第28話 土の日のグラザ
ようやく宿から出た二人と二匹。
朝のグラザは昨日の昼とは少し違う顔をしていた。
昨日は人の波に圧倒されるだけだったが、朝は少し落ち着いている。
露店の天幕を広げている商人たち。箒で通りを掃いている店の主人。
井戸の前に集まって水を汲んでいる女たち。
生活の匂いがする。
焼きたてのパンの香りも風に乗って流れてきた。
アクロスたちは、まずはギルドに向かった。
朝のギルドは昨日よりも人が多かった。
依頼を確認する冒険者たちが掲示板の前に集まっている。
二人と二匹も少し緊張気味に掲示板に近づいた。
ギルドの掲示板には依頼書がびっしり貼られていた。
羊皮紙に手書きのものもあれば、統一書式のものもある。
「ねぇ、今更だけどアクロスは文字読めるのよね?」
「もちろんだ。全言語自動理解のおかげでな。地味に一番役に立ってるスキルだ」
「ずるいわね、それ。私は普通に勉強して覚えたのよ」
「魔族も人間の言葉を勉強するのか」
「中央回廊で育った魔族は、人間の共通語くらいはちゃんと読めるわ。
交易に必要だし、子供の頃に教わるの」
「教育がしっかりしてるんだな」
「母が厳しかったのよ。読み書きと薬草の知識と、最低限の礼儀作法。
『いつか集落の外に出る日が来るかもしれないから』って」
リーネの声が少しだけ柔らかくなった。
「……いい母ちゃんだな」
「ええ。もっといろいろ教わりたかったんだけどね」
リーネは、さらりと言ったが悲しそうではなかった。
依頼書を一枚ずつ確認した。
薬草の採取依頼。報酬銅貨三十枚。
魔獣駆除。報酬銅貨五十枚。
荷馬車の護衛。報酬銀貨二枚。
そして一枚、赤い枠で囲まれた依頼書があった。
「アクロス。ちょっと、これ見てよ……」
リーネが指差した。
―――――――――――
グラザ北方・街道沿いの魔物討伐
魔狼の群れが増加している。旅人にも多くの被害あり。
近日、一斉討伐隊を編成予定。 参加者はギルド受付まで。
報酬:参加者一人あたり銀貨十五枚
※詳細は追って告知する。
―――――――――――
「魔狼の群れか……」
「他の依頼よりかなり報酬が高いわね。銀貨十五枚は、ただの魔獣駆除じゃないわ」
「群れが増えてるってことは、何か原因があるんじゃないのか?」
「おそらく、地脈の魔力の淀みの発生が多くなってるんだと思う」
アクロスは依頼書をもう一度読んだ。
日付はまだ入っていない。
詳細は「追って告知」とある。
「この依頼は気にしておこうか」
「そうね。それじゃあ市場、見に行ってみる?」
「市かぁ、楽しみだな」
「そうね。串焼きも買って食べましょう」
「やったぁ!!」
アクロスは飛び跳ねて喜んだ。
なんだこのおっさん、と周りの冒険者がじろじろ見ている。
「ちょっと! 恥ずかしいからやめてよ……」
リーネはアクロスの袖をつまんで引っ張るようにしてギルドから出た。
---
市場は大通りから東に入った広場にあった。
土の日だけあって、昨日とは比較にならない賑わいだ。
天幕を張った露店が所狭しと並んでいて、売り子たちの声が重なり合っている。
野菜。果物。干し肉。穀物。塩。香辛料。
布地。革製品。金物。陶器。
色と、音と、匂いが溢れている場所だ。
「すごいわ……」
リーネが立ち止まって辺りを見回している。
目が、きらきらしていた。
「こんなにいろんな物があるのね。
私の集落にあった市とは比べものにならないわ……」
「この規模は、中央回廊でも珍しいのか?」
「中央回廊でも大きい町だもの。きっといろいろなものがあるわ」
リーネの声が弾んでいる。
町に来てからずっとそうだが、
買い物の話になるとさらに一段、調子が上がるようだ。
クロが鼻を忙しく動かしている。
匂いの洪水だ。
肉の露店の前で、何度か足が引っ張られそうになった。
「クロ。今は仕事中だからな」
