英雄譚 第二章 狩人セルジュ
朝霧が、谷の底に溜まっていた。
冷たく湿った朝だった。
セルジュは、中継小屋の外の切り株に座って、乾いた布で弓弦を拭いていた。
指先が、朝の冷気で強張っていた。
それでも手を止めなかった。狩人の手は、冷えで止めてはいけない。
動かしながら温めるのが父に教わった作法だった。
先程までいた小屋の中は、静かなものだった。
昨夜、九人の魔族が、一週間ぶりに屋根の下で眠った。
子供たちの寝息が小さく規則正しく、聞こえていた。
セルジュはその寝息を背中で聞きながら、中でも変わらず弓の手入れをしていた。
無事、届けた。
今日からは、次の仕事だ。
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ヴァルフが、小屋の裏手から姿を現した。
獣人の血が半分混じった男の金色の瞳が、朝霧の中で一度だけ光った。
耳の先が微かに動いた。朝の風を、聞いている。
ヴァルフはセルジュの隣の切り株に、黙って腰を下ろした。
しばらく二人とも、口を開かなかった。
朝霧がゆっくりと谷底を動いている。
遠くで鹿が一度、鳴いた。
「セルジュ、カルマまであと半日だ」
ヴァルフが、低く言った。
「イリアが門の外で待っている。受け入れの準備は整ってる」
「あぁ、助かる」
「爺の足と男の火傷はイリアが見れば治る。時間はかかるが、ちゃんと治る」
「……そりゃあ、良かった」
「今回も無事終われば通算三十人だ。おめでとう」
ヴァルフが言った。
セルジュは弦を拭く手を、止めなかった。
「まだ三十人、か」
「素直に喜べないか?」
「俺はそれを喜んではいけない男だ。何人助けても。それは変わらない」
セルジュは弓弦を指先で弾いた。
乾いた音が朝の空気に一度だけ響いて、消えた。
「お前達は喜んでいいんだぞ。付き合ってくれてありがとう」
ヴァルフは、黙って頷いた。
それ以上は、何も言わなかった。
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魔族九人がカルマの門をくぐるのは、今日の昼過ぎだ。
そこから先は、ヴァルフとイリアの仕事になる。
セルジュは、門までは付き添わない。
今までもそうしてきた。
見届けたら、すぐに次の焼け跡に向かう。
救った魔族たちの顔は覚えない。
覚える資格もない。感謝される謂れもない。
覚えてしまえば、次の仕事が重くなる。
だから覚えない、と決めている。
小屋の扉が内側から開いた。
ラシルが出てきた。
昨夜、交代で見張りに立っていた仲間だ
目の下にわずかな疲労の影が残っている。それでも歩き方はしっかりしていた。
「みんな、ちゃんと眠れていたわ」
ラシルが、短く言った。
「末の子が夜中に一度泣いたけど、母親が抱いたらすぐに寝た」
「そうか」
セルジュは弦を拭き終え、弓を膝の上に横たえた。
「ラシル。一つ聞いていいか」
「どうしたの?」
「俺たちがやってることを、お前はどう思う?」
ラシルが切り株に腰かけようとして、止めた。
セルジュの顔を、横から見た。
「あんた、今さらそれを聞くの」
「聞いてみたくなっただけだ。お前達はあっさりしすぎだ。
何も聞きゃしない。語りたがらないやつらばかりだ」
ラシルはしばらく黙っていた。
それから朝霧の向こうに目を向けた。
遠くにカルマの町を囲む山の稜線がかすかに見え始めていた。
「それはあんたも同じだと思うけど」
ラシルが、言った。
「家族が共に一つ屋根の下で眠れる夜を取り戻した。
それをどう思うも何もないでしょ。当たり前のことを当たり前にしているだけよ」
「……それは、そうだな。お前のいう通りだ」
「セルジュ。あんた、疲れてんじゃない?」
「疲れてはないさ」
「ならいいけど」
ラシルは、腰を伸ばして小屋の方に戻った。
扉の手前で、一度だけ振り返った。
「あたしも、ヴァルフも、他の皆も、今はあんたと同じ朝を生きてる。
それだけよ。覚えておいて」
それだけ言って、ラシルはまた小屋に入っていった。
セルジュは、弓を背負い直した。
ヴァルフが隣で金色の瞳を谷の奥に向けていた。
二人とも、しばらく動かなかった。
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セルジュが、一人になったのは、それからしばらく経ってからだった。
ヴァルフは一家をカルマまで送り届ける準備のために、小屋の中に戻った。
ラシルは近くの自分の家に戻る。道はセルジュとは逆方向だった。
