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第27話 グラザでの初めての朝

二人はすっかりリフレッシュした状態で宿に戻った。


宿で出される今日の夕飯の献立は、

野菜スープと焼きたての黒パン。塩漬け肉の薄切り。


二人はテーブルを挟んで向かい合って座った。


野菜スープをひと口。


しっかり温かい。野菜の甘みと豆のほくほくした食感。


塩加減がちょうどいい。


「……あぁ、うまいなぁ」


「うん、おいしいわ」


リーネがパンを千切ってスープに浸した。


しばらく二人とも黙って食べた。


タネルの村の食堂でも思ったこと。


誰かが作った飯を、屋根の下で食べる。


椅子に座って、テーブルがあって。当たり前の幸福。


「ねえ、アクロス」


「ん?」


「この世界に来てすぐは、草原で一人で焚き火の前に座ってたんでしょ?」


「ああ。鹿肉を焼いて、塩もなしにかじってた」


「今、塩加減がちょうどいいスープを飲んでる。進歩したわね」


リーネは穏やかに笑っている。


「ほんとにな。塩ってすごいよな」


「感動するところ、そこなの?」


「いや、全部に感動してるけど、やっぱ塩は偉大だなって」


リーネが呆れた顔をした。だが口元は笑っていた。


窓の外が金昏の色に染まっていく。


金色の太陽が西の塀の向こうに沈もうとしている。


白い太陽がまだ少し高い位置に残っていて、

二色の光が通りを柔らかく照らしていた。


「アクロス、明日からどうする?」


リーネが声のトーンを少し変えた。


「そうだな。まずは情報を集めないとな。グラザの町のことも知りたい。

それから魔族に関する話も。あとは金を稼げる仕事の情報もな」


「町では二人で一緒に動きましょう。この町の地理もまだわかってないし、

はぐれたら連絡手段がないもの」


「そうだな。まずはギルドの掲示板を見て、それから市場も見て回ろう」


「私は薬師の店も見てみたい。薬草を定期的に買ってくれるかもしれないし」


リーネがスープの最後のひと口を飲んだ。


「でも無理はしないようにしましょう。今この町は物騒みたいだし。

何かおかしいと思ったらすぐに町を出る。これでいいわね」


「俺もそれを言おうとしたんだけど」


「先に言った方の勝ちよ」


「……強くなったな、リーネ」


「それ、流行らそうとしてるの?」


リーネは呆れながら言う。


窓の外をしばらく二人で見ていた。


通りにまだ人がいる。灯りが窓から漏れている。


どこかで子供の笑い声がした。


ここにも、普通の人たちの普通の夜がある。


「今日みたいな日を、ちゃんと積み重ねていけたらいいと思うの」


リーネが静かに言った。


「当たり前のことを、一つずつ……だな」


「そう。当たり前のことが当たり前じゃない人たちが、この世界にはたくさんいる。

私の集落の人たちもそうだった」


リーネは少しだけ声が低くなった。


「リーネ……」


「ごめんなさい。暗い話をしたいんじゃないの。ただ、忘れたくないだけ」


「……わかってる。俺も忘れてない」


---


食事を終えた二人がそろそろ席を立とうとした時、

リーネが何かを思い出したように口を開いた。


「……そういえば、アクロス」


「ん?」


「今夜、変身どうする? 今朝の倍がけ変身がまだ十分残ってるけど」


「そうだな。せっかくだから、このまま朝までもつのか試してみるか」


「わかったわ」


「今日は丸一日ずっと変身してた。湯に浸かって、飯も食って、夜もそのまま寝て。

それでも変身は翌朝まで残るのか。

もし変身が解けていなければ、倍がけは丸一日以上効果があるってことになる」


「明日は変身が残ってても朝は一回解除してまたかけ直す?」


「そうしよう。丸一日保てることが確認できれば今は十分だ」


「そうね。無理に限界を知る必要はないわね……」


「町にいる間は、朝は一日変身がもつようにしっかり魔法をかける。そして夜は朝までもつ程度の魔力でかけておこう。これでしばらく安心だ」


「魔族の姿はしばらく封印ね……」


リーネは少し寂しそうな表情で言った。


「今は仕方ないさ。どこか腰を据えて生活ができればいいんだけどな……。

そのあたりのこともこれから一緒に考えていこう」


「うん」


「さて、二匹にもご飯をあげにいくか。腹を空かしてきっと怒ってるぞ」


「そうね。少しゆっくりし過ぎたかも……早く行ってあげましょう」


---


食事を終えて、裏の囲いに近づくとクロの、わふぅ!が聞こえてきた。


その後にフレスのぴぃ!が返ってくる。


なにか会話をしているのだろうか。


二匹は二匹で、ちゃんと夜を過ごしているらしい。


「あの二匹、仲良くなったわね」


「兄妹みたいなもんだからな」


「フレスが妹?」


「まぁ、そうだな。クロのほうが先に生まれてるからな。

フレスは性格も、なんか妹っぽいだろ」


リーネは首を傾げた。


「そうなのかしら? 私は兄弟がいないからわからないけど……」


「まぁ、俺も一人っ子だから知らんけど」


アクロスは頭をぽりぽりと搔いている。


そう言いながらもアクロスは思っていた。


クロとフレスはやっぱり、拓海と美咲の関係に、似ていると思う。


「……もう、これからが心配になるわ」


「大丈夫さ。お前が隣で見ていてくれるんだろ?」


アクロスはキリッとした表情で言った。


「いい感じにごまかさないで。しっかりしてよね」


リーネが小さく笑った。


「さ、二匹に餌をあげに行きましょう」


「そうしよう」


二人は二匹に会いに小屋の中へ入っていった。


二匹の「やっときたか」という声が小屋から響いてくる。


二人と二匹でしばらく過ごす。


やがて二つの太陽は沈み、三つの月が空に浮かぶ時間になった。


「おやすみ、アクロス。今日もいい一日だったわ」


「ああ。また明日。おやすみ、リーネ」


二人は宿に戻り、それぞれの部屋の扉の前で言葉を交わして別れた。


---


アクロスは部屋に入って、扉を閉めた。

鍵もかけた。


部屋には蝋燭の小さな灯りが一つ。


通りから漏れる人の声と、馬車の遠い音。


部屋の奥、壁際にはベッドがあった。


木の枠に、麻のシーツが張られていて、毛布が二つに畳んで置いてあった。

枕は一つ。藁をしっかり詰めたものらしく、形が整っている。


アクロスはしばらく、立ったままそれを見ていた。


おいおい、これは、ベッドじゃないか。

藁でもない。石床でも木の床でもない。


ちゃんとした、ベッドだ。


この世界に来て、二週間ほど経っただろうか。


草原で焚き火の脇で寝た夜。森では石床に落ち葉や木で作った寝床。

タネルの村の藁布団。


そして今夜はついに、ベッドだ。

何度でも言おう。ベッドだ。


アクロスは服を脱いで、変身も解いた。

全裸の魔族の自分の姿だ。自分で言うのもなんだが逞しい裸体。


ついてるものも立派なものだ。

おっと、これは言葉にはできないが、要は自信に満ちた肉体である。


それから、ベッドにそっと手を置いた。


シーツの下のマットレスは、藁を布で包んだものか。

押すと、ふっと沈んで、戻ってくる。


しっかり、弾力がある。


全裸で座ってみた。アクロスは彫像のようなポーズで座る。

うむ、実によい。


腰がふわっと沈み、ぐっと押し返してくれる感触。


立ち上がって、もう一度座って彫像のポーズ。


凛々しいポーズのまま、お尻で弾んでみた。


これはいける。もう一回弾んでみた。


ベッドが、ぎしぃ、と鳴った。


おっと、これはやりすぎると怒られるやつだ。


ばっと振り向いて扉を確認した。閉まっている。


壁の向こうに人の気配はない。リーネの部屋は隣だが聞こえてないだろう。


いや、あいつもひょっとしたら今隣の部屋で同じことをしてるかもな。

普段はクールぶってても一人になると全裸でベッドの上で踊ってるかもな。


そっと立ち上がって、毛布を一旦どかした。


そして、ぼふっ。


立った姿勢からそのまま仰向けで、ベッドに倒れ込んだ。


「はぁぁぁぁあ……」


声にならない息が漏れた。


体が、沈む。ふわっと沈んで、ぐっと支えてくれる。

背中の重さが分散していく。


いつ以来の感覚だろう、これ。


家族と離れて、出張でビジネスホテルの部屋でひとりごろごろしている時の感覚。

至福のソロタイム。


あれを、いま思い出した。


天井を見上げる。


板張りの天井に、蝋燭の光がやんわり照らされている。

大きな梁が一本、左から右へ走っていた。


……生きてんなぁ、俺。


ふと、そんな言葉が浮かんだ。


異世界に来てから、いろんなことがあった。


だがようやく今日、温かい風呂に浸かって、新しい服を着て、

そしてベッドの上に寝転がっている。


草原に放り出されたあの日から、

ちゃんと一日一日を、積み重ねて生きてきたんだなと思う。


枕に頭を乗せた。藁の中に少し、何か香りのいい乾いた草が混ぜてある。

鼻先に、ふわっと甘い匂いがした。


「あぁ、気持ちいい……」


ゆっくりと眠気がやってきた。

抗う意思は、もうなかった。


蝋燭の灯りをふっ、と吹き消した。

ゆっくりと目を瞑り、心地よい眠気に、体を委ねた。


全裸の魔族は意識が遠のいていく。


今夜は深く、ぐっすりと。


---


そして翌朝、部屋の窓から朝の光が差し込んでいた。


アクロスはゆっくり目を開けた。


白い太陽の光が薄い布越しに柔らかく広がって、

見慣れない天井を照らしている。


一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。


石の壁。木の天井。干した草の匂い。

それから通りの向こうから聞こえる馬車の音と、人の声。


ああ、グラザの宿か。

頭も体も軽い。本当に久しぶりにぐっすりと寝られた朝だった。


ベッドの素晴らしさに改めて感動する。


そしてアクロスはのっそりと起き上がった。


シーツが半分はだけている。ゆっくりと自分を見下ろした。

青みがかった肌。腕の魔紋。そして逞しい裸体。


……あ。やべ。


変身が……解けてる。というか昨夜、自分で解いた。


頭が急に冴えた。


昨夜の自分を思い出す。


ベッドにテンションが上がりすぎて、変身を解いた。

何故か服も脱いで、全裸魔族の自己満ボディのまま寝落ちしたのだ。


さすがに馬鹿すぎる。リーネにどう説明しよう……。

情けない。


しばらく枕に顔を埋めて、じっとしていた。


いやいや、待て。落ち着け。

落ち着いて、よく考えろ。


俺は脱落してしまったが、あの真面目なリーネのことだ。


昨夜決めたとおり、変身を維持したまま寝てくれているはずだ。


彼女が朝まで変身がもつことを証明してくれれば、検証は成立する。


ベッドの上で、苦笑いが漏れる。

いやしかし、昨夜のあの幸福感は凄まじいものだったな。


アクロスは気持ちを切り替えて、変身魔法を自分にかけた。


光の靄がアクロスの体を包んで、収まる。


朝のうちに倍がけ。これは、町にいる間の運用ルールだ。


そして服屋で買った新しい服も着る。


よし、これでどこからどう見てもただのおっさんだ。

全裸でベッドの上ではしゃいだ昨夜の魔族は、もうどこにもいない。


そして部屋の窓を開けて外の様子を眺めてみる。


大通りはもう、動き始めていた。

荷車を引く男。籠を頭に乗せた女。走り回る子供。


煙突から立ちのぼる白い煙が朝の空に溶けていく。


どこかの窓からパンを焼く香ばしい匂い。


俺の油断を除けば、実にいい朝だ。


---


さて、リーネはもう起きてるかな。


昨夜決めた通り、アクロスはリーネの部屋のドアをノックした。


「リーネ。起きてるか。アクロスだ。開けてくれ」


「……起きてるわ。ちょっと待って」


ばたばたと何かを片付ける音がした。


三十秒ほど経ってから、扉が少し開いた。


「おはよう、入っていいか?」


「……入っていいけど、笑わないでよ」


部屋の奥から声だけ聞こえる。


「意味がわからん。入るぞ」


少しだけ開いた扉を、ちゃんと開けてリーネの部屋に入った。

そしてちゃんと閉める。


部屋の奥にリーネが立っていた。


生成り色のインナーの上に焦げ茶の麻のシャツを羽織っている。


ボタンは上の二つしか留めていなくて、鎖骨の下あたりまで覗いていた。


下は——―なんということか。何も、着ていなかった。


正確には、シャツの裾が太腿の途中までを覆っているだけで、

そこから下は艶めかしい素足がそのまま出ている。


なんだこいつ、朝から生足シャツだなんて……。

俺の大好物をなんで知ってるんだ……?


アクロスは少し混乱しながら一瞬だけチラリと下半身を見た後、

すぐリーネの顔に視線を向けたが……


そっちはそっちで、大変なことが起きていた。


銀白の髪が、とんでもないことになっていた。

いつもの比ではない。


右半分が上に跳ねて、左半分が顔に張りついている。

髪の後ろは何故か鳥の巣みたいに絡まっていた。


そしてその髪の隙間から、


——―焦げ茶の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。


人間の旅人のリーネの瞳。丸い耳。健康的な肌。

変身は、ちゃんと残っていた。


……変身は維持できてる。いや、それよりも寝癖がえぐすぎる。

何をどうしたらそんなことになるんだ。こいつベッドで回転しながら寝てたのか?


リーネは、「笑ったら殴る」と言いたげな目をしていた。


アクロスは瞬時に手で口を押さえ、しっかりと口を引き結んだ。


だめだ。笑うな。笑ったら殺される。

あと——―下も見るな。下を見ても殺される。


二つの波がアクロスを襲う。

寝ぐせと生足。笑いとエロス。


くそ、こいつは俺を朝から一体どうしようってんだ。


気持ちのいい朝の唐突な理不尽に、アクロスはいらいらする。


健康的な肌の太腿から膝にかけての線が、朝の光の中でやけに眩しかった。


アクロスは深呼吸し、精神を整え、視線を上に固定した。

顔だけを見る。それはそれで辛い。


幸い、アクロスの動揺には気づいていないようだった。

寝ぐせの方に意識がいっているらしい。


「……相変わらず、すごい寝ぐせだな」


なんとか声を絞り出した。


「だから笑うなって言ったでしょ」


「笑ってないよ。事実を述べただけだよ」


「口元がピクピク動いてるわよ」


「気のせいだよ」


リーネがじとっとした目で睨んでくる。


寝ぐせがすごくて、シャツのボタンが二つしか留まっていなくて、

素足で、目つきだけは鋭い。


なんというか——―色気と威嚇が同居していた。


いいから早く下履けよ。


心の中で叫んだが、口には出さなかった。

これはこれで声に出したら終わりだ。


しかし、こんな状況でもアクロスには、確認すべきことがあった。


「リーネ……」


「なによ」


「変身、ちゃんと朝までもったな」


リーネが一瞬きょとんとしてから、自分の手のひらを見た。


そして爆発している髪の中に手を突っ込んで角を探していた。


「……ええ。今確認したわ。変身はちゃんと維持されてるわね」


「いい結果だな」


「あなたの方も変身は維持されてた?」


「……いや、その。なんというか……」


アクロスは頭を掻きながら、目がきょろきょろしだした。


「解けてたの?」


「……ちょっと事情があってな……自分で変身を解いてしまったんだ」


リーネがじとっとした目になった。


「事情ってなによ?」


「この世界に来て初めてのベッドにテンションが上がってだな……」


「ベッド……?」


「だから、わざとじゃないんだよ。気持ちが一瞬で盛り上がってしまって、

気付いたら魔族の姿で全裸になってベッドで飛び跳ねてたんだ」


「あなた頭おかしいんじゃないの?」


リーネは冷たい目線でアクロスを刺す。


今現在、頭がおかしいのはお前の方だ。とアクロスは言いたくなったが、

ぐっと堪えた。


「すまん。朝起きた時に思い出してすごく反省したんだ……」


「確かにベッドで寝られることに感動しちゃうのはわかるわ」


リーネは生足シャツ爆発ヘアーで腕組みしながら頷いている。


「そうですよね? やっぱりリーネさんもベッドではしゃいだから……

今日は寝癖がすごくなったんですよね?」


アクロスは気を使っているつもりで、

盛大に挑発していることに気付かなかった。


「調子に乗らないで。殺すわよ」


「すまん……悪かったよ」


「次からはほんとに気を付けてよ。ちゃんと二人で決めたことなんだからね」


「わかってる。お前も本来の姿でちゃんと寝たかったはずなのに。

本当にすまなかった」


「ほんとに思ってるの?」


リーネはじとっとした目でアクロスを見ている。


「ほんとに思ってる」


アクロスはもじもじしながら、ちらちらとリーネの目を見ている。


「じゃあちゃんとわたしの目を見て誓ってよ」


「わかった」


リーネが目を細めてじっとアクロスを見ている。


アクロスは爆発ヘアーと生足に負けないように全力でリーネの目に集中した。

なんだこれ、最悪の罰ゲームだな。


笑わず、鼻を伸ばさず、突っ込まず。ちゃんと耐えてる俺は偉いと思う。


そのまま二秒ほどアクロスを見て、ふっと息を吐いた。


「まあ、いいわ。私だけでも倍がけは丸一日もつのは確認できたんだし」


「あぁ、これでもう町にいる間は安心だな」


「ええ。あなたが油断しなければね」


「精進します」


リーネはまだ呆れていたが、もう怒ってはいない様子だった。


「リーネもとりあえず変身、かけ直そう」


「……うん、一度変身、解くわね」


リーネは目を閉じた。


光の靄がリーネの体から流れ出ていく。

いつもより少し、光が少なかった気がした。


もしかして、変身の効果時間は残り少なかったのだろうか。


そして深紅の瞳と二本の角が戻ってきた。

だが寝ぐせはそのままだ。


「お帰り、リーネ」


「……うん、ただいま」


一瞬の変身解除だが、二人のやりとりは変わらない。

一瞬だからこそ、しっかり言ってあげないとリーネがへそを曲げてしまう。


それから、改めて魔力をしっかり流し込んで、変身をかけ直した。


変身シフト


光の靄がリーネを包む。


また角が消える。深紅の瞳が焦げ茶に変わる。耳が丸くなる。


寝ぐせと生足は変わらない。


「リーネ。さっき変身を解いたとき、

いつもより出てくる光の量が少なかった気がしたんだ」


「どういうこと?」


「多分、解除の時に出る光は変身に使ってた魔力が散ってるんだと思うんだ。

それが少なかったということは変身に使ってた魔力の残りが少なくなってる、つまり変身の効果時間があとわずかだった。そういうことだと思う」


「なるほどね。これで倍がけの限界時間が見えたわね。丸一日と少しってことね」


「あぁ、体調や疲労とかも関係はあるかもしれないが目安として覚えておこう」


「そうね。そろそろ支度して朝ごはんにしましょうか。

寝癖もなおさないと……」


「寝癖もそうだけど、いい加減、下もなんか履けよ。ずっとふともも丸見えだぞ」


思わずさらっと言ってしまった。


「あっ……」


アクロスは思わず口に手を当てた。


「え?」


リーネが自分の足元を見た。


三秒の沈黙。


「——ッ!!」


リーネの顔が、耳まで一気に赤くなった。


「な、なんで先に言わないのよ!どんだけ私の足を眺めるつもりなの!最低よ!」


「そんなこと言える空気じゃなかっただろ!

それに言ったら言ったで殴るんだろ!」


「もういい!部屋から出てって!!今すぐ!!」


リーネはアクロスに毛布を投げつけてきた。

うん。いい匂いだ。


「わかったよ! 出るから!物を投げるな!」


アクロスはすごい勢いで廊下に押し出されてしまった。


扉がばたんと閉まった。


アクロスは廊下で一人、空しく天井を見上げた。


朝から……疲れたな。


扉の向こうから、ばたばたと着替える音がしている。


しばらくして、リーネが出てきた。


黒のレギンスをちゃんと履いて、チュニックも着て、ベストも締めている。


髪も無理やり直したらしく、後ろで束ねてあった。


さっきのぼさぼさが嘘みたいに、きちんとした旅人の姿になっている。


顔はまだ赤い。


「……さっきのことは忘れなさいよ」


「なんのことかな?わからないよ」


「嘘。絶対覚えてるでしょ」


「知らないよ。俺は何も知らない」


「……もういい」


リーネが先に階段を下りていった。


耳がまだ赤かった。


「早く朝ごはんに行くわよ」


声だけは、いつも通りに戻っていた。


---


食堂に降りると、昨日と同じ席が空いていた。


二人はテーブルを挟んで向かい合って座った。


朝食は黒パンと豆のサラダと肉が少し入ったスープ。

それから干した果物が少し。


地味だがよく工夫された献立だな、とアクロスは思った。


「アクロス、今日の予定を確認しましょうか」


リーネがスープをひと口飲んでから言った。


朝から切り替えが早い。


生足で誘惑して寝ぐせで笑かそうとしたことがなかったことになっている。


「まずギルドの掲示板で依頼を見てみる。次に市場で食料の補充。

それから薬師の店を探す」


「了解だ」


「そうだ。アクロス、今日は何の日か覚えてる?」


男性という生き物は、女性に真顔で唐突にこの質問をされると、

何故かテンパってしまう性質がある。当然、アクロスもそうだった。


「え?……俺たちの……結婚記念日、かな?」


思わず、訳のわからないことを言ってしまう。


おそらく前世のデジャヴだろう。


「は? なに寝ぼけてんのよ。殴られたいの?」


リーネはじとっとした目で続ける。


「今日は土の日よ。市が立つ日!」


「あぁ……!」


「あぁ、じゃないわよ。このあいだ教えたでしょ。

八日で一週間。土の日は市が立つの」


「すまん。朝の生足と寝ぐせの衝撃がすごくて、全然頭に入ってこなかった……」


「次言ったらほんとに殴るわよ」


「はい……」


「いい?暦は大事なことよ。忘れないで。アクロスには早く慣れてもらわないと。

土の日の市はね、普段より品揃えが多いの。

塩と蜂蜜とか生活の必需品の補充にはちょうどいいわ」


「リーネ先生は物知りですな」


「この世界で育ってれば当たり前のことなの」


「さ、食べ終わったら先にクロとフレスのところに行くわよ。

ご飯を持っていかないと」


「そうだな。昨日は夕方に顔を出したきりだったからな。

朝も放っておくと二匹に恨まれちまう」


「拗ねてるかもしれないわね」


食事を終えて、今日も厨房の人に頼んでクロとフレスの分を用意してもらった。


干し肉を多めに、そしてパン。


二匹の相棒たちが怒っていないかの確認に向かった。


---


囲いの柵が見えた瞬間、小屋にいたクロが飛び起きた。


尻尾がぶんぶん回り始める。

柵の前まで駆けてきて、鼻先を隙間からぐいぐい突き出してきた。


「おはよう、クロ。待たせてごめんな」


わふっ!


嬉しさを隠す気がゼロの鳴き声だった。


柵を開けて中に入ると、クロがアクロスの脚に体を押しつけてきた。

膝の高さまで成長した体でぐいぐいとアクロスに迫る。


「よしよし。寂しかったか」


繋がった絆から伝わる、クロの感情は、「寂しかった」そのものだった。


フレスはリーネの姿を見つけた瞬間、

杭の上からぴぃぃ!と鳴きながら飛んできて、肩に止まった。


翼を小さくばたつかせて、頬をリーネの首筋にすり寄せる。


「はいはい、ごめんね。ちゃんとご飯も持ってきたから」


リーネがフレスの頭を指先で撫でた。


フレスが目を細めて、甘えた声を出す。


干し肉とパンを二匹の前に並べた。


クロが干し肉に飛びついた。がつがつと食べる。

行儀が悪いが、嬉しそうだ。


フレスはパンをつついてから、干し肉の方をちらりと見た。


「フレス、こっちも食べていいわよ」


リーネが干し肉を小さくちぎってフレスの前に置いた。


フレスがぴぃと鳴いて、上品についばみ始めた。


「食べ方に性格が出るよな」


「そうね。クロは豪快で、フレスはお上品」


「誰に似たんだか」


「もちろん、相方に似たんでしょ」


「俺はあんなにがつがつ食わないぞ」


「串焼き屋台の前でも同じことが言えるのかしら」


「……当たり前さ」


今日は串焼き、食えるかな。

朝食を終えたばかりだが、串焼きを思うとよだれが出てくる。


クロが顔を上げて、アクロスとリーネを交互に見た。

何を話してるかはわからないが、二人が笑っているのはわかるらしい。


フレスも食べ終わって、リーネの膝の上に移動した。

丸くなって、目を閉じかけている。


「おいおいフレス、これから出かけるんだぞ」


ぴぃ、とフレスが片目を開けて、すぐにまた閉じた。


「食後は眠いのよ。女の子だもの」


「いや、女の子関係ある?」


「あるわよ」


アクロスもクロの頭を撫でた。


「クロ。今日は町を歩くぞ。人が多い場所だ。

俺の横について、騒ぎは起こすなよ」


クロが背筋を伸ばした。了解した、という顔になった。

さっきまでの甘えん坊が嘘みたいに、一瞬で仕事の顔に切り替わる。


フレスもリーネの肩に移動して、翼をきゅっと畳んで小さくなった。

目立たないようにする意思表示だ。


「よし。行こうか」


「ええ」


二人と二匹は、宿の裏口から大通りに出た。


今日は土の日。市場で買い物だ。


果たして、今日こそ串焼きを食べることができるのか。


アクロスの運命は、リーネの機嫌次第である。


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