第25話 ようやく、グラザへ
朝の薄明の中、アクロスは静かに目を覚ました。
仕切りの向こうから、リーネのまだ深い寝息が聞こえる。
クロが入り口の脇でふっと顔を上げて、すぐにまた目を閉じた。
フレスは枕元の棚で、片足立ちのまま眠っている。
体を起こす前に、まず自分の手のひらを見た。
健康的な肌の色。爪は丸い人間の形。
腕に魔紋は浮いていない。
それから袖をめくって肘の上まで確認する。
青みは出ていない。完全に人間の肌のままだ。
変身は……解けてない。
寝る前にかけ直した変身が、夜が明けた今もそのままだ。
仕切りの向こうから少し布が擦れる音がして、リーネの寝返る気配がした。
そっと立ち上がってちらりと覗くと、リーネも薄目を開けてこちらを見た。
ちょっとドキドキした。
「……アクロス」
「うん」
「私の変身、解けてる?」
「解けてないぞ」
リーネがぼんやりした目で自分の手を顔の前にかざした。
それから、額にそっと指を当てた。
そして寝転んだままアクロスを見た。
「……うん。解けてないわ。あなたも、解けてないわね…」
リーネがふっと頬を緩める。
「……ただのおっさんね」
「うるせぇよ」
リーネはゆっくり体を起こした。
髪の毛は魔族の姿と変わらず、凄まじい寝ぐせだ。
「お前の寝ぐせ、その姿でも……朝はえらいことになるんだな…」
もはや見慣れた光景だ。ただ可哀そうに…としか思わなくなった。
「うるさいわね」
褐色寄りの肌。銀白の髪。深い茶色の瞳。
角はない。耳は丸い。人間のリーネのままだ。
「……寝てる間も、解けないんだな」
「意識を使わずに保てるんだから寝てても保てる、ってあなたが言ってた通りね」
「言ってはみたが、これで確証が取れたな」
リーネが小さく頷いた。
「町で過ごす時、これは大きいわ。宿で必要以上に警戒する必要がなくなった」
「だな」
ひとつ大きな心配が消えた。これで宿屋でも気が抜ける。
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二人で身支度を整え、簡単に水だけで顔を洗った。
寝起きのリーネはぼんやりして可愛らしいなと思ったが、口にはしないでおいた。
「リーネ。出発前に、もうひとつ試したいことがある」
「変身を、もう一度かけ直すんでしょ?」
「ああ。普通にかけ直すだけじゃなくて、今回はいつもの倍、魔力を注いでみる」
「魔力を倍に……」
「お前が昨夜言ってたあれだ。『多めに魔力を注いだら維持時間が延びるんじゃないか』ってやつ。やってみる価値があるだろ」
リーネが少し心配そうにアクロスを見た。
「あなたの負担、大きくない?」
「少しはな。だが、町に入って数日過ごすことを考えれば、
少しでも長く保つ方がいい。どっちみちかけ直すんだ。今日試しておくのが一番だ」
「……そうね。じゃあ、試してみましょう」
リーネが背筋を伸ばした。
アクロスは一度、自分の変身を解いた。
光の靄が広がって、収まる。
魔族のアクロスが戻った。
青みがかった肌、魔紋、額の角、オッドアイ。
「お帰り、アクロス」
「ああ、ただいま」
これも、もう自然に出るようになった。
それから、深く呼吸を整えた。
魔の創造に意識を沈めて、いつもの変身魔法のコンセプトを呼び出す。
そこに、今回はいつもの倍の魔力を流し込む。
体の中の魔核から、するすると魔力が抜けていく感覚。
通常時の二倍。確かに重い。
「変身」
光の靄が体を包む。
普段より光がやや濃い気がした。
それが収まると、人間の旅人アクロスが立っていた。
黒髪に白い筋。焦げ茶の瞳。焦げ茶の革ジャケットに灰色のズボン。
「……どうだ?」
「ええ、しっかりかかってる。前と同じ姿よ」
「なんだかいつもより更に大丈夫な気がする。芯が太い、というか。
まるでこれが元々の自分の姿だと錯覚しそうになるくらい自然でいられるな」
「一日以上、持つかしら?」
「明らかに長くもちそうだな。明日の朝まで変身はかけなおさずに検証してみよう」
「わかったわ。次は私ね」
リーネも変身を解いた。
光の靄が広がる。
魔族のリーネが、戻った。
「お帰り、リーネ」
「ええ、ただいま」
アクロスはリーネの肩に手を置いた。
そこにいつもの倍の魔力を流し込む。
