断章第三話 ひとつの灯り
夜空の深い黒色が、薄藍の色に変わろうとする頃。
セレーネ公爵領の屋敷は、まだ誰もが眠りの底にあった。
ただ一人、アリシアは自分の部屋の窓辺に立っていた。
木々を撫でる風の音は聞こえる。だが鳥の鳴き声はまだ聞こえない。
部屋の蝋燭はひとつだけ机の上に灯っている。
炎は時折震えて、机の木目の上に頼りない影を踊らせていた。
前回の浄化作戦から帰還して、三日が経っていた。
アリシアはこの三日の間、一歩も屋敷から外には出なかった。
白銀の甲冑は、部屋の隅の鎧立てに部位ごとに整えて並べてある。
彼女は丸一日かけて、それらを念入りに磨いた。
それが聖騎士アリシア・フォン・セレーネの、終いの礼だった。
机の上には長剣ルーメンが鞘に納まったまま置かれていた。
光の加護を受け、聖別されたアリシアの剣。
柄頭にはセレーネ家の月桂冠と白百合の紋章。
彼女が光魔法を唱える時はいつも、左手の親指でこの紋章をなぞった。
そしてルーメンの隣には白い封筒が一通置かれている。
封蝋はまだ落としていない。
昨夜、その封筒に入れる手紙をアリシアは書いていた。
ペン先を紙の上で何度も止めた。
何を書けばよいのか、すぐには言葉にならなかった。
『お父様へ』とまず書いた。
それから別の紙で『お母様へ』と書いた。
『姉さまへ』とも書きかけて線を引いた。
書き直すたびに、その想いは言葉を遠ざけていった。
頭の中で文章を組み立てる時には、涙さえ出るほど詰まっていた言葉なのに、
いざ書き始めようとペンを紙の上に置いた途端、ほろほろ砕けて何も残らなかった。
結局、書き上がった手紙は短いものだった。
――――――――
お父様、お母様。
私はもう、戦えません。
何があったかは、お聞きにならないでください。
私は今まで、自分ができるかぎりの正しいことをしてまいりました。
ですが、その正しさは誰かに与えられた正しさであると、今になって気付きました。
これから、屋敷を出ます。
行き先はまだ決めておりません。
自分の心から信じることのできる正しさを、自分の足で探しに行きます。
どうか、愚かな娘のことは忘れてください。
私の家族を愛する心はこれからも変わりありません。
どうかお元気で。
アリシア
――――――――
書き終えてから紙を二度折って封筒に入れ、封蝋を落とそうとして手が止まった。
封蝋を落とせばもう、この手紙は相手に届くべきものになる。
夜が明けて家の者が部屋に入れば、机の上にこの封筒が見える。
その瞬間に彼女の出奔は屋敷中に知られることになるだろう。
それはもう昨夜のうちに覚悟したことだった。
それでも封蝋を落とすのは夜明けまで待った。
それが彼女に残された最後のささやかな心のゆらぎだった。
ふと姉のメリッサのことを思った。
姉は二年前に北の伯爵家へ嫁いで、もう屋敷にはいない。
それでも時折手紙を送ってくれる。
最後に届いた手紙には嫁ぎ先で生まれた子の話が書いてあった。
姉は私の手紙を読んだら何と言うだろうか。
母のことを思うと胸の奥が痛んだ。
母はいつも娘を誇りに思っていた。
聖騎士となり勇者の側に立ち、魔王を討ち、世界を救った娘。
母の言葉はときに、過剰なほどの祈りが籠もっていた。
あの祈りに、これからアリシアは背を向ける。
それでも、決めたことだ。
聖騎士のままでは、自分はもう何ひとつ、抱きしめることはできない。
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封筒を机に置いて、アリシアは椅子に深く腰を下ろした。
そして椅子の背に頭をそっと預ける。
天井の梁の影が、揺れる蝋燭の光の中で微かに動いていた。
その影を見ているうちに、もっと幼い日の影が彼女の目の奥に立ち上がってくる。
セレーネ公爵家はアルセイド王国南部の、なだらかな丘の上に建っていた。
