むぞ。料理長」


「料理長やら先生やらお世話係やら四天王だっけ? 私、忙しいわね」


「お前の飯を食ってる時が俺は一番落ち着けるんだよ」


やばい、誤魔化すためとは言え、なんだかプロポーズみたいな台詞だ。

アクロスは少し焦った。


リーネは何か言いたげに口を開きかけたが、閉じた。


耳の先がほんのり赤かった。


「……食べ終わったら、今日は早めに休みましょう。

明日も忙しいんだから」


「そうだな。俺も早めに寝よう」


助かったか? とアクロスは内心ほっとしていた。


---


そしてクロとフレスにも餌をあげた。あとは寝るだけだ。


二人は自分の部屋の前に立った。


「また明日の朝、ノックするからな」


「ええ、今日も三つ編みで寝るから、明日も何も起きないわよ」


リーネは悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「了解だ」


「ねぇ、アクロス……」


「どうした?」


「今日の夜は、変身解いて寝ていい……?」


「まぁ……いいけど。部屋に誰か来ても開けるなよ。

何かあったら部屋の壁を叩いて俺を呼べよ?」


「うん。ありがとう……ちゃんと、そうするから」


リーネは少し顔を赤くして伏し目がちに頷いた。


「ん、それじゃあおやすみ。また明日な」


「ええ。おやすみ、アクロス……」


二人の部屋の扉が、同時に閉まった。


リーネは、部屋に入って、鍵をかけた。


そして灯りをつけずに、窓辺に立った。


変身解除リリース


そう小さく呟くと、体から光が淡く解き放たれていく。


魔法をかけられている立場でも、解除は自分の意志でできる。

いい魔法だ。と毎度思う。


リーネの焦げ茶の目が深紅に戻る。額から二本の角がゆっくりと伸びた。


銀白の髪が肩に落ちて、月明かりの中で白く光っていた。


「……ふぅ」


本当の自分に戻れる時間。


町だから仕方ないけど、でも自分の本当の姿でいられる時間も欲しかった。


窓の外に月が見えた。大月が東の空に高く昇っている。


青白い光がリーネの角を照らして、小さな影が壁に落ちた。


ベッドに腰を下ろして、杖を膝の上に置いた。


白銀の木肌。母の手が、この杖を削った。


「お母さん……」


声に出したのは久しぶりだった。


「……今日は家が、見つかったのよ」


返事はない。当たり前だ。


「裏庭もあってね。日陰と日当たりが半々で、

お父さんの畑に少しだけ似てたわ。そこで、私も薬草を育てようと思うの。

お父さんがやってたみたいに栽培してみようと思ってる」


杖の木肌を指先でなぞった。

冷たくて、滑らかで、不思議と温かい手触り。


「昨日はね、薬師のハンナさんて人と出会ったの。今日も会って薬草の話をした。

それから、ハンナさんは私の薬草を褒めてくれた。嬉しかったし、楽しかった。

私、お父さんが教えてくれたことをちゃんとやってたのよ」


窓の外で風が吹いた。

裏庭の木の葉がかすかに擦れる音。


「この町で出会った人たち、みんないい人たちなの。

薬師のハンナさん。行商人のオルガさん。ギルドのゲルツさん。

弓使いのレナ。偏屈な大家さんのトマスさん。それから——」


杖を握る手に、少しだけ力が入った。


「記憶を消された、私を襲ったあの男の人もいる。

あの人を見てると胸が痛い。まだ怖い。でもあの人も生きてる。

それがどういうことなのかはまだうまく、言葉にできないけど」


月が雲に隠れかけて、部屋が少し暗くなった。


リーネは杖をベッドの脇に立てかけて、

髪を三つ編みに結い始めた。


この三つ編みは、母が教えてくれた。


寝ぐせがつかないように。


朝、ちゃんとした顔で出発できるように。


「お母さん。私、今……たぶん、悪くない暮らしをしてると思うの」


三つ編みが終わった。


毛布をかぶって、目を閉じる。


明日からは新しい家。


自分の台所。自分の裏庭。角も出して息をしていい場所。


そして隣の部屋には、あのおっさんもいる。


調子がよくて、楽観的で、お金のことに無頓着で、

串焼きの屋台ばかり見ていて、魔法の名前のセンスがひどくて。


でも、私を助けてくれた人。

一緒に歩いてくれる人。

燃やされた集落を見て、「なくしたいから、なくそう」と言ってくれた人。


馬鹿みたいな話を、本気で実現しようとしてる人。


その隣で、私は一緒に生きていくと決めた。


悪くない、と思ったのは本当だ。


それは、むしろ———


「……幸せ、なんだろうな」


全てを失った彼女が絞り出したこの小さな声は、


今は、誰にも届かない。


月明かりが窓から差し込んで、

三つ編みの銀白の髪を照らしている。


深紅の瞳がゆっくりと閉じた。


閉じた目から一筋の光が、頬を伝っていた。


今日も、一日が終わる。


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