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断章第二話 シルヴェーンの森


我々の森は、音が少ない。


葉擦れの音、水の流れの音、そして鳥の声が一日に聞く音の大半を占めている。


人間の町にあるような地面を走る車輪の音も、金物の打ち合う音も、

声を張る商いの呼び込みもない。


それらの音は我々の森には届かない。


フィルヴェーレ・アスティーンは、故郷の入り口に立っていた。


銀色がかった淡い金髪を、後ろで緩く束ねている。長さは肩を少し過ぎるほど。

半年の旅でも変わらない。


そして、旅杖の先に固まっている乾いた泥を布で落とす。


背中の長弓を使うことは、今回の任務ではあまりなかった。


そして碧い瞳が、見慣れた木々の間を、ゆっくりと辿っていった。


帰ってきた。


口には出さず、ただ胸の中でその言葉を転がした。


ここはシルヴェーンの森。

エルフの里の名であり、また、この森そのものの名でもある。


この森に門のような構造物は何もない。


ただ古い樹の幹に淡い光の文様が浮かび、静かに訪れた者を見定める。


この先に進む許可がある者には、静かに迎え入れてくれる。


許可のない者が進めば、文様は光ったまま、迎え入れる。

だが進んだ先は目的地ではなく、この森のどこかに静かに掃きだされる。


森が望まぬ侵入者には、ここは恐ろしい迷いの森となる。


フィルがゆっくり歩を進めると、光の文様は淡く溶けるように消えた。


森は、受け入れた。そしてこの先にはエルフの里がある。


里が近づくとともに、周囲の空気が変わっていく。


木々の梢を編むように渡された木製の橋、苔生した石段、岩肌を流れる水音、

そして遠くから漂う薬草と樹と草花の匂い。


里に住むエルフたちの姿が見え始めた。


日課の水汲みから戻る若い娘。

里を出る前と変わらず、木彫りの細工をしている老人。

弓の弦を張り替えている兄弟。


皆、フィルに気づくと顔を上げ、暖かな視線と穏やかな微笑みのみで迎える。


フィルも視線と微笑みを返す。

これがエルフの挨拶だ。わざわざ言葉を交わすことはない。


エルフの里には、長く静かな森の生活に沿った穏やかで温かい独自の文化がある。


だがフィルは、半年前にはなかった種類の沈黙をちらほら感じ取った。


何かが、変わった。もしくは変わろうとしているのか。


里の空気そのものが、ほんの少し、強張っている気がする。


フィルは杖を持ち替えて、まっすぐ里の中央へと進んだ。


里の中央には大樹がそびえている。


それはシルヴェーンの大樹と呼ばれる。

根の幅だけで人が住む家屋ひとつ分はある、まさに巨木、大樹であった。


その幹にもたれるように、木造の館がある。

まるで巨木とひとつになろうとしているかのようにも見える。


エルフの族長が住む館である。


館の前でフィルは杖を地面に立て、深く息を整えた。


館の入口には、フィルを待っていたかのようにまだ若いエルフが控えていた。


「フィル森境守、よくご無事で戻られました。

長老様も、リアレナ様も、奥の間にいらっしゃいます」


リアレナ。

その名を聞いて、フィルはわずかに眉を動かした。


リアレナ・シルフェイル。樹聞きの司を任じられた者の一人。

族長の手足、目、耳、声となる、族長補佐の任。