冬の朝は霧が裾野を這って、丘の上の屋敷だけが雲海に浮かぶ城のように見える。
夏の昼は庭の白百合の香りが屋敷の中まで届き、廊下の隅にまで甘い香りが満ちた。
アリシアはその屋敷で姉メリッサとともに育った。
姉とは三つ違い。
姉は穏やかで控えめで、子供のころから年下の妹を立てる性質の人だった。
妹のほうが剣の稽古の覚えも早く、馬の扱いに長け、勉学でも先生の指導をすぐ呑み込んだ。
「アリシアは、いつもすごいわね」
姉は決して妬まなかった。
妹が剣の稽古の試合で家庭教師に勝った日も、聖典の章を一日で覚えた日も、
姉はただ穏やかに微笑んで、そう言った。
「メリッサは本当に、それでいいの?」
ある日、母が娘の顔を覗き込んで聞いたことがあった。
「アリシアばかり皆に褒められているのよ。メリッサは悔しくないの?」
「ええ、お母さま」
姉は、詰まることなくすぐに答える。
「アリシアが褒められると、私は自分のことのように嬉しいんです。
……だって私たちは姉妹。お互い世界に一人ずつしかいない、大切な存在です」
隣の部屋で宿題をしていたアリシアは、姉のその答えを扉越しに聞いていた。
アリシアの姉、メリッサはそういう人だった。
そして両親は子煩悩だった。
父バルドメルは公爵家の当主として領内の政務に追われていたが、
それでも夕餉の食卓にだけはいつも娘たちと共に座った。
母エメリーヌは細やかな人で、娘たちの髪を毎朝自分の手で梳かしてくれた。
朝の一回だけは侍女の仕事ではなく、母の仕事だった。
「アリシア。お前は正しいことをする子になりなさい。
それがこの家に生まれた娘の、務めだ」
五歳の春、父は彼女の小さな手を引いて庭の白百合の前で、そう言った。
父は優しかった。
その優しさは「正しい」道を選ぶ限り、そそがれる優しさだったのかもしれない。
アリシアはその時まだ、五歳だった。
何が正しいのかもよく分からないまま、ただ頷いた。
頷いたことが、その後の彼女の道筋を決めていった。
剣の稽古。馬の稽古。聖典の読み誦。演奏と詩と踊り、刺繍と数字、数ヶ国の言葉。
公爵家の娘として身につけるべきものは全て、身につけた。
「アリシアお嬢様は、大変覚えがよろしいですね」
「アリシア様、その剣筋は、お父上譲りでございますな」
「アリシアちゃん、聖句をまた一節覚えたの。お利口さんね」
幼いころの彼女のまわりにはそうした声が、満ちていた。
誰もが彼女を可愛がり、誰もが彼女に期待した。
そして彼女もそれに応えた。
彼女が応えれば応えるほどに皆の笑顔は深くなった。
笑顔の中で育つというのは心の中に、光だけが満ちていくということだった。
それは心が、影の置き場を知らないまま育っていくということだった。
十二歳で最初の剣の試合に勝った。
十四歳で父に連れられて、王都の聖騎士団の門前を歩いた。
門前で父は娘の肩に手を置き、
「いつかここにお前の名が刻まれる日が来る」と言った。
その時アリシアは誇らしさよりも、
自分の肩に置かれた父の手の重みのほうを覚えていた。
その重みが彼女の進む方向を、ゆっくりと定めていった。
十六歳で聖騎士団に入団した。
聖騎士団の入団の儀には鑑定石が使われる。
アリシアが手をかざすと、鑑定石は眩いほどに光を放った。
光属性の力。そして聖騎士としての類まれなる才能を証明した。
セレーネ公爵家は、光属性の使い手が出る家系として知られていた。
「光の聖騎士、アリシア・フォン・セレーネ」
その名はアリシアが十八の年には、王都中で知られることになった。
そして二十二歳の年に、勇者ライゼル・クレストリアの一行に彼女は選ばれた。
選ばれた理由は二つあった。
ひとつは光属性の聖騎士としての確かな実力。
もうひとつはいずれセレーネ家の名を背負い、聖騎士団を率いる存在として、
