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第18話 二人の秘密基地


リミットレスの儀式を終えた二人は、

外に出て笑いあった。


午前中半ばの森の中。


二つの太陽が木漏れ日を落として、足元に金と白の斑模様を作っている。


クロが先に飛び出し、フレスがリーネの肩で羽を広げた。


アクロスはふと、足を止めた。


体が前と違う気がする。


なんだか空気の匂いが鮮明になった。


地面に落ちた露の匂い。苔が湿気を含む匂い。


三十メートル先に小動物がいることが、気配でなんとなくわかる。


木漏れ日の一筋一筋が、

太陽の角度と葉の形で作られた幾何学の模様として見えている。


アクロスは探知魔法を展開した。


今までは半径百二十メートル程で限界だったのがすっと広がっていく。


二百メートル程だろうか。


範囲内の生き物や地形が全部、頭の中に地図のように浮かんでくる。


「リーネ。お前も何か変わってないか」


リーネが目を閉じ、胸に手を当てた。


「……魔力の流れが太くなってる気がする。回路が広がったように感じるわ」


リーネは杖を持って集中してみる。


右手に氷の槍が形成されていく。


長さは四十センチ。


昨日より大きく、透明度も高い。


アクロスは胸の奥に意識を向けて、確認する。


原初の奔流★3。魔の創造★3。


そして――


「おぉ! リミットレスが★4に上がってるみたいだ!」


リミットレスの成長補正が強化されたのか。


全体的に能力が底上げされたようだ。


リーネとの共有が成功し、リミットレスへの理解が一段と深まった結果だった。


「俺もリーネもリミットレスが★4になったことで能力が底上げされたみたいだな」


「こんなにすぐ実感できるほどに能力が高まるなんて…」


リーネがアクロスを見た。


深紅の瞳に驚きと、それより深い何かが混じっていた。


そして――ふっと力を抜いた。


「ねえ、アクロス」


「うん?」


「今日はのんびりしない? 二人と二匹で」


アクロスも、特に反対する理由はなかった。


---


一日のんびり、何もしない日があってもいい。


この世界に来た初日の散歩を思い出す。


「リーネ、あの滝を見に行こう。

あのあと、どうなってるのかを確認したい」


リーネの顔が少し硬くなった。


リーネを捕獲しようとしたあの賞金稼ぎたち。


記憶を消して眠らせて、滝壺の前に置いてきた。


あれから数日経っている。


「さすがにもういないと思うけど…」


「あと、滝の裏をリーネに見せたいんだよ」


「あなたが住んでたっていうところ?まぁいいわ。いってみましょう」


そして二人と二匹は南へ歩いた。


クロが先行し、フレスがリーネの肩から枝を渡り歩く。


あの時はリーネの怪我のこともあって時間がかかったが、

今、普通に歩いていくと一時間と少しで滝の近くまで来れた。


アクロスは足を止め、探知を展開した。

警戒は怠らない。


半径二百メートル。

滝の周辺をくまなく探る。


「……誰もいないようだな」


「やっぱり、帰ったのね」


「ああ。目が覚めてここに来た理由もわからなくて引き揚げたんだろう」


賞金稼ぎ達の足跡も探してみる。


滝壺の前の岩場に、六人分の痕跡がうっすら残っている。


起き上がった跡。立ち歩いた跡。南西――


グラザの方角に向かって去った足跡。


「南西に歩いていった。グラザに戻ったんだな」


「あのリーダーの男、ドルク。

あいつ、記憶はなくても体が覚えてるって言ってたわよね」


「ああ。厄介な奴だった。いつか、また会うかもしれないな」


「その時はどうするの?」


「その時はその時だ。俺達はもう逃げないんだろ?」


リーネが小さく笑った。


「そうね」という顔。


---


安全は確認できたので、

二人と二匹で滝壺の前でくつろぐことにした。


岩に並んで座り、足を水に浸す。

冷たくて気持ちいい。