リーネの魔核がそれを素直に受け入れた。
通常の二倍の魔力を、無駄なく変身の維持に回している。
「変身」
光の靄がリーネを包む。
「……どうだ? いつもより、何か違う感じはする?」
「うん。違う感じというかあなたが言ってたように、元々この姿みたいな自然さ。
魔族の姿の時との差がほとんどなくなってる…」
「そうだな。人間の姿のお前もちゃんと綺麗だぞ」
「急に何言ってるのよ…馬鹿」
不意打ちの言葉にリーネは顔を真っ赤にして睨んできた。
うん。いい朝だな。
「これから町で過ごす時は日中は倍がけ。夜の宿では念のためかけ直す。
これで運用が決まりそうだ」
リーネが頷いた。
「あなたの魔力は大丈夫なの?」
「うすうす感じていたんだが、多分、俺の魔核の魔力量はかなり多いほうだ。
変身魔法だけなら倍にしても、まだ余裕はある」
「あなたって、ほんとずるいわね」
「魔王だからな。
でも色んな魔法を一日に何度も多用する場面だと、さすがにしんどくなるだろうな」
「そうね。あなたは働きものの魔王ね」
リーネが小さく笑った。
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身支度を整えて、二人と二匹は宿の主人に挨拶をして外に出た。
村の開けた場所にとめてある荷馬車の前でオルガ達を待った。
ほどなくしてオルガ達の姿も見えてきた。
白晨の頃、空はまだ静かだった。
白い太陽だけが東の稜線に低く顔を出して、草原を淡い白銀の光で染めている。
金色の太陽はまだ山の向こうだ。
夜露が草の先に丸く残っていて、踏むたびにさらりと潰れる音がする。
吐く息がほんのわずかに白い。
実りの季の終わりが、朝の肌で感じられた。
「よし、揃ったな。行くか」
オルガが手綱を握り直した。
荷台は昨夜仕入れた穀物の袋と干し芋の束でぎっしり膨らんでいる。
「お世話になりました。
村長さんによろしくお伝えください」
リーネが村の入り口に向かって丁寧に頭を下げた。
見送りに出てきた老農夫が手を振った。
「この辺りに来ることがあれば、またおいで」
穏やかな声だった。
この世界に来て、初めて訪れた人間達の集落。
タネルの村は、温かかった。
アクロスとリーネは荷馬車の後ろについて歩き出した。
カイが荷台の端に腰かけて欠伸をしている。
ミラは馬車の右手を無言で歩いていた。
クロが先行して鼻を低く構えた。
フレスが空へ上がった。
銀の翼が白晨の光を受けて白く輝き、すぐに青空の高いところへ溶けていく。
「双昼の少し前にはグラザに着けるだろう。
荷が重いぶん、少し遅れるかもしれんが」
オルガが御者台から振り返らずに言った。
「別に急ぐ旅じゃないさ」
「ただ、気をつけないといけない場所が一か所ある。
街道が森の縁をかすめるところだ。その辺りで旅人が襲われるって話だ」
「昨夜の盗賊の噂か」
「そうだ。少人数の旅人を狙って、森の中から出てくるらしい。
わしらは今回、そこそこ人数はいるから大丈夫だろうが、念のためだ」
「わかった、気を付けよう」
「カイとミラも。頭に入れとけよ」
「了解っす」
カイが荷台の上で背筋を伸ばした。
ミラは返事をしなかった。
だが手斧の位置をわずかに確かめるように触れた。
それが答えだった。
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タネル村から街道に戻り、そこから続く一本道。
なだらかな丘を越えて草原の中をまっすぐ南へ伸びている。
荷馬車の車輪が轍を刻む音と、馬の蹄の重い音と、草を踏む足音が重なって、
不思議と心地よい旅のリズムを奏でていた。
しばらく歩いてから、カイが口を開いた。
「昨日の魔族の話、ずっと引っかかってるんですよね」
荷台の上で腕を組んで空を見ている。
独り言のような言い方だった。
「何が引っかかってるんだ?」
アクロスが聞いた。
「魔族をかくまった人間も罰するって話。
あれが本当なら、人間同士も疑い合うってことでしょう。
隣の家を密告する世の中ってことだ」
カイの声が、昨夜の酒場での軽さとは違っていた。
「俺、北の山脈の近くに親戚がいるんです。
小さな集落で、魔族とは昔から近い場所に住んでるって聞いてて。