アリシアに相応しい実績を積ませるという国の期待だった。
「それでは行ってまいります、お父様、お母様」
勇者一行として出立の朝、玄関ホールで彼女は両親に頭を下げた。
父は何も言わず、ただ娘の肩を固く抱いた。
母は侍女の前であることも忘れて、一筋だけ涙を流した。
そして勇者一行は、半年に渡る冒険の末に、
ついにデモニア高地の魔王城にて魔王ゼヴァルスを討ち滅ぼした。
そして帰ってきた勇者一行を王都は英雄として迎えた。
セレーネ領は花で飾られ、
父と母は白い大理石の玄関で抱擁の腕を娘のために広げた。
そこから更に半年が過ぎた。
英雄アリシアは、国の命じる浄化任務を指揮していた。
そして先日、偶然手に入れた「それ」は、彼女自身にある事実を教えてくれた。
「それ」は、アリシアが二十二年信じた「正しい行い」が生み出した成果だった。
それが―――焼けた片耳の木の兎だった。
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アリシアは、椅子からゆっくりと立ち上がった。
旅の支度を、まだ仕上げきっていなかった。
衣装箪笥の前に立ち、扉を片方ずつそっと開ける。
中は、整然と並んだドレスたちが淡い色を順々に重ねていた。
舞踏会のための白い絹。淑女の昼着の薄藍。
刺繍の濃い緑。母から譲られた、濃紫の絹。
そのどれにも、触れることはない。
奥のさらに奥、衣装の重なりの裏に、衣装箪笥の壁にもたれかかるようにして、
何か細長いものが立てかけてあった。
薄い布がかけてある。
その布も、色がすっかり褪せていた。
アリシアは膝を折り、奥に手を伸ばした。
布を取り払って下に眠る細長いものを、両手でそっと引き出した。
埃の匂いが、ふわりと立ち上がった。
それは薄い飴色の木でできた、小ぶりの弦楽器。
シトールだった。
公爵家の娘が幼少のころから手習いで触れるものだった。
抱きかかえるほどの大きさの撥弦楽器だった。
胴は柊の木をくり抜いて作られ、表板には小さな星型の透かし孔が三つ、
慎ましく開いている。
四本の弦は鈍い銀色に錆びていて、糸巻きの木の縁には埃が薄く積もっていた。
アリシアはそれを、膝の上に乗せた。
胴の表板を、指の腹でそっとなぞる。
埃が指先について、皮膚の縁にうっすらと灰色の線を残した。
シトールに触れたのは久しぶりだった。
何年ぶりだろう。
四年か、五年か。もっと経つかもしれない。
聖騎士団に入ってからは彼女は楽器に触れるのをやめていた。
歌も、やめていた。
歌うことは、聖騎士の作法ではなかった。
聖騎士は祈り、魔を払うために剣を振る。
歌うのは宴の席の楽人の仕事と、決まっていた。
幼かったころ、母が彼女のためにシトールを抱えて、
童謡を歌ってくれたことがあった。
母の声は澄んでいた。
セレーネ家の女は皆、声が良いのだという。
母自身も若いころ、王都の儀礼の場で歌を捧げたことがあると、
後年、姉から聞いた。
「アリシア、ちゃんと、母さまの口を見ているのよ」
寝台の脇でシトールを抱えた母が、笑いながらそう言った日があった。
「歌は、口だけで歌うんじゃないの。
お腹のここから、息を出して、口の形でその息を整えてあげるの」
母は自分の薄い水色のドレスの上、おへその少し上のあたりを、指で軽く叩いた。
小さなアリシアは真剣な顔で、自分のお腹に手を当てて、
そのあたりに「息」を探した。
母から教えられた歌がいくつかあった。
朝に起きるための歌。
夜に眠るための歌。
雨の日に窓辺で口ずさむ、雨の歌。
丘の上から麓を見下ろした時の、丘の歌。
そのどれも、ほとんど思い出せなくなっていた。
それでも最初の一節だけは、彼女の喉の奥のどこかにまだ残っていた。
「光のもとに、目覚めよ、小さき胸に……」
口に出してみた。
出してからアリシアは何故か自分の声に驚いた。