クロがアクロスを見上げた。
「わかってる」という顔だが、尻尾が肉の方を向いている。
困ったやつだな。でも今は待て。
リーネさんが串焼きを買ってくださるから。それまで待て。
「まずは塩を買いましょうか」
リーネが三軒の塩売りを回って、粒の大きさと色と匂いを一軒ずつ確かめた。
「このお店がいいわ。粒が細かくて溶けやすい。料理に向いてる」
「塩ってそこまで違うもんなのか?」
「全然違うわよ。粗い塩は肉の保存向き。細かいのは調理と味付け。
両方あるのが理想だけど……今は細かい塩にしておきましょう。
塩ひとつで料理の味はすごく変わるんだから」
「塩にも厳しいのな」
「塩と水は料理の命なのよ」
塩の小袋を銅貨四枚で購入。蜂蜜の小瓶が銅貨六枚。
干し肉の束が銅貨三枚。硬いパンの保存用が銅貨二枚。
「あと、これ……」
リーネが香辛料の露店の前で足を止めた。
小さな木箱に入った赤茶色の粉末を指差す。
「すみません、これは何ですか?」
露店の主人は日焼けした老婆だった。
歯は少ないが、目が元気だ。
笑うと顔全体がくしゃくしゃになる。
「それはね、南の山で採れる花山椒の粉だよ。
肉にかけるとね、臭みが消えて、舌がぴりぴりっとくるのさ」
「花山椒……」
リーネが瓶を手に取って匂いを嗅いだ。
目がぱっと開いた。
「いい香り。爽やかでちょっと刺激がある」
「嬢ちゃん、旅人みたいだけど料理はちゃんとするのかい?」
「はい。料理は好きです」
「そうかい、そうかい。あんたは料理をする子の目をしてるよ。
いい手をしてるね」
老婆がリーネの指先を見て言った。
小刀でスポークを削った手。革を縫った手。薬草を潰した手。
アクロスもこういう手が好きだ。
リーネの手は生活力に満ちている。
リーネは少し照れている。
「……ありがとうございます」
「銅貨二枚でいいよ。たくさん使っておくれよ」
「助かります」
リーネが嬉しそうに受け取った。
その表情を見て、老婆も笑った。
「いい顔してるねえ。そこの旦那さんは、幸せ者だね」
「この人は旦那さんじゃないです!」
リーネは大げさに手を振って否定している。
「あら、そうかい。じゃあ早くしないと、誰かに取られちまうよ」
「取られませんよ。この人を欲しがる人なんてきっといませんから」
「ひどすぎない?」
アクロスは思わずつっこんだ。
「気にしないで。それともなに?
私がいつもあなたの隣にいるのが嫌ってこと?」
なぜかリーネがじろりと睨んでくる。
「そんなこと言ってないじゃん……」
老婆が「あっはっは!」と笑った。
アクロスは苦笑いしながら頭を掻いた。
おばあちゃんのお節介トークは異世界でも共通らしい。
---
買い物を一通り済ませて二人と二匹が市場を歩いていると、
肉を焼く匂いが、正面から流れてきた。
甘い脂の匂い。炭火の香ばしさ。
たれが焦げる、あの匂いだ。
アクロスが望んで止まない、串焼きの屋台だった。
太った男が炭火の前に立っていて、肉の串をくるくる回している。
脂が炭に落ちるたびにじゅっと音がして、白い煙が立ち上がる。
そしてアクロスの足は、止まった。
もちろん、自覚はある。
だが止まってしまったものは仕方がない。
クロも隣で止まっていた。鼻がひくひく動いている。
尻尾が左右に揺れている。
これは仕方ない。仕方ないんだ。
「ほらね。言った通りじゃない」
リーネが嬉しそうに言った。
「どういうこと? 怪しいやつがいないか確認していたんだよ」
アクロスはこの期に及んでもなお、白々しい反応だった。
「嘘ね。串焼きの匂いに反応して止まったのよ。クロを見て御覧なさい」
クロのよだれで地面には水たまりができている。
「………」
「鼻も動いてるわよ」
「動いてないよ」
「クロと同じリズムで動いてたわよ」
返す言葉がなかった。
