第二話
王都を追われ、揺れる馬車の中で幾夜を過ごしただろうか。
私がカイン・フォン・ヴォルフェン公爵に連れられて辿り着いた彼の領地は、想像を絶するほどに荒涼とした場所だった。
「ここが……ヴォルフェン領……」
馬車を降りた私の目に映ったのは、灰色の大地と、ごつごつとした岩山ばかりが連なる風景。
空は鉛色に淀み、吹き抜ける風は乾いていて、土埃の匂いがした。
王都の、花と緑に溢れた豊かな景色とはあまりにも違う。
本当に、こんな場所で生きていけるのだろうか。
心の奥底に沈んでいた不安が、再び鎌首をもたげる。
そんな私の心を見透かしたかのように、隣に立つカインが静かに言った。
「驚いたか。ここは長年、魔物との戦いの最前線だった。多くの血が流れ、大地そのものが疲弊しきっている」
彼の横顔は、この厳しい土地を体現するかのように、厳しく、そしてどこか哀しげだった。
「さあ、こちらへ」
カインに促されるまま、簡素だが堅牢な造りの屋敷へと足を踏み入れる。
使用人たちの数は少なく、誰もが私を訝しげな、あるいは値踏みするような目で見ているのが分かった。
噂はもう広まっているのだろう。
『王都から追放された、魔力なしの役立たずな令嬢』。
それが、今の私に対する評価なのだ。
案内された部屋で荷を解きながら、私は小さな革袋をぎゅっと握りしめた。
追放される夜、侍女が密かに持たせてくれた、数種類の植物の種。
王都では誰も見向きもしなかった、ありふれた薬草や野菜の種だ。
これが、今の私の全てだった。
翌朝、カインは私を屋敷の裏手へと案内した。
そこに建っていたのは、私の想像を遥かに超えるものだった。
「これは……温室?」
岩と乾いた土ばかりの殺風景な景色の中に、陽の光を浴びてきらきらと輝く、巨大なガラス張りの建物。
まだ中は空っぽで、土が運び込まれているだけだったが、その規模は王城の庭園に併設されていたものを凌ぐほどだった。
「君のために用意させた」
カインが、こともなげに言う。
「君の力が必要だと言ったはずだ。思う存分、その力を使ってみてほしい」
「私の、ために……?」
信じられなかった。
『無能』と罵られ、趣味だと切り捨てられてきた私の力を、彼は信じ、こんなにも素晴らしい舞台を用意してくれた。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
王都で流すことさえ忘れていた涙が、頬を伝った。
「……ありがとうございます、公爵様」
「カインでいい。ここでは、俺たちは対等なパートナーだ」
そう言って無骨な笑みを浮かべる彼に、私は力強く頷いた。
その日から、私の生活は一変した。
朝から晩まで温室に籠り、持ってきた種を植え、土に触れる。
王都では、私の力は「あって当たり前」のものだった。庭園が美しいのも、薬草が育つのも、誰も不思議には思わなかった。
けれど、ここでは違った。
私が手を触れると、乾いていた土がみるみるうちに潤いを取り戻していく。
固く閉ざされていた種は、たった一晩で芽を出し、数日もすれば青々とした葉を茂らせた。
それは、まさに奇跡の光景だった。
「す、すごい……本当に芽が出てる……!」
手伝ってくれていた使用人の一人が、驚愕の声を上げる。
彼の目には、疑いの色ではなく、純粋な感動が浮かんでいた。
最初に育てたのは、咳止めの効果がある薬草だった。
この辺境では、乾いた空気のせいで気管を病む者が多く、特に子供たちが苦しんでいると聞いていたからだ。
収穫した薬草を煎じて薬を作り、病気の子供を持つ家へ届けた。
母親は最初、私を警戒していた。
けれど、藁にもすがる思いだったのだろう。彼女は薬を受け取り、子供に飲ませてくれた。
翌日。
母親が、涙を流しながら私の元へ駆け込んできた。
「ありがとうございました! あんなに苦しそうだった子の咳が、嘘みたいに……! あなたは、女神様ですか……?」
彼女はそう言って、私の手を握りしめた。
女神様、だなんて。
そんな大げさなものではない。
でも、自分の力が、誰かの役に立った。
心からの感謝を、向けられた。
その事実は、リチャードに婚約破棄を告げられた時よりもずっと深く、私の心を揺さぶった。
噂は、あっという間に領内を駆け巡った。
『追放された令嬢は、枯れた大地を蘇らせる不思議な力を持っている』
『彼女の手にかかれば、どんな病も治る薬草が育つ』
最初は半信半疑だった領民たちも、温室で次々と育っていく瑞々しい野菜や薬草を目の当たりにし、次第に私を見る目を変えていった。
侮蔑や憐れみは消え、代わりに尊敬と、親しみが宿るようになっていた。
