三十三話:闇
カチャン、と。輸血袋の吊り下がったスタンドが動く。
「……アイ?」
ベッドの上で上体を起こした彼女は、まだ少し青白い顔色のままぼんやりとしていた。ただ、その眼はどこか遠くを見ていて、こちらの声に反応するでも無い。まるで空の器のようにも見えてしまった。
「アイちゃん、おはよう。気分はどう?気持ち悪かったりしない?」
パフィの声にも反応は無い。
ボーディは彼女に近づき、怪我をしていない方で彼女の手を握る。
……冷たい。人間の手は、こんなにも温度を失くせるものなのか。
それでも彼は、彼女に笑ってみせた。
「アイ……エリオラさんを、探そう。鍵を見つけたんだ。きっと、エリオラさんに会えるかもしれない」
初めてその指が動いた。
それは初めて彼女を保護した時と同じ、弱弱しい動きだったけれど。安堵したボーディは、彼女の方を向き直る。
アイは――真っ直ぐとボーディを見つめ返していた。
その右眼を、薄く輝かせながら。
「……アイ?ッ……!」
強烈な耳鳴りと頭痛が彼を襲った。後ろでベッドが僅かに動いた辺り、恐らくリンクスも同じ苦痛を受けている。
アイは、今にも泣きだしそうな顔だった。呼吸が浅い。こちらを見ている筈なのに、その焦点がどこか合っていない。
……ドリス。これが、君の理解出来なかったものか?
いや……仮にアイが、本当の記憶を思い出していたとして。今、彼女は何を思い出している。何に怯えてる。何が、この子をここまで追いつめている。リンクス以外の声が、何かを言っている。それらが頭の中で反響するように聞こえて。あぁ、もう、本当に……心底気持ちが悪い。
——だと、しても。
折角エリオラさんの情報を見つけたんだ。
ようやく彼女の願いが届きそうで。
やっと、自分にも出来そうな……自分を納得させられる答えを出せそうなんだ。
だから――ごめん、アイ。今はまだ、本当の君へ向き合う為に、どうしたらいいのか分からない。でもきっと、必ず、向き合ってみせるから。
それからリンクス……一瞬だけだ。終わったら気の済むまで殴ってくれ。でも頼む。もう少しだけ、僕の我儘に付き合って欲しい。ごめん。
「……N.E.E.D——止めてあげて」
視界に稲妻のような閃光が走った。頭の激痛に視界が暗転する。
何秒の間か……分からない。気持ち悪い。
恐らく、彼女の布団の上に突っ伏してしまったのだろう。吐きそうだ。
しかも、鼻の辺りが何やらヌルつく。なんで?どうでもいい。吐かせて欲しい。自分は誰だ?名前は――ボーディ。大丈夫……ボーディ・クルス。
顔を上げれば、鼻血が彼女の布団を汚してしまっていた。
さっきよりもハッキリする声で、トーマンとパフィの声がする。
「おい、ボーディ!どうした!おい!」
「ジェイク!急いで医療班を呼んできて頂戴!」
「……いい。いら、ない……僕より……リンクスをお願い……」
「はぁ!?何言ってんのよ!」
「そーだー!あたしはいらねー!さっさと用済ませー!」
……化け物め。ちょっと上ずってるくせに、何強がってるんだ。
震える足で、何とかベッドに腰かける。
アイの方を向けば、彼女は何が起きたのか分からないと言った様子で辺りを見回していた。どうやら、平常に戻ってくれたらしい。
安堵と同時に、彼女の手をぎゅっと、硬く握る。
勝手なAI達に離すなと言われたからじゃない。
ただ……これが、今の自分に出来る事だと。そう思っただけだ。
「……ア、イ……」
「ボーディ、さん……どう、したんですか?どこか、具合が悪いんですか……?」
「……寝不足、かな。ははっ……ねぇ、アイ」
「はい……」
「エリオラさん……多分、もうすぐ会えるよ。だからさ……ちゃんと、話、しに行こうよ……ね?」
アイは何も言わない。
また小さく息を吸い込んで、一瞬だけ表情を変えたけれど、それはすぐに笑みに変わって。
精一杯の、ぎこちない、そんな顔。
一瞬の……静寂を迎え。
―—彼女は、ボーディを抱きしめた。
それが彼の覚えている、病室での最後のやり取りだった。
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