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第21話 魔剣・アクロスソード

大発明とリーネからの贈り物で心穏やかに眠りについたその翌朝。


目が覚めると、外でリーネが朝食の準備をしているのが見えた。

湯気。そしてことこと、と穏やかな沸騰音。


それに混じって、深くて温かい香りが建物の中に流れ込んでくる。

昨夜リーネが仕込んでおいた出汁が仕上がっているのだろう。


クロが尻尾を振ってアクロスを待っていた。早く行こう、食べよう、という目だ。


アクロスが外に出ると、焚き火の上に石の鍋が据えられていた。

リーネが木の枝でゆっくり中をかき混ぜている。


草角獣の肉を拇指大に切ったものと、出汁の出る植物、紫キノコが一緒に煮えている。表面に浮かんだ脂が、橙色に光っていた。


「……いい匂いだな」


「おはよう。もうすぐ出来るわよ」


アクロスは石に腰を下ろした。


朝ごはんの美味そうな匂いに迎えられて起きる。

それだけで、今日が良い一日になる気がしてくる。


リーネが器に汁ごと取り分けて渡してくれた。


そして一口ぱくり。


「……」


次の言葉が出るまでに数秒かかった。


肉が崩れるほど柔らかい。


昨夜から浸けておいた出汁が全体に染み渡って、キノコの旨味が液体に溶けて、

ひとつの味のハーモニーを奏でているではないか。


塩と果実酢が遠くで確かに利いていて、それでいて重さがない。


朝に食うものとして完璧な構成だ。


「うまい……これは本当にうまいぞ…」


「ほんと? 子どもの頃から見てた。母の秘伝の煮込みよ」


「…普通じゃねぇよ、このうまさは…」


「ずっとただの塩焼きだったんだから当然でしょ」


「……ぐ、それは否定できん」


リーネが器をすすりながら、口元だけにやりとしている。


クロが器の前で、ぱたぱた尻尾を振っている。

フレスはリーネの肩から嘴を伸ばし、湯気を嗅ぎながらもじもじしていた。


「お前らにもちゃんと分けてやるから、落ち着けよ」


「クロには肉を多めに。フレスは出汁を冷ましてからね」


リーネが二匹の為に素早く取り分けた。


クロがばくばく食べ始め、尻尾がこれ以上ないほど回転した。

フレスはリーネの指先から、行儀よくついばんだ。


「煮込みは時間が全部やってくれるの。私は仕込むだけ」


「その仕込みが大事なんだろ」


「そうね」


クロが一気に食べ終えてもっとくれと目で訴え、フレスがリーネの袖をくちばしでつついた。


「こいつらも、うれしそうだな」


「ならよかった」


リーネは嬉しそうに二匹が食べる姿を見ていた。


---


食後のひととき。腹が満足感で一杯になったところで、

アクロスは昨日のことを話し始めた。


「リーネ。昨夜の俺の魔法の話だけどな」


「うん」