部屋の闇の中で響いた声はただのアリシアだった時の声だった。
それは聖騎士の声でも貴族の声でもなかった。
そんな声がまだ自分の喉から出ることに、彼女は驚いていた。
シトールを胴の上から、もう一度指で撫でた。
弦の一本を軽くはじいてみる。
ぴん、とささくれた音が鳴った。
調律の狂った鈍い音だった。
だが懐かしい、音だった。
アリシアはその音の余韻をしばらく、耳の中で聞いていた。
余韻が完全に消えるまで息を止めて聞いていた。
——―自分の声を、出したい。
ふいにそう思った。
自分の声を自分のためだけに、もう一度、出してみたくなった。
これを持っていこう。
このシトールと旅に出よう。
そう決めた。
シトールを布で包み直し、革紐で背負える形に整えた。
それからアリシアは衣装箪笥の奥から、旅装を引き出した。
真っ白な襟付きのシャツ。薄く油の染み込んだ革のベスト。
両脇に編み上げの飾り紐の走った黒い革のパンツ。
ふくらはぎまでの黒革のブーツ。
普段、狩りに出る時だけ着ていた服だった。
寝間着を脱いで、それらをひとつずつ丁寧に身につけていった。
シャツの襟を整え、ベストの胸を留め、ブーツの紐を結ぶ。
紐を結ぶ指の動きは戦場で帯革を整える動きとは、別の動きだった。
それはゆっくりとした自分のための動きだった。
それから姿見の前に立った。
普段は鎧を着ける時にしか向かい合わない姿見。
鏡の中に、見たことのない女がひとり立っていた。
抜けるように白い肌は変わらない。
だが今その肌は、鎧の下のものではなかった。
革のベストの襟元から首筋が、そのまま夜明けの空気にさらされていた。
腰まで届く金髪を両手で集めた。鏡越しに自分と目が合う。
翠の瞳は思っていたよりも、落ち着いていた。
戦場では長い髪を後ろで一括りにするか、編み込んでまとめていた。
今、彼女の指は戦のためではない編み方を選んでいた。
旅をする者の三つ編み。首の後ろから始めて肩を越え、
背中の中ほどまでをひとつにまとめる。
編み目を整え、毛先を細い革紐で結ぶ。
鏡の中の自分が、また少し別人のように見えた。
聖騎士アリシア・フォン・セレーネは、もうそこにはいなかった。
今の私は、何者でもない、ただの私。
そして「正しさ」という言葉が胸の中をよぎった。
幼いころから自分はずっと、「正しいことをする子」になろうとしてきた。
父の正しさ。母の正しさ。
教会の正しさ。国の正しさ。
それらは彼女が物心ついた時にはすでに、そこにあった。
すでに形を成していて、それを身につければ誰もが彼女を褒めた。
だから彼女は身につけた。
身につけた正しさで剣を振り、人を斬り、集落を焼いた。
——―人から教えられた正しさは、人のものだ。
今、初めて、はっきりと思った。
それは誰かが誰かのために、誰かの都合に合わせた形に整えた正しさだった。
教えられた者が身につけた正しさは、「教えた者の正しさ」でしかない。
正しさとは、何か。きっと自分の心が生み出すものだ。
自分の心の中に、自分が生み出す、自分が信じられるものを。
揺るぎないその何かを。
そう。それを「信念」と呼ぶのかもしれない。
それが正しさというものの、正体なのかもしれない。
だが今の彼女には自分のための正しさを、まだ持っていなかった。
持たされたものばかりで自分のものは持っていなかったことに、
彼女はようやく気づいたのだった。
だから探しに行こう。
自分は何をするべきなのか。何を守りたいのか。何を得たいのか。
それを自分の足で歩いて、自分の手で触れ、自分の心で確かめに行く。
胸の左、ベストの内ポケットに彼女は手のひらを当てた。
そこには片耳の焼けた、小さな木の兎が入っていた。
「あなたが、教えてくれた」
兎に向けて、彼女は言った。
「けれど私はまだ、分からないことばかり」
「だから一緒に行こう。私を見ていてほしい」