リーネがアクロスの横に並んだ。
串焼きの屋台をじっと見ている。
それから、財布を取り出した。
「三本、ください」
リーネが屋台の男に声をかけた。
「あぁ、リーネさん……串焼き、買ってくれるんだね……」
「変な口調はやめて」
リーネはぴしゃりと言い放つ。
「あいよ! 焼きたてだよ!」
男が串を三本、油紙に包んで渡してくれた。
三本で銅貨六枚だった。
リーネが二本をアクロスに差し出した。
「あなたとクロで一本ずつ、食べてね」
「……ありがとう」
アクロスはこみ上げる何かを堪えて両手で串を賜った。
「町に来てから、ずっと我慢してたんでしょ」
「……ばれてたか」
「だからずっと言ってるじゃない」
アクロスは念願の串焼きを一口、齧った。
肉汁が口の中に広がった。
甘辛いたれがからんで、炭の香ばしさが鼻に抜ける。
脂が舌の上で溶けていく。
「うわぁあ……うまいよぉ。最高だ!」
声が震えた。
情けないが、本当にうまかった。
クロが足元で見上げている。
目が「俺にもくれ、早くよこせ」と言っていた。
アクロスがもう一本の串から肉を抜いてクロの前に並べた。
クロは並べた端から次々と、一瞬で肉を飲み込んでいく。
尻尾が高速で回転している。そのままどこかへ飛んでいきそうな勢いだ。
フレスがリーネの肩からぴぃと鳴いた。
「はいはい、どうぞ」
フレスも肉を啄む。ぴぃぃぃ、と大喜び。
羽をバタバタさせている。
「昨日も言ったけど、お小遣い制って言ってもちゃんとあなたの欲しいものは、
私も買いたいんだから。ご褒美も必要でしょ」
「ご褒美って、俺は犬か」
「ずっとクロと同じ反応してたじゃない」
「………」
リーネが串焼きの最後のひと口を食べて、
指先についたたれを舐めた。
「……おいしいわね、これ」
「そうだろ?リーネもほんとは食べたかったんだろ?
俺の可哀想な反応を利用していたんだろ? 悪いやつだな」
「調子に乗らないで。
でも、あなたが足を止める理由がわかるわ。これは確かに、罪な匂いよ」
「認めたな」
「でも、毎日は駄目よ。今日の買い物で銅貨はかなり減ったしね」
「週に一回は?」
「月に一回よ。まだまだ余裕はないんだから」
「月に二回にしよう。でないと俺もクロも生きていけない」
「わかった。月に二回ね。これが最終交渉よ」
「……いいだろう」
リーネが「ふふ」と笑った。
指先にまだたれの匂いが残っていた。
なんだか、幸せの匂いだった。
---
市場をひと通り回り終える頃には、
双昼の強い光は少しだけ傾き始めていた。
朝は涼しかった石畳にも、昼の温かさを感じる。
人の流れはまだ途切れないが、
露店の主人たちは少しずつ声を落とし、午後の客を相手にする顔になっていた。
そして市場の外れには、薬師の店が一軒あった。
木の看板には薬草の絵が描いてある。
入り口に干した薬草の束が吊るしてあって、苦くて青い匂いが漂っていた。
棚に小瓶がぎっしり並んでいるのが外からも見える。
「ここ薬師の店かしら、ちょっと見てみたいわ」
「よし、入ってみよう」
店に入ると、奥のカウンターには女性がいた。
三十代半ばだろうか。
黒髪を一つに束ねて、白い前掛けをしている。
手元に乳鉢があって、何かをすり潰していた。
細い腕だが手つきに迷いがない。薬草の粉末が鉢の縁にこびりつかないよう、
力の加減を変えながら手を動かしている。
この仕事を長くやっているであろう慣れた手つきだ。
カウンターの女性が顔を上げて二人を見た。
鋭い目をしている。
だが怒っているのではなく、疲れている目だった。
忙しい毎日を送っている人間の目だ。
入ってきた二人を客と思ったのか、
途端にふんわりと優しい眼差しに変わった。
「あら、いらっしゃい。何かお探し?」
「こんにちは。いろいろ聞きたいことがあって寄らせてもらいました」
