命を懸けた誓い
酒場から連れ戻した薄暗い寝室。
二人きりになったその刹那、モネの甘ったるい嬌声は消え失せ、衣服の奥からギラリと光る猟ナイフが抜き放たれた。
――チリッ、と硬い金属音が響き、冷たい刃先がウィリーの頸動脈へと完璧な角度で突き立てられる。わずかでも動けば、その喉元から鮮血が噴き出す絶体絶命の距離。
だが、ウィリーはハットを被ったまま、慌てる素振りなど微塵も見せず、唇の端を吊り上げて愉しげに笑みを浮かべた。
「……おいおい。今夜のサービスは、随分と手荒いじゃないか。一体、何の真似だ、モネ」
「――もう二度と、フランに手を出さないで」
モネの声音は、この世のすべての温度を奪い去ったかのように冷徹だった。刃を握る指先が、怒りと恐怖でわずかに震え、ウィリーの首の皮膚を薄く擦る。
「今度あいつの前に現れて、あいつの大切なものを脅かしたら……私は、あなたを本気で殺すわ」
「ははっ……! 2回で殺されるのか。神様だって、もう少し罪人には寛容だと思うんだがなぁ?」
ウィリーは首筋に刃を押し当てられたまま、喉を鳴らして豪快に笑った。だが、モネの瞳に宿る暗い光は、微塵も揺らがなかった。
「一度過ちを犯した奴は、また必ず犯すのよ。……約束して、ウィリー。あいつに、もう二度と関わらないと」
「……」
「お願い……っ」
刃を突き立てたまま、モネの細い喉の奥から、今にも泣き出しそうな、引き裂かれるような悲鳴が漏れた。
「やっと……。あいつが、暗殺者としての地獄を抜けて、やっと手に入れた安息の場所なのよ……。あの宿屋の仲間たちと過ごす時間だけは、お願いだから、絶対に壊さないで……っ!!」
自分の命など最初からどうでもよかった。ウィリーにここで返り討ちにされて死体になっても構わない。
ただ、かつて自分が壊してしまったフランの幸せを、今度こそ守り抜きたいという、彼女の狂気的なまでの純愛。
ウィリーは彼女のその、血を吐くような本音を正面から受け止め、ただ静かに「……あぁ、分かったよ」と、その大きな手を挙げたのだった。
宿のベッドの上で、モネは旅の疲れに身を任せるように、すやすやと穏やかな寝息を立てて眠っていた。窓から差し込む青白い月光が、彼女の美しい銀髪を妖しく照らし出している。
ウィリーはハットを傍らに置き、煙草の煙を静かに天井へと吐き出しながら、その無防備な彼女の髪を、大きな、無骨な指先で優しく何度も撫で上げた。
――思えば、すべてはあの日から始まった。
三年前、あの完璧な暗殺兵器だったフランが組織から忽然と姿を消し、一人きりで取り残されたこいつは……今にも壊れてしまいそうな、ひどく怯えた顔をしてゴミ溜めに佇んでいた。
裏社会は、牙を失った孤児の女に優しい場所じゃない。周りの下劣な男たちから、いつどんな玩具にされてもおかしくない、絶望的な状況だった。
だから、俺は声をかけたんだ。
『――おい。俺と、組むか?』
組織の誰もが恐れ、忌避する俺からの、死への誘い。当然、恐怖して断られるか、あるいは絶望を深めるだけだと思っていた。
だが、こいつは違った。俺の言葉を聞いた瞬間、モネの暗かった顔に、まるで暗闇のなかにぱぁっと大輪の花が咲き誇ったかのような、信じられないほど眩しい笑顔が広がったのだ。
こいつはボロボロと涙を流しながら、嬉しそうに、弾まれたように何度も思いきり頷いていた。
俺とバディを組んだ奴は、例外なく、すぐに死ぬ。これまで、どれほどの相棒の『死体』をこの目で見届けてきたか、もう数えることすら忘れてしまった。いつしか俺の心は摩耗し、横にいた男が肉片に変わっても、悲しいという感情の前に、『ああ、またか。ツメが甘いからだ』と、冷徹に処理するだけの人形になっていた。
周りの連中は俺を気味悪がり、誰も俺の視線の先に入るのすら嫌がった。