この世界に来た頃をぼんやり思い出す。


クロが浅瀬でぱしゃぱしゃやっている。

フレスは岩の上で日向ぼっこ。


この世界に来たときと変わらない同じ景色だった。


だが今は、隣には信頼できる仲間。


リーネがいる。


「リーネ、裏の秘密基地も見にいこう」


「ふふ、わかったわ」


アクロスは滝のカーテンの脇を通り滝の裏へ。


リーネも後ろに続く。


フレスが水飛沫を嫌がってぴぃぴぃ騒いだ。


久しぶりの秘密基地。


光る苔の明かりがまだ薄く灯っている。


寝台の落ち葉は乾いて縮んでいる。

棚は空。炉に冷えた灰。


自分の手で作ったものが、そのままただ時間の中に置かれていた。


「ここで少しだけ暮らしてた。クロと飯食って森を散歩してたんだ」


リーネが後ろ手を組んで中をゆっくり歩いた。


壁に触れ、寝台を見て、棚を確かめ、炉を覗く。


「丁寧に作ってあるのね。換気口もあるし。

光る苔の配置も考えてある。一人で作ったの?」


「あぁ。クロは生まれたばかりで俺の周りをうろうろしてたよ」


クロが何故か得意げに胸を張っていた。


リーネが寝台の端に座った。

乾いた落ち葉がかさりと鳴った。


「……ここで何を考えてたの」


「色々だな。この世界のこと。自分の力のこと。南に見えた煙のこと」


「……それだけ?」


「……前の世界のことも考えたさ」


リーネが静かにこちらを見た。


聞かせて欲しい、という目。


---


滝壺の前に出て、岩に並んで座り直した。


水飛沫が霧のように舞い、虹がかかっている。

話すなら、ここがいい。


「リーネ。昨日、お前は俺が別の世界から来たことを確信したって言ったよな」


「ええ」


「あの時はそうだとしか答えなかった。今日は、全部話すよ」


リーネの深紅の瞳がわずかに見開かれた。


「いいの…?」


「昨夜からずっと考えてた。俺も覚悟も決めた。

リミットレスを共有して鼓動を重ねて信頼を誓った。

これでまだ、自分のことを隠し続けるのは、ただの不誠実だと思った」


リーネは何も言わず、待っている。


「ただし、長くなるからな」


「時間ならあるわ。今日は、のんびりする日でしょう」


そして、アクロスは滝を見つめながら話し始めた。


「俺がいた世界は、この世界とは全くなにもかも違う別の世界…

大陸がいくつもあった。そして俺の国は…日本と呼ばれる島国で海に囲まれていた」


リーネが興味深々で聞いている。


「魔法や魔力なんてものはない。

魔族も、魔物も、魔核も、ない。人間と動物と植物とここと変わらないような自然。

俺にとっては何もない普通の世界」


「魔法がない……」


「エルフもドワーフも獣人もいない。人間だけで、科学の力で文明を作った世界だ」


「科学…。あなたが言ってた酸素とか気圧とか…そういうの?」


「そうだ。ああいう知識を人間は何百年もかけて積み上げて、

火を科学の道具で生み出し、鉄の箱で空を飛び、海を渡り、月にまで行った」


「月に……」


リーネが三つの月を見上げた。


まだ昼だから見えないが、反射的に空を見た。


「世界中の情報が一瞬で手に入る道具がある。

スマホっていうんだけど、手のひらサイズの板で、触ると文字や絵が出てくる。

ものすごく遠くにいる人とも、顔を見ながら話しもできる」


「……魔道具じゃなくて?」


「魔力は一切使ってない。全部科学。電気の力で動く機械だ」


リーネが首を傾げている。

理解しようとしているが、前提が違いすぎて処理が追いつかない顔。


「まあ、細かいことはいい。俺はそういう世界で四十三年生きていたってことだ」


「その世界での、俺の名前は佐伯航さえき わたる

航は、何かを渡る、越えるって意味の字でな。親父がつけてくれた。

どんな荒波も苦難も、渡っていけるように」


「渡る、越える…」


「ああ。……俺の世界の別の国の言葉では、アクロス(Across)、とも言う。

越えていく者。世界を越えてきたから、その名前にした」


