第23話 行商人オルガとの出会い
朝の光が鎧戸の隙間から差し込んでいた。
白の太陽の光が斜めに石壁を照らして、光る苔の紫がかすかに薄れていく。
夜と朝の狭間の、静かな時間帯。
「ちょっと、クロ。どきなさいよ」
リーネの声がした。
アクロスが目を覚ますと、リーネがクロに乗っかられながら棚の前に立っていた。
クロが朝から甘えに行ったらしい。
「おはよう、リーネ」
「……おはよう。この子、朝だけ急に赤ちゃんになるわよね」
クロは反省のない顔で尻尾を振っていた。
フレスがリーネの肩でぴぃと起き抜けの声を出した。
「アクロス。ところで、変身のことなんだけど…」
そうだった。昨日は人間の姿のまま二人とも寝たんだ。
「俺も、リーネも、元の姿に戻ってるな…」
「そうね。いつ戻ったのかはわからないけど…」
昨日は俺の方が遅く寝たはずだ。
その時は多分リーネも変身は解けてなかったはずだ。
「やっぱり時間制限はあるんだな。丸一日はもたないか…」
「そうね。それがわかっただけでもよかったわ。
あなたには大変かもしれないけど、外では半日毎に変身魔法はかけなおした方がいいかもしれないわ…」
「そうしよう。今度は寝る前にかけてみよう。
寝てても大丈夫であることをしっかり確認しておきたい」
「わかったわ」
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いよいよ今日は、出発の日だ。
朝食は昨日のうちにリーネが仕込んでくれていた。
草角獣の薄切り肉を塩と果実酢で一晩漬けておいたものを平たい石の上で焼く。
脂がじゅうじゅうと音を立て、酢の香りが熱で飛んで旨みだけが残る。
それに採取済みの野草を刻んで塩で揉んだものを添えた。
「これは……昨日の夜から準備してくれてたのか」
「出発の朝なんだから、ちゃんと食べなきゃね」
「気が利くなぁ」
「当然よ」
リーネはそっぽを向いて言うが、
アクロスの反応を横目でしっかり確認している。
肉はひと口で旨みが来た。
薄く切ってあるから火の通りが早く、外はしっかり、中はぎりぎり柔らかい。
酢の酸みが消えた後に塩気と脂の甘みが残った。
「うん。今日もうまい」
「ちゃんと仕込めば多少日が経っても肉は柔らかく食べられるわ」
リーネが手を動かしながら続けた。
「父は料理自体はあまりしなかったけど、仕込みや食材の扱いの知識はよく教えてくれてた」
声がほんの少し柔らかくなった。
「いい父ちゃんだ」
それ以上は言わなかった。
クロとフレスの分も丁寧に取り分け、
二匹が揃って食べ終わるのを見届けてから、リーネが器を片付け始めた。
「ごちそうさん。今日も朝からお腹いっぱいだ」
朝からお腹いっぱいご飯を食べられる。
幸せなことだ。
「どういたしまして」
リーネは微笑みながら応えた。
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食後、アクロスは棚の前に座り直した。
「リーネ、昨日の影収納の肉を見てみようぜ」
「そうね、私も気になってたの」
リーネが小走りで隣に来た。
昨夜、実験用に影の中に収納した肉を引き出す。
石の上に並べた。
二人でしゃがみ込んで肉をじっと見る。
「……」
「……」
リーネが指先でそっと触れた。
「ちょっと冷たい。鮮度は……昨日と変わってないわよ」
「傷んでない。どこにも」
アクロスも触ってみた。確かにそうだった。
昨夜の夕暮れに入れた時と全く同じ状態だ。
色も、質感も、温度も。
「普通に保存してた分と比べてみよう」
リーネが棚に置いていた残りの肉を持ってきた。
こちらは昨夜と今朝の温度差で表面がわずかに乾燥して色が変わり始めていた。
並べると、差は一目瞭然だった。
「……全然違うわね」
「収納に入れた方は、ほぼ採れた直後のままだ」
アクロスは腕を組んで立ち上がった。
なぜそうなるのか。
影の中はほんとに異空間なのか。影の中はこの世界のどこでもない場所。
どこでもない場所なら、この世界のものは何も届かない。
