第三話
私が北の辺境で、ささやかながらも確かな幸福を育んでいた頃。
かつて私を追放した王国は、静かな死の淵に沈みかけていた。
王都を襲った奇病は、その勢いを増すばかりだった。
人々は生命力を奪われ、道端に倒れ伏す。
次代の聖女と謳われたイザベラの聖なる光も、もはや誰一人癒すことはできず、その輝きは日に日に色褪せていった。
だが、本当の絶望は、別のところから忍び寄っていた。
「陛下! 大変です! 王家の象徴である『千年の薔薇』が、ついに完全に枯れ果てました!」
宮廷庭師の悲痛な叫びが、玉座の間に響き渡る。
時を同じくして、国中から凶報が舞い込んだ。
「南の穀倉地帯より緊急の報告! 原因不明のまま作物が育たず、このままでは大規模な飢饉は避けられません!」
「各地の薬草園も壊滅状態です! もはや薬の生成もままなりません!」
国そのものが、命を失っていく。
まるで、土の中から生命力が根こそぎ抜き取られてしまったかのように。
「なぜだ……なぜ、こんなことに……」
玉座に座るリチャード王子は、血の気の失せた顔でうなだれるしかなかった。
彼の隣で、イザベラも青白い顔で震えている。
自分たちの輝かしい未来が、音を立てて崩れ落ちていくのを、ただ見ていることしかできなかった。
そんな絶望のさなか、事態を打開する一つの光が、最も古く、忘れ去られた場所から見出された。
王城の地下書庫に籠っていた宮廷筆頭魔術師が、血眼になって探し出した一冊の古文書。
そこに、この災厄の真実が記されていたのだ。
「見つけましたぞ、王子殿下!」
魔術師は、玉座の間に駆け込むなり、震える声で叫んだ。
「この国は代々、『大地の祝福』によって守られてきたのです! そしてその祝福を大地に与え、維持し続けていたのは、マーガレット公爵家に稀に生まれる『生命を育む力』を持つ者だったのです!」
「……なんだと?」
「その力は、華々しい攻撃魔法や治癒魔法とは異なり、非常に地味で目立たない。しかし、その者が大地に触れ、植物を愛でることで、国中の土壌が活性化し、あらゆる命が豊かに育まれる……。いわば、この国の繁栄そのものを支える、生きた心臓!」
古文書には、こうも記されていた。
――もし、その者が国を去ることがあれば、大地は生命力を失い、国は枯れ果て、やがて滅びるであろう――
リチャードの脳裏に、一人の女の顔が雷に打たれたように浮かび上がった。
『無能』と罵り、役立たずと嘲笑い、国外へ追放した、かつての婚約者。
いつも庭園の片隅で、楽しそうに土をいじっていた、あの地味な女。
「……アリス」
リチャードの口から、か細い声が漏れた。
イザベラも、その名を聞いてはっと息を飲む。
そうだ、アリスがいなくなってからだ。
庭の薔薇が輝きを失い始めたのは。
薬草の効能が弱まり始めたのは。
そして、この国全体がおかしくなり始めたのは。
彼女の力は、『無能』などではなかった。
イザベラの聖なる魔力などとは比べ物にならない、この国の命そのものを司る、真の『奇跡』だったのだ。
自分たちは、その心臓を、自らの手で抉り出し、ゴミのように捨て去ってしまった。
「……すぐにアリスを連れ戻せ!」
リチャードは、狂乱したように叫んだ。
「そうだ、今すぐだ! ヴォルフェン公に使者を送れ! アリス・マーガレットを、ただちに王都へ帰還させよと!」
その声には、後悔や謝罪の色など微塵もなかった。
ただ、失った便利な道具を取り戻そうとする、傲慢な支配者の響きだけがあった。
◇
北の辺境、ヴォルフェン領は、収穫の祭りを間近に控え、活気に満ち溢れていた。
私が育てた作物は、かつてないほどの大豊作となり、領民たちの顔には笑顔が咲き誇っている。
そんな穏やかな午後、王都からの使者が、物々しい騎士団を率いてヴォルフェン公爵の屋敷に到着した。
応接室で、カインと並んで使者と向き合う。
使者の男は、見覚えのある顔だった。リチャードの側近の一人で、私を侮蔑の目で見ていた貴族の一人だ。
彼は、私を一瞥すると、値踏みするような視線を向け、尊大な態度で口を開いた。
「アリス・マーガレット嬢。王子殿下より、貴女に王都への帰還命令が下された。即刻、支度を整え、我々と共に王都へ戻っていただきたい」
あまりにも一方的で、高圧的な物言い。
まるで、所有物を返せと言わんばかりの口調だった。
