表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/30

英雄譚 第三章 神官エレーナ・ルクレツィア


神殿の鐘は、夜明けより早く鳴る。


聖ヴェスタ神殿の鐘は古い銅の鐘で、もう百年は鳴り続けている。


鳴らすのは細い縄を引く動作ひとつ。

だが鐘の音は、ただの金属音ではなかった。


夜明けの直前の藍色の空気に、低く深く滲んで広がっていく。


町の屋根を撫で、森の梢を抜け、川面を渡り、最後に自分の胸の中に戻ってくる。


エレーナはその鐘を、毎朝、自分の手で鳴らす。


神殿の聖務として鐘を鳴らすのは下級の神官の役目だ。

だが聖ヴェスタには下級神官がいない。神殿守人もいない。


いるのはエレーナと、奥の小部屋で眠る七人の子供たちだけだった。


だから、鐘はいつもエレーナが鳴らす。一日も、休まない。


朝の鐘は三度鳴らす。


七柱神ルミナスの三つの徳


光・誠・慈を表すと、聖教会からは教えられてきた。


だが、光・誠・慈とはそもそも何なのか。

それが今のエレーナには分からなくなっていた。


それでも、三度鳴らす。


何度鳴らしても鐘の音がその答えを教えてくれるわけではない。


聖ヴェスタの鐘は、一日がまた始まったことだけを教えてくれるのだ。


---


鐘を鳴らし終えると、エレーナは祭壇の前に戻る。


聖ヴェスタの祭壇は質素だった。


石を積んだ低い台に、麻布を敷き、その上にルミナスの像が一体。


像と言っても両手のひらに乗るほどの小さな彫像で、白い陶器でできている。

陶器の白は、年月で薄い卵色に変わっていた。


祭壇の左右に蝋燭が一対ずつ。

それから乾いた野花を一輪挿してある粗末な陶の壺。


それだけだった。


エレーナは祭壇の前にひざまずき、聖印を握って朝の祈りを唱えた。


聖印は首から下げている小さな銀の円盤で、表に光の意匠が打ち出されている。


八歳で修練生になったときに与えられたもので、もう十八年経つ。

毎日変わらず彼女の胸の上にある。この聖印は毎朝かかさず握っている。


その表面の意匠はすり減って、薄く、消えかけていた。


朝のエレーナの祈りは、長くない。


「光の主ルミナスよ。 この夜の終わりに、感謝を捧げます。

この朝の始まりに、御許に立ちます。

私の手のすることを、私の足の歩むところを、

どうか、御目で見ておいてください」


それだけだった。


少し前まで、この祈りには続きがあった。

教義書に書かれた祈祷文を、彼女は子供の頃から暗誦していた。


『私は弱き者を、慈しみます。倒れし者を、起こします。

そして光に背く魔の徒を、退けます。邪なる者は、ルミナスの剣の前に捧げます』


半年ほど前から、エレーナはその続きを唱えなくなった。

意識して省いたわけではない。ただ、自分の口がもう唱えようとしなかった。


自分の心に反して無理に唱えるのは、ルミナス様に対しても誠実ではないと、

彼女はそう自分に言い聞かせていた。


その代わりに、短い祈りを丁寧に唱えるようになった。

この祈りの文に込めた思いには、嘘偽りは一切ない。


「私の手のすることを、私の足の歩むところを」


ここを唱える時、エレーナは自分の手のひらを見つめる。

そして足を見つめる。


神官の小さな手のひら。爪は短く切り揃えられ、指の関節には子供たちと薪を割った時の細い擦り傷が残っていた。


神官の細い足。この足で多くの道を歩いた。山を越え、森を抜け、魔の城を歩いた。

マメは何度もつぶれてすっかり旅慣れた者の足となった。


この手は、多くの戦場で傷ついた仲間を癒す手だった。

この手は、デモニア高地で多くの魔を払った手だった。


この足は、流れる血を止める為に歩む足だった。