魔力の流れも、時間の流れも、全部この世界のものだからそこには入っていけない。
だから中のものは変化しない。たぶん、そういうことだ。
「俺のいた世界では時間の流れや重さのこと。物理的な現象も科学でいろいろ研究されてたんだ。専門家じゃないから細かい理屈はよくわからんがな」
「影の中はきっと異空間だ。この世界のどこでもない場所。
だからこの世界と同じような時間の流れはない。重さもない。たぶん何もない。
きっとそういうことだと思う」
リーネが静かに目を見開いた。
「……それが本当なら、食料が腐らない。薬草の鮮度を保てる。傷んだ薬草は効き目が落ちるから、これは相当な価値があるわ」
「肉や魚もグラザで仕入れて長期間持ち歩ける。
これでいつでもうまいものが食えるな」
アクロスはにやけていた。
「……ほんと呑気というか何というか。これは旅の方法が根本から変わるの。
あなたの魔法を使って、商売したら大金持ちになれそう」
「リーネ君。それは実にいい考えだね」
アクロスはますますにやけている。
「どこかに腰を据えて、落ち着いた生活ができればそれはまた考えましょ」
リーネはやれやれという感じでため息をついた。
「魔法を作ってる時はあったら便利だなぁ、くらいの気持ちだったけどな」
「ほんとふざけてるわね」
リーネが言ってからふっと短い息をついた。
呆れとも、苦笑いとも、それより少し温かい何かとも取れる表情だった。
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二人で出発の準備の為、荷物をまとめていると、
リーネがふいに自分のチュニックの袖を引っ張った。
縫い目を確認するような仕草だ。
「……ね、アクロス」
「ん?」
「グラザに着いたら、二人の服を買いたいわ」
「そうだな。ちゃんとしたのを買おう」
リーネが自分の服装を見下ろした。
ノースリーブのチュニックは右肩口が裂けて補修している。
黒いインナーにも繕い跡がある。スカートの左太腿も同じだ。
逃亡生活と賞金稼ぎに追われた時のまま、ずっとだましだまし着てきたのだろう。
「……この服、出会った日から一度も替えてないし…
破れたまま補修しながら着てるの。旅をするならまともな旅人の格好でしたいわね」
「変身で服も変えられるけど、
やっぱり服は本物のちゃんとしたものを着て過ごしたいよな」
「そうよね。あなたの服はどうなの?」
アクロスが自分のコートを確認した。
裾が少し切れている。だいぶくたびれてきているな。
「俺も人前に出るのに恥ずかしくない程度のものは欲しいな」
「最優先はそこよね。換金して、服を買って、食料の補充。あとは……」
リーネが少し声を落とした。
「……お風呂も、入りたいね」
「……まあな」
この森の生活では湧き水を温めたおしぼりで毎日体を拭くことしかできていない。
頭も絞った布で拭って、汚れを落とすだけ。
清潔さはある程度保てているが、本当の意味で洗えているかと言えば違う。
リーネがふいに、アクロスの方をちらりと見た。
少し間があった。
「……ねえ」
「ん?」
「私、臭う……?」
声が少し小さかった。
真剣な顔で聞いている。
おっさんと狼と鳥との暮らしといえど、やはり気にしていたんだな。
アクロスはちゃんと考えた。
毎日おしぼりで拭いている。
服の汗汚れはあるだろうが、森で暮らしてきた人間としては十分に清潔だ。
それに、リーネはどちらかというと薬草というか森の香りがほんのり混じっている。
「リーネは薬草と森の香りがするぞ」
「……それは臭くないってこと?」
「毎日ちゃんと拭いてるから大丈夫だって」
リーネがほんの少し肩の力を抜いた。
「……よかった。でも、やっぱりちゃんと洗いたいわね。宿が取れたら……」
「素材が売れたら真っ先に宿を取ろう。俺も同じ気持ちだ」
「……あなたも気にしてたの」
「当たり前だろ。紳士だぞ俺は」
「あぁ、そうだったわね」
リーネが笑った。
クロが二人を交互に見て、わふ、と鳴いた。
「お前もちゃんと洗ってやるから待ってろ」