子供たちが、私に野の花を摘んで持ってきてくれるようになった。
夫人たちが、採れたての野菜を使った温かいスープを差し入れてくれるようになった。
王都では決して得られなかった、人と人との温かい繋がりが、そこにはあった。
ある夜、月明かりが差し込む温室で、私は一人、大きく育った薬草を見つめていた。
そこへ、カインがやってきた。
「眠れないのか」
「……カイン様。少し、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「どうして、私の力のことをご存じだったのですか? 王都では、誰も……両親でさえ、気にも留めなかった力なのに」
私の問いに、カインは少しだけ逡巡した後、静かに語り始めた。
「数年前、北の戦線で毒矢を受け、死にかけたことがある」
「……!」
「王都から取り寄せたどんな薬も効かなかった。誰もが諦めかけた時、部下の一人が、どこからか手に入れてきたという乾燥薬草を煎じて飲ませてくれた」
彼の目は、遠い過去を見ていた。
「それは、不思議な薬草だった。飲むと、体の内側から温かい生命力が湧き上がってくるような感覚がした。おかげで、俺は一命を取り留めた」
「まさか……」
「そうだ。後からその薬草の出所を調べさせた。すると、王都の市場の片隅で、ある侍女が『庭で採れたものだ』と言って、ごく稀に売っていたものだと分かった。その侍女が仕えていたのが……君だった」
全てが、繋がった。
私が庭で育て、効能が強すぎると捨てられそうになったものを、侍女がこっそり持ち出して売っていたのだ。
それが、巡り巡って、彼の命を救っていた。
「あの時から、ずっと君を見ていた。君が王城の庭園を世話する姿を。君が触れた花だけが、ひときわ鮮やかに咲き誇るのを。誰もがイザベラ嬢の聖なる魔力に目を奪われる中で、君だけが、この世界の命そのものを育む、真の『聖女』だと確信していた」
真の、聖女。
その言葉が、私の心に深く、深く染み渡っていく。
ああ、この人は、本当に。
誰よりも先に、私の本当の価値を見つけてくれていたんだ。
その頃、私が追放された王国では、静かに、しかし確実に異変が進行していた。
原因不明の奇病が、王都を中心に蔓延し始めていたのだ。
罹った者は徐々に体力を失い、どんな治癒魔法も効果がない。
それはまるで、大地から生命力を吸い上げられていくような病だった。
「イザベラ! お前の聖なる魔力で、どうにかできないのか!」
玉座の間で、リチャード王子が苛立ちを隠さずに叫ぶ。
しかし、次代の聖女と謳われたイザベラの額には、脂汗が滲んでいた。
「だめです、リチャード様……。私の魔力が、この病には全く……!」
それだけではない。
あれほど豊かだった王国の畑は、なぜか作物の育ちが悪くなり始めていた。
王城の庭園を彩っていた『千年の薔薇』も、いつしか輝きを失い、枯れ始めていた。
まるで、大地そのものが、ゆっくりと死に向かっているかのように。
誰も、その原因が分からなかった。
自分たちが切り捨てた『無能』な女が、この国の生命線を握っていたことなど、知る由もなかったのだ。
一方、北の辺境、ヴォルフェン領。
私の温室は、もはや緑の楽園と化していた。
薬草や野菜だけでなく、色とりどりの花々が咲き乱れ、甘い香りを漂わせている。
私の力は、温室の中だけにとどまらなかった。
屋敷の周りの固い土を耕し、種を蒔くと、そこからも新しい芽が力強く顔を出す。
灰色だった大地は、少しずつ、しかし確実に、生命の緑色に塗り替えられていった。
領民たちは、飢えと病の恐怖から解放され、その顔には明るい笑顔が戻っていた。
彼らは私を『豊穣の女神』と呼び、心から慕ってくれた。
私は、この地で、ようやく自分の居場所を見つけたのだ。
ある晴れた日、私はカインと共に、緑が芽吹き始めた丘の上に立っていた。
「見てください、カイン様。あんなに荒れていた土地に、こんなにたくさんの緑が……」
「ああ。全て、君のおかげだ」
カインは、愛おしむような眼差しで、私と、私たちが作り上げた風景を眺めている。
「ここはもう、不毛の地などではない。君が育んでくれた、希望の大地だ」
王都を追放されたあの夜は、人生の終わりのように思えた。
けれど、今は分かる。
あれは終わりではなく、始まりだったのだ。
偽りの価値と、見せかけの輝きに満ちた鳥籠から解き放たれ、自分の翼で、自分の力で、本当の幸福を掴むための、始まり。
私は、愛する人と、私を必要としてくれる人々と共に、この地で生きていく。
穏やかな風が、私の髪を優しく撫でていく。
それは、この蘇った大地からの、祝福のようだった。