セルジュは切り株に座ったまま、朝霧が晴れていくのをじっと見ていた。
谷の奥の稜線が、はっきりと見え始めた。
空が、薄く青くなった。
その青の中に一羽の鳥が北東の方角へ、ゆっくりと飛んでいくのが見えた。
セルジュは鳥を目で追いながら、半年前のことを思い出す。
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半年前。
デモニア高地。魔王城地下。
そこは厨房だった。
煮込みの鍋が竈の上で、まだ湯気を立てていた。
セルジュは思う。
魔王達も当然飯は食うだろう。
しかも俺達と何ら変わりない。ごく普通の昼飯だ。
木の椀にスープ。塩漬けした肉。パンと野菜。
食事の跡がテーブルの上にそのまま残っていた。
セルジュが扉の前に着いた時、聖騎士アリシアがすでに部屋の中にいた。
白銀の甲冑。腰まで届く金髪。
その手に握られた長剣が、静かに下ろされていた。
アリシアは、動かなかった。
ただ部屋の奥を、じっと見ていた。
セルジュも彼女の視線を追って、部屋の奥を見た。
食器棚があった。そしてその隣。
木箱と壁の隙間に影があった。
小さな影が二つ、身を寄せ合って、震えている。
上の子が、下の子をかばうように前に立っている。
上の子は五歳くらいだろう。
角がまだ短く、黒曜石の光沢を持ち始めたばかりだった。
下の子は、二歳か三歳。角は柔らかくて、乳歯のようだ。
上の子の目がアリシアの顔を、じっと見ていた。
何故こんなことになっているか「わからない」顔だった。
だが、危険を感じているのか。下の子を守ろうと手を広げて立っている。
アリシアの剣を握る手が震えていた。
指には微かに光が灯りだした。
セルジュはそれを見ていた。
二十五歳のこの生真面目な聖騎士の顔から血の気が引いていた。
長剣の切っ先がかすかに震えながら、床を指していた。
セルジュは一秒で、自分がとるべき行動を、決めた。
そしてアリシアに声をかける。
軽く、しかし確かな重さで。
「アリシア。上でライゼルが呼んでる。ここは俺に任せな」
兄貴分の声で、セルジュは言った。
そしてアリシアが、振り向いた。
翠の瞳がセルジュを見る。何かを言おうとして、だが言葉にならなかった。
セルジュはアリシアの肩を、そっと扉の方へ押した。
「こういうのは、俺の仕事だ」
アリシアはセルジュの顔を、見ていた。
二秒。三秒。
それから、目を伏せた。
「……セルジュ」
「何も、言うな」
セルジュが短く遮った。
アリシアは、一度だけ、頷いた。
それから、部屋を出た。
白銀の甲冑の背中が、廊下の奥へゆっくりと歩いていった。
足音が階段を上っていくのが、聞こえた。
それからセルジュは部屋の奥へ、歩いた。
短剣を腰から抜く。
わざと金属の音を立てて、鞘から抜いた。
そして腰を落として、上の子の目の高さまで顔を下げた。
「よく聞け」
低く、早口で言った。小声だが切迫した声だった。
「俺がお前達を殺したことにする。お前達は今から殺されたように声を上げろ」
上の子が、理解した目をした。
子供とは思えない、深い目だった。
「よし、上の階まで聞こえるように声を上げろ」
上の子が、下の子を抱えた。
そして、声を上げた。
下の子もつられて泣き声を上げた。
「奥の勝手口から、外に出れるんだろ? 早く逃げな」
セルジュは、食器棚と壁の隙間の逆の方向に短剣を振り下ろした。
木の椀が弾けて割れた。
音が階段まで駆け上がっていった。
アリシアが途中で足を止めたのが伝わる。
そして二人の魔族は奥へ走り去る。
小さな背中が暗がりに消えていった。
セルジュは自分の腕を、短剣で浅く切った。
血を壁に擦りつけ、短剣の刃にも塗り、頬にもわずかに付けた。
この全てを十秒程で済ませた。
そして部屋の入り口で、一度深く息を吐いた。
それから、階段を上った。
上の階に出ると、アリシアとファビアンとエレーナが廊下で待っていた。
アリシアは、セルジュの顔を見なかった。見られなかった。
廊下の壁を、ただじっと見ていた。
「――片づけた」
セルジュは言った。
声は軽かった。だが、顔は少しだけ伏せていた。
アリシアは、頷かなかった。
ただ小さな声で言った。
「……ありがとう」
それだけだった。
フォビアンは何も言わなかった。
エレーナは手を組んで、小さな祈りを口の中で呟いていた。
「さて、行くか。ライゼルが待ってる」
いつもの兄貴分の笑顔で。
誰も気づかなかった。
セルジュはこういう男だった。
勇者パーティの旅が始まった時から、そして、終わった後も。