「今から全部、見せよう」


リーネの目が、わずかに鋭くなった。

聞きたかったやつだ、という顔だった。


「まずは、変身からだ」


「……どこまで改善が進んだの?」


「言葉で説明するより、見せたほうが早い」


アクロスは立ち上がって、焚き火から数歩離れた。

朝の薄い光の中で、ゆっくり目を閉じる。


魔の創造に意識を沈める。


昨夜、作り直した新たな変身魔法。

そのコンセプトをもう一度なぞった。


外側は「人間の旅人アクロス」。

皮膚、髪、目、耳、体格、服。

内側は「魔族アクロス」のまま。

魔核、魔力経路、身体能力。


二層を同時に。

昨夜と同じ感覚だ。いける。


変身シフト


体を光の靄が包む。一瞬の、ぞわっとした感覚。

それが収まったとき、アクロスは目を開いた。


リーネがこちらを見ている。


しばらく、何も言わなかった。


それから、ゆっくり立ち上がって近づいてきた。


アクロスの顔のすぐ前まで来て、止まった。


リーネの目が、アクロスの耳を見た。

それから、瞳の奥を見た。


「……アクロス」


「どうだ。新しい変身魔法は?」


「これ、前のと全然違うわ」


「だろ?」


リーネが指で、アクロスの耳の縁を撫でた。

完全に丸い。尖りもわずかな歪みも、ない。


「目の奥にも、魔族の色が残ってない…」


「そうなんだよ」


「……どうやったのよ」


リーネは静かに驚きながらアクロスの顔をまじまじと見つめている。


息がかかりそうな距離におっさんは少しドキドキしている。


「発想を大きく、変えたんだ」


アクロスは少し誇らしげに胸を張った。


「前のは『魔族の姿を隠す』だった。

だから膜の下の魔族の姿が透けて角や、目と耳に変な形で残っていた」


「うん」


「今回のは『俺は人間の旅人アクロスだ』で魔法を構成した。

隠してない。つまり俺の形そのものを変えてる。言葉の意味通り、変身だ。

ただし、内側の魔族の俺は、そのまま残している」


「………体の形を変えている…?」


リーネが、まばたきもしないでアクロスを見ていた。


「魔法が使えなくなるとまずいから、魔核と魔力経路は内側にきっちり残してある。外側だけ人間。中身は魔族のまま」


「…………」


リーネが口を震わせながら、何かを言いたそうにしている。


「どうしたんだ、リーネ? 驚いてくれよ。これは大発明だろ?」


「……ちょっと待って」


リーネが額を押さえた。そして目頭を揉んでいる。

しばらくして深い溜息をついて、アクロスの顔を見直した。


「あなた、それを昨夜一晩で組み直したの?」


「うん」


「あなた、とんでもないことしてるのよ。わかってる?」


「そうなのか?」


「そうなのよ。それ、あなたの存在そのものを変えてるの。

冷静に考えたらもはや神の領域じゃない?