この足は、多くの命を絶ちに向かう足だった。


エレーナは、この手のすることを、この足の歩むところを——

今はもう、分からなくなっていた


そして今は、子供たちの額をなでる手、村の老人の様子を見に行く足だった。


エレーナは思う。

その全部を、ルミナスはご覧になっていたのだろうか。


ご覧になっていたとして、それは——褒める御覧か、咎める御覧か。


あるいは、ただ、御覧になっただけか。


エレーナはその答えを、もう探さないことにしていた。

ただ、見ておいてください、と祈る。


見ておいてくださることを、信じる。


それだけだった。


---


エレーナは祈りを終えると、奥の小部屋で子供たちの寝息を確かめる。


七人の子供が、二段の寝台に寝ている。


鐘の音くらいではこの子たちが起きることはない。


一番下の段の壁際には、五歳のノナがいた。

ノナは栗色の巻き毛が枕の上で散らばっていて、口を半分開けて眠っていた。


寝床のそばには、ノナが昨夜にぎりしめていた木の鳥の玩具が転がっている。

半年前に町の大工が削ってくれた、不格好な小さな鳥だった。


ノナは三歳のときに神殿の前に置かれていた。


寒い朝で、布にくるまれていて、布の中に紙が一枚はさまっていた。

紙には「お願いします」とだけ書かれていた。


その筆跡を、エレーナは今も覚えている。

震えていない女の手の筆跡だった。


震えなかったのは、震えないように決意した手だったからだろうとエレーナは思っている。


ノナの隣には、八歳のヨーランがいた。


それから九歳のミナ、十歳のキルス、七歳のリュシュとアリエ、六歳のテオ。


名前を心の中で順に呼んで、寝息を確かめた。

子供たちの呼吸は皆、穏やかだった


エレーナは寝室の扉をそっと閉めた。


---


エレーナは厨房に立ち、朝食の支度を始めた。


聖ヴェスタの厨房は神殿の北側に小さく張り出していて、窓からは町の方角が見えた。


窓の下に台所、台所の横に薪のかまど、かまどの上に古い鉄鍋がある。


エレーナは鍋を火にかけ、麦と豆と乾いた野菜を煮始めた。

塩はひとつまみ。

最後に細く切った干し肉をひと握り。


それが七人の子供と一人の神官の朝食だった。


煮込みが立ち上がる蒸気の向こうに、町の屋根が朝霧の中で薄く見えた。


聖ヴェスタの神殿は、町の北の外れに建っている。


町の名はもう久しく口にしていなかった。


通りすがりの旅人に「この町の名は」と聞かれた時にだけ、答えるくらいだった。


町の名前を口にしないでいると不思議に、町と自分の境目がぼやけてきて、

町の人々の顔だけが、町の名よりも先に浮かぶようになっていた。


老婆のサナの腰の痛み。鍛冶屋の老人ベルクの右肩のこわばり。

養鶏場のミラ婆の、目の見えない鶏たちの世話。

パン屋のメルクの息子は今年徴兵で行ってしまって、メルクは毎朝、鎧戸を開ける手が遅くなった。


聖ヴェスタにいる子供たち。そして町の老人たち。


この狭い世界が今のエレーナの全てだった。


---


子供たちが起きてくる足音が聞こえる頃には、

質素な朝食は出来上がっていた。


ノナが一番に起きてきて、寝ぼけ眼で「おはよう、エレーナねえさま」と言う。


それから次々に、ヨーラン、ミナ、キルス、リュシュ、アリエ、テオが現れる。

七人が長い木の食卓に並んで座ると、エレーナは食前の祈りを歌った。


「光のもと、糧をいただきます。 光のもと、命に感謝します。

光のもと、隣人を思います」


子供たちは「光のもと」と短く繰り返す。

歌う、というほどの旋律はない。


ただゆっくりと、節をつけて、子供たちが覚えやすいように。

これも、聖ヴェスタの作法だった。


食事が終わると、子供たちは庭の井戸で口をすすぎ、薪割りや畑の手伝いに散った。