セルジュは変わらない。
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あの日の夜、勇者パーティーは王城の庭で勝利の杯を交わした。
ライゼルが真ん中に立って、酒を掲げた。
セルジュは笑って飲んだ。腹から飲んだ。
だが笑顔で酒を飲みながらも、セルジュは確信していた。
この旅は最初から、間違っていたのだと。
最初の集落を通過した時に気づいた。
山の中の、名もない魔族の村。
共通語が片言の老人が、杖を突いて、セルジュたちを迎えた。
「戦いは、ここにはない」
老人はそう言った。
「わしらはただ、ここで暮らしているだけだ。ずっと昔から」
畑があった。鶏小屋があった。魔族の子供が、
土の上で泥だらけになって遊んでいた。
魔王軍の砦でも、人間を襲う拠点でもなかった。
ライゼルは、村の長老に王国からの命令書を見せた。
ここは魔の巣。魔の砦であると聞いている。
老人は、困った顔で首を横に振った。
「わしらは魔王の民ではない。魔族であることと、魔王に従うことは別の話だ」
ライゼルは数秒、黙った。
それから、「ここは通り過ぎる」とだけ言った。
パーティーはこの村を素通りして、北へ進んだ。
その村は焼かれなかった。少なくともその時点では。
だが、セルジュはその時から気づいていた。
王都から運ばれてきた「魔王軍の脅威」の情報が、目の前の現実と全く違っていたことに。
王都では、魔族は悪として描かれていた。
だが旅の中で見た魔族は、人間と同じようにただ暮らしていただけだった。
どこでその齟齬は生まれたのか。 誰がその嘘を流したのか。
目的は一体何なのか。
セルジュは、狩人の目で旅の全景を冷静に見ていた。
パーティ全員がまだ物語の中にいた頃からセルジュは、
一人で別の地図を描き始めていた。
魔王城の地下で二人の子供を見たあの瞬間、地図は完成した。
討伐を完了させる。それまでは仲間の一人として振る舞う。
ライゼルの背中を、最後まで見届ける。
この男もまた放ってはおけないのだ。救ってやらなければいけない男だ。
だが、王都に戻ったら全てを一旦、手放す。
そしてセルジュはその通りにした。
魔王討伐が終わり、王都で褒賞の儀式があり貴族達の宴があり、
セルジュはその全てを受けた。
笑って、飲んで、騒いだ。
そして次の朝、誰にも告げずに一人で王都を出た。
剣も、褒賞の金も、白金のギルド証すらも、全部王都に置いてきた。
持っていたのは、長弓一張りと短剣一本と矢筒一つだけだった。
そしてセルジュは故郷の猟村、レドヴィアに顔を出した。
父ゴーデンは、帰ってきた息子に何も聞かなかった。
「帰ったか」
とだけ言って、昔のように一緒にまた暮らし始めた。
セルジュが帰って一週間ほど経ったある夜、
父が囲炉裏の前で煙草を吸いながら、言った。
「お前は鹿を見ても、もう撃たなくなったな」
セルジュは答えなかった。
「次は、何を撃ちに行くんだ」
父が静かに聞いた。
セルジュは、ただ火を見ていた。
それから答えた。
「もう撃ちには行かない。次からは守りに行くんだ」
父はしばらく、煙を吐いていた。
やがて、言った。
「気をつけて行け」
それだけだった。
翌朝、セルジュは家を出た。
それから五ヶ月が経った。
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最初の一ヶ月は、噂や情報を集めた。
中央回廊を歩き、酒場と宿と街道で、魔王がいなくなった後の世界を見た。
ただの一人の旅人として、自分の足と目で、確かな情報を拾っていった。
そして知った。
王国の騎士団や軍が、正式に魔族狩りの部隊を編成していた。
集落の位置情報を持っているのは、闇市場の商人達だった。
グラザの南にいるガドラという男の名を、セルジュは二度、耳にした。
ガドラの商会が魔族の角と捕らえた魔族の取引に関わっているらしいという噂。
セルジュはその名前を、頭の中に刻んだ。
だがガドラには、まだ手を出さない。
大物を叩くにはまだ早い。今は目の前の一人を救う方が先だ。
二ヶ月目、最初の焼け跡に一人で入った。
黒く焦げた家。焼け残った陶器の欠片。何もかも焼かれている。
しかし、死体は一つもない。全て、回収しているのか。
焼け跡に広がる数々の足跡を、狩人の目で読んだ。
アルセイド軍の靴跡。その移動方向。その痕跡は追わない。
魔族の生存者の足跡を探す。小さい。子供の足跡だ。
獣道に沿って、北へ。