「素敵な名前ね…」


「ここに来る前にも言われたさ。同じことを」


リーネがまた首を傾げた。


だが追及しなかった。


「仕事は色々やった。人にものを売る仕事、建物を作る現場で人を束ねる仕事、

大きな倉庫で荷物の流れを管理する仕事、会社の偉い人の会議に出て書類を作る仕事、工場でものを作る工程を管理する仕事」


「……全部違う仕事なの?」


「全部違う。何度も転職した。一つの場所に長くいられない性分でさ。

でもどの職場でも、人間関係だけはいつも上手くやっていけてた」


「なんかわかる気がする」


「え、わかるの」


「あなたといると、なんだか安心する。理由はわからないけど。

そういう人なんだろうなって」


不意打ちだった。返す言葉が見つからず、

頭をがりがり掻いて照れ隠しをした。


「……で、家族もちゃんといた。結婚もしてた。そして子供が二人。

妻とは二十年以上一緒にいた。

でも子供が大人になって一人でやっていけるようになった後、

妻とは……穏やかに別れた」


「別れたの?」


「うん。大喧嘩したとか、嫌いになったとかじゃない。ただ、長く一緒にいるとな。

なんだかわからなくなったんだ。それで、子供が成長して家を出た後に思ったんだ。

これで二人の仕事が終わったんだと。

終わったから、二人でいる理由はなくなったんだ。……それだけだ」


リーネは黙って聞いていた。


魔族に離婚の概念があるのかわからないが、

「仕事が終わった」という表現は伝わったらしい。


「四十三歳。人間。会社員。離婚歴あり。子供は二人とも独立。

人生、ひと段落した普通のおっさん。それが俺さ」


「普通のおっさん……」


リーネは目を丸くして復唱している。


アクロスはそれを見て笑いながら続ける。


「そうだ。俺は一人の人間として、父親として、

やるべきことは一通り、全部やったと思ってた。だから後悔は特にないんだ。

でもさ、何かは足りてなかった。ずっとずっと、心に何か足りないものはあった」


---


リーネがしばらく黙っていた。水の音だけが続く。


「……ねえ、アクロス。聞いていい?」


「あぁ」


「その世界では、戦争はあったの?」


静かな問いだった。

だが、アクロスはすぐに答えられなかった。


「……どうしてそれを聞くんだ?」


「あなたが語る前の世界の話。すごく豊かで、平和で。

魔法の代わりに科学があって、月にまで行けて。

私の集落みたいに、家ごと燃やされるような景色がない世界のように聞こえたの」


リーネの声は責めてはいない。ただ、知りたがっている。


「……戦争は、あった」


アクロスは正直に答えた。


「戦争はある。俺が生まれる前にも、俺が生きてる間も。

広い世界だった。世界のどこかで、きっと、いつも誰かが戦ってた。

百年前の大きな世界戦争では何千万人が死んだ」


「何千万人……」


リーネは手で口を覆い、驚いている。


「俺が生きてた時も世界のどこかの遠い国では科学の炎が落ちて、

子供が死んで、家は燃えてただろうな」


「……そう、なんだ」


「でも」


アクロスは続けた。


「俺の日常には、それは起きなかった。

俺が育った日本は、俺が生きている間はずっと平和だった。豊かな国だった。

戦争の気配すらなかった。腹が減れば飯が食えて、働けば金が入って…

夜は安全に眠れた。殺される心配なんか、考えたことすらなかった」


リーネが水面を見つめていた。


「世界のどこかで燃えていても、俺のいる場所では燃えていなかった。

科学の情報装置で見れば、遠い国の子供が泣いてる映像は見えた。

でも画面の外に出たら、からあげクンを食いながら信号を渡るだけの平和な午後だった」


声が少し低くなった。


「お前の集落が燃えた夜に、俺は布団の中でぐっすり寝ていたかもしれない。

世界のどこかが燃え続けていても、俺の日常は何も変わらず、続いていた」


リーネは何も言わなかった。


アクロスも黙った。滝の音だけが続く。