そして、次代の族長を担う候補でもある。


七百歳のあの女性が、今すでに長老の隣に収まっているという報せ自体が、

すでにひとつの変化であった。


館の奥の空気は、里よりさらに静かで穏やかなものだった。


部屋の中央に、低い円卓。

卓の向こうの上座に、ひとりの老エルフが座っている。


ヴェナール・エルダウィン。シルヴェーンの里の長老だ。

「長老」の言葉の意味通り、現存するエルフで最も長く生きているという。


二千歳を超えたその身体は、もう人間の老人とよく似て見える。


長い白髪は背中まで流れ、肌は深い皺の網目で覆われていた。


だが瞳だけは変わらず碧く澄んで、優しさと強さが同居している。

子供の時から見ている。変わらない瞳だ。


その隣には、リアレナが座っていた。


七百歳のエルフ。女性的にも成熟した完成された美貌。

その姿はリアレナ自身が今、エルフとしての全盛期を迎えていることは一目で感じ取れる。


背中まで長い白金の髪を耳の後ろに流し、薄緑の正装をきちんと着こなしている。

切れ長の薄い水色の瞳は理知的で、フィルが入ってきても表情を崩さなかった。

美しい水色の瞳は、まっすぐフィルに向けられている。


「ご苦労だったな、フィル」


ヴェナールの声は思いのほかしっかりしていた。


皺だらけの顔の中で、口の動きが妙にゆったりしている。


急ぐ気のない、二千年の時間を背負った者の声だった。


「半年ぶりだ。フィル、そこに座りなさい」


「失礼いたします、ヴェナール様、リアレナ様」


フィルは円卓を挟んで二人の正面に腰を下ろした。


旅杖は脇に横たえ、両手を膝の上に置き、姿勢を正した。


「まずは水を持ってこさせよう」


ヴェナールが部屋の脇に控えていた若いエルフに目配せする。


若いエルフは下がり、しばらくして水差しと木のコップが運ばれてきた。

冷えた里の湧き水だった。


フィルは一口含んで、それから卓にコップを置く。


「では、お前の見てきた外の今。聞かせてもらおうか」


ヴェナールがゆっくりと言った。


フィルは、まず魔族狩りについて話し始めた。


「私が見る限り、中央回廊の魔族の集落は、そのほとんどが焼かれているかと」


短く、フィルは報告した。


ヴェナールの白い眉が、わずかに動いた。

だが声は変わらない。


「ほとんど、というのは、どの程度だ」


「私が立ち寄った集落の数で言えば、十のうち八は焼け落ちておりました。

残る二も人の気配はなく、無人の集落です。おそらく逃げ延びた魔族たちは散り散りになったものと思われます」


「中央回廊の全てでそのようなことになっている、か」


「中央回廊の北寄り、東の山脈沿い、それから西部に近い窪地まで。

私がこの目で確かめた限りでは、地域による差はほとんど感じませんでした」


ヴェナールは目を伏せた。

皺の深い瞼が、ゆっくりと閉じていく。


リアレナは姿勢を変えずに聞いていたが、卓の上に置かれた指先がほんのわずかに動いた。


「魔王軍はどうなっている」


ヴェナールの目が、また開く。


「壊滅状態かと存じます」


フィルはそう答えてから、わずかに言葉を選ぶ間を置いた。


「魔王ゼヴァルスが討たれて半年。残っていた将兵も多くが人間達の軍に討ち取られたのか、あるいは身を潜めたかと思われます。魔王軍として組織が動いている形跡は確認できませんでした」