あなたを構成している形そのものが変わってしまってるってことなんだけど…」


「そうだよ。だから変身してるんだろ」


リーネがまた深い息を吐いた。


「それもう、…種族自体が変わってるじゃない」


「細かいことはいいだろ」


「細かいことじゃないんだけど…

あなた、人間でも魔族でもない、別の生きものになっちゃってるんだけど…」


リーネの顔は半分引きつっているが半分笑っている。


そんなリーネに構わずアクロスは気を抜いてみた。


ぼーっと空を見上げる。


「なにしてるの?それ…」


リーネはアクロスの様子を見ている。


変身は、解けない。


もっと気を抜く。リーネに見られて心配されるくらい、ぽけーっとしてみる。


「……ちょっと、あなた。だからそれなんなのよ、ふざけてるの?」


リーネが腕を組んでつま先で地面をトントンしている。

心配ではない。顔が完全にいらいらしている。


「気を抜いても変身が解けないことをリーネに見せてる」


「ものすごく腹立つ顔になってるわよ」


「でも、解けないだろ。最初に消費する魔力は前より多くはなったけど、

変身の維持には魔力をほとんど使わずに済んでると思う」


「……それって無意識でも保てるってこと?」


「たぶん今回の変身は寝てても保てるぜ」


リーネが目を細めた。


「……それ、大発明じゃない」


アクロスは、だからそう言ってるじゃん。という表情だった。


---


アクロスは変身を解いた。


体が光に包まれ、元の魔族の姿に戻る。


「で、ここからが本題だ」


「存在自体が変わってるのに…

何もなかったかのように元の姿に戻れてるのが不思議で仕方ないわ。

それで…これ以上あるの?」


「この新しい変身魔法を、お前にもかけたいんだけど…」


リーネの肩が、わずかに動いた。


「……私にも、できるの?」


「俺と同じようにできるはずだ。そしておそらくお前の魔力負担はほとんどない」


リーネはアクロスに何かを言いかけて、だが止めた。


それから、足元の地面を少し見て。自分の耳を触っている。


「……ねぇ、アクロス」


「ん?」


「私、自分の角とこの肌の色、耳も嫌いじゃないのよ」


声は静かだった。


「前に変身した時も、自分が消える気がして少し嫌だったの」


アクロスは、リーネを見た。


「……そうか」


「それに今度の変身魔法は、ほんとに人間になってしまうものだし…」


リーネが指先で、自分の角をそっと撫でた。

それはいつもの照れの仕草とは違う、もっと静かな手つきだった。


アクロスは、しばらく黙っていた。


「……お前の気持ちはちゃんとわかってる。

でもこれからの俺達には、変身が必要なこともわかるだろ?」


「うん。わかってるわ」


「姿が変わってもリーネはリーネだ。魔法も元の姿と違和感なく使える。

それに、町に行くなら変身しておかないとお前を守れない」


リーネが顔を上げた。


「うん…」


「俺達がこれからやろうとしていることは、森の中で暮らしているだけではできないことなんだ。だから俺がしてやれるのはせめて、リーネの背中を押して、

そして納得した姿に変えてやるくらいだ」


「うん…」


「お前の中の『人間の姿のリーネ』も、お前がちゃんと決めろ。

肌の色も、目の色も、髪も、服も。自分が納得できる姿を決めるんだ」


「……わかったわ」


リーネは少し間を置いてから、ゆっくり話し始めた。


「私の肌は、白くしないで。今のこの肌に近い色がいいの」


「うん」


色白美人でもめちゃくちゃいいとは思うんだけど。


「髪は、この銀白のままがいい」


まぁ、確かにリーネのこの髪色は正直、めちゃくちゃ綺麗だと思う。


「わかった」


「目は……」


リーネが少し考えた。


「赤に近い、深い茶色でいい」


今の目の色。綺麗だけど人間でこの赤色はやばいやつに見えるかもしれないしな。


「茶色じゃなくて?」


「普通の茶色だと、自分じゃない気がする」


「……なるほど」


「人間にも稀にいるって、集落に商いに来てた人も言ってたし…」