「……あなたは今、そのことを後ろめたく思ってるの?」


「……少し。こっちに来て、廃墟を見て、お前の話を聞いてから。

少し、思ってる」


「おかしいと思う? 遠い国で人が死んでても、日常が続くことが」


「おかしいとは思わない。それが普通だ。

人間は自分の手が届く範囲のことしか感じられない。でも…」


「でも?」


「だからこそこっちに来て廃墟を見た時に、あの重さを、真っ直ぐ感じられた。

もし俺が生まれた時から戦場の中にいたら。何も感じなかったかもしれない。

平和な世界に育ったから、あの景色の異常さを正確に感じ取れたんだ」


リーネが静かに頷いた。


「私はね。集落が燃えた後、逃げながらずっと思ってた。なんで、って。

私たちは何もしてないのに、なんで家が燃えるんだって。でも今はわかる。

私が何もしてないことは、燃やす側にとっては関係ないんだって」


「ああ」


「あなたも、その世界でそれを経験してないだけ。

でもあなたは、関係ないとは…言えなかった。

だからあの廃墟を見て、布人形を拾った。平和な世界で生きてきた人間が、初めてその重さを自分のこととして感じた」


アクロスは何も言わなかった。


「……それは、弱さじゃない。むしろ」


リーネが少しだけ笑った。


「誰かに燃やされた経験のない人間が、燃やされた側の怒りを自分のものにして戦おうとする。それはきっと、誰にでもできることではないと思うの」


アクロスは一瞬、はっとした表情をした。


だがすぐに目を伏せた。


「前の世界では、遠い国の子供が死んでいても、翌日の仕事に行ってた」


「そうね。でも今の、あなたは布人形を拾った。ポーチに入れて、今も持ってる」


アクロスはポーチを軽く叩いた。小さくて、硬い感触。角のついた笑顔の人形。


「……私は難しい話をするつもりはないの。

あなたは人形を拾って、考えて、今、私といる。

それが、あなたの答えなんだと思う」


アクロスはなんだか心が軽くなった。


リーネにまた、背中を叩かれた気がする。


---


「俺の世界にはな」


少し間を置いて、アクロスは続けた。声のトーンが変わっていた。


「転生ものって呼ばれる物語があるんだ」


「転生もの?」


「別の世界に生まれ変わる話だ。

主人公が死んで、剣と魔法の世界に転生して、すっごい能力で大活躍する。

子供や若者、おじさんおばさんにだってめちゃくちゃ人気がある」


「……あなたの世界の人たちは、別の世界に行く話を好んで読むの?」


リーネは不思議そうに首を傾げた。


「ああ。さっきの話の続きでもないんだが、俺の国は平和だった。

退屈と言ってもいいかもしれない。戦いなんて起こらない。平和な日常。

だから、なんていうのかな。憧れがあるんだな。冒険の世界に。

きっと…自分が主人公になることに」


「……そう。それはきっと、とても贅沢な考え方ね…」


「あぁ、そうだな」


「俺も好きだったんだ。本で読んだり、動く映像で見たり。色んな種類がある。

勇者になるやつ、魔王になるやつ、のんびり暮らすやつ、自分のハーレムを作るやつ」


「はーれむって何?」


「そこは気にすんな」


「気になるんだけど」


「忘れろ」


リーネがじとっとした目を向けてきたが、話を戻す。


「で、俺はガキの頃からそういう物語が大好きだった。

学校に行ってた時にハマったゲームもあってな。剣と魔法の世界を旅するやつ。

それから二十年以上、そういうのをこっそり読み続けた」


「こっそり?」


「俺の世界ではそういうのは大人が読むものじゃないって思われてるから。

仕事の会議で偉そうな顔して座ってるお偉いさんが、夜中に布団の中で異世界転生の物語読んでニヤニヤしてた」


アクロスはぼやいた。


「笑うなよ」


「……笑ってないわ」


リーネの目は笑っていた。


「ともかく。俺はずっと憧れてたんだ。剣と魔法の世界に。

魔王とか勇者がいる世界に。会議室でくだらない報告書を読みながら、

頭の中ではいつもファンタジーの世界を旅してた」