そういうところがどうなるのか、ってね」
カイの目が遠くなった。
「……もう変わってきてる」
ミラが静かに言った。
一言だけだったが、妙に重かった。
「変わってるって?」
アクロスが聞いた。
「三ヶ月前と今じゃ、グラザの空気は違う。人の目も違う。
よそ者に厳しくなった。特に見慣れない顔にはね」
「ミラさんはグラザが長いんですか」
リーネも聞いた。
「そろそろ五年になる」
ミラが前を向いたまま短く返した。
オルガが御者台から言った。
「わしは十五年、この街道を往復してる。確かに変わったよ。
でも変わらんものもある。タネルの農家みたいにな。あの人たちは昔から変わらん」
「変わらないものの方が、大事だったりするな」
アクロスが言うと、オルガが「そうだよ、わかってるね」と笑った。
リーネは何も言わなかった。
時折空を見ながら、静かに歩いていた。
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双昼が近づく頃、前方に森が見えてきた。
街道はその縁を沿うように東へ緩やかに曲がっている。
森の中は暗い。
木の葉が風に揺れるたびに影が動いた。
フレスが急に旋回を大きくした。
クロの耳がピンと立ち、アクロスを見た。
「クロとフレスが何かを感じてるわ」
リーネが目を細めた。
アクロスの探知にも反応が走った。
(森の中。左手七十メートルほど。七つ。全員人間。動いていないな。
——じっと息を潜めてるように感じる)
「盗賊だ。森の中で待ち構えてるようだ」
声を落として、だが皆に聞こえるように言った。
オルガが顔色を変えずに手綱を持ち直した。
「あの二匹、ほんとに優秀だな……」
オルガは少し笑ったがすぐに引き締まった顔になる。
「……それで、どうする?」
こういったトラブルにも慣れているであろう、熟練の商人の顔だ。
ミラが小声で返した。
「警戒しながら、とりあえず固まって通り過ぎよう。
相手も警戒して見逃してくれればいいが、構わず出てきた場合……」
「相手の人数がわからない。荷馬車を守りながら戦うのは厳しいかもしれないですね」
カイは意外にも冷静だった。
「俺たちも戦うさ。何人出てこようが、ただの盗賊なら問題ない」
アクロスは何でもないように言った。
「おいおい、随分な自信だな!」
オルガは驚いたように言った。
ミラは目を細めてアクロスを見ている。
カイは「かっこいいっすね!」と目を輝かせた。
「二人と二匹は意外に強いんだよ。なぁ、リーネ、クロ、フレス」
クロがアクロスの方へ向き、わふ! と返事する。
空からフレスのぴいぃ、と言う声も聞こえた。
「もう、急にかっこつけないでよ……」
リーネが呆れ気味に言う。
「でも、たぶん大丈夫よ」
少し笑顔でアクロスに返した。
「なら、あとは出たとこ勝負でいこうじゃないか」
ミラはそれだけ言って、手斧の柄を握り直した。
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森の縁まで二十メートル地点。
森の茂みが揺れている。
「やっぱり、見逃してはくれなさそうだな」
アクロスは言った。
その瞬間、木の間から人影が躍り出た。
一人、二人、まだ出てくる。四人。
「お前たち、止まれ!」
太い声が飛んできた。
四人。
棍棒や短剣をそれぞれ手に持っている。盗賊達は雑な装備だった。
革の服は汚れて、顔つきも荒んでいた。
怒りでも狂気でもない。それは生活に追われて、これ以外に生きる手段がなくなった人間の顔だった。
後ろからも足音がする。
馬車の後方を三人が塞いでいる。
「荷物を、置いていけ。馬も、置いていけ。
それだけでいいんだ。命は取らない」
先頭の男が言った。
声に慣れがある。
それは、何度もやってきたであろう声だった。
三秒の沈黙。
「聞こえなかったか。荷物と馬を——」
言い終わる間もなくアクロスが踏み込む。
男が棍棒を構えるのとほぼ同時。
懐に飛び込み、腕を外から取って体ごと引き崩す。
重心が前に崩れたところに足を掛けた。
地面に倒れた男の手首を、動けない角度に固定する。
「ぐぁっ……」
一瞬で男は制圧される。
ほぼ同時にミラが左の二人に向かって動いた。
