残された名前
隠し階段を下りきった先、地下鉱脈の奥深くに広がる空間。そこには、ごく最近まで人がいた気配――まだほのかに温かいコーヒーの残ったマグカップと、煙を上げ終えたばかりのオイルランプが残されていた。
「……ほんの数十分前まで、ここにいたわね」
アリスが冷徹な瞳で周囲を検分し、机の上に置かれた一枚の羊皮紙を指し示された。
「……すれ違いか……。親父さん、逃げるの上手すぎるな」
トニーが苦笑いしながら頭をかく。
トーマス・スペンサー。銃の腕や類稀なる身体能力だけでなく、追手の心理を完璧に読み切り、張り巡らされた網をことごとく潜り抜ける「圧倒的な知能」を持った男。
ハーバートがため息交じりに言葉を吐き出した。
「メアリーさんのお父様は、愛する娘を自分が追っている恐ろしい闇……、つまり悪徳鉱山会社と裏社会の巨大な陰謀に決して巻き込ませないためなんでしょうね……」
「……きっと最初から全部分かってたんだよ」
フランが二挺拳銃を腰に収め、感心したようにため息をつく。
「自分が追われていること、そして……万が一、メアリーちゃんが追いついてきた時のために、一番安全な逃げ道を作ってから先に去ったんだ。敵を翻弄しながらね」
「父さん……」
メアリーはゆっくりと机に歩み寄り、そこに残された羊皮紙を手にとった。
そこには、追手を混乱させるための偽の解読コードと、最後の一行にだけ、乱暴だが力強い筆致でこう記されていた。
『――我が愛しの、ちびっこ保安官へ。これ以上は先に進んではならない。おとなしくお家に帰りなさい――』
「……ッ!!」
その言葉を見た瞬間、メアリーの瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
『ちびっこ保安官』
それは、メアリーが幼い頃、お父さんの真似をしておもちゃのバッジを胸に付け、街を駆け回っていた頃に、お父さんだけが呼んでくれた世界でたった一つの「懐かしい愛称」だった。
「メアリーさん……っ!?」
ベイルが慌てて顔を覗き込む。
「……ううん……ううん、泣いてないよ……ッ!」
メアリーは袖で力任せに涙を拭うと、手紙をキュッと胸に抱きしめ、太陽のような眩しい笑顔を弾けさせた。
「……父さん、あたしが追ってきてるって気づいてた……! あたしのこと、忘れてなかった……! 『お家に帰りなさい』なんて言われても……ここまで来たら帰れるわけないじゃない……!!」
自分の安全を誰よりも願い、危険から遠ざけようとしてくれる父の深い愛。
会えなかった悔しさよりも、「生きている」「自分を思ってくれている」という確信が、メアリーの胸をどこまでも温かく満たしていく。
「……まったく、どこまでも格好つけたがる父親ね」
モネが優しく目を細める。
「でも、これではっきりしたわ。追う理由は十分すぎるほどある……そうでしょ?」
「……ええ」
アリスが万年筆をポケットに仕舞い、冷たい無表情の奥に、確固たる決意の光を宿した。
「私の依頼主は『トーマスの抹殺』を目論んでいた鉱山会社の幹部……。けれど、こんな温かい手紙を残す人を、ほいほいと差し出すなんて出来ないわ……」
アリスはハーバートの方を向き、淡々と言い放った。
「ハーバート。契約破棄に伴う違約金請求……法的な異議申し立ての手続き、あなたが引き受けなさい」
「なっ……!? なぜ私があなたの違約金の面倒をッ!?」
「……嫌なの?」
アリスの瞳が一瞬だけ、冷たさの中に微かな甘えと無言の圧力を孕んでハーバートを見つめる。
「う……くっ……! 仕方ありませんね! この優秀な弁護士ハーバートにお任せなさい! 完璧な書面で叩き潰してあげますからッ!」
「……ありがとう。助かるわ」
万年筆をカチッと一回だけ、満足そうに鳴らすアリス。
(……やっぱりこの子、メガネのこと好きすぎでしょ)
(不器用な奴らばっかりだな、まったく……)
モネとベイルが顔を見合わせて呆れつつも、笑いを噛み殺した。
「さあ! 父さんはこの地下水脈を使って、別の街へ抜けたみたい! 追うよ、みんな!!」
「「「おおーッ!!」」」
メアリーの元元気いっぱいの号令に、仲間たちの歓声が地下洞窟に力強く響き渡るのだった。