「そうか、散ったか」


「組織としての形は保てなくなった、ということなのでしょう」


ヴェナールが小さく頷いた。


次にフィルは、西部で掴んだ動きを話した。


中央回廊の西の端、そこにはフェルガン三邦同盟という小国群がある。

その境にほど近い辺りにカルマと呼ばれる町がある。

千人ほどが暮らす石造りの古い町だ。


そこにはフィルが知る顔があった。


「カルマの族長の娘、ハーフエルフのイリアに会いにいきました」


ヴェナールの目が、初めてわずかに細くなった。

表情とは呼べない動きだが、フィルにはそれが微笑に近い動きだと分かった。


イリアは、ヴェナールにとっても顔見知りなのだった。


「カルマの族長の娘は、元気でおったか」


「ええ、元気でした。そして忙しそうにしておりました」


「ほう」


「今、カルマは魔族を、保護しております」


ヴェナールの碧い瞳が見開き、まっすぐにフィルを見た。


リアレナの目が細くなる。


「一人だけ、という話ではありません。

何人かの仲間と組んで行き場を失った魔族をカルマや、付近の協力してくれる集落に匿っているそうです。

すでに二、三十の魔族が、その手で命をつないでいると申しておりました」


「ほう、人間の側に、そういう動きをする者がおるか」


「はい。そのようです。首謀者の名は明かされませんでした」


フィルはそう言ってから、わずかに目を伏せた。


「魔族は今、北からも南からも追い立てられ、西の片隅では拾われ始めた。

フィル、東のことはわかるか?」


フィルはゆっくりと首を横に振る。


「東は、アルセイド王国から北のデモニア高地までの山脈入口までアルセイド王国の軍が多く展開しており、魔族が無事でいられる場所ではなくなっています」


ヴェナールは長い息を吐いた。

皺の深い手が、ゆっくりと卓の縁を撫でる。


「魔族は、古来よりこの世界の地脈、魔の流れを整える役目を担っておった。

魔族はこの世界を正しく存在させる為に必要な者達だ。

人間たちは、その意味を、まだ知らずにいるのか」


それは独り言のような呟きだった。


リアレナが、初めて口を開いた。


「フィル。魔の吹き溜まりのことを、伺ってもよろしいでしょうか」


声は澄んでいた。

高くも低くもなく、ただ一語一語に芯がある。


フィルはリアレナに向き直った。


「吹き溜まりは、世界中で確実に増えております」


「分かりやすい指標で申せますか?」


「正確な数までは把握できておりません。

ただ、一年前に私が確認できていた数と今回の旅で確認した数は、確実に二倍以上にはなっているかと存じます」


「倍、ですか」


リアレナは顎に手を当て、考える仕草をしている。


「中央回廊の北寄り、それから旧魔族集落付近に多く、魔物が増えております。

魔族がいなくなった旧集落の地脈の乱れがそのまま吹き溜まりの育っている場所になっているように見受けられました」


リアレナは頷き、そして静かな声で整理した。


「魔王軍の浄化も止まり、集落もなくなり、地脈が乱れ吹き溜まりが膨らみ、

それを処理できる者が北にはいない、という連鎖ですね」


七百年の蓄積が、無駄なく言葉になっていた。


「勇者達のその後は、どうなった」


ヴェナールが、口を開いた。


「魔王が討たれ、王都に帰還したその後は、勇者様もその仲間の方々も、

公には姿を見せなくなったと聞きます。

アルセイド王国は表向きには『英雄たちは静養している』と申しております。ただ、いくつかの噂話程度の情報はあります」


「噂、というのは」


「勇者様は自分の故郷に帰った。聖騎士様は自分の屋敷にこもったまま。

狩人様は冒険者に戻ったらしい、と。

神官様は王都から離れた静かな教会で孤児の世話をしている。

魔導士様は王都におられる。ただ、具体的な話があるわけではございません」


ヴェナールは目を閉じた。

今度は深く、長く。


「勇者様達の心の置きどころは、誰も知らぬか」


それは問いというよりも、嘆きに近かった。


「私が拾った話の限りでは、知る者はおらぬようです」


しばし、奥の間に沈黙が落ちた。


「わかった。他に何か語るべきことは、あったか?」


水差しの中で、氷のひとかけらが小さく音を立てた。


フィルは、最後に残しておいた一件を語ろうかどうか、迷った。


中央回廊の北寄り。

ある滝の岩場で出会った異質な魔族の男のこと。


人間に化けた魔族の男が、フィルの隣で魔狼と穏やかに水場でくつろいでいた。

敵意も企みも感じない。この今の世に、普通に旅をしているようなその姿。


名乗ったのはアクロスとだけ。

それ以外の自分の情報は、多くを語らなかった。


だがその男の佇まいに、フィルは奇妙な手触りを感じた。


若い魔族でありながらも、普通の魔族と異なる異質の魔力を内に折り畳んでいた。