エレーナは自分の杖を取り、神殿の入り口に立った。


治癒の杖は、鈍い銀色の柄に、先端には小さな水晶が一つはめられている。


修練生の課程を終えた時に、神殿から授かったものだった。


十二年使い込んでいる。

柄の中ほどには彼女の手の形に薄く磨り減った跡がついている。


エレーナは外套を肩にかけ、いつものように町への小道を下っていった。


道の脇には、夏の名残の長い草が、朝露を含んで重たそうに垂れていた。


その草の間を、彼女は静かに踏み分けた。


最初に立ち寄るのはサナ婆の家だ。

町の北の入り口にある、煤色の屋根の小さな家だった。


扉を叩くとしばらくして、しゃがれた声が「お入り、エレーナさま」と返ってきた。


サナ婆は寝台の上で、半身を起こして待っていた。


「腰がね。今朝は冷えがひどくてさ」


「入りますね、サナ婆さま」


エレーナは杖の先を寝台の傍に立て、サナ婆の腰の上に手のひらをかざした。


水晶の中に、薄く光が灯る。


温かい光が、ゆっくりと布越しに腰へ流れ込んでいく。


サナ婆が小さく息を吐いた。


しばらく光を当ててから、エレーナは杖を引いた。


「ありがとうね。今日も楽になった」


「無理に動かれませんように」


「あぁ、動かしゃしないさ」


エレーナはサナ婆に薬草の小さな袋を一つ置いた。

乾いた茅と、少しの根。煎じて飲めば、夜の冷えがましになる。


帰り際に、サナ婆が言った。


「東の方じゃ、軍がまた動いてるって聞いたよ」


「そうですか」


「冬が来るのにねえ。男の子たちもみんな取られてさ」


「……はい」


「でも、今年の冬はね、食料が十分だって、役場の人が言ってたよ。

お米も、麦も、塩漬けの肉もね。久しぶりに困らない冬になりそうだって」


「それは、よろしゅうございましたね」


「ルミナス様のおかげかしらねえ」


エレーナは少しだけ間を置いてから、答えた。


「……はい。きっと」


扉を閉めて、サナ婆の家を出た。


朝の風が、頬に冷たく当たった。


ルミナス様のおかげ。


そう答えるのが、神官の務めだった。

そう答えながら、胸の奥でだけ、エレーナは別のことを思っていた。


——どこから来た食料なのだろうか。


魔王討伐の旅で、彼女は北の方の景色も見ていた。


旅の途中、戦場の合間に、いくつかの集落の焼け跡を通った。


誰もいない、煤と灰だけの集落。


一度、村跡の納屋らしきところに、麦の俵がいくつか転がっていたのを覚えている。


火がそこまで届かなかったのか、形を保ったままの俵が三つ四つ。


フォビアン様が「まだ残っていたか」とつぶやいていた。


エレーナは、焼いた集落に必ずあるであろうそれらを、この国がどうしているのかは聞かなかった。


聞かなかったのは、聞いてはいけない気がしたからだ。


ルミナス様のおかげ。


そう、答えておく。

そう答えるしかない。


それが今のエレーナの所作だった。


鍛冶屋のベルク老人の右肩、養鶏場のミラ婆の腰、パン屋のメルクの背中の張り。

午前の間に、エレーナは三軒を回った。


それぞれ、軽い癒しの光を当て、世間話をひとつふたつ交わし、薬草の袋を一つ置いて神殿へ帰った。


メルクの店を出るとき、メルクが小さな声で言った。


「うちのフレドはね、東の山道の方に行ったんだよ」


「東の山道ですか…」


「うん。お役人が言うんだよ。東の方の防衛が一番厚いから安全だって。

だから息子も大丈夫だって」


「……そうですか」


「でも、母親は心配だからそういう話を聞いたって、安心はしないんだよねえ。

あんたは独り身だからわかんないだろうけどさ」


エレーナは少しだけ笑って、メルクの背中をもう一度、軽くなでた。


「ご無事を、お祈りします」