リーネはそれから少し早口になった。


「角と尖り耳は、仕方ないから消してもいいわ。

顔と体格はもちろんそのままよ。変に太らしたりしたらどうなっても知らないわよ。服は普通の女性旅人の服。肌の露出が多い変な服装にしたらあなたを殺します。

装飾品は、ないほうがいいわ」


「了解しました」


短いスカートにしようかな。と内心思っていたのが見透かされていたのだろうか。


「それじゃあ、変身魔法をかけるぞ。いいな?」


「うん。ちゃんと覚悟を決めたわ」


リーネは少し体を固くして目をぎゅっと瞑っている。


前の変身とは根本から違うからな。怖いのはわかる。


「肩に触れるぞ。いいな?」


リーネは体を固くしたまま、頷く。


リミットレス共有に失敗した時のあの誓いはまだ生きているのだろうか。


ちゃんと確認しておかないと、また殴られてしまう。


そしてアクロスはリーネに歩み寄り、肩に手を置いた。


リーネの魔核の波長が伝わってくる。

氷のように透明で、細い風が抜けるような軽さ。芯は硬い。


その内側に、リーネの言った外見のイメージを丁寧に組んだ。


外側は「人間のリーネ」。リーネ自身が描いた像。

内側は「魔族のリーネ」のまま。


イメージできた。人間の姿のままの自分も気に入ってもらえるように。

服装もしっかりイメージする。ここは俺の好みが出ても仕方ない。


最初に思い浮かんだ短めのスカートとふんわりブラウスは、却下した。

俺の命がかかっている。


そうだな…

動きやすくて、それでいて野暮ったくはない。

旅の女性魔導士見習い、みたいな感じにしておくか。


オフホワイトの麻のシャツ。襟元は控えめに開いている程度。

袖は手首まである。その上に、深い紺色の胸当て付きのベスト。


腰のラインを軽く絞って、女性らしい体の線がさりげなく出る。

下は同じ紺色の、動きやすいキュロット。

裾はふくらはぎの真ん中あたり。


革のベルトと小さなポーチ。足元は柔らかい革のショートブーツ。


装飾は、なし。

飾り気がないからこそ、銀白の髪と褐色寄りの肌が、ぴたりと映える。


イメージできた。


これならリーネに殺されない。

たぶん。


「よし、イメージが整った。いくぞ」


「うん」


リーネが体を固くしたまま、こくりと頷く。


変身シフト


光の靄が、リーネの輪郭を一瞬だけ包んだ。


角がしゅるりと吸い込まれるように消える。

尖った耳の先端が丸くなる。

褐色の肌が、わずかに白みを帯びて、健康的な明るい色に落ち着く。

深紅の瞳の奥で色が静かに沈み込み、赤みを残した深い茶色に変わる。


そして、服装。


夜露で湿ったままの粗末な服が、靄の中で繊維を組み替えるようにほどけ、

イメージ通りのオフホワイトのシャツと紺のベスト、紺のキュロットに切り替わった。


銀白の長い髪は、そのままだ。


光の靄が、すうっと収まる。


そこに立っていたのは、人間の若い女だった。


健康的な肌の色。銀白の長い髪。少し赤みの残る、深い茶色の瞳。

旅装に身を包んだ、十代後半か二十歳くらいの娘。


凛とした目元。引き締まった頬骨と顎のライン。

それは、紛れもなくリーネだった。


「……」


リーネが目を開けた。


最初に、自分の手を見た。

手のひらを返し、指を一本ずつ動かしてみる。


それから、自分の体を見下ろした。


シャツの袖を軽くつまんで、生地の感触を確かめる。

ベストの胸当てを指でなぞる。

キュロットの裾に手を伸ばし、布の柔らかさを確かめた。


そのまま、何も言わずに、入口近くに置いてある、水瓶あたりまで歩いていった。


しゃがんで、覗き込む。


長い、長い沈黙だった。


アクロスは黙って待った。


水面に映った自分の顔を、リーネはじっと見つめていた。


指先で、丸くなった耳の縁にそっと触れる。


それから、額の角があったはずの場所を、ゆっくり撫でた。


何度か瞬きをして、もう一度水面を見つめ直す。


「……うん」


小さな声だった。


「これが人間の、私…」