――なのに、なぜあの時、俺はこいつを自分の隣へと引き入れたのだろう。自分の内面をどれほどプロファイルしてみても、本当の理由は今でもよく分からない。一人で泣いている姿が可哀想だと思ったのか、それとも、ただのいい女だから自分の所有物にしたくなったのか、あるいは……何も考えていなかったのか。
ウィリーは眠るモネの細い首筋にそっと手を触れ、唇の端を歪に吊り上げて冷たく笑った。だが、あの日から三年間、この銀髪の娘だけは、俺の隣でどれほど凄惨な返り血を浴びても、未だに死体にならずに生き残り続けている。
こいつは、フランのことを好きだった。……いや、そんな生温かい言葉じゃない。命のすべてを賭けて、あいつを愛していたのだ。
本当は……本当はモネだって、さっき酒場で見たあの無垢な少女のように、フランの傍らでただ等身大に笑っていたかったはずだ。フランのように血塗られた手を洗い流し、最初から何もなかったかのように、光の差す穏やかな笑顔を浮かべたかったのだろう。
――あいつらが生きる、あの汚れのない『白い世界』へ、本当は行きたかったに違いないのだ。その時、ふっとモネの長い睫毛が揺れ、綺麗な瞳が開かれた。彼女は驚くこともなく、ただ愛おしそうに微笑みを浮かべて、じっとウィリーを見つめてくる。
ウィリーは彼女の銀髪を撫でる手を止めないまま、胸の奥から絞り出すように、思わずぽつりと呟いていた。
『……お前の、本当に行きたい場所に。……行っていいんだぞ、モネ』
自分の口から出たはずの言葉だった。だが、それを口にした瞬間、ウィリーは鏡を見ずとも、自分が今、これまでにないほど苦しく悲痛な表情を浮かべていることに気づいてしまった。
――行かせてやりたい。だが、失いたくない。
冷徹な怪物の心が、初めて無様にきしむ。モネはそんな彼の弱さを見つめ、どこか哀しげに、しかしひどく優しく笑った。
「……バカね。あなたのそば以外に、私のいたい場所なんて、世界のどこにもないわよ」
「――俺の隣は、死ぬ奴ばっかりだぞ」
ウィリーは視線を背けるように喉を鳴らした。
『なんだ、そんなこと』
モネはふふ、と鈴を転がすように軽やかに笑ってみせた。
「ねえ、気づいていなかったの? 3年間もこんなに一緒にいるのに、あなたはまだ分かっていないのね」
「……何がだ?」
「あなたの歴代の相方たちはね――みんな、あなたに生きて欲しくて死んだのよ」
――ドクン、とウィリーの心臓が不気味に跳ね上がる。
『自分かあなたのどちらかしか生きられない極限状態になった時、彼らは全員、自分の命を盾にしてあなたを守った。それは彼らの銃の腕が悪かったからじゃないわ。そうしないと、あなたを助けられなかったからよ。
……3年間、あなたの隣にいて、私には亡くなった先先輩たちの気持ちが痛いほどよく分かったの。あなたはね、どんなに世界を呪っても、生き続けるべき人間なのよ』
「……こんな、血塗られた俺が、か……?」
ウィリーはハッとした顔になり、息を呑んでモネを凝視した。呪われた孤独の正体が、すべて自分への「愛ゆえの自己犠牲」だったという衝撃。
だがすぐに、彼の脳裏を凄まじい恐怖が襲った。
「じゃあ……お前も、いつか俺を庇って、死ぬのか?」
「私は死なないわ」
モネは笑顔を浮かべ迷わず答えた。
「……フン、そうか。俺が死んでも守りたいと思うほどの相手じゃねえ、ってことか」
ウィリーは自嘲気味に、歪な笑みを浮かべてほくそ笑む。だが、モネはウィリーの大きな手を、自分の細い両手でぎゅっと、強く握りしめた。
『――死んでも守りたくないわ。……私はね、生きて、あなたのそばにいたいの』
窓から差し込む鋭い月光が、二人の重なる手を黄金色に優しく照らし出していた。死を以て完結する裏社会の絆を拒絶し、生きて隣に居続けるという、少女のあまりにも気高く、傲慢なまでの愛の誓い。
ウィリーはただ無言のまま、彼女のその温かいぬくもりを、痛いほどに抱きしめ返すしかなかった。