「ありがとう」


エレーナは店の外に出てから、しばらく動けなかった。


東の山道。中央回廊の東の山道。デモニア高地への唯一の進軍経路。

その地名を、彼女は半年前にも聞いたことがあった。


旅の終わりに王都に戻ったとき、廊下で誰かが話しているのを偶然耳にした。


「冬までに、東の山道で包囲停止を完成させる」


誰の声だったか、覚えていない。


だが「包囲停止」という言葉が、彼女の耳に妙に引っかかった。

それは敵の進軍を止めるための陣形を指す。


北に魔王軍はもう、いない。

アルセイドの正規軍と対峙するだけの戦力はないはずなのだ。


私達が、魔王軍は潰したのだから。


冬までに完成させる、ということは冬にはあの魔王軍ではない、

何かが攻めて来るであろう。ということだ。


メルクの息子は、そこに行った。


彼が無事である根拠が、エレーナには分からなかった。

ただ無事であってほしい、と祈ることしか、彼女にはできなかった。


---


昼前に神殿に戻ると、扉の脇の籠の中に見慣れない封筒が一通入っていた。


王都の郵便夫が、午前のうちに届けて行ったらしい。


蝋封の紋章を見て、エレーナは一瞬、息が止まる思いをした。


枢機卿の紋章だった。


中央に円光、その周りに七つの星、外周に銀の縁取り。

教会の最高位の七人のうち、誰の手紙か。


紋章だけからは分からない。

七人とも同じ意匠を使う。


エレーナは封筒を持ったまま、神殿の中の自分の小さな部屋に入り、

長椅子の端に腰を下ろした。


膝の上で蝋封を割り、紙を開いた。


『神官エレーナ・ルクレツィアへ。

凍りの月、我ら教会は再び魔王討伐の英雄たちを王都に迎え、

新たな儀を執り行う運びとなった。

現在は貴殿以外の勇者ライゼル一行の所在が不明である。

討伐より半年を経た今、改めて世界に英雄たちの徳を示す必要が生じている。

まずは貴殿には王都までお越しいただきたい。

詳細は別便にて。

ルミナスの光が、貴殿の道を照らさんことを。

——ヴェネディクト・モルラン』


ヴェネディクト・モルラン卿。

あの方は、戦時にその能力を発揮する現実主義者。


やはり今まさにこれから、何かがまた始まろうとしている。


エレーナは紙を膝の上に置き、しばらく窓の外を見た。


ライゼル様は、自分の村に帰っていたはずだった。

他の皆様も…


何があったのか、書状には何も書かれていない。


旅の途中、焚き火の前で一度だけ、ライゼル様が呟いたのを覚えている。


「俺は勇者じゃなくていいんだ。村の皆と笑いながら畑を耕して生きる。

それが本当の俺なんだ」


そう、ぽつりと。

誰に言ったのでもなく、ただ火を見つめながら。


セルジュが「そうか」と短く返して枝を火に放り込んだ。


アリシアは黙って長剣の柄に手を置いたまま、火だけを見ていた。


フォビアンは……ふっ、と微笑んだ気がする。皮肉ではない、温かい微笑だった。


書かれていないことの方が、書かれていることよりもずっと重く感じられた。


エレーナは封筒をそっと引き出しにしまった。


返信は書かなかった。

書かない、と決めたわけでもない。


ただ今はペンを取る気にはなれなかった。


引き出しを閉めると、半年前の表彰式の記憶が、ふっと立ち上がってきた。


---


王都の大聖堂は、聖ヴェスタの神殿の何百倍もの広さがあった。


天井は遥か上にあった。それは見上げると首が痛くなるほどだった。

色硝子の窓から差し込む光が、無数の色の粒となって石の床に散っていた。


香炉の煙がまっすぐ上に立ち上り、天井の手前で広がっては消えていた。


枢機卿団の前に、勇者パーティーは並んで立っていた。


ライゼル、アリシア、セルジュ、フォビアン、そして、エレーナ。


ライゼルは、いつもと同じ静かな顔で祝福を受けていた。


だがエレーナの位置からは、ライゼルの目が見えた。


あの目は儀式の場ではなく、もっと遠くを見ていた。

おそらく、村に帰ってからのことを考えていた。


畑のこと、家族のこと、村の人達のこと。そしていつか聞いた。

村で待つ恋人のことを。


祝福の言葉を聞きながらも、彼の心はもう半分、村に帰っていた。


セルジュは、完璧な作法で頭を下げていた。


旅の中ではいつも兄貴分で、笑い話を絶やさず、誰かの肩を叩いていた人。

だが式典の場では、彼の口元から笑みが消えていた。


それは緊張ではなかった。

この人も、既に何か別のことを考えている、そんな横顔だった。


だが何を考えているのか、エレーナには分からなかった。

彼の蜂蜜色の瞳が、儀式の場にいる誰のことも見ていないのは確かだった。


アリシアは、白銀の鎧を着たまま祝福を受けていた。


鎧を纏ったままで儀式に出るのは異例で、本当は神官の白衣に着替えるはずだった。

だがアリシアは鎧のままで来た。


胸甲の上で組まれたその白い手は、ほんのわずかに震えていた。


震えていたのを、エレーナは隣の位置から気づいた。

震えの理由は分からなかった。


ただ、アリシアには魔法で癒すことはできない、何かを抱えている。

それだけは分かった。


そして、フォビアン。

彼は祭壇の段の少し下に立っていた。


勇者パーティーの一員でありながら、儀式の補佐の役も兼ねていた。


魔導士として表で立っていた彼が教会の儀式の作法に通じていることに、

その時は誰も疑問を持たなかった。


銀縁の眼鏡の奥の目が、四人の仲間を順に見ていた。


ライゼルを見るときの目は、穏やかだった。


セルジュを見るときの目には、何かを察したような色があった。


アリシアを見るときの目は、最も静かだった。


そしてエレーナのことを見るとき——フォビアンは、わずかに微笑んだ。


いつものように仲間を見る時の目だった。


儀式が終わった後、エレーナは大聖堂の脇の長い廊下を歩いていた。


人気のない、北側の回廊だった。


表彰式の余韻と、疲れと、香の匂いから、少しでも離れたかった。


エレーナが歩いていると、足音が一つ向こうから近づいてくる。


フォビアンだった。


彼もまた、回廊を一人で歩いていた。


おそらく、エレーナと同じように人気を避けてここを通ったのだと思った。


すれ違うかと思ったところで、互いの足が止まった。


しばらく、二人は黙って立っていた。


色硝子から差し込む薄い橙色の光が、フォビアンの白い頬の上に線を引いていた。

眼鏡の縁がその光を一筋、反射していた。


先に口を開いたのは、フォビアンだった。


「エレーナ。今日は本当に、お疲れ様」


短い言葉だった。


だが、その「お疲れ様」の中には労いだけではない、

何か別の意味が入っていたように思えた。


エレーナが胸の奥で抱え始めていた小さな違和感を、彼が察しているような、

そんな響きだった。


エレーナは、フォビアンの目を見た。


皮肉屋として通っている彼の目は、いつも何か一枚の薄い氷のような層をまとっていることが多かった。


だがその時のフォビアンの目は、ただ優しかった。


そして——彼自身もまた、何かを抱えている人の目だった。


エレーナは何かを言いかけた。


「フォビアン様、あなたは——」


そこまで言って、その後に続く言葉は出てこなかった。


フォビアンはそれを察したように、小さく頷いた。


咎める頷きではなかった。出てこない言葉を許す頷きだった。


そして言った。


「エレーナ。またいつか、会おう」


ただそれだけだった。


フォビアンはそのままエレーナの脇を通り過ぎていった。


彼の靴の音だけが、回廊の石の床に響いていた。