短剣を構える男が二人、しかしミラは全く躊躇せず飛び込む。
手斧の柄で一人の顎を正確に打ち、身を翻しながらもう一人の足を払う。
二人がほぼ同時に崩れ落ちた。
無駄が一切ない。
この道で長い間生き抜いてきた人間の動きだった。
後方ではリーネの前にクロがいる。上にはフレスがいる。
先にクロが動いた。リーネの前から黒い影が弾けるように飛び出す。
一人目の男が短剣を構える。が構えた時にはもう遅い。
クロは地面すれすれを駆けて男の懐に潜り込み、膝裏に体当たりする。
脚が折れるように崩れた男の胸元に体ごとぶつかり、男の胸の上に前足を乗せた。
クロが低い唸りを男に向ける。
深紫の瞳が、至近距離で男を見下ろしていた。
喉を嚙み千切らんばかりの獣の殺気。
男の顔から血の気が引いて動けない。
動けば殺される。それほどの迫力だ。
二人目が横から棍棒を振り上げた。
クロの耳がぴくりと動いた。だがクロは、男を見てすらいない。
棍棒が振り下ろされるより早く、クロは自分の下で震える男を蹴って跳んだ。
男が「ぐっ」と呻く。
跳躍の勢いのまま、二人目の腕に噛みついた。
牙が革の服を貫通する手前で止まっている。
男が悲鳴を上げて棍棒を落とした。
クロが腕を離すと同時に体を回して、男の足を後ろから払った。
二人目が尻餅をつく。
腰が抜けたらしく、そのまま動かなくなった。
二人を制圧するのに五秒ほどだろうか。
残りの一人がリーネに向かって走ってくる。
リーネの表情は変わらない。男をまっすぐ見据えて動かない。
瞬間、頭上から銀の閃光が目の前に落ちてきた。
フレスだ。
上空の旋回から急降下。広げた翼が風を切る音がした。
鋭い爪が男の手首を掠めた。浅い。だが正確だ。
短剣を握っていた指が弾かれるように開いた。
「っ——!」
男が手首を押さえて足を止めた。
その隙にフレスが男の顔の前を横切った。
翼が空気を叩く音が、至近距離で男の耳を打つ。
銀の翼が目の前を覆う。
一瞬だけ、視界が奪われる。
男が怯んで後ずさった。
足がもつれて、尻から崩れ落ちる。
フレスがふわりと上昇して、リーネの肩に戻った。
ピィイ! と一声。短く、澄んだ声。
やってやった、という声だ。
リーネは笑顔でフレスを見る。
彼女は一歩も動いていなかった。
残り一人にはカイが向き合っていた。
剣を半分だけ抜いて、静かに相手の目を見た。
男は周りの状況に圧倒されて何も動けず、ただ、棍棒を素直に下ろした。
七人。
制圧には、十秒もかかっていなかっただろう。
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静寂が街道に戻り、荷馬車の馬のいななきが響く。
「……立て」
アクロスが組み伏せた男に言った。
「武器を捨てろ。そして、全員で森に帰れ」
男がアクロスを見上げた。
怒りではなく、恥と疲れが混ざった顔だった。
「……俺たちを、殺さないのか?」
「お前たちは最初に命は取らないと言った。だから俺たちも命は取らない」
「お前たちの荷物を奪おうとしたんだぞ」
「そうだ。お前たちは失敗した。ただ、それだけだ」
男がしばらくアクロスの目を見ていた。
何を思ったのかはわからない。
ただ、黙って武器を地面に置いた。
他の六人もそれに倣った。
彼らは一人ずつ立ち上がり、足を引きずりながら、手や顔を抑えながら、
静かに森の中に消えていく。
やがて、足音も聞こえなくなった。
「……行ったか。てか、アクロスさんたちすげぇな!」
カイが剣を鞘に納めてまた目を輝かせる。
「あんたら……本当にただの旅人か!? あっという間すぎて声も出んかったわ!」
オルガが興奮している。
「もちろん、ただの旅人だよ」
アクロスはにかっと笑いながら、オルガの肩を叩いた。
「いやいや……驚いた。しかし、ほんとうに助かったよ」
「気にするなよ。俺たちもオルガさんには助けられてる」
ミラがリーネの方を見た。
「あの二匹、やはり普通じゃないね」
「そうよ。賢くてかわいい、私たちの頼れる相棒なんだから」
「……そうか」
ミラはそれ以上追及しなかった。
だが口元がほんの少しだけ動いた。
笑ったのかもしれない。
オルガが御者台で大きく息を吐いた。
「いやぁ、まいったな。あんたたちを連れてきて大正解だ!」