「…………」


「よく呟いてたよ。『俺が転生したら、勇者じゃなくて魔王だな』って」


リーネが目を見開いた。


「それ……今、本当にやろうとしてることじゃない」


「ああ。ガキの頃からの夢が叶っちまった。

トラックっていう鉄の箱に轢かれて死ぬっていう形で」


声のトーンが変わったのを、リーネは聞き逃さなかった。


「……あなたは。死にたくて死んだわけじゃないのよね」


「当たり前だ。からあげクン食いながら歩いてただけだ。

からあげクンが最後の飯だぞ。やりきれねえよ」


「さっきも言ってたけど、からあげくんってなによ?」


「揚げた鶏肉の……まあいい。とにかく不慮の死だ」


「…………」


リーネが水面を見つめた。


「前の世界に、未練はあるの?」


「…………」


考えた。正直に。


「未練……はないと思ってた。人生ひと段落。妻と子供も送り出した。

でもな」


「子供たちの顔は今でもちゃんと覚えてる。名前は拓海と美咲だ。

あいつらの笑ってる顔。泣いていた顔。愛して、育てた大事な子供達だ。

赤ちゃんの顔、子供の顔、そして大人になった顔。毎日見てきた。全部覚えてる。」


アクロスは空を見た。


リーネは気付いていた。アクロスの目の端にうっすら浮かぶ光。


「別れた妻からは息子の引っ越しの手伝いをして欲しいと連絡があってな。

返事もしたんだ。『おう、いいよ。』って。でもその日は来ない。俺はもういない」


リーネは何も言わなかった。


ただ隣に座って、水面を見つめていた。


「……悪いな。なんか暗くなっちゃったな」


「謝らなくていい。聞きたかったのは私よ」


「それで、俺は死んで次に意識が戻った時だ」


---


ここからはリーネにとっても大事な話かもしれないな。


「俺は、暗い、星々の瞬く不思議な空間にいた。夜空のような場所だ」


「夜空のような場所……」


「そこに、女神が現れた」


リーネの体がぴくりと動いた。


「女神…?」


「ファルティシアと名乗った。この世界を司る女神だと言っていた」


リーネの深紅の瞳が限界まで見開かれた。


「……ファルティ、シア…? あなた、女神ファルティシアに会ったの!?」


「リーネも知ってるのか?」


「知ってるも何も……!」


リーネが立ち上がりかけ、座り直した。


動揺が体に出ている。


「ファルティシアは魔族の口承にも出てくる。

この世界が生まれた時から見守る存在、七柱神の母、すべての始まりの存在。

根源の女神。魔族の古老でも直接会った者はいない…

というかこの世界の誰も会ったことなんてないわ!」


「死んで、目が覚めて、その女神に最初に会った。

なんていうか…すごい胸が大きかったぞ。美人だったし。結構長く話をしたぞ」


「ファルティシアが美人で胸が大きかった?…あなた頭おかしいんじゃないの?」


リーネが頭を抱えている。

角の根元を指でがりがり掻いている。


「それで何を……、何を話したの?」


「まずこの世界の仕組みを教えてくれた。

俺がいた世界はすべての世界の根っこで、大樹の幹みたいなものだと。

この世界はその幹から伸びた枝葉の世界。枝葉は放っておくと枯れる。

だから幹の魂を呼んで、この世界にエネルギーを分けてもらう。

それが…俺が転生してきた理由らしい」


「枝葉が枯れる……この世界が?」


「ああ。俺がここにいるだけで、この世界にエネルギーが注がれてる。

そして俺には、原初の奔流ってスキルがある。俺がいた元の世界からのエネルギーを引き出し、この世界でも使える力だ」


リーネの表情が変わった。驚きから、もっと深い何かへ。


理解。点と点が繋がっていく顔。


「あなたの魔力の不思議な温かさ。海鳴りみたいな音。地脈とは関係なく、

どこか別のところから来てる感じ。全部……」


「ああ。俺の魔力はたぶん地脈からじゃないのかもな。

根源の世界のエネルギーってやつかもな」


リーネは続ける。


「この世界のエネルギー。つまり地脈の源が枯れかけてる?

魔王が倒されたからだけじゃなく、この世界そのものも弱ってるってこと……?」


「たぶんな。ファルティシアは全部は教えてくれなかった。

自分で見て、感じて、理解しろと」


「…………」


「で、転生物語や剣と魔法の世界が大好きな俺は、やった!夢が叶うと思って、

ファルティシアに言ったんだよ」


「何て、言ったの…」


「魔王やりたいって言った」


リーネが一瞬固まり、それから脱力した。


「……根源の女神に向かって魔王やりたいって言ったの」


「言ったよ」


「……あなたの神経がわからないわ」


「いや、ファルティシアは驚かなかったんだ。むしろそれを待ってたみたいだった。

俺がそう言うのをわかってたみたいだ」


リーネの目が鋭くなった。


「待ってた?」


「勇者じゃなくて魔王を選ぶ転生者。ファルティシアはそれを望んでいた。

理由は全部は教えてくれなかったけど……あの表情を見れば想像はつく」


「……魔王がいなくなって世界が壊れかけてるから。新しい魔王が必要だった」


「ああ。でもファルティシアはそうは言わなかった。俺に自分で気づいてほしかったんだと思う」


リーネが水面に視線を落とした。長い沈黙。


「あの人はな。俺が魔王をやりたいって言った時、一瞬だけ痛そうな顔をした」


「痛そうな顔?」


「この世界で何が起きてるかを知ってて、でも自分では手を出せなくて、

俺に賭けるしかない。そういう顔だったよ。神様なのにすげえ人間くさい顔だった」


「…………」


「それで、ファルティシアは、俺に三つのスキルをくれた。

それが原初の奔流、魔の創造、リミットレス。言語理解もおまけでくれた。

最後にこの世界の名前を決めようって、それで俺はアクロスと決めた。

ファルティシアもお前が言ったみたいに、『素敵な名前ね』って言ってくれた」


「ファルティシアが…さっきの言葉はそういうことだったのね」


「それで最後に、『この世界を楽しんで』って言われた。

そして気が付いたら草原だった。この森の近くのな」


「…………」


「これが、全部だ。俺が隠してたことは全て伝えられたと思う」


風が吹いた。滝の水飛沫が虹を揺らした。


リーネはしばらく何も言わなかった。


---


長い沈黙。


ついにリーネが口を開いた。


「……最初に会った時、事情は言えないってあなたは言った」


「そうだな」


「正直に言ったとしても、この話はとても信じられる話じゃない」


「……そうだな。ただの頭がおかしいやつだと思われるだろうな」


「うん。でもあなたは話してくれた」


「あぁ。全部話したよ」


リーネが膝を抱えた。角の根元を撫でる。


「整理させて。あなたは別の世界で四十三年生きた人間で、死んで、

創世女神ファルティシアに転生させられて、魔族の体と三つのスキルを貰って、

この世界に来た。目的は魔王になること。ファルティシアもそれを望んでいる。

そしてあなたがここにいるだけで、この世界にエネルギーが注がれてる」


「ああ。だいたいそうだと思うよ」


「あなたが魔王になれば、地脈が安定する可能性がある。吹き溜まりが減る。

魔族の迫害を止められるかもしれない。世界ごと救える可能性がある」


「……そこまで大げさかはわからない。

でもファルティシアはそれを望んでいるのかもな」


リーネが顔を上げた。


深紅の瞳がまっすぐにアクロスを見た。


「ねえ。一つ聞いていい?」


「いいよ」


「あなたの前の世界で人気の転生もの。物語の中の主人公たちは、うまくいくの?」


唐突な質問だった。

だがリーネの目は真剣だ。


「……大抵はうまくいくさ。主人公がすごい力で大活躍して、仲間を集めて、

世界を救って、大体ハッピーエンド」


「そう…」


「だがな。俺はあれを読んで、いつも思ってた」


「何を」


「主人公たちは最初から強い。敵がどれだけ来ても余裕であっさり倒す。

仲間もかわいい女の子ばっかり次々と集まる」


リーネが微かに笑った。


「何それ。馬鹿みたい」


アクロスも笑って返す。


「そうだな。でもそれがいいんだ。夢と希望が詰まってた。だけど―――」


「ここはもう現実だ。うまくいく保証は何もない。

俺に最初にできた仲間は、角を震わせながら拳で顔面を殴ってくる女だ」


「それは悪かったわね。というか悪いのはあなたでしょう」


「あぁ、そうだ」


二人は笑う。


「ふふ」


「でもだからこその人生だ。新しい人生。俺は俺のために存在してる。

失敗しても、つまずいても、格好悪くても、今はもう全部、俺のものだ」


リーネが膝を抱えたまま、静かに頷いた。


「……前の世界の物語の主人公たちは。仲間を大事にするの?」


「ああ。大体はな。仲間もかわいい女の子だからな」


「ならあなたも、そこだけは物語通りにしなさいよ。

ちゃんとかわいい女の子が仲間になったんだから」


「……そうだな、そうしよう」


二人は滝の水飛沫が生み出す虹を、見ていた。


---


重い話が一段落して、空気が緩んだ。


赤紫の実を齧りながら、肩の力を抜く。


クロが浅瀬から上がってきて、ぶるるっと水を飛ばした。


飛沫がリーネの顔に直撃。


「きゃっ……! クロ!」


わふ。クロは悪びれない。


フレスが岩の上からぴぃと笑っているように見えた。


「なあリーネ。聞きたいことがある」


「なによ」


「いや。お前の歳が気になってな」


「…………」


リーネの手が止まった。


「歳って?」


「年齢だよ。生きてきた年数。お前いくつなんだ。魔族の年齢で」


「……七十三」


リーネは伏し目がちに答えた。


「七十三」


アクロスは目を丸くした。


「でもこれは魔族の歳よ。人間換算なら二十二、三くらいね。

まだ一人前になったばかりの若い女性なのよ」


七十三歳。魔族では若者。魔族の寿命は長いと五百年とも言ってたな。

普通なら三百、とか四百なのかな。


でも七十三歳。


いやいやいや…


アクロスの口元が歪んだ。唇を噛んでいる。


目は空を見て、何かを堪えている。


「どうしたのよ。変な顔して」


「いや……いやいやいや」


堪えきれなかった。


「俺がおっさんだとしたらさ。お前はおばさんどころかおばあちゃんだろ」


リーネの深紅の瞳が点になった。


「…………は?」


「だって七十三歳なんだろ? 俺の世界なら七十三歳って言ったら立派なおばあちゃんだぞ。孫がいてもおかしくない。家族から長寿を祝われてプレゼント貰う歳だ」


「ちょっ……何言って――」


「いやー参ったな。俺はリーネのこと二十代の女の子だと思って接してたけど、

実は大先輩だったのか。ちゃんと敬語使うべきだったよな。リーネおばあ様」


リーネの顔が真っ赤になった。


怒りと羞恥が混ざって紫に近い。

角がブリブリ振動している。


「おばあちゃんじゃない!!」


リーネが叫ぶ。


「七十三歳!」


「魔族の七十三は若いの!! 人間換算で二十二よ!!」


「でも人間目線だとおばあちゃん」


「あんたが人間側で見るな!!!魔族でしょ!!」


リーネの拳が飛んできた。今度はちゃんとかわした。


「おっと危ねえ。おばあちゃんの割りには人を殺せそうな拳だな」


「避けるな!!」


滝壺の前で追いかけっこが始まった。


七十三歳のおばあちゃんが四十三歳のおっさんを追いかけ回す。


クロがわけもわからず尻尾を振りながら二人の間を走り、


