最終話
王国の使者が去ってから、季節は一度巡った。
私が追放された王国が、緩やかに、しかし確実に崩壊の一途を辿っているという噂は、乾いた風に乗ってこの北の辺境にまで届いていた。
大地は完全に生命力を失い、国民は飢え、奇病に倒れていく。
『聖女』イザベラの魔力は枯渇し、王子リチャードの権威は失墜。民衆の怒りと絶望が、王都を暗い炎のように包み込んでいるという。
自らが蒔いた種が、最悪の形で実を結んだのだ。
一方、ここヴォルフェン領は、かつての荒涼とした姿が嘘のように、豊かな緑に覆われていた。
黄金色の麦穂が風に揺れ、色とりどりの果実がたわわに実る。
人々の顔には笑みが溢れ、子供たちの元気な声が響き渡る。
誰もが、この大地が与えてくれる恵みに感謝し、助け合って生きていた。
そんなある日、私は領地の外れにある丘の上にいた。
眼下に広がる豊かな大地を眺めていると、遠くから土埃を上げて近づいてくる一団が見えた。
それは、みすぼらしい身なりをした、痩せこけた人々の列だった。
王国の紋章が入った、しかし今は見る影もなく汚れた旗を掲げた、数人の騎士。
そして、その中心にいる人物を見て、私は息を飲んだ。
リチャード。
そして、その腕に力なくすがるイザベラ。
彼らは、全てを失い、最後の望みをかけてこの地にやってきたのだ。
噂は本当だった。いや、現実は噂以上に残酷だった。
王子の威厳も、聖女の輝きも、彼らからは完全に消え失せていた。
衛兵の制止を振り切り、彼らは私の立つ丘へと登ってきた。
そして、目の前に広がる光景――生命力に満ち溢れた大地と、そこに暮らす人々の穏やかな笑顔、そして、健康的な血色で静かに佇む私を見て、絶望に顔を歪めた。
「アリス……」
リチャードが、かすれた声で私の名を呼ぶ。
「……信じられん。ここが、あの不毛の地だと……?」
「ええ。ここは、皆で育てた希望の大地です」
私は静かに答えた。
その瞬間、リチャードは足元に崩れ落ちた。
彼は、かつての傲慢さなど微塵も感じさせない姿で、地面に額をこすりつけ、懇願した。
「頼む、アリス! 国へ戻ってきてくれ! 君の力が必要なんだ! この通りだ、君を妃として迎えよう! イザベラよりも上の、正妃として!」
その言葉に、私の心はもう揺れなかった。
ただ、深い憐れみだけが湧き上がってくる。
「リチャード様。あなたは、まだ分かっていないのですね」
「な、に……?」
「あなた方が捨てたのは、私という一人の女だけではありません。あなた方が見下し、踏みにじったのは、命そのものを慈しみ、育む心です。土を愛し、種を蒔き、芽吹きを喜ぶ……そんな、当たり前で、しかし何よりも尊い営みを、あなた方は『無能』と切り捨てた」
私の視線は、リチャードの隣で震えるイザベラへと移る。
「イザベラ。あなたの聖なる魔力は、確かに華やかで美しかった。けれど、その力は何かを生み出しましたか? 一粒の麦も、一輪の花さえも、その手から生まれることはなかった。偽りの価値に囚われ、あなたは最も大切なものを見失ったのです」
イザベラの瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
彼女は、自分が信じてきた輝かしい才能が、目の前の豊かな大地と人々の笑顔の前では、いかに無力で空虚なものであったかを、ようやく悟ったのだろう。
それは、彼女にとっての、完全な敗北だった。
「国へは戻りません」
私は、最後の宣告を告げた。
「ですが、もしあなた方が、民としてこの地で土を耕し、自らの手で食料を得て生きていきたいと願うのなら……私は、拒みません。この大地は、悔い改めた者には、いつだって平等に恵みを与えてくれますから」
それは、慈悲であり、そして最も残酷な罰でもあった。
王として、聖女として君臨することしか知らなかった彼らが、一人の民として、泥に塗れて生きていく。