エレーナはしばらくその場に立っていた。


彼女には何も分からなかった。


ただフォビアンの最後の目を、彼女は覚えていた。


その目は——願う目だった。


それは、彼女に何かを願っている目ではない。


エレーナにはひとつだけ。感じ取れたことがあった。


「あの目は、私のこれからの道に、願いを込めていた…」


---


エレーナの小さな部屋の窓の外では午後の光が差し始めていた。


もう、昼食の支度をしなければならない時間だ。


だがその前に、彼女は祭壇に戻り、ルミナス像の前に立った。


「ルミナス様。 ライゼル様のことを、見ておいでですか」


像は答えなかった。

答えがないことをエレーナは責めない。


答えがないからといって見ていないわけではない。


見ているけれど、答えない神様を、彼女はまだ信じていた。


「ライゼル様の村が、皆様が、無事でありますように」


今は何も分からないままに、ただ祈った。


---


昼食を済ませ、午後は子供達に読み書きの勉強を教える。

そして共に遊ぶ。


これが今のエレーナの聖ヴェスタ神殿での一日だった。


そして夕方になり、子供達と神殿に戻り、井戸の水で手と足を洗い、

長い木の食卓に再び座った。


夕食は昼に準備していた野菜のスープの残りと、麦の蒸し饅頭を一つずつ。


食前の祈りを歌い、食べ始める。


食事は静かに行う。目の前の食物と向き合う。


食後は子供たちに今日の一日の話を聞く。

町にいる子供の父親がまた東の山道に徴兵されたと聞いた。


エレーナは何も言わず、子供達の額を撫でる。


そして寝る前には物語を読み聞かせて、順に寝かしつけていく。


ノナの寝台の脇に座って、いつものように一つだけ短い物語を話した。


山の上に住む小さな鳥が、毎朝谷の底まで光を運ぶ、という話だった。


ノナは半分眠りかけながら聞いていた。


話が終わるとエレーナはノナの額を撫でて言った。


「おやすみ、ノナ」


「……ねえさま」


「うん?」


「ねえさま、光の神様はね、私たちのこと見ててくれるんだよね」


「ええ。きっと見てくださっています」


「それは、魔族も?」


エレーナの指が、わずかに止まった。


ノナがその言葉をどこで覚えたのか、分からなかった。

町の誰かが話していたのを聞いたのかもしれない。


あるいは、いつかエレーナが旅の話をした時、無意識に口にしたのかもしれない。


エレーナはしばらく答えなかった。


それからゆっくりと、言葉を選びながら答えた。


「……魔族のことも、見てくださっていますよ」


ノナはもう半分眠っていて、エレーナの答えをたぶん覚えていなかった。


ノナの呼吸が、深くなった。


エレーナは寝台の脇にまだ座っていた。


半年前の自分なら、もっと迷いなく答えただろう。


教義の通りに——光は秩序の側、闇は混沌の側、魔族は闇の眷属、と。


その答えが今はもう、出てこなかった。


そして夜が深まった。


子供たちは全員奥の小部屋で眠っている。


エレーナは祭壇の前に戻り、消えかけた意匠の聖印を握りしめ、

目を閉じた。


そして心の中で、短く祈った。


「旅を共にした皆様がいま、どこにいらっしゃるのか私は知りません。

ですが皆様の背中がまだ、どこかで何かに向かって歩んでいるのなら——

どうか、その道が皆様自身も、救う道でありますように――――」


それはもう、ルミナスへの祈りではなかった。


そのことにエレーナ自身は、気づいていなかった。


祈りが終わると、彼女は立ち上がり、自分の小さな部屋に戻った。


神殿の窓の外で、夜風が梢を撫でた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