リーネがゆっくり立ち上がる。

振り返って、アクロスを見た。


その目には、小さな、しかし確かな安堵が浮かんでいた。


「ちゃんと、私の顔をしてるわね」


声がほんの少し震えていた。


「服も……可愛い」


リーネがベストの胸当てを軽く撫でた。


「動きやすそうだし、これなら町でも違和感ないわね」


「気に入ったか?」


「うん。気に入った」


リーネが、ふっと頬を緩めた。


「短いスカートにしなかったこと、ちゃんと褒めてあげる」


「ばれてたの…」


「あなたのそういうところ、ちゃんとわかってるんだから」


アクロスは咳払いで誤魔化した。


「で、どうだ。魔力の消費や体への負担はあるか?」


リーネが少し体を動かしてみる。

腕を回し、軽く屈伸して、深く息を吸った。


「……信じられないわ。

前の変身って、ずっと体の表面に薄い何かが貼ってある感じがあった」


「そうだな」


「そう。意識してないと滑り落ちる感じ。

今回はそういう感覚が全くないわ」


「だろ?」


「これなら、町に何日いても疲れないわ」


リーネが少し肩を回した。

それから、自分のキュロットの裾をつまんで、軽く翻してみた。


「ちょっと、女の子っぽいわね」


「嫌なのか?」


「嫌じゃ…ないわ」


リーネは、少し恥ずかしそうな声だった。


---


「それじゃ、変身を解いてみてくれ。

魔法を消す感覚で、自分の意志で解けるはずだ」


「ええ」


リーネが目を閉じた。


光の靄が広がって、彼女の輪郭をふわりと包む。


そして、収まった。


褐色の肌、深紅の瞳、銀白の髪、額に二本の角。

いつものリーネが、戻ってきた。


リーネがゆっくり目を開け、アクロスを見た。


少しだけ、頬を緩めている。


「……ねぇ、アクロス」


「ん?」


「変身を解いた時にはね…」


「うん…」


「『お帰り』って、言って欲しい」


「……『お帰り』?」


「うん。私が魔族の姿に戻った時。

あなたが『お帰り』って言ってくれたら、私は嬉しいの」


「……そうか」


乙女心は複雑だな。


「あなたが人間から戻った時は、私が言うから」


リーネが、少し照れたように視線を逸らした。


「お帰り、か」


「うん」


アクロスは少し黙ってから、リーネの顔を見て、言った。


「……お帰り、リーネ」


リーネが、こくんと頷いた。


頬が、ほんのり赤い。


「変な儀式だなって、思ってるでしょ?」


「いや…」


アクロスは首を振った。


「そういうのも悪くないな、と思った」


リーネがふっと笑って、肩からふっと力が抜けたのが見えた。


クロが二人を見比べて、わふ、と短く吠えた。

よくわかんないけどよかったね、という顔だった。


フレスがリーネの肩からぴぃ、と続けた。


---


「で、まだ続きがあるんでしょ?」


リーネが言った。切り替えが早い。


「そうなんだ。よくわかったな。むしろ次の魔法の方がすごいぞ」


リーネはまた額に手を当ててため息をついた。


「わかった……覚悟しておくわ」


「これはまじですごい」


「もう、わかったから…」


リーネは早く見せてよ、と言いたげに手をひらひらさせてアクロスを促した。


アクロスは背筋を伸ばし、またひとつ咳払いした。


「これは昨夜、一人で笑ってたやつだ」


「ああ、私が見たら漏らすかもしれない、って言ってたやつね」


リーネが昨日のやり取りを思い出したのか腕を組み、片方の眉があがっている。


「あ、あぁ…まぁそれくらい驚くってことだ」


「早く見せてよ」


アクロスは焚き火から少し離れて、立ち止まった。


朝の光が、彼の足元に長い影を落としている。


その影を、見下ろす。


魔力を、影の輪郭に沿って静かに流し込む。

影と地面の境目が、わずかに揺れた気配がした。


「影の領域シャドウ・レルム


呟いて、しゃがむ。

特に魔法の名前を声に出して言うことに意味はない。


この恰好いいネーミングをリーネに聞かせたかっただけだ。


