9話:眼輪筋の恋、あるいはヒラメ筋の絆
グラウンド。
引かれたばかりの白線の円陣の中心で、葵は一条を前にして夢見心地でいた。
「……何だか夢みたい。一条くん」
「どうしたんだい、香坂さん。奇妙なまでに眼輪筋が痙攣しているような……っさては!」
(きた……!私の想いが、この完璧な美貌の持ち主に届いたのね!)
「まさか、君、それは顔面神経症の前兆か! それとも三叉神経の異常ではないだろうかッ?
君が僕へとバトンを渡すという役割に、そこまで精神的負荷を抱えていたとは。
体育祭はあと2週間後だぞ!
プレッシャーによる自律神経の乱れは、回復の遅延を招く!」
「え? がんりんきん!? え、違う、そういう話じゃなくて……」
「まだ間に合う! クラスの体育委員に伝えてくる!君の荷が重すぎて、末梢神経が悲鳴を上げていると!って僕だ!体育委員は!」
「ちょ、ストップ! 違うの、そうじゃなくてね!」
葵が慌てて割って入る。
「ん? ああ、そうか。
では下腿三頭筋の違和感か。
……見たところ、腓腹筋の張りは許容範囲だが、ヒラメ筋あたりに疲労が蓄積しているのかい? 良いプロテインを紹介しよう」
一条は至極真剣に、葵の「部位」を案じて熱弁をふるう。
葵の心臓のトキメキは、その熱意のベクトルがあまりにズレていることにまだ気づいていない。
◆
女子更衣室にて。
葵の親友の加古川恵美が落胆の表情を隠せないでいる。
「葵さぁ、………一条くんは良い人だよ? でもさ……」
「言わないで恵美ちゃん! みなまで言わないで!」
葵が耳を塞ぐ。
「結局彼が見てるのは、
アンタのその『どこかの筋線維』だけでしょう?
虚しくなるからさっさと目を覚ましなよ」
「……うぅっ! 何て悲劇的な『体目当て』の構図なの……!」
「はい、これ。元気出しな。
……って言っても、さっきアンタのことを『筋肉のコンディションが悪そうだった』って心配してた一条からの差し入れのSAVAS(ココア味)だけど」
「(キュン♡)……やっぱり、私の筋肉を一番愛してくれてるのは彼かも!」
「……始末に負えない脳筋と恋愛脳の極致ね。誰か、この二人を物理的に隔離してあげてほしい……」
◆
(その時。遥か彼方の病院。)
無菌室で点滴と闘う箱山は、
突如として激しい悪寒に襲われた。
「……なんだ、この『知性の欠如』を凝縮したようなノイズは。
……葵ちゃんか。あの馬鹿がまた、何らかの論理的破綻をきたしているに違いない」
箱山は腹部の鈍痛をこらえながら、ベッドの上で吐き捨てる。
「筋肉への過剰な崇拝と、恋という名の精神異常の共鳴……。
……計算が合わない。僕の計算上の『葵ちゃんの幸福度』が、負の無限大へと収束していくのが見える。
……気持ち悪い。早く!麻酔で意識を飛ばさせてくれ」
彼は再び枕に顔を埋める。
病院の空気までもが、あの救いようのない
「プロテインと恋バナ」の臭いで汚染されたような気がしたからだ。
この度は家庭教師コメディをお読みいただきありがとうございます!明日も12時10分に次話を更新します。
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なお、夜は20時10分に毎日更新している別作品で『告解者』という完全シリアスなサイコサスペンスも書いておりますので、もