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第26話 二人の町散歩

ギルドの建物が見えてきたところで、

アクロスは大通りから一本脇の路地に入った。


「ちょっと待ってくれ。先に素材を出しておこう」


「そうね。ギルドでいきなりおっさんの影から毛皮が出てきたら大騒ぎね……」


リーネが路地の入口で通りを見張る。

クロとフレスも一緒にキョロキョロしている。


人通りはない。


「アクロス、大丈夫そうよ」


「わかった」


アクロスは足元の影を見下ろした。


「影の領域シャドウ・レルム


魔力が影の輪郭に沿って広がる。


影の中に手を入れて、毛皮や爪や牙をまとめて取り出した。


毛皮は荷袋に詰め直す。


「ほんと便利よね。シャドウ・レルム」


「おっ。ついに名前を呼んだな。カッコイイと思ったんだろ?」


「無視したらあなたが可哀想だと思ったからよ。

いちいち名前を唱えなくても発動できるんでしょ?」


「そりゃできるよ。俺の魔法に詠唱なんて必要ないよ」


「何でわざわざ言うのよ?」


「かっこいいからに決まってるだろ」


「私が毎回、反応してあげなきゃって気持ちになるのが面倒なのよ」


アクロスは全く懲りず、にやけながら荷袋を肩に担ぎ直した。


やめる気はないようだ。


大通りに戻るとリーネがふっと表情を引き締めた。

さて、いよいよだ。という顔だった。


---


冒険者ギルドは、広場の手前の石造りの建物だった。


二階建てで壁が厚い。入り口の上に看板が出ている。


剣と盾を交差させた紋章が刻んである。


重い木の扉が開け放たれていて、中から人の声と椅子を引きずる音が漏れてくる。


「ここがギルドっぽいわね」


「看板が出てるって言ってたからな。間違いないだろう」


「なんか緊張するわね」


「とりあえず、入ってみよう」


扉をくぐると、中は想像より広かった。


右手に長いカウンターが伸びていて、受付が三人並んでいる。


左手には丸太を組んだような頑丈な机と椅子が並んで、

冒険者風の男女が飯を食ったり、依頼書を広げたりしていた。


人間の姿でない者もちらほらいるようだ。


「なぁリーネ。見てみろよ。あれ、獣人かな?」


皮鎧を着た犬のような人型の獣人がギルドの奥でスープを飲んでいる。


アクロスは嬉しそうに、リーネにこそこそと小声で話しかける。


「もう……恥ずかしいからやめなさいよ。

この町には人間以外もいるんだから、毎回そんな反応してたら怒られるわよ」


嬉しがるおっさんをたしなめながら、リーネもギルドの中をゆっくり見渡す。


ギルドの天井は高く、開放感があった。

天井を走る梁には使い込まれた道具がいくつも引っかかっている。


汗と革、それから微かに血の匂い。


冒険者たちの生活と、旅、そして戦いが混ざった場所の匂いだ。


「独特な匂いね。人も多いわ……」


「荒っぽい連中が多そうだな」


アクロスは現場仕事での詰め所を少し思い出した。

堅苦しさとはかけ離れたこの空気感は嫌いじゃない。むしろ落ち着く。


そして奥の壁際には、もう一つ小さなカウンターがあった。


受付ではないようだ。

カウンターの上には素材らしきものが並んでいた。


「ねぇ、あっちが買取窓口みたいよ」


「よし、行ってみよう」


二人は少し緊張しながら、カウンターに近づいた。


中に座っていたのは中年の男だった。


短く刈り込んだ白髪交じりの髪。鼻の上に小さな眼鏡。

目が細くて鋭いが、顔に険はない。


帳面の数字と素材を行き来する手の動きに、何年もの経験が染みついていた。


カウンターに座る男は顔を上げずに、言った。


「お前たちは、買取か」


「ああ。素材を持ってきたんだ」


「出して見せてくれ」


アクロスは荷袋から草角獣の毛皮を三枚取り出して、カウンターに並べた。


男が毛皮を一枚ずつ手に取り、表と裏をそれぞれ確認する。


端を引っ張って強度を確かめ、鼻を近づけて匂いを嗅いだ。


「草角獣の毛皮、三枚。……状態がいいな。傷みが全くない。採れたての状態だ。

通常は輸送中に多少劣化するもんだが、これは上物として出せる」


男が帳面に何か書いた。


「毛皮三枚で銀貨六枚。続けて出してくれ」


草角獣の骨、角、爪。続けて魔狼の毛皮と牙。

カウンターの上に次々と素材が並んでいく。


男は一つ一つ手に取って確かめた。


骨の断面を爪で引っかき、角の先端を指で弾く。


魔狼の毛皮は光に透かして厚みを見た。


「草角獣の骨・角・爪、状態は良好。まとめて銀貨二枚。

魔狼の毛皮と牙、こっちは低〜中程度の素材だな。まとめて銅貨三十枚」


「魔核もあるの。見てください」


リーネが財布から魔核を出した。


草角獣の魔核が三つ。

魔狼の魔核が四つ。


男が一つずつ、光に透かして確認した。


指先で転がしながら重みと大きさを見る。


無駄のない手つきだった。


「草角獣の魔核、一個銀貨二枚。三個で銀貨六枚。

魔狼は★一つ相当のものだ。一個銅貨十二枚で、四個銅貨四十八枚」


「合計は……」


男が帳面を走らせた。


「毛皮の銀貨六枚。骨・角・爪の銀貨二枚。

魔狼素材の銅貨三十枚。草角獣の魔核が銀貨六枚。魔狼の魔核が銅貨四十八枚。

全部合わせて銀貨十四枚と銅貨七十八枚。銅貨二十枚で銀貨一枚計算。

——―銀貨十七枚と銅貨十八枚だ」


男は詰まることなく、すらすらと言った。


アクロスはリーネの方をちらりと見た。


リーネが小さく頷いた。


「妥当よ。毛皮が上物で高く出た分、全体的にいい値だと思う」


小声だったが、鑑定士の男の耳にも届いたらしい。


眼鏡の奥の目がわずかに動いた。


「なんだお嬢さん、相場がわかるのか」


「少しだけ。以前、集落でもいろいろ取引をしていたので」


「なるほどな。頼りになる嬢ちゃんだな」


男はアクロスの方を見て、にやりと笑った。


男が木箱から銀貨と銅貨を取り出して、一枚ずつカウンターに並べた。


銀貨十七枚。銅貨十八枚。


「確認してくれ」


アクロスが数えた。間違いない。


リーネが横から手を伸ばして銀貨を一枚取り上げた。


表と裏を確かめてから、親指の爪で軽く弾く。


澄んだ音がした。


「本物ね」


「当たり前だ。ギルドが混ぜ物なんかしたら信用も何もないだろう」


男がやや不服そうに言った。


「ごめんなさい。旅が長かったもので。癖になってるの」


リーネがさらりと笑って返した。


男の眉が少し緩んだ。


「また来てくれ。状態のいい素材は優先して見るぞ」


「ありがとう。また来るわ」


リーネは男に軽く手を振った。


---


ギルドを出ると、大通りの昼の空気が一気に体を包んだ。


「二匹ともギルドでは大人しかったな」


クロとフレスはわふ、ぴぃと返事した。

空気くらい読めるんだ、と二匹で抗議しているように聞こえた。


「町ではあまり目立つわけにはいかないものね。ごめんね。我慢しててね」


クロとフレスはわかってるさ、と言いたげに頷いている。


双昼の光が二色に降り注いでいる。

白と金が重なって、石畳に二重の影が伸びていた。


「さて、現在の所持金は……」


リーネが指を折り始めた。


「換金分が銀貨十七枚と銅貨十八枚。もともとの手持ちが銅貨十四枚。

合わせると……銀貨十七枚と銅貨三十二枚ね」


「おお、リーネ先生は計算が早いな。俺たち、無事にお金持ちになれたのか?」


アクロスはにこにこしている。


「当然よ。ていうかあなた、実は計算苦手でしょ。

全然、お金持ちじゃないわよ。でも多少余裕ができたわ」


「いや、別に苦手じゃないよ。ちゃんとわかってるし……」


「嘘ね。さっきギルドの中で目が白黒してたもの」


「受付のおっさんが早口すぎて驚いてただけだよ」


「おっさんがおっさんのことを、おっさんって言わないで」


リーネの返しが軽い。機嫌がいいんだろうな、と思った。


無一文から銀貨十七枚。この世界に来て、もうそれなりの日数が経った。


ようやくまともな金を手にすることができた。


「それで、このお金のことだけど……」


リーネが財布を自分の袋に入れた。


「私が管理するわね」


「……え。なんで? 俺のお金でもあるだろ」


アクロスは不満顔で抗議する。


「あなた、さっき町に入ってすぐ、串焼きの屋台の前で足が止まってたでしょ」


「止まってないよ」


「嘘。匂い嗅いでたわよ。鼻がひくひくしてた」


「してないよ」


「クロと同じ動きしてた」


「クロと一緒にするな」


クロが足元でわふ、と鳴いた。


なぜかちょっと得意そうな顔をしている。


「ほら、クロも認めてる」


「認めてねえよ……」


「とにかく。お小遣い制にします」


「嫁でもないのにお小遣い制でお財布管理されるのは、正直おかしいと思います」


「あなた、昨日似たようなもんだって言ってたでしょ」


リーネはにやりとした顔でアクロスを見た。


「ぐっ……」


まさかあの悪ふざけでこんな目にあうなんて。


「聞いて、アクロス。 私はあなたにこのお金を使っちゃダメとは言ってないの。

欲しいものがあったらもちろん買ってもいいけど、ちゃんと私に相談してほしいの。

これから先、何があるかわからないんだから、そもそもお金というものはね……」


「わかった! わかったから。周りの人が見てるから……

おっさんが若い娘にお金で小言言われてるの見られてるから……」


通行人のカップルや、年配の女性が通りすがりにくすくす笑っている。


「ま、まぁ……わかってくれたならいいの」


リーネは少し耳を赤くして続ける。


「お金の優先順位の確認。

一、服。二、宿。三、食料の補充。あとは何に使うかは相談。いいわね?」


「……はい」


リーネが歩き出した。迷いのない足取り。

フレスが肩の上でぴぃと鳴いた。


こっちもなぜかご機嫌だ。


しっかりした相棒でまいったな。あー、串焼きくいてぇな。


アクロスは、心の中でぼやきながらリーネの後をついていった。


---


リーネが先頭を歩き、アクロスはとぼとぼとついていく。


なんだか町に入ってからのリーネは生き生きとしている。


そして二人は、衣類を扱う通りに入った。


一軒目は値段が高すぎた。


リーネが価格表を見た瞬間に「出ましょう」と踵を返した。


二軒目は品揃えが少ない。


リーネが棚を一周見て、静かに首を横に振った。


「なかなか、厳しいご判断ですな」


「買い物で妥協すると、後で痛い目をみるわよ」


「頼りになりますな」


アクロスは言いながら、ちょっと元嫁を思い出してしまった。


でも女の人って、大体そうか。買い物に命懸けてるもんな。


そして三軒目。


年季の入ったレンガ作りの建物で、旅装備を専門に扱う店のようだ。


棚に実用的な品が整然と並んでいる。


主人は四十代くらいの恰幅のよい女性だった。

頭に布を巻いて、動きが機敏だ。


「いらっしゃい。旅の方かい。何をお探しで?」


「こんにちは。二人分、旅の服を新調しようと思って一式で探してるの。

丈夫で動きやすいもので頼みたいんですが」


「任せてくださいな。お二人、まっすぐ立ってもらえる?」


女主人がアクロスとリーネをぐるりと一周見た。


一瞬で寸法を読んだらしい。熟練の商売人の目だ。


そして、棚を次々確認して、何着かを取り出してきた。


リーネの前に広げたのは、淡い藍色の麻のチュニック。


膝上丈で、裾に白い糸で細かい刺繍が入っている。


襟元がゆるく開いていて、鎖骨のあたりが少し見える形だ。


それに生成り色の薄手のインナー。


焦げ茶の革ベストは腰が絞ってあって、背中に紐で調整できる仕組みになっている。


そして黒のレギンスに、くるぶし丈の茶革のショートブーツ。


「このベスト、薬草入れを腰に下げてもぶつからない形になってますよ。

それにこのチュニック、裾の刺繍がこの辺りの職人の手仕事でね。

丈夫だし、可愛いでしょう?」


リーネが目を丸くした。


「……どうしてわかったんですか。薬草のこと」


「腰に革の筒を下げてらっしゃるから。薬師さんか薬草売りの方かと思ってね」


「一目見ただけで……すごいですね」


「これでもグラザで二十年お店をやってるからね」


女主人がにっと笑う。


「さ、よかったら体に当てて確認してみてくださいな」


試着用の場所に案内されて、リーネがチュニックを体に当てた。


鏡の前に立つ。変身した焦げ茶の瞳で、自分の姿を確かめている。


少しだけ、表情が変わった。


いつもの切れ長の目が、ほんの一瞬柔らかくなる。


裾の白い刺繍に指先が触れた。


新しい服を着た自分を、見ている顔だった。


「……アクロス、どうかな?」


声が少しだけ小さかった。


「よく似合ってるよ」


「……ほんとに? いつもみたいに適当に言ってない?」


「言ってないって。ちゃんと見て言ってる。リーネに似合うと思う」


リーネが鏡と、アクロスを交互に見た。


それからまた鏡を見た。


「……気に入ったわ。これにする」


耳の先がほんの少し赤くなっていたが、それについては何も言わないでおいた。


「リーネ。替えの服も要るだろう。旅の途中で洗い替えがないとまずいからな」


「そうね。インナーの替えと、もう一枚上に着られるものも欲しいわ」


女主人はすかさず棚から追加で出してきた。


商売がうまい。


リーネ用には、薄手の生成り色のインナーがもう一枚と、

袖の詰まった焦げ茶の麻のシャツ。チュニックの下にも上にも合わせられる形だ。


「あと、女性にはこれも欠かせないわ」


女主人がカウンターの下から布の包みを二つ出した。


「下着の替えね。旅の女の子には必需品よ。

胸布の替え二枚と、短い腰布の替え二枚。丈夫な麻で、洗ってもすぐ乾くやつよ」


リーネの頬がわずかに染まった。


「……ありがとうございます」


「いいのよ、恥ずかしがることじゃないわ。大事なことよ。

さ、自分で触って確かめてみて」


リーネが布を手に取って、指先で生地の厚みを確かめた。

しっかりしているが、肌当たりは柔らかい。


「……いい生地ですね」


「でしょう。仕入れには自信があるのよ」


女主人はにかっと笑った。さっきよりも大きな笑顔。


アクロスはその間、店の窓から見えるクロとフレスを見ていた。

入口外で大人しく座って待っている。ほんとに賢いやつらだ。


この世には、男が無粋に侵してはならない女性だけの場というものがある。


四十三年の人生経験で、アクロスはそれを理解していた。


「あなたの方もね」


女主人がアクロスに向き直った。


アクロス用には、濃い茶色の厚手の麻シャツ。

袖が捲りやすい仕様になっている。


カーキ色のポケット付きベスト。丈夫な黒いズボン。


「替えはこっち。灰色の麻シャツがもう一枚と、薄手のインナーが二枚。

下穿きの替えも二枚つけとくよ」


「ありがとう。助かるよ」


「男の人は替えを持たずに旅に出ようとするから困るのよ。

何日も同じもの着るつもりなのかしらね」


「……耳が痛い」


女主人がにやりと笑った。


リーネもアクロスの服をじっと見た。


「あなたも、そっちの方がいいわね。黒コートより動きやすいでしょ」


「確かに。おっさんにはこっちの方がしっくり来るな」


主人が二人のやりとりを楽しそうに見ていた。


「あなたたち、仲がいいねえ。全部まとめて銀貨三枚にしとくよ。

替えの分もあるから少し張るけど、長く使えるものばかりだから損はさせないわ」


リーネがちらりとアクロスを見た。


「どうする?」という目だ。


「いい買い物だと思う。頼もう」


リーネが頷いて、財布から銀貨三枚を出した。


主人が布の手拭いを一枚ずつ添えてくれた。


「旅に出るならこれもあった方がいいよ。おまけさ」


「ありがとうございます。助かります」


「気をつけてね。夜はあまり出歩かないほうがいいよ。

最近ちょっと物騒だからね……」


女主人は二人を笑顔で送ってくれたが、目の奥に一瞬だけ、影が過ぎった。


---


二人はまた大通りの広場に戻り宿を探すことにした。


ギルドからすぐの通りには、宿が何軒か並んでいるのが見えた。


「クロとフレスもいるしな。二匹もちゃんと寝られる場所がいいよな」


「そうね。宿で聞いてみましょう」


一軒目は満室だった。動物もダメみたいだし仕方ない。


二軒目。

入り口もしっかり掃除されていて、主人の感じも丁寧でよかった。


「こんにちは。部屋を二つ取れますか。連れの動物もいるんですが……」


町に来てからはリーネが主導権を握っている。


きっと楽しいんだろうな、とアクロスは少し嬉しくなっていた。


「部屋二人分、空いてますよ。一部屋一泊で銀貨一枚です。

夕と朝の食事は銅貨五枚でお付けできますよ」


「ありがとう。食事付きで二部屋、お願いします」


「何泊されていきますか?一泊でしょうか?」


リーネはアクロスを見て、どうしよう。という目をしている。


「三泊ほど考えてるんだが……同じ部屋で空いてますか?」


「大丈夫ですよ。三日とも同じ部屋で宿泊していただけます」


どうせなら三日くらいは町に留まって情報を集めたいところだ。


アクロスはリーネを見た。リーネもそれでいい、と頷いた。


「では三泊でお願いします」


「かしこまりました。

……ただ、お連れの動物は裏の動物用の小屋で寝泊まりしてもらいます。

申し訳ないのですがお二人の部屋には入れられませんがよろしいでしょうか?」


クロがアクロスをじっと見た。


わふ、という声が聞こえそうな顔だった。


「清潔にしてありますし、お水も餌も出せますので」


(クロ、すまん。許してくれ)


無声で伝えた。


クロが鼻を鳴らした。

不満なのは間違いないが、わかっている顔だった。


アクロスはリーネを見て頷いた。


「ありがとう。それでお願いします」


リーネが言った。


裏の動物小屋は思ったより広かった。

屋根もあって、藁が敷いてあって、水も用意されている。


クロが中に入って一周歩き回り、一番奥の角に伏せた。

フレスがリーネの肩から降りて、クロの上にちょこんと乗った。


「夕方にはまた迎えに来るからね」


リーネがフレスの頭を指先で撫でた。


ぴぃ、と短く返ってきた。


クロがアクロスを見た。


「わかってるな。ちゃんと来いよ」という目だ。


「わかってるって。飯も持ってくるからな。ごめんな」


クロの尻尾がぱたりと一回だけ動いた。


---


二人も階段を上がり、それぞれの部屋に向かう。


二階の廊下でリーネが口を開いた。


「ねぇアクロス。部屋で荷物を置いて、

新しい服に着替えたら、湯屋に行きましょう」


「湯屋? この町にそんなものがあるのか!?」


「さっき主人に聞いたの。二本隣の路地にあるって。一人銅貨三枚よ」


「リーネ、成長したな……」


アクロスは感動して鼻をすすった。


最初は愛想のないやつだと思っていたが……。


「どういう意味よ。もともと私は社交的なのよ」


「そうだっけ……」


「さ、行くわよ。早く着替えてきなさいよ」


アクロスは頭を掻きながら着替えを受け取った。


新しい服に着替えてから湯屋へ。


これなら脱衣所で服を脱いでも何も気にしないでいい。


当たり前のことだがほっとする。変身生活は地味にストレスがあるのだ。


二本隣の路地に湯屋っぽいのれんが掛かっていた。


銭湯が醸し出すこの独特の雰囲気。たまらないな。

異世界でもこの雰囲気を味わえるとは……。


二人は番台の老人に銅貨三枚ずつ払った。


「今日は空いてますよ。ごゆっくりどうぞ」


「ありがとうございます」


二人は男湯と女湯に分かれて入った。


脱衣所には、この時間は誰もいなかった。


服を脱ぎながら、腕を確認する。


人間の肌色。魔紋は見えない。


変身魔法はしっかりと効いている。


今朝の倍がけのおかげか、解ける気配は全くない。


ありがとう変身魔法。湯屋でも安心して湯に浸かれる幸せ。


しっかり噛みしめよう。


異世界初の、ちゃんとした風呂だ。興奮してくるな。


浴場に続く引き戸を開けると、石の湯船に澄んだ湯が張られていた。


湯気が天井に溜まって、空気が温かく湿っている。


「おぉ、風呂だ……ついに、たどり着いたんだな……」


実際に湯船を目にすると、興奮が、感動が、アクロスの体を駆け巡る。


今すぐ飛び込みたいが、転生しても心は日本人。


はやる気持ちを抑え、一拍、おく。


まずはかけ湯。これがマナーだ。


アクロスは姿勢よく湯船の前で湯を掬い、

そしてざばぁ、とひと思いにお湯を浴びる。


「……っうはぁ……」


声にならない息が漏れた。

まだだ、かけ湯くらいで意識をもってかれそうになってはいけない。


日本人のマナーでは湯船はまだだ。まずは体をしっかり洗おう。


長い森生活での汚れをしっかり落として、それから神聖なる湯船につかる。


まだ、我慢だ。


アクロスは洗い場にどっしりと腰かけた。


そして体をしっかり洗った。頭もがっしり洗う。


シャンプーとリンス。そして石鹸が恋しくなったが、

それはまだ贅沢だ。堪えろ。


もしこの世界に無いならいつかは必ず発明してやろうと思っていた。


シャンプーで莫大な財産を築く魔王もいいかもしれない。


何度も桶で湯をかぶる。


髪の間を温かい湯が流れる感覚が最高に気持ちいい。


よし、整ったぞ。


いよいよ、縁に手をかけて、足を入れて、ゆっくり体を沈めていく。


肩まで。首まで。


「うひゃぁあぁぁ!き、きもちいいいーーー」


アクロスは我慢できず、叫んだ。


タネルの村では服のまま湯を浴びるのが精一杯だった。


あの時はあの時で最高だと思った。


だがやはり、湯船は比べものにならなかった。


全身を湯に沈めるというのは、次元が違う気持ちよさだった。


前の世界にいた頃、仕事帰りに近所の銭湯に行くのが好きだった。


四百五十円。


番台のばあちゃんに会釈して、脱衣所のロッカーに百円入れて、

熱い湯に肩まで浸かる。


天井のタイルを眺めながら、今日も一日お疲れさん、と自分を労う。


あの感覚だ。久しぶりだ。本気で泣けてくる。


体の芯から、何かがほどけていく。


以前の記憶の中にある「風呂」という絶対幸福が、異世界の石の湯船の中で蘇った。


……ああ、これだよ。これ。


アクロスはしばらくぼんやりと湯に浸かっていた。


いつかは魔族の姿でも、気にせず入れるようになりたいな。


それで同じようなおっさんの風呂好き魔族と風呂上りの一杯を楽しむんだ。


これは、我が魔王ストーリーの第一段階の目標にしてもいいかもしれない。


アクロスは身も心も癒された。


そして湯から上がって、脱衣所で体を拭いた。


服を着て、鏡に映った自分を見る。


濃い茶色の麻シャツにカーキ色のベスト。


変身した焦げ茶の目。人間の旅人の顔だ。


前よりちょっとだけ、まともな旅人に見える気がした。


---


湯屋の小さな休憩所で座っているとリーネも出てきた。


いつもより、空気が違っていた。


淡い藍色のチュニックに焦げ茶のベスト。


裾の白い刺繍が、歩くたびにちらりと揺れる。


銀白の髪が洗いたての艶を持って光っていて、顔色が全然違う。


表情がほぐれている。


頬がほんのり上気していて、湯上がりの肌が綺麗だった。


「リーネ、どうだった?」


アクロスが嬉しそうに聞く。


「最高だったわ。言葉にならないくらい……」


リーネが大きく息を一つ吐いた。


目が風呂に入った感動で潤んでいる。


「お風呂に入って体を洗えるだけで、こんなに気持ちが違うのね……」


「わかる。俺も同じこと思ってた。最高に幸せだな」


「あなたの幸せそうな叫び声、こっちにまで聞こえてたんだから……」


「仕方ないだろ。お前は叫ばなかったのか?」


「叫ぶわけないじゃない……他におばあちゃんもいたんだから」


「よく我慢できたな……、リーネ。お前は強い女だ」


「なんかそれ、馬鹿にしてない?」


「してないって。あの快楽に負けなかったんだから大したもんだよ」


「なにそれ、確かに叫びたい気持ちはわかるけど」


リーネは笑った。


「でも、安心したわ。変身の倍がけのおかげで何も気にせずゆっくりできた」


「素晴らしい出来だよな。感謝の串焼きでも買ってくれていいんじゃないか?」


「確かにそうね。串焼きくらい買ってもいいかも……」


リーネが少し頬を緩めた。


ふふ。ちょろいな。アクロスはにやりと笑った。


「なんか怪しい笑い方ね。やっぱり要検討だわ」


リーネの目が鋭くなった。まずいな。いや、まだこの手がある。


「リーネ。その服、やっぱり似合ってるよ。すごくいい」


「もう……それはさっきも聞いたわ」


「大事なことは二回言う。前の世界の常識だ」


「変な世界ね……」


リーネが一瞬だけ目をそらした。でも嬉しそうだった。


「あなたも、ちゃんとした旅人に見えるわ」


「だろ? 動きやすいしな」


「なんだか親切そうな旅のおっさん」


「うるせぇよ」


湯上りに心地よい町の風を感じながら、二人は宿へ戻った。


串焼きは結局、屋台がなくて買ってもらえなかった。


リーネは「残念ね。次の機会をお楽しみに……」と笑っていた。


二人で串焼きを食べて帰ったら、クロとフレスに怒られそうだしな。


アクロスは、楽しそうに歩くリーネの姿を後ろから見ていた。


串焼きは明日でいいか。と思った。

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