右手を、自分の影に伸ばした。


指先が、影の表面に触れた瞬間、するりと、地面に沈んだ。


そのまま手首が、肘が、影の中に消えていく。


肘まで沈んだところで、アクロスは止めた。


リーネが、目を見開いていた。


「……え」


「な?」


「ちょ、ちょっと、待って」


リーネが駆け寄ってきた。


「影の中に…入れるの…?」


「そうだ、この影の中には別の空間がある」


「どういうこと…?」


リーネは首を傾げている。


「だから、新しく作った収納魔法だよ。影の中に物が入る」


「………影の中で…保管するってこと…?」


「そういうことだ」


リーネが、しゃがんでアクロスの隣に並んだ。


「私の手も、あなたの影の中に入るのかしら…?」


「わからん…ちょっとやってみてくれ」


リーネは顔を背けながらそろそろと、影に指先を伸ばす。


指先が、地面ではないどこかに沈んだ瞬間、


「ひぃっ」


リーネが小さく叫んで、手を勢いよく引いた。


アクロスは横目でリーネを見た。


「……魔法を展開している間は俺以外でも触れるんだな。新しい発見だ」


「なにこれ…すごいというか怖いんだけど…」


「どうだ?ちょっとちびっただろ」


「……あなたを影の中に押し込むわよ」


「ま、まあ。そういうな。これはそれくらいすごい魔法なんだ」


リーネが頬を膨らませて、もう一度、恐る恐る影に手を入れた。


今度は手首まで、ゆっくり。

そのまま、しばらく動かさずにいた。


「……何もない、けど、何か空間がある」


声が小さくなっていた。


「だろ」


「……手の感覚が、ぜんぜん違う場所にあるわ。なんだか気持ち悪い」


「最初はな」


リーネがゆっくり手を抜いた。

手のひらをまじまじと見て、何度か握ったり開いたりしている。


「中は、冷たいのかしら…?」


「うっすらとひんやりしてるだろ」


「容量は?」


「昨夜、少し試した感じだけだと、限界はわからんな」


「……わからないの?」


「薪も石も枝も、入れただけ全部入った。そもそも俺のイメージで作った魔法だ。

影の深さに限界があるというイメージが湧かなかった。つまり俺の中では無限だ」


「そんな都合いいこと、ある?」


リーネは目を丸くした。


「完全な無限ではないだろうな。今の能力的な限界はあるかもしれないが…

それでもたぶん、旅に必要な荷物くらいなら、丸ごと収まるんじゃないか」


「丸ごと……」


リーネが立ち上がった。空を見上げて、軽く、息を吸う。


それから、ゆっくり吐いた。


「……食べ物や素材も入る?」


「中は時間が止まってる可能性がある。昨日の残りの素材を回収して試してみたい。

肉も野菜も果物も、入れておけば腐らずに運べるかもしれない」


「………」


リーネが少し下を向いた。


その横顔を、アクロスは見ていた。


しばらくして、リーネが小さな声で言った。


「ねえ、アクロス」


「ん」


「私達の暮らしが、今、根底から変わったわ」


「また大袈裟だな」


「大袈裟じゃない」


リーネは真剣な目をしていた。


「……旅する時も、逃げる時にも、私たちが一番頭を悩ますのは荷物よ」


声のトーンが、わずかに沈んだ。


「旅ではね、『今、自分達が持っている』食料品や荷物の中身が、

私達の命に等しいのよ。あるかないかで生きるか死ぬかが変わる時もある」


「怪我をしたときに薬があるか。食べ物や水がどれくらい残っているのか。

何を持って行き何を持って行かないのか。そこで旅の全てが決まると言ってもいい」


アクロスは何も言わずに、聞いていた。


「そして逃げる時が、一番荷物の問題が顕著になるわ。

準備をする時間もない。荷物も多く持てない。わかる?」


リーネが、ふっと息を吐いた。


「この魔法があれば、その不安が、全てなくなるのよ」


朝の光が、リーネの銀白の髪に当たってほんの少し滲んでいた。


アクロスは、ゆっくり頷いた。


「……そうだな」


それしか言えなかった。