セルジュは二日かけてその足跡を追った。
そして森の中で、ただ震えているだけの魔族の子供を見つけた。
一人で腹を減らして、動けなくなっていた魔族の少年だ。
セルジュは弓を下ろし、膝をついた。
「お前、腹減ってるだろ」
短剣を抜くと少年は、「殺すなら早くしろ」と震える声で言った。
セルジュはわっはっはと笑った。
獲物を仕留める笑いではない、ただの兄貴分の笑いだった。
「俺の短剣は、干し肉を切るためのものだ。とりあえず食えよ」
短剣で干し肉を切って、少年に差し出した。
少年は最初は警戒した。それから、泣きながら食べた。
セルジュは何も言わず、少年が食べ終わるまで隣に座っていた。
そしてまずはその少年を、西部族の拠点カルマに連れていった。
ヴァルフが、拠点の扉の前で見張りをしていた。
「セルジュか。久しぶりだな」
「あぁ、お前達に話したいことがあるんだ。聞いてくれないか」
「もちろんだ。まずは飯を食おう。それが俺達の流儀だ」
西部族は、もともと魔族や獣人など異種族間でも通婚の歴史がある地域だった。
ヴァルフはカルマの長老達の元にセルジュを連れていった。
長老達はセルジュの話を聞き、魔族の保護を受け入れると決めた。
セルジュが魔族の生き残りを探し、運ぶ。そして西部族が受け入れる。
三ヶ月目、セルジュは一人の獣人混血の若者を西部族の拠点から引っ張り出した。
カーンという男だ。
冒険者時代のセルジュとカーンは何度か仕事を共にしたことがあった。
当時、セルジュは二十八歳。カーンは二十四歳。
セルジュは獣人混血であるカーンを、他の冒険者と全く同じように扱った。
それだけのことだったが、カーンには忘れられない記憶になっていた。
「セルジュ、また仕事に一緒にするか。お前との仕事は楽しい」
カーンが琥珀色の瞳で、セルジュを見た。
「そう言ってくれると思っていた。俺と組もう。カーン」
セルジュは、笑って、手を差し出した。
カーンは、頷いてその手を強く握った。
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四ヶ月目、セルジュは冒険者仲間に順に声をかけ始めた。
一人目は、ブランだった。
南の宿場町で宿屋を営んでいた元斥候。セルジュの五年来の相棒だった。
セルジュが宿屋を訪ねたのは、夕暮れ時だった。
ブランは、カウンターの奥で、帳簿をつけていた。
セルジュが扉を開けて入った時、ブランは顔を上げて数秒、動きを止めた。
「座れよ。セルジュ」
ブランはそれだけ言って、カウンターの前の椅子を指差した。
セルジュは座った。
ブランは裏から酒を二杯持ってきた。グラスを一つ、セルジュの前に置いた。
「話を聞こうか。セルジュ」
ブランが言った。
セルジュは、話した。
王都での違和感。魔王城地下の子供達。離脱してからの四ヶ月。西部族との連携。
ブランが全部を聞き終わってからグラスを置いた。
「お前が俺のところに来たということは、俺に仕事をしろ。ということだ」
「あぁ。頼むよ」
「何をすればいいんだ?」
「情報を集めてほしい。王国軍の動き、闇市場の流れ、焼け跡の新しい情報。
俺が動く前に、まず、お前を通す」
ブランが、頷いた。
「承知した」
それだけ、だった。
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二人目はラシルだった。
夫を五年前の魔物討伐で失い、それ以来一人で北東の小さな村で鹿の革を扱って生きていた女だった。
セルジュが訪ねた日、ラシルは納屋で鹿の革を鞣していた。
セルジュを見た瞬間、ラシルは手を止めた。
数秒、顔を見合わせてラシルが言った。
「魔族狩り、か」
「お前達は皆、話が早すぎるんだよ」
セルジュは笑いながら言った。どいつもこいつも。
「あんたの顔を見ればわかるさ」
ラシルは手を洗い、セルジュに向き直った。
「それで、何をすればいいの?」
「移送の中継地だ。ラシルのところに三日泊めて、容体を見て順次、西部族に引き渡す」
「わかった。使っていいよ」
ラシルが、即答した。
「ただし一つだけ、言っておく」
ラシルが、セルジュの目を見た。
「あたしは殺すよ。必要ならどんなやつでも敵なら殺す。迷わない。
それを覚悟した上で来てるなら、あたしも行く」
セルジュは、頷いた。
「もちろんだ。もう覚悟してる」
「なら、決まりだ」
ラシルも、頷いた。
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三人目は、ギルだった。