彼女はまだこの木の兎に何かを誓えるほどの答えは持っていない。
今は、ただの出発の言葉。
鏡の中の女に向かって、アリシアはひとつ、口を開いた。
「アリシア・フォン・セレーネ」
声に出して、自分の名を呼んだ。
呼んでから、ゆっくりと、目を閉じた。
聖騎士アリシア。公爵家の娘アリシア。
勇者パーティーの英雄アリシア。集落を焼いた作戦指揮官アリシア。
それらのアリシアの姿を心の中でひとつずつ、置いていく。
鎧立てに鎧を置くように。机の上にルーメンを置いたように。
自分からそれらを、丁寧に、外していく。
全てを外し終えてから、彼女は目を開けた。
目の前の鏡の中に映る女には、もう名前がなかった。
名前を失った女はしばらく、鏡越しに自分を見つめていた。
それからぽつりと、彼女は言った。
「アリア……」
シトールを膝に乗せていた時、自分の喉から出た声を彼女は思い出した。
聖騎士でも貴族でもない、ただのひとりの女性の声。
息の通り道から生まれた美しい音を人は、アリアと呼ぶ。
声を届ける者。歌を歌う者。
「アリア」
もう一度口にした。
今度は自分の中で、しっかりと頷いた。
こうして彼女は、
アリアという名のただのひとりの女性となった。
---
蝋燭の炎の上で、彼女は封蝋の棒をゆっくりと傾けた。
赤い蝋がぽたりと封筒の上に落ち、その上にセレーネ家の印を押した。
これでもう、この手紙は誰かへ届くべきものになった。
封筒の隣に、小さな紙片を一枚添えた。
『お先にお詫びを。アリシア』
ルーメンを机の上に、まっすぐ横たえる。
柄頭の月桂冠と白百合の紋章が、蝋燭の光を受けて鈍く輝いた。
左手の親指で、その紋章を一度だけゆっくりとなぞった。
祈りではなく別れのために。
シトールを背負った。
革紐を肩に通し、布で包んだ胴を背中に回す。
部屋を一度だけ、ゆっくりと見回した。
寝台の脇の、子供のころから使ってきた木彫りの椅子。
壁にかけた、姉と一緒に描いてもらった肖像画。
窓辺の小さな花瓶、その中の白百合。
ちょうど朝の前の青い光が、それらの輪郭をひとつずつ撫でていった。
そしてアリシアは窓を静かに開けた。
セレーネの屋敷は南向きに開けて建っており、彼女の部屋は二階の東側にある。
窓枠に手をかけ、足を外に出した。
革のブーツの底が煉瓦の壁にしっかりと触れる。
身体の重心を低く保ったまますっと音もなく飛び、そして庭へ着地した。
降りた先で一度だけ、屋敷を見上げた。
二階の部屋の窓が、まだ薄く開いたまま青い空の色を映していた。
それから背を向け、植え込みの陰を伝って屋敷の裏手の通用門へ回った。
門の閂は内側からなら、音を立てずに外せる。
扉を細く開けて、その隙間から外へ出る。
扉を手で押し戻すと、表からは閉まったように見えた。
それで十分だった。
屋敷の外の小道に出た。
道の脇には長い草が、朝露を含んでぐったりと横たわっていた。
その草を踏み分けながら、彼女は領内の街道を目指した。
夜が終わり、朝を迎えようとしていた。
そしてアリシアはアリアとなる。
---
アリアはセレーネ領の外れにある宿場町に着いた。
二つの太陽が昇り、町は朝の賑わいが始まる頃だった。
パン屋や食堂の香りが流れてくる。
通りの店の鎧戸も一軒、二軒と開き始めていた。
店主たちは店先の埃を払い、看板の鎖を整え、
商品を店先に並べ出していた。
彼女は通りの中で最も小さな店構えの武器店の前に立った。
顔を覚えられている恐れの少ない店だった。
店に入る時に、彼女は深く息を整えた。
「いらっしゃい。早いねえ、お客さん」
アリアが店に入ると、老主人がしゃがれた声で迎えた。
店の奥から、鉄を打つ前の朝の冷たい匂いが、ふわりと漂ってくる。
鞘の油と、研ぎ石の粉と、わずかな煙の匂い。
「鋼の長剣を、一振りいただきたいのですが」
声は思ったより落ち着いていた。