荷物を持つ面倒さがなくなるとか、魔法の名前がカッコよかったのが、

自分の中での一番の成果と思っていたことが恥ずかしくなってきた。


リーネが、頬を緩めた。


「これからこんな魔法ばかり創るならあなた、本当に魔王になれるわね」


「なるって言ってるじゃないか」


「そうね」


リーネは空を見上げて、ふっと笑った。


アクロスは、ポーチに手を当てた。


指先に、固い小さなものの感触。


布人形を取り出した。

角が二本ついた、小さな笑顔の人形。


リーネが、じっと、それを見た。


アクロスは、布人形を、影の中にゆっくり差し入れた。

すうっと、消えた。


「……大切なものは、安全なところに、ね」


リーネが、小さく言った。


「ああ」


アクロスは頷いた。

それ以上の言葉は、二人とも要らなかった。


---


「それで、リーネさん」


「なに」


「最後に、まだ見せたい魔法があるんだ」


「まだあるの?」


リーネはもうお腹いっぱいという表情だ。


「変身も収納もすごいが、これが今日のメインかもしれない」


なんせ名前がかっこいいからな。


アクロスは右手を前に差し出した。


魔の創造に、意識を向ける。

昨夜、寝る前に組み直した設計を呼び起こす。


原初の奔流。全属性が枝分かれする前の、根源的なエネルギー。

それ自体を、剣の形に、固定する。


右手の横から影が伸びるように、


剣が、生まれた。


七十センチほどの、直剣。


黒紫の光沢が刀身全体を包み、刃の縁だけが白く輝いている。

朝の木漏れ日を浴びると、刀身の中で深紫の光が脈打つように、ゆらりと揺れた。


柄はアクロスの握りに収まる太さで、余計な装飾はない。


しかし、確かに剣だった。


実体を持ち、鋼のように光を弾き、

魔力そのものが剣になったという事実を全身で示していた。


リーネの目が、刀身の光に吸い込まれた。


しばらく、何も言わなかった。


「……すごく、綺麗」


それは、思わず漏れた声だった。


「魔導士として言うわ。これは本当に綺麗な魔法…」


「材質は、原初の奔流のエネルギーから固体化した根源の魔力そのものだ。

切れ味は鋼に劣らない。たぶんそう簡単には折れないぞ。

それに消せる。いつでも出せる」


刃を消した。右手が空になる。

もう一度、出す。刃が生まれる。


「そしてこれは自分の意志で飛ばせる。そして剣に雷を纏わせることも、

炎で包むことも、理屈上はできるだろう」


「……すごく便利ね。これは使えるわ。

なにより、あなたに武器を買うお金がかからないことが素晴らしいわ…」


リーネが剣に見惚れている。


いや、最後の一言よ。そこが一番なの?


さて、そんなリーネに昨夜から温めてきたこの剣の名前を、教えてやろう。

お金がどうとか下らない。

この剣の本当の素晴らしさが名前である事を気付かせてやろう。


カッコよすぎて、泣かない女がついに泣くかもしれないな。


「リーネよ。これこそが——」


ちょっと、溜める。これが大事だ。


「魔剣・アクロスソードだ」


沈黙。


三秒。


リーネの顔から、表情がすうっと消えた。


「……なんて?」


「魔剣・アクロスソードだ。格好いいだろ」


魔剣は今勢いで付けた。よりかっこよくなったな。


アクロスは胸を張った。


「いやいやいや。聞いてるこっちが恥ずかしいわ。

自分の名前、そのまま入れたの?」


リーネがなぜか寒そうに、自分の腕を抱いている。


「俺が作った俺の剣に、俺の名前が入って何が悪いんだ」


「全部悪いわよ!こんなに綺麗な黒紫の刃なのに…

漆黒でも、黒刃でも、もっとそれっぽい呼び方、いくらでもあるじゃない」


「漆黒の魔剣・アクロスソードのほうがいいってこと?」


「いやいやいや。漆黒の魔剣だけでいいのよ。

アクロスソードの部分がいらないのよ」


「いや、そこが無くなったらこの剣の価値がなくなるだろ」


「この剣の価値はそんなところじゃないの!!

収納魔法の時も、シャドウなんとかとか、わざわざ言ってたけどいらないでしょ!