街道筋の酒場の主人。ギルも元冒険者仲間だ。
セルジュが訪ねたのは、酒場の閉店後だった。
「よう。ギル」
セルジュはギルの店に入っていった。
「常連みたいに入ってくるな。お前、三年ぶりだぞ」
ギルはカウンターを拭きながら、ぶっきらぼうに返す。
だが口の端は上がっている。
「ギル。話を聞いてくれないか」
「わかったわかった。勝手に喋れ。片付けの手は止めんぞ」
話を聞き終わるとギルは、盆を置いてセルジュを正面から見た。
「俺の酒場を、魔族の避難所に使うってことか」
「あぁ。だが必要な時だけだ」
「俺が魔族を匿ってるとバレたら、この酒場は終わりじゃねぇか」
「そうなる可能性は、あるな」
ギルはしばらく黙った。
それから不意に顔の皺を崩して笑った。
「セルジュ。お前、俺が酒場を始める前に積もり積もった借金に追われてた時の話、覚えてるか」
「お前と俺で、借金取りを二十人まとめて河に落として流したあの夜のことか」
「そうだ。それだよ。今でも笑える話だ」
ギルが笑った。大きな開けっぴろげな笑いだった。
「お前が困ってる時に、俺が断るわけないだろう」
そして話はまとまった。
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そして、仲間が、ようやく揃った。
冒険者時代から付き合いのある仲間達。
ブラン、ラシル、ギル。ヴァルフ、カーン。
五人が協力してくれることになった。
そして西部族からはイリアというハーフエルフの女が受け入れ窓口として協力してくれることになった。族長の娘だ。
人数としては少ない。だが信用度が違う。
そこからはおよそ二カ月。少しずつ作戦を実行していった。
細かいことは何も聞かない。そして語りたがらない仲間達は、
昔と変わらず、確かな仕事でただ、応えてくれた。
一人、そして時には二人、三人ずつ。
少しずつだが確実に命を守ってきていた。
そして今回の九人というまとまった人数の魔族の移送は今回が初めてだった。
だが無事に、通算三十人目を届ける朝が来た。
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朝霧はほとんど晴れていた。
セルジュは切り株から、ゆっくりと立ち上がった。
空が青く染まり始めていた。
白い太陽が、東の稜線から姿を見せ始めていた。
セルジュは、長弓を背負い直し腰の短剣を確かめた。
中継小屋の扉を一度だけ振り返った。
扉の向こうに九人の魔族が眠っている。
あいつらの顔は、覚えない。
覚えるのは無事にあいつらを送り届けた、という事実だけだ。
セルジュは扉に向けて、軽く手を挙げた。
それは誰にも見えていないが、セルジュからの「あいつら」への挨拶だった。
そしてセルジュは街道の方へ、再び歩き出した。
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街道に出る前に一つ、休憩所があった。
旅の商人が二人火を囲んで話しているのが見えた。
セルジュは何気ない顔で、腰を下ろして自分も火の端に加わった。
商人の一人がセルジュに目を合わせて軽く頷いた。旅人同士の挨拶だった。
セルジュも頷き返した。
朝の寒さが、指先に残っていた。
雪の季節が、もうすぐ始まる。
道中が厳しくなる季節だ。
その前にあと何人運べるか。
セルジュは、それだけを考えていた。
商人達が火を離れた後、セルジュも立ち上がった。
長弓を背負い直した。
街道を、東に向かって歩き始めた。
朝の光が、街道の東側の木々の先端を金色に染めていた。
遠くの空に、霧の最後の名残が残っていた。
セルジュは歩きながら、口笛を吹いた。
低く短い、森の鳥の鳴き真似だった。
それは狩人の癖だった。
それはいつも、機嫌の良い時に出る口笛でもあった。
セルジュは一人で歩き続ける、その背中はただ、まっすぐだった。
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西の山の麓、カルマの町で。
九人の魔族がヴァルフに導かれて、門をくぐろうとしていた。
そしてそこから東の街道を。
狩人セルジュが一人、次の焼け跡を目指して歩いていた。
セルジュとアクロス。二人はまだ交わらない。
だが彼らもまた、同じ朝の光の下にいる。
次なる運命の交錯もまた、近いのかもしれない。
風が、街道の枯れ草を揺らした。
実りの季節の日々が、静かに、確実に、終わろうとしていた。