リーネが腰の薬草入れをさりげなく見せた。
「私も薬草を扱っていて。旅の途中で採ったものを持っているんですが、
この辺りで手に入る薬草の種類を知りたくて」
女店主の目が変わった。
客ではなく、同業者を見る目になった。
「その薬草入れ、自分で作ったの?」
「はい。革を縫って」
「ふうん。なかなかいい仕事してるじゃない」
女店主がぐい、と棚の前から出てきてリーネの腰元を覗いた。
「ちょっと中身を見せてもらっていい?」
リーネが筒を一つ開けた。止血草が入っている。
女店主は止血草を手に取って、光に透かしてじっくり見ている。
「少しだけ、味見していい?」
「え? どうぞ……」
リーネは少し戸惑ったが「味見」という言葉に興味を持った。
指で一部を少し、すり潰して匂いを嗅いだ。
それから舌の先にほんの少し乗せた。
「……乾燥の仕方がすごく丁寧ね。水分の抜き方に偏りがない。
誰かに教わったの?」
「父が薬師だったんです」
「なるほど。道理で。素人じゃこの均一さはなかなか出ないのよね」
女店主は少し笑った。
疲れた目が、ほんの少しだけ和らいだように見える。
「私はハンナよ。このグラザの町で薬店を五年やってるわ。
あんたたちは旅人?」
「はい。北の方から来ました。私はリーネ、こっちはアクロスです」
アクロスが愛想よく笑って軽く手を挙げた。
「よろしく、ハンナさん」
ハンナがアクロスをちらりと見た。
「……旦那さん?」
「違います!」
リーネが即答した。早い。
ハンナが「ふうん」と呟いた。
信じていない顔だったが、特に追及もしなかった。
「北から来たって言ったわね。最近、北から来る人も増えてるのよ。
旅人だけじゃなくて、帰る場所を失った人たちよ……」
ハンナの声が少しだけ低くなった。
「……どういうことですか?」
リーネが聞いた。
「魔物が増えてるのよ。北の方から、どんどんね。
半年前は街道沿いにたまに出る程度だったのが、今は群れで現れる。
農家や山の仕事で生計を立ててる人たちが仕事を辞めて南に逃げてきてるのよ」
「うちに来る人たちは元々怪我した傭兵や冒険者も多かったんだけどね。
普通の旅人や北から逃げてきた人たちも最近、多くなったわ。
半年前はそんなことなかった」
「ギルドの掲示板にも魔物討伐の依頼が結構出てたな」
アクロスが言った。
「ああ、あの魔狼のやつね。当然よ。最近よく聞くわ。
この町は交易で成り立ってるからね。周りの街道の安全が保てなくなったら、
この町の商売も終わっちゃうもの。ギルドも本気になってきたってことね」
ハンナが乳鉢を脇に置いた。
「でもね、物騒なのは魔物だけじゃないのよ」
ハンナの声がさらに落ちた。
「最近この町には妙な連中が増えてるの。南から来た商人ってことになってるけど、あの目は普通の商人じゃないわ。物の値段を見る目じゃない。
人の値段を見る目をしたやつらよ」
「その人たちは、何を探してるんですか……」
「魔族よ」
「魔族の角や血が闇市場で高値で取引されてるのは、
この町じゃ知らない人はいない。南区画の奥の方にそういう場所がある」
アクロスの手が、テーブルの下で拳になった。
「うちには裏通りで怪我をした人間も来るからね。嫌でも耳に入るのよ。
流通してるのは焼けた集落の死体から取ったものだけじゃないって話もある」
静かな言葉だった。
だがその重さが、店の空気を変えた。
リーネの指が薬草入れの革紐を握っていた。
白くなるほど、強く。
「……逃げた魔族を追って、捕えてるの?」
「ただの噂よ。誰も確かめたわけじゃない」
沈黙が落ちた。
ハンナが二人の顔を交互に見た。
「あんたたちに言っても仕方ないかもしれないけどね。
ただ、この町には気をつけなさい。特に夜の南区画には近づかないことよ。
昼間でも、裏通りには一人で入らない方がいい」