聞き流してたけどそのセンス考え直したほうがいいわよ」


「そんなこと、言うなよ…」


アクロスはひどく落ち込んだ。手で顔を覆って泣きそうだ。


リーネはその様子を見て少し引いている。


クロが驚いてわふっ、と吠えた。

フレスがぴぃぴぃぴぃ、と連続で鳴いた。


二匹とも、何が起きてるのかわかってない顔だがアクロスを心配している。


リーネがため息をついて、天を仰いだ。長い、長い、ため息。


そして口を開いた。


「ごめんなさい……私が言い過ぎたのかもしれないわ。

その名前のセンスも含めてあなたの魔法…それがあなたらしいということだもの」


「リーネ、この名前の素晴らしさを、認めてくれたのか」


アクロスは顔を覆った指の隙間からちらりと目だけをリーネに向けている。

全く泣いていない。


「諦めただけよ…」


めんどくさい男。とリーネは思っているように見えたがそれを言うのも面倒になり、言葉の通り諦めているようだ。


だが口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。


それで、十分だ。

アクロスソードの名誉は、ちゃんと死守した。


---


「じゃあ、アクロスソードを飛ばしてみるぞ」


アクロスは刃を細く、長く、形成し直した。


「形もその都度変えられるのね…」


リーネは感心している。


右手から、前方に向かって放つ。


黒紫の残光が空気を引き裂き、十五メートル先の木の幹に深々と突き刺さった。


一拍置いて、また意識で引き戻す。


刃が逆向きに飛んで、右手に音もなく戻ってきた。


「……ちゃんと戻ってきた」


「今は一本だけだが俺の意思で自由自在に動くな」


もう一度、放った。


今度は幹の直前で軌道を曲げ、別の木の幹を斜めに擦って、戻ってきた。


弧を描いた黒紫の軌跡が、朝の森の空気にうっすらと残光を刻んだ。

一秒も経たずに消えたが、確かに、そこを通った証だった。


「……ほんとに自由に動かせるのね」


リーネが腕を組み直した。


頭の中で、いろんな場面を組み立てているのが目つきでわかる。

魔導士の目だ。


「……考えることが増えたわね。いい意味で」


「そういうことだ」


アクロスが刃を消した。

黒紫の光が、指先で散って、消えた。


「以上が、今朝のお披露目だ。長くなってしまったが、どうだ?」


リーネが、短く息をついた。


「正直に言うわよ」


「どうぞ」


「変身は完璧だわ。影収納も実用的すぎる。剣は綺麗で間違いなく使える。

名前以外は、文句なし」


「名前も、文句なしだ」


「文句しか、ないけど…あなたが拗ねるから諦めたの」


クロが、わふ、と笑ったような顔で鳴いた。

フレスが、ぴぃ、と続けた。


---


新魔法の確認が終わるともう時刻は昼前になっていた。


クロがアクロスの足元に横になっている。


一週間前と比べて、クロの体高は明らかに増していた。

前足が太くなり、頭に不釣り合いだった大きな耳が、少し体に追いついてきている。


毛皮の中に、成獣の筋肉の予感が宿り始めていた。

黒紫の差し毛が増えて、漆黒の毛並みに深みが出てきている。


お前はやっぱり、成長が早いよな。


頭を撫でながら念話で伝えるとクロの尻尾がゆっくり、大きく揺れた。

得意げとも、照れているとも取れる、揺れ方だった。


フレスがリーネの肩で、翼を広げてみせた。


産毛の奥に、成熟した風切り羽がはっきりと見える。

銀の翼の付け根の骨格が日に日に確実に太くなり、左右のバランスも整っていた。


生まれた日の掌に乗っていた、丸い雛の面影はもうない。


「……午後から、そろそろフレスも頑張ってみない?」


リーネが話しかけると、待ってましたと言わんばかりに、フレスがぴぃっ、と鳴いた。


「昨日の草角獣の素材回収に行く途中で、開けた場所があればフレスの飛行訓練もやってみよう。変身と影の領域の、実地テストも兼ねて」


リーネが頷いた。


「……私たちもパーティらしくなってきたわね」


「ああ」


「二人と二匹でも、パーティとして機能するなら、十分よ」


クロが、わふ、と返した。

フレスが、短く、ぴぃ、と続けた。


異議なし、とでも言いたげな声だった。



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