ひとつふたつ言葉を交わしても、フィルの目にはその器の底が見えなかった。


これだけは言える。あの男は、「普通」ではなかった。


だがフィルは、この場ではそれを口にはしなかった。


水場の縁、と心の中で呟くだけにしておいた。


互いに正体を見て見ぬふりをしたあの場所での会話を、

ここで報告に乗せるのは、エルフの作法に反する。


フィルというエルフは、無粋な行いは好まなかった。

人がそれをどう思うかではない。


自分の中の想いを自分がどう扱うかを大事にしている。


あの男にとって、そしてエルフの自分にとって、

時間で言えばそれは取るに足らない短い間ではあった。


だがフィルはその時間を決して軽くは見ない。


「はい。今回の旅での情報は以上です」


ヴェナールは、何かを察したように小さく頷いただけで、それ以上は問わなかった。

リアレナも、目だけでフィルを見たが、何も言わなかった。


「今回もよく無事で戻ったな、フィル」


ヴェナールがそう言って、皺だらけの手で軽く卓を叩いた。

労いの仕草だった。


「ご苦労であった。お前の目で見て、お前の耳で聞いた話は、

いつも書き物の十倍の価値がある」


「勿体ないお言葉です」


「今度は、我らからお前に伝えておく話がある」


ヴェナールはそう言うと、少し間を置いてから、静かな声で続けた。


「お前が旅にでている間に、シルヴァ様から、『お言葉』があった」


部屋の空気が、また一段、静まった。


シルヴァ。その存在は、エルフにとってはまさに特別な存在。

七柱神、大地を司るテラの使徒。


使徒とは神の手足。そして神の『想い』を伝えるこの世界の特別な存在。


それは生命なのか、それとも生命を超えた存在なのか。それは誰にもわからない。


そしてシルヴァは森を司り、エルフという種族を見守り続ける存在でもある。


ヴェナールよりも古くから森に存在する。

いや、エルフという種が初めて生まれたそれ以前からシルヴァは存在している。


その名は、エルフの里に住む者であれば物心ついた時から知っている名だが、

口に出すことも滅多にない。


シルヴァはシルヴェーンの森の最奥にいる。

という話だがエルフの族長のみがその存在と向き合うことが許される。


そしてシルヴァという存在は、ただ見守るのみだ。

シルヴァが普段、エルフ達に具体的な指示や命令を出したりすることは、ない。


その名を長老が口にした。そして『お言葉』ということは、

エルフの種の存続にかかわる何かがある。ということを意味しているのだろう。


フィルは姿勢を正した。

その表情は、真剣そのものだ。


ヴェナールも姿勢を正す。そしてゆっくりと口を開いた。


「凍りの季に、北の地から、世界の在り方を大きく変えようとするものが動き出す、との事だ」


「シルヴァ様は、それが何かまでは仰らなかった。だが『備えよ』、と仰られた」


「備える……」


「シルヴァ様は三つの備えを説かれた」


ヴェナールはゆっくりと指を立てた。


「ひとつ、戦いの備え。ふたつ、守る備え。みっつ、手を取り合う備え」


最後の一語に、フィルは小さく息を呑んだ。


エルフの里において、他の種と手を取り合うという言葉は軽くない。

中立であること、距離を置くこと、自らの森を守ること。


それが千年以上にわたりシルヴェーンが守ってきたこの里、この森の在り方だった。


その在り方を、シルヴァ自らが揺らせと言ったのだ。


「私が、申し上げてもよろしいでしょうか」


リアレナが言った。


ヴェナールが、構わない、というように小さく顎を引いた。


「凍りの季は、もう間近となっています」


リアレナの声は淡々としていた。


「猶予は長くありません。戦いの備えと守る備えは、

これまでの里の蓄えを総動員すれば形にはできます。問題は、最後のひとつです」


「手を取り合う備え、だな」


「はい」


リアレナはまっすぐにヴェナールを見た。


「我々は長く、自らの森に閉じて生きてきました。

中立であることと、無関係であることは、外から見れば同じに映ります。

今になって手を差し伸べても、驚き、訝しみ、すぐには応じないでしょう。

それに我々エルフの存在や力が利用され、謀られる恐れもあります」


ヴェナールも静かに頷いた。


リアレナは静かに、だが確かに力強く続ける。


「それでも、こちらから動かねばなりません」


「動くは、誰だ」


ヴェナールの問いは、すでに答えを知っているかのように響いた。

だがそれは、確かめるために発せられた問いだった。


リアレナは姿勢を変えなかった。


「私が、その役を担います」


ヴェナールは、しばし答えなかった。


それから、皺だらけの手で自らの白髭を一度撫でた。


「シルヴァ様が、おっしゃられた」