それこそが、彼らが犯した罪の、唯一の償い方だった。
リチャードは、何も言えず、ただ嗚咽を漏らしていた。
彼らが去った後、いつの間にか隣に立っていたカインが、私の肩をそっと抱き寄せた。
「……辛い役目をさせたな」
「いいえ。これで、本当に全てが終わったのです」
私は彼を見上げ、微笑んだ。
カインは、真剣な眼差しで私を見つめると、私の手を取って、その前に跪いた。
「アリス」
彼の、低く、優しい声が私の名を呼ぶ。
「俺は、君を『豊穣の女神』として崇めるつもりはない。君は、誰かのために奇跡を起こし続ける存在である必要はないんだ」
「……カイン、様?」
「ただの、アリスとして。笑ったり、泣いたり、時には怒ったりする、一人の女性として、俺の隣で生きてほしい。俺と共に、この地で、俺たちの未来を育んでくれないか」
彼は、懐から小さなものを取り出した。
それは、指輪だった。
高価な宝石が飾られたものではない。
彼自身が、この地の若木を削って作った、温もりのある木製の指輪。
その中央には、私が最初にこの地で咲かせた、小さな白い花が可憐に埋め込まれていた。
「俺と、結婚してほしい」
涙が、溢れて止まらなかった。
嬉しくて、愛おしくて、胸がいっぱいになる。
私が本当に欲しかったものは、これだった。
女神という称号ではない。
誰かからの賞賛でもない。
私の全てを理解し、受け入れ、ただの「アリス」として愛してくれる、たった一人の人の隣。
そこが、私の本当の居場所。
「……はい、喜んで」
私は、涙で濡れた笑顔で、力強く頷いた。
カインは、安堵したように微笑むと、私の指にそっと、世界でたった一つの指輪をはめてくれた。
◇
それから、数年の時が流れた。
ヴォルフェン領は、今や『北の楽園』と呼ばれ、多くの人々が新たな生活を求めて移り住む、活気ある国へと発展していた。
崩壊した王国から逃れてきた人々も、過去の身分を捨て、皆一様に畑を耕し、懸命に働いている。
その中には、日に焼けて逞しくなったリチャードと、穏やかな表情で子供たちに薬草の使い方を教えるイザベラの姿もあった。
彼らが本当の意味で自分たちの過ちと向き合えたのかは、私には分からない。
だが、大地は、黙々と汗を流す彼らに、確かな恵みを与え続けていた。
そして、私は。
「アリス母様! 見て! こんなに大きなカボチャが採れたよ!」
小さな男の子が、自分の顔ほどもあるカボチャを抱えて、満面の笑みで駆けてくる。
黒曜石のような髪と、私の緑の瞳を受け継いだ、愛しい息子。
「まあ、すごいわね、レオ」
私は息子の頭を撫でながら、その隣に立つ夫の姿に目を細めた。
公爵としての威厳はそのままに、しかし私と息子に向ける眼差しは、どこまでも優しい。
「今日のスープは絶品になりそうだな」
カインが、息子を軽々と抱き上げて笑う。
私はもう、『豊穣の女神』ではない。
ただの、アリス・フォン・ヴォルフェン。
愛する夫と子供に囲まれ、ささやかな家庭菜園で野菜を育てる、ごく普通の幸せな女性だ。
私は、自分の菜園から、一輪の小さな青い花を摘み取った。
そして、カインの胸元にあるポケットに、そっと差し込む。
「あなたに、一番きれいな花を」
彼は驚いたように目を見開いた後、この上なく幸せそうに微笑んだ。
そして、私の唇に、優しいキスを落とす。
偽りの価値に満ちた王城では、決して見つけることのできなかった、私の本当の花。
それは、豪華絢爛な薔薇でも、気高い百合でもない。
ただ、愛するあなたの隣でだけ咲くことができる、この、ささやかで、温かい幸福という名の花。
北の楽園に吹く優しい風が、私たちの笑い声を、どこまでも遠くへ運んでいった。
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