クロが嬉しそうに尻尾を振った。
フレスがぴぃと短く続けた。
「お前は空で勝手に雨に当たれ」
ぴぃぴぃ、と不満そうな連続音が返ってきた。
リーネが小さく笑った。
「フレスは私がちゃんと洗ってあげるわ」
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その後の荷物の整理はてきぱきと進んだ。
棚の上に並べられた素材を一つずつ確認していく。
草角獣の魔核が四つ。毛皮三枚。骨、角、爪が三匹分。
魔狼の魔核が四つ。毛皮と牙も四匹分。
毛皮や牙、爪などかさばる荷物は影の中に入れておく。
素材の中でも俺とリーネで補修や制作に使った分もあるが知れている。
ほとんどそのまま売れるだろう。
あとはリーネの集めた薬草も売れるだろう。
「リーネ。これ全部グラザで売ればどのくらいになると思う?」
「草角獣の魔核が一番高いわね。一頭で銀貨一枚はいくはずよ。毛皮も防具素材だからいい値段がつくはず。全部合わせれば当面の生活費にはなると思う」
「そうだといいな…」
「問題は……私たち、今手元に銀貨どころか銅貨も一枚も持ってないことだけど」
「それだな」
二人そろって少し黙った。
銅貨一枚もない。塩と蜂蜜が残り僅か。衣類も消耗品も全部これからだ。
「グラザで素材をきっちり換金するまでは、何もできないわ。
だからこそ道中で少しでも情報を集めておきたいの。相場も、ギルドの信頼性も」
「そうだな。とりあえずはお金だ、お金」
「そうね」
リーネが薬草入れを腰に下げた。アクロスが荷袋を肩に担いだ。
リーネがくれた、革の財布もポケットに入れておく。
お金は全く入ってないけど…。
革の感触が手の中にすっと馴染んだ。
クロが出入り口の前で尻尾をぱたぱたしている。
早く行こう、という目だ。
「クロ、落ち着け。先行偵察の仕事は冷静にやってもらわないとな」
それを聞いてクロが少し背筋を伸ばした。
仕事、という言葉が伝わった顔だった。
フレスがリーネの肩の上で翼を小さく広げてまた畳む。
飛ぶ前に自分の翼を確かめる動作だ。
「お前も頼りにしてるぞ」
ぴぃ、とフレスが胸を張った。
「さて」
アクロスは立ち上がって建物を見渡した。
棚は整理され、床は掃除魔法で埃ひとつない。
光る苔も丁寧に手入れした。
数日しか過ごしてないが、ここも大事な思い出の場所になった。
しばらく戻れないかもしれない。
「……また、ここに帰ってくるのかな」
思わずぽつりと呟いた。
リーネが振り返った。
「帰る場所があるから、出発できるんじゃない」
それだけ言って、先に出た。
アクロスは少し遅れて後に続いた。
最後に焚き火の火を消した。
煙が細く立ち上って、消えた。
二人と二匹は茂みの外へ出た。
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森の中を南西へ歩く。
変身は森を出る前にする。今はまだ魔族のままだ。
朝の森は水分を含んでいた。足元の落ち葉はまだ湿っていて音を吸い込んでいく。
白の太陽が木々の間から斜めに差し込んでいた。
一時間ほど歩いたところでアクロスが立ち止まった。
「ここで変身するぞ。森の外まであと少しだ」
「わかったわ」
「変身」
体を光の靄が包む。
魔紋が消える。耳の先端が丸くなる。
青みがかった肌が、健康的な人間の肌色に変わった。
オッドアイの琥珀と紅が沈んで、焦げ茶の瞳になる。
やや長めの黒髪に白い筋が入った、旅慣れた中年の男。
くたびれた焦げ茶の革ジャケット。灰色のズボン。
リーネが横で待っていた。
「次はリーネだ」
「うん」
肩に手を置く。
外側は人間のリーネ。リーネ自身が選んだ姿。
内側は魔族のリーネのまま。
「変身」
光の靄がリーネの輪郭を包んだ。
角がしゅるりと吸い込まれて消える。尖った耳の先端が丸くなる。
褐色の肌が健康的な明るい小麦色に落ち着く。
深紅の瞳の奥で色が沈んで、赤みを残した深い茶色に変わった。
オフホワイトの麻のシャツに、紺の胸当て付きのベスト。