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森沿いの道を抜けると、視界が一気に開けた。
なだらかな丘の向こうに、茶色いレンガのような塀が広がっていた。
その内側に石造りと木造の建物が詰まっている。
通りが何本も走り、煙突から白い煙がいくつも立ち上がっている。
遠くから人の声と、馬の音と、金属を叩く音が風に乗って聞こえてくる。
ここが、グラザか。
「……大きいな」
アクロスは思わず声が出た。
「中央回廊の主要な拠点のひとつだからな。
南のアルセイド王国と北の交易路をつなぐ要所だ。いろんな人間が出入りする。
それがいい面でも、悪い面でもある」
オルガが声を少し落とした。
「今のグラザは今までと様子が変わってきてる。南の区画には夜は近づくな。
宿は日暮れ前に押さえておくことだ」
「覚えておくよ」
リーネが丘の上からグラザを眺めていた。
変身した焦げ茶の瞳で、じっと。
「……緊張してるか?」
「もちろんしてるわよ。あなたは?」
「俺もしてる」
「珍しいわね」
「しない方がどうかしてるだろ」
リーネが小さく笑った。
フレスが空から降りてきて、リーネの肩に戻った。
温かい重みが肩に乗る。
いよいよ、町へ。
---
町のやや大きい門には衛兵が二人立っていた。
「町へ入るなら、一人銅貨二枚だ」
オルガは顔見知りの衛兵に手を振った。
「オルガさんか。後ろの二人は? 見ない顔だな」
「道連れの旅人だよ。グラザで用があるそうでね」
衛兵がアクロスとリーネを一瞥した。
「お前たちは、どこから来た」
「北の山脈手前の集落から。素材を換金しに来ました」
「そうか。ギルドは南の大通りをまっすぐだ」
「ありがとうございます」
衛兵の目が次の旅人に移った。
問題なく町へ入れそうだ。
そして、門をくぐった瞬間、
アクロス達に人の波と騒音が一気に押し寄せてきた。
露店が通りの両側に並び、売り子が声を張っている。
荷馬車が行き交い、歩行者がその間を縫うように歩く。
屋台の肉を焼く甘い匂い。スープの匂い。馬の匂い。
そして土の匂い。
全てが混ざったような匂いが一度に鼻を打った。
これが、グラザの匂いか。
「……圧倒されるわね」
リーネが目を丸くする。
「最初はみんなそうだよ」
カイが笑った。
---
大通りの角でオルガが馬車を止めた。
「わしらはこっちの倉庫に荷を入れてくる。
ギルドは大通りをまっすぐ、広場の手前の石造りの建物だ。
看板が出てるからすぐわかるさ」
「わかった。オルガさん、本当に世話になったな」
「礼はいらんよ。こっちは帳尻が合ったどころじゃない。おつりがくるよ。
その分はまた次に会ったときに返すさ。うまい酒と一緒にな!」
オルガは満面の笑みでアクロス達に手を振る。
荷馬車がゆっくり動き出す。
カイが振り返ってこちらに大きく手を振った。
ミラは一度だけこちらを見た。
ミラは何も言わなかった。でも視線の中に感じる、短い確認があった。
無事でいろ、とでも言うような温かい目だった。
三人の背中が人混みに消えていく。
しばらく二人で、オルガ達を見送った。
「……いい人たちだったわね」
「そうだな。幸運な出会いだったと思うよ」
「私にとっては、初めてまともに関わった人間かもしれないわね。
いい経験だったわ」
「そうだな」
「……もう、あなたはいつもそうだな、しか言えないの?」
リーネがじとっと見つめてくる。
「ほんとにそうだな、と思ってるんだって」
「『そうだな』」
リーネがアクロスを真似て言う。
「似てねえって。もっと練習しとけよ」
アクロスは笑いながら頭を掻いた。
リーネも笑った。
クロが二人の間に割り込むように立った。
早く行こう、という目だ。
フレスがリーネの肩でぴぃと短く鳴いた。
「じゃあ行こうか。まずはギルドだな」
「そうね。ようやくね」
二人と二匹は、グラザの大通りを歩き出した。
人の波の中に紛れていく。見た目はただの旅人が二人。
連れの黒い狼と、肩に止まった銀の鳥。
誰も気づかない。思いもしないだろう。
この町の空の下を、笑顔で歩いている二人が、
これからこの世界の人間達に大きな影響を与える、魔族であることに。