かつての私なら、恐怖で震え上がっていたかもしれない。
だが、今の私は違う。
私が口を開くより先に、隣に座るカインが、地を這うような低い声で言った。
「断る」
たった一言。
しかし、その言葉に含まれた絶対的な拒絶の意思に、使者の顔がこわばった。
「なっ……ヴォルフェン公! これは王命であるぞ! それに逆らうと?」
「王命? 笑わせるな。貴殿らは、このアリス嬢を『無能』と断じ、罪人のように国外へ追放したはずだ。追放した者に、今さら何の用だ」
カインの冷たい視線が、使者を射抜く。
「そ、それは……国家の危機なのだ! 彼女の力が必要になった! 国のためだ、協力するのは当然の義務であろう!」
使者が必死に言い募る。
その時、それまで黙っていた私が、静かに立ち上がった。
「お言葉ですが」
私の声に、使者とカインの視線が集中する。
「私の力は、このヴォルフェン領の人々のためにあります。飢えと寒さに凍えていた、この地の人々を救うために。あなた方の都合で、この地を離れるつもりはございません」
きっぱりとした私の言葉に、使者は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「この……恩知らずめが! 誰のおかげで、今まで生きてこられたと思っている! 公爵令嬢としての地位も、全ては王国あってのものだろうが!」
その時だった。
応接室の扉が、荒々しく開かれた。
そこに立っていたのは、鍬や鋤を手にした、怒りの形相の領民たちだった。
「アリス様をどこへ連れて行く気だ!」
「俺たちの女神様を、あんたらに渡すもんか!」
「帰りやがれ! ここはあんたらの来るところじゃねえ!」
領民たちは、私とカインの前に立ちはだかり、まるで城壁のように私たちを守ろうとしていた。
病気の子供を救ってもらった母親。
飢えから救われた老人。
私が育てた作物で、初めて満腹を知った若者たち。
彼らが、今度は私を守るために、王の使者に対して牙を剥いている。
「な、なんだ、この者たちは……! 無礼であろう!」
使者が狼狽える。
「これが、この地の答えだ」
カインが静かに告げた。
「アリス嬢は、もはや王国の所有物ではない。我々ヴォルフェン領の、かけがえのない宝なのだ」
さらにカインは、懐から一冊の古い日記帳を取り出し、使者の前に叩きつけた。
「それは、王城に長年仕えた庭師頭の日記だ。そこには、王家の象徴である『千年の薔薇』が、実はアリス嬢の力なくしては一日も咲き誇れない、か弱い品種であったことが記されている」
使者の目が、信じられないというように見開かれる。
「それだけではない。王妃様が愛した『月光の百合』も、リチャード殿下が幼き日に命を救われた特効薬も、全てがアリス嬢の『無能』とされた力によって生み出されたものだった。貴殿らが享受してきた王国の繁栄とは、アリス嬢という一人の人間の、隠された献身の上に成り立っていた、砂上の楼閣に過ぎんのだ!」
カインの言葉が、真実の刃となって使者に突き刺さる。
「貴殿らは、その真実に気づくこともなく、自ら国の心臓を抉り出した。その愚かさの代償を、今さら彼女に支払わせようなど、万死に値するとは思わんか!」
ぐうの音も出ないとは、このことだろう。
使者は顔面蒼白になり、がくがくと膝を震わせている。
最後に、私は一歩前に出た。
そして、かつての弱々しい少女の面影など微塵もない、凛とした声で宣言した。
「お伝えください、リチャード殿下と……イザベラに」
「私は、二度と王都の地を踏むことはありません」
「私の咲く場所は、もうあなた方のいる場所ではないのです。この、私を必要としてくれる人々と、私の価値を信じてくれた、愛する人の隣……ここだけなのです」
私の視線が、隣に立つカインに向けられる。
彼は、何も言わずに、ただ力強く頷き返してくれた。
その瞳には、絶対的な信頼と、深い愛情が満ちていた。
王都からの使者は、何も得ることなく、領民たちの怒号を背中に浴びながら、すごすごと退散していった。
偽りの聖女が君臨する、滅びゆく王国。
そして、本物の女神が微笑む、再生の大地。
世界の価値観が、完全にひっくり返った瞬間だった。
私の手によってではなく、彼らが自ら招いた必然の結末によって。
空はどこまでも青く澄み渡り、豊かな大地の匂いを運ぶ風が、私たちの頬を優しく撫でていった。