フレスが上空からぴぃぴぃ騒いでいる。


アクロスは岩に追い詰められ、リーネの氷の拳が顎をかすめた。


冷たかった。


「悪かったよ!リーネさん二十二歳!」


「私は魔族なの!七十三は若いの!」


「わかったから!」


---


追いかけっこの後、岩に並んで息を整えていた。


「……はぁ、はぁ」


「……はぁ」


クロが二人の間で寝そべっている。


呆れ顔。


「……おっさんの癖に足が速いわね」


「おばあちゃんの癖に拳が速いな」


「おばあちゃん言うな」


だが声に怒りはない。


二人とも笑っていた。


「あなたの世界の七十三歳ってどんな感じ?」


「白髪で腰が曲がって、公園で日向ぼっこして、孫に小遣いやったり、

大体毎日のんびり過ごしてるだろうな」


「…………私も、そう見えるの?」


「全く見えない。ぴちぴちだ」


「ぴちぴちって何よ?魚?」


「若くて元気って意味だよ」


「……ふん。それならいいわ」


耳の先端が赤い。


---


午後は本当に何もしなかった。


滝の周りを散歩してると、三つ耳の水色兎を見つけた。


リーネが「可愛い」としゃがむと、膝に乗ってきた。


「わぁ、もふもふ……」


七十三歳がもふもふしている。

見た目は二十二歳の若い娘だ。


クロが嫉妬の鼻息。フレスは無関心。


兎はしばらくいて、ぴょんと去った。


「……また来たいわね」


「いつでも来れるさ。ここは俺たちの森だ」


「あんたの森でしょ」


「いや、ここは俺たちの森だ。秘密基地がある。二人で秘密の話もした」


「ふふ。じゃあ、ここは私達の秘密基地になったわね」


リーネはいたずらっぽく笑って、木漏れ日の中、森を歩いていく。


秘密基地、作ってよかったな。


アクロスは木の枝を剣代わりに振りながらリーネの後をついていく。


クロとフレスも二人の間を縫うようにちょろちょろと動きまわっていた。


---


日が傾き始めていた。


二つの太陽が西に傾き、白い方が先に色を帯び始める。


この世界の夕暮れは、光が二段階で変わる。


まず白い光が橙になり、金色の光がそれを追って沈んでいく。


その間の短い時間、森全体がふたつの黄昏に包まれる。


アクロスは空を見上げた。


今日はずいぶん多くのものを吐き出した。


四十三年の人生を、話した。


平和な世界にいたこと。戦争のこと。転生に憧れていたおっさんだったこと。


そして、子供たちの顔がまだ瞼の裏にあること。


それを全部話して、追いかけっこをした。


「……そろそろ、戻ろうか」


「そうね…」


リーネが立ち上がり、服の埃を払った。


フレスが肩に飛び乗り、クロが先行して走り出す。


もう一度だけ、振り返った。


滝が変わらず白い水を落としている。


虹がかかって、水飛沫が光る。


この滝は、リーネと追いかけっこをした場所で、アクロスがクロと眠った場所で、

二人で秘密の話をした。そして魔王への第一歩を踏み出した場所だ。


このことは、二人しか知らない。ここは俺達の秘密基地だ。


この場所は大事な場所になった。


今日、本当の意味でアクロスの異世界生活が、始まった。


ここからゆっくりと、世界は変わり始める。


多くの命が、運命が、自分の「世界」を守るために動き出す。

いや、すでに動いているのか。


「行くか、リーネ」


「うん」


二人と二匹が森の奥へ歩き出した。


足音が重なり、影が伸びる。


夕暮れの光の中で、白い太陽がぽつんと最後に光って、それから消えた。


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