ヴェナールは続けた。


「わしの役割は、もうすぐ終わりだとな」


フィルは、思わず長老の顔を見つめた。


ヴェナールはそれに気づいたが、咎めなかった。


ただ碧い瞳でフィルを見返し、口の端をわずかに上げた。


笑みではなかったが、笑みに近い表情だった。


「驚くな、フィル。二千年も生きれば、終わりが見えるくらいの目は持っておる。

シルヴァ様もわしも、同じものを見ているということだ」


「ヴェナール様……」


「次は、リアレナだ」


ヴェナールは、隣に座る七百歳の女性を顎で示した。


リアレナはわずかに目を伏せたが、その姿勢には揺るぎがなかった。


「凍りの季を越えてからになるか、その前か、それはわしにも分からん。

だがそう遠くはない。この世界は何か変わろうとしている。

我々も世界に準じなければならない」


フィルは深く頭を下げた。


「長きに亘るお務め、お疲れ様でございました」


フィルには、その言葉しか、出なかった。


ヴェナールは小さく笑った。

今度は、はっきりと、笑いだった。


「フィル。これからのあなたの役割は私達エルフにとって、重要になります。

引き続きよろしく頼みます」


リアレナがそう言った。


その言葉にはこれまでとは別の重みが宿っていた。

里の役目を担う者として、次の族長として、フィルを頼る言葉だった。


フィルは頭を下げたまま、答えた。


「もちろんです。エルフの為に身命を賭して」


それから顔を上げ、姿勢を整えてから、付け加えた。


「リアレナ様。手を取り合う相手の中には、人間も入りましょうか」


リアレナの薄い水色の瞳が、フィルを射た。


「もちろん入ります。そして人間だけではありません。

ドワーフも、獣人も、そして……魔族もです」


その最後の一語を、リアレナはゆっくりと、しかし迷いなく口にした。


「承知しました」


「……シルヴァ様は、『他の種』と仰せになりました。

シルヴェーンの森は、魔族を排除する側にいたことはただの一度もありません。

今その記憶を、もう一度たぐり寄せる時です」


フィルは深く頷いた。


胸の奥に、またあの滝の岩場の風景が、ほんの一瞬よぎった。

若い魔族の男と、黒い狼。水場の縁。


そしてフィルが奥の間を辞す頃、森はすでに太陽が傾き夜を迎える頃だった。


木々の隙間から差し込む一日の最後の光が、苔の上にいくつもの小さな円を作る。

その円が、風にあわせてゆっくりと動いていく。


フィルは館の前に立ち、しばらくその光景を見ていた。


凍りの季はもう近い。三つの備え。

戦い。守り。手を取り合う。


最後のひとつだけが、しんと胸の底に残っていた。


長い時間。シルヴェーンは中立を選び続けてきた。

それは弱さではなかった。むしろ、長い時間を生き延びる為に必要な強さだった。


争いに加担せず、争いを呼び込まず、ただ自らの森を守り続ける。


シルヴァ様もそれを良しとされてきたはずだった。


だが今、自ら手を伸ばせと仰った。


それは、もはや中立だけでは守れぬ何かが、世界に育ち始めているということだ。


この大陸どころか、世界中に大きな変化が起きる可能性のある何かだ。


魔王がいなくなり、魔王軍が散り散りになったあの北の地で。


世界を、全ての種族に影響を与える恐れのあるもの。


おそらくは、シルヴァ様にもまだくっきりとは見えておられぬのだろう。

ただ感じているのだろう。世界の変化を。


神も使徒も人に使命を与えはしない。その手で直接救いもしない。

ただ、見守る。そして変化を感じると守護者として警告は与える。


だが結果的にこの世界がどのような姿になるのかは、

この世界に生きる命達の行動が決めるのだ。


見えぬほどに底の深いただならぬ気配が、今、北の方角に満ちつつある。


そういうことなのだとフィルは受け取った。


エルフの里から賜った自分の任は森境守しんきょうしゅ


それはシルヴェーンと外の世界の境界、または境界外を巡り外的脅威の察知、

里への報告、そして外界との折衝も担う公職。


シルヴェーンと世界を繋ぐ役でもある。


フィルは胸に手を当てて目を閉じる。


「これからは私の外の動き次第で、里の命運が変わる可能性もある」


ゆっくりと目を開け、杖を持ち直し、自分の家への道を、歩き始めた。


森の中の橋を渡り、苔の階段を下り、岩肌の水音を背に、

薬草と草花の匂いの中を抜けていく。


すれ違うエルフたちに微笑みを返しながら、フィルは胸の中でひとつ、願う。


森よ世界よ、美しくあれ。


そして風が、止んだ。


木々の隙間からの光は閉じ、暗き夜が始まる。


灯りが示すその先にしか、道はない。



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