「……ありがとうございます。覚えておきます」
リーネが頭を下げた。
声は穏やかだった。
だがアクロスだけが気づいていた。
リーネの瞳は、揺らいでいた。
アクロスはさりげなくリーネの肩に手を置いた。
ぽんと。軽く。
リーネが小さく息を吐いた。
「あの、ハンナさん」
リーネが少し間を置いてから言った。
薬草入れの中を一度だけ確認した。
「今持っている止血草を、こちらで引き取っていただくことはできますか。
旅の資金の足しにしたいんです」
タネル村で大半は売ったが、
使い道が多い止血草だけは少量を手元に残していた。
旅の途中で怪我をした時のためでもあるがグラザで薬師に見せるためでもあった。
「わかった。全部見せてくれる?」
リーネが薬草入れにまだ残っている止血草を出した。
ハンナが丁寧に確認して頷いた。
「いい品ね。銅貨五枚で買うわ。また何か採れたら持っておいで。
質のいい薬草は、私の店でもいつだって足りてないの」
「よかった。ありがとうございます」
「それとね……」
ハンナがカウンターの奥から小さな瓶を一つ出した。
黒っぽい液体が入っている。
「これ、持っていきなさい。虫除けの薬液よ。お近づきの印に」
「え? いいんですか」
「さっきの止血草、本当にいい仕事だった。
ちゃんとした薬師の仕事を見ると嬉しくなるのよ。父親に感謝しなさいね」
リーネの目が一瞬だけ潤んだ。
だがすぐにまばたきで消した。
「……ありがとうございます。大事に使います」
「また来なさい。リーネ。覚えたわよ」
「はい。ハンナさん。また来ます」
二人は、店を出た。
クロとフレスは相変わらずいい子で入口の外で待っていた。
---
そして大通りに出た瞬間、リーネが足を止めた。
「……ごめん。少しだけ待って」
「ああ……」
二人で通りの端の壁際に寄った。
クロがリーネの足元に座り、頭をリーネの膝にそっと押しつけた。
フレスは肩の上で首をすり寄せた。
リーネはしばらく黙っていた。
「生きてる魔族から、角を……」
「………」
アクロスは黙っている。
「もしあの時、あなたがいなかったら……私の角も……」
リーネは角のあった部分に手を当て、少し震えている。
「リーネ」
アクロスの声は穏やかだった。
だが目だけが、いつもと違っていた。
静かに、深く、怒りが燃えている。
「俺が、ちゃんとお前の隣にいる。クロもフレスもいる。
誰にもお前の角は触らせない」
「………」
「今すぐどうにかできる話じゃない。だが忘れてない。
いつか必ず、絶対。この状況を変える。そのために俺たちはここにいるんだろ?」
リーネが目を閉じた。
三秒。
目を開けた時には、
いつもの切れ長の焦げ茶の瞳に戻っていた。
「ありがとう。もう大丈夫だから……」
「大丈夫じゃない時も言えよ。無理すんな」
「大丈夫じゃない時は、だいたいあなたが先に気づいてるじゃない」
「……まあ、そうかもな」
「そうよ。だから私は大丈夫。もう泣かないって決めてるから」
「あぁ。知ってるよ」
「知ってるならその心配そうな顔はやめてよ。泣きそうになるから」
「……たまには、泣いてもいいんだぞ」
「泣かないわよ。これからもう少し生活品を買い足しに行くんだから。
でも私が、泣き顔で値切ったら、安くしてもらえるかもね」
リーネは笑顔を作るように言った。
だが目には、不安の色がまだ完全には消えていなかった。
「涙の使い方を間違ってるぞ」
「もちろん冗談よ。私の涙はそんなに安くないもの」
リーネが歩き出した。
少しだけ足取りが軽くなっていたと思う。
クロが二人の間を歩く。
フレスがぴぃと空に向かって鳴いた。
リーネの口が少しだけ動いたのが見えた。
アクロスには聞こえなかったが、何を言ったかはわかっている。
「ありがとう」
グラザの空は美しい、夕暮れ色に染まっていた。