老主人は彼女の顔をちらりと見た。それから、腰のあたりに視線を落とす。
それから、もう一度、目を彼女の顔に戻した。
「お嬢さん、剣は使えるのかい」
「少しは使えますよ」
「そうか、少しか」
老主人は短く笑った。
「『少しは』っていう人ほど、案外、扱いが分かってるもんだ。
……まあ、選んでみなされ。自分の手に馴染むのが、いちばんだ」
老主人が壁際の木枠を、顎で示してくる。
派手な装飾のない実用一辺倒の長剣が、五本ほど並んでいた。
彼女はひとつずつ手に取り、重さを試した。
柄の握り、刀身の重心、手のひらに馴染む厚み。
聖別もされていない、加護もない、ただの鋼の長剣たち。
そのうちの一本が、彼女の手のひらに静かに納まった。
「これをください」
「銀貨七枚さ。鞘もつけて、その値だ」
ポーチから金貨を一枚出して、台の上に置く。
老主人が釣り銭を銀貨と銅貨で渡してきた。
それを腰のポーチに納める。
革と木の質素な鞘だったが、剣を吊るベルトにはきちんと馴染んだ。
「お嬢さん」
帯を締め直していると、老主人が声をかけてきた。
「余計なことだとは思うがね」
しゃがれた声にほんの少し、案じる色が混じっていた。
「ここから北は今ちょっと、物騒だよ。
急ぎでないなら街道沿いの宿で、しっかり休みながら行きなさい」
「……はい」
「無事で、な」
短い言葉だった。
彼女のことを何も知らないはずの、初めて会う老人の言葉。
それなのに、その「無事で」のひとことが、不思議なほど胸の奥にすとんと落ちた。
「ありがとうございます」
頭を下げた。
それが、ただの旅人アリアとしての、最初の礼だった。
腰に剣の重みが戻ってきた。
この重みがある方が、落ち着く。
体はまだ戦い方を忘れてはいないようだ。
二軒先の雑貨屋では旅の杖と外套を買った。
杖は樫の木の節をそのまま生かした、飾り気のない一本。
外套は深い灰色の厚手のもので、フードがついている。
外套を肩にかけ、フードを軽く後ろに垂らした。
首元のボタンをひとつ留めると、長い三つ編みは外套の中に隠れて、背中の真ん中に静かに垂れた。
シトールは外套の上から、革紐でしっかりと背負い直した。
布越しに胴の丸みが外套の背に、ささやかな膨らみを作った。
町の中央の井戸で水を汲み革袋を満たして、彼女は北へ延びる街道の入口に立った。
---
街道は東に少し寄って、まっすぐ北へ伸びていた。
両脇には背の低い草と点々と植えられた並木。
朝の光が街道を東の側から、斜めに照らし始めていた。
街道の先は見える限り、ただの土と空だった。
丘がいくつか、その向こうにもまた別の丘があり、
もっと向こうには、何があるのか。ここからは見えなかった。
その見えない先のどこかに、彼女のこれから歩く道があるのだろうか。
それでも、と彼女は思った。
自分の手が伸ばせる場所、心が定める正しさのある場所が。
―――この世界のどこかにあることを信じて。
私の手が生むこの光は、これからは灯りでありたい。
アリアはそう思った。
私の手は、闇を払う光ではない。
誰かの道を、足元を、顔を照らす灯り。
そして私の声で、灯したい。心にも灯りを。
アリアは背中のシトールを取り出し、街道の脇の岩に腰かけた。
布を取り、指の動きを思い出しながらシトールを調整する。
そして、アリアとして最初の歌を、奏でた。
心のままに―――歌った。
『ひとつの世界、ひとつの願い、ひとつの灯り。この歌が届きますように』
アリアの歌が草原や木々を撫でた。
鳥たちが、鳴いた。
そして朝日が街道の地面を、黄金色に照らしている。
旅の剣士、そして旅の詩人——―アリア。
彼女の、本当の道が始まろうとしていた。
それは正しさを探す旅。そして世界に灯りを届ける旅。
それは、運命と巡り合うための旅。
彼女の歌は、朝の街道を優しく美しく包み込んでいた。