紺のキュロット、革のベルトと小さなポーチ、柔らかい革のショートブーツ。
銀白の美しい長い髪は、そのままだ。
二日目だが、やはり人間の姿のリーネは新鮮だった。
「……どうだ。変わりないか?」
「大丈夫よ。時間制限だけ気にしておきましょう」
「そうだな。今日は長くなるかもしれない」
クロが足元で探知の姿勢を取っている。
耳がぴんと立ち、鼻がひくつく。
フレスが木の枝に飛び移って視界を広げ始めた。
「クロ、フレス。先行してくれ。人の気配があったらすぐ知らせろ」
わふ、ぴぃ。
二匹が先に進んだ。
やがて木々の密度が薄れてきた。光が増えた。
草の匂いが広がる。
森の縁が近づいてきた。
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アクロスが木の陰から森の外を覗いた。
草原が開けていた。緩い丘が続いて、その向こうを一本の街道が南北に走っている。
踏み固められた土の道で、幅は荷馬車が二台すれ違えるくらいの広さだ。
そして、街道沿いの少し離れた場所に、一台の荷馬車が止まっているのが見えた。
「……馬車が止まってるぞ」
「ええ……どうしたのかしら」
二頭立ての馬が荷馬車と繋がっている。
荷台には布の包みや木の箱が積んであり、しっかり縄で縛られている。
馬車の脇に人影が三つ。
一人は馬車の車輪をしゃがみ込んで調べていた。
太めの体格で、五十を過ぎたくらい。頭に巻き布を締め、日焼けした首筋が見える。
丸顔で頬に笑い皺が深く刻まれていて、普段からよく笑う人間なのだとわかる。
もう一人は荷台に腰かけて腕を組んでいた。
二十代の前半くらい。短剣を腰に差して革のベストを着ている。
癖っ毛の赤みがかった茶髪が少し跳ねていた。
少し離れたところに三人目が立って街道を警戒していた。
女だ。三十前後で、がっしりした体型。革鎧に手斧を背負っている。
短く刈り込んだ栗色の髪、顎が丸くて目つきが鋭い。
一目でベテランとわかる佇まいだ。
アクロスの探知が反応する。
「全員人間だ。魔力はほぼなし。戦闘態勢でもない」
車輪を調べている男が周囲に向かって何か言った。
「……右の後輪だ。スポークが二本折れてる。このまま走ると車軸ごとやられるな」
「替えのスポークは?」
若い男が荷台から聞いた。
「……積んでない。前回の補修で使い切った」
「まずいな」
女の冒険者が眉をひそめた。
「次の村まではまだだいぶある」
三人が顔を見合わせている。打つ手がない、という空気だ。
アクロスはリーネと視線を交わした。
リーネが小さく頷いた。
「助けてみるか。情報がもらえるかもしれん」
「そうね、悪い人間じゃなさそうだし」
「魔法はまだ使うなよ。俺もお前も普通の旅人として動く」
「わかった」
アクロスは森の縁から草原に出た。
草を踏む音が立つように、わざと普通に歩く。
手を上げて声をかけた。
「おーい、大丈夫か」
三人がこちらを向いた。
女の冒険者の手が一瞬手斧に触れたが、くたびれたおっさんと若い女の旅人を見て、すぐに力を抜いた。
「あんた達は、旅人か?」
女冒険者が尋ねた。まだ警戒の色は残している。
「ああ。俺たちも街道に出ようと思ってたところだ。車輪がおかしいのか?」
「あぁ、そうなんだよ」
荷馬車の前の男が立ち上がった。
「スポークが二本も折れちまってな。
替えを積んでなかったんで、往生してるところだ。
わしはオルガ。グラザを拠点にしている行商人だ。この二人は護衛のカイとミラだ」
「俺はアクロス。こっちがリーネだ。俺達はグラザを目指してるところだ」
「なんだ。グラザへ行くのか。わしらも同じ方向だ。今は動けんがな…」
オルガは苦笑いしながら言った。
「車輪を少し見せてもらえるか」
アクロスはしゃがみ込んで後輪を確認した。
確かに。スポークが二本、根元からぽっきり折れている。
スポークは車輪の中心から外輪に向かって放射状に伸びている棒状の支えだ。
二本折れると荷重が残りのスポークに集中して、走行中にさらに折れが広がる。
重い荷物を積んだままではとても走れない。
さて、どうするか。森から材料を取ってくれば応急補修はできるかもしれない。
だが加工の精度が要るな。
アクロスが頭を掻いていると、横でリーネがしゃがみ込んで折れたスポークを手に取った。
「……これ、折れた断面を見ると、だいぶ前からひびが入ってたわね」
「リーネ、わかるのか」
リーネがアクロスを見上げた。
「集落にいた頃、みんなで木を加工して薬草道具や雑器を作ってたわ。
木の性質は多少わかるの。
この断面なら、同じ太さの生木より乾燥してる方が削りやすくて強度も出ると思う。
あの倒木とか、いい感じで使えそう」
リーネが森の縁を指差した。
ちょうど倒れかけた細い木が一本、斜めに別の木に寄りかかっている。
「……リーネ、任せていいか」
「ええ、やってみる」
それだけ言ってリーネが立ち上がった。
オルガが目を丸くした。
「おぉ、お嬢さん。あんた修理できるのか?」
「たぶんいけると思います。やってみてもいいですか?」
リーネが丁寧に尋ねた。
「もちろんだ! 頼むよ」
オルガは大きく頷いた。
リーネは迷わず森に向かって歩き出した。
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カイという若い冒険者がリーネについていき、材料の運搬を買って出た。
倒木から目ぼしい太さの枝を二本確保して、リーネの作業場所まで運ぶ。
リーネは持参した小刀を取り出して、折れたスポークを横に置きながらじっくり見比べた。
長さを合わせて枝の余分を切り落とす。
それから慎重に削り始めた。
最初は粗く、次第に細かく。角度を変えながら少しずつ表面を整えていく。
手の動きが迷わない。無駄がない。
削りくずが落ちるたびに、スポークの形を成していく。
「……上手いなぁ」
アクロスは思わず呟いた。
リーネが手を止めずに答えた。
「集落にいた頃は時間があれば何か作ってたの。
薬草道具とか、革細工とか。手を動かしてる時間は好きなのよ」
「財布も荷袋も上手だったもんな」
「木も革もじっくり見れば、どこをどう切ればいいかはだいたいわかるの」
カイが横でじっと手元を見ていた。
「……すごいですね。あの削り方、本職みたいだ」
ミラが腕を組んで二人を見ていた。
最初は警戒した目つきだったが、今は少し違う。
値踏みから、認めに変わってきている目だ。
スポーク二本が削り上がった。
折れた箇所に当てて確認する。
「……いい精度ね。これで十分」
リーネは満足そうに言った。
「よし、取り付けてみましょう」
オルガが道具箱から工具を出してきて、カイとアクロスの三人で車輪を外す。
折れたスポークを抜いてリーネが削った木片を挿し込む。
縄で固定して、木片で叩いて締め込む。
「……これは、いけそうだな」
オルガが修復箇所を力を入れて押して確認してみる。
ぐらつかない。
「おおっ!」
オルガが目を丸くした。
「お嬢さん、本当にやっちまったな! こりゃ、大したもんだ!」
「次の村で本格的に直してもらってくださいね。あくまで応急処置です」
「わかってる、わかってる! いやぁ、しかし助かった、本当にありがとう!」
ミラもカイも明らかに空気が変わった。
さっきまでの「見知らぬ旅人」という警戒がすっと抜けた顔だ。
カイが深々と頭を下げた。
「本当にありがとうございます」
リーネが小刀を拭いてしまいながら言う。
「どういたしまして」
短く返した。だが耳の先端がほんの少し赤い。
リーネは褒められ慣れてないもんなぁ……
アクロスは笑いをこらえた。
クロが足元で胸を張っていた。俺も見守ってたぞ、という顔だ。
フレスが木の枝からぴぃと鳴いた。
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馬車の脇に腰を下ろして皆で、少し休んだ。
オルガが荷台から布袋を取り出して、中からパンと乾燥した果物を出してきた。
「大したものじゃないが、ぜひ食べてくれ。礼をしたいが、今はこれくらいしかできんのでな」
「うわ、パンだ。ありがたいなぁ」
アクロスは受け取った。
パンは固いが、噛むほどに麦の香りがある。
乾燥した果物はほんのり甘い。
この世界で食べる初めてのパン。しっかり噛みしめる。
普通にうまい。
リーネもパンを一口食べて、静かな顔をしていた。
こういう時のリーネは表情には出さないが、
気持ちをちゃんと受け取っていることはわかる。
「あんたたちもグラザに行くって言ってたな」
オルガが聞いた。
「ああ」
「二人はどこから来たんだ?」
「北の山脈手前の小さな集落から。
世界のことを知っておきたくて、二人で見聞を広める旅をしてるところだ。
中央回廊はまだ歩き慣れていないんだ」
「北の山脈から! そりゃ遠いところから来たな…」
オルガの目が少し丸くなった。
それから、足元のクロと空のフレスを交互に見た。
「……ところで、その黒い狼と空の銀の鳥も、あんたたちの仲間か?」
「ああ。俺達の大事な旅の相棒さ」
「ずっと気になってたんだが、あの黒い狼、目の色が紫だな。
普通の狼じゃないだろ。魔獣か何かか?」
オルガに警戒した様子はない。むしろ純粋な好奇心で目を輝かせていた。
「まあ、普通の狼とは少し違うな。ただ、俺達にはちゃんと従う」
クロがアクロスの横に歩み出た。
オルガの方を見て、ゆっくり尻尾を振った。
「……おお。賢い顔をしてるなぁ。触ってもいいか?」
(クロ、触らせてやってくれ)
無声で伝えると、クロがオルガの手に鼻先を近づけた。
オルガがおっかなびっくりで頭を撫でた。
「……柔らかいな! こんな毛並みのいい狼は見たことがない!」
クロがわふ! と得意げな顔をしている。
クロが得意顔のままアクロスの足元に戻ってきた。
(クロ、ご苦労さん)
アクロスはクロの頭を撫でて労う。
「銀の鳥の方は?」
「フレスは……リーネの相棒だ。索敵が得意でな。空から見張りをしてくれてる」
「空からの索敵係か! いいなぁ! 羨ましい……」
オルガは空を見上げながら笑顔で言った。
ミラが腕を組みながら空のフレスを見上げた。
「あの飛び方を見ると、訓練された鳥とも違うが、本能で飛んでるだけでもないな。
ちゃんと状況を判断して動いてるように見える」
「鋭いですね」
リーネが静かに言った。
「私たちの旅には欠かせない大事な仲間です」
ミラが少し頷いた。認めた、という頷きだった。
---
「あんたたちもグラザへ行くなら、わしらと一緒に行くか?」
オルガが提案した。
「わしらは途中の村で荷下ろしと仕入れをしてからグラザに戻る。
昼過ぎには村に着けるが、そこで一泊することになるだろうから、グラザに着くのは翌日になると思う」
「急ぐ旅じゃないなら、どうかね? この辺りの情報もわしや村から聞けるぞ」
「人数は多い方が安全ですからね、お互いに」
カイが言い添えた。
「途中の街道で、少し物騒な噂を聞いたんだ」
ミラが低い声で続けた。
「グラザに入る前の森の近くで旅人の荷物が奪われたって話があった。
確かめたわけじゃないが、人数は多い方がいい」
アクロスはリーネと視線を交わした。
情報を集めるいい機会だ。ここで人間の知り合いができるのも都合がいい。
断る理由はなかった。
「こちらこそ喜んで同行させてもらおう。荷物運びくらいは俺達にも手伝えるしな」
「それは助かる! では改めてよろしく頼む」
オルガが破顔した。
クロが街道の前に出て耳をぴんと立てた。さあ行くぞ、という顔だ。
フレスが空へ上がった。
銀の翼が白晨の光を弾いて、白く輝いた。
街道の先を見通すように、静かに旋回している。
「うわぁ、ほんとに頼りになりそうだなぁ」
カイは眩しそうにクロとフレスを見た。
「さて」
アクロスは荷袋を担ぎ直した。
「行くか、リーネ」
「そうね」
リーネが隣に並んだ。
二人と二匹はいよいよ街道を歩き出した。
この世界に生きる人間達と早速出会った。これから本格的に交流をしていく。
見知らぬ場所、見知らぬ出会い、不安と緊張はもちろんある。
だが、同時に前の世界では感じたことのないような不思議な高揚感もあった。
これが、旅というものか。
さぁ、世界を見に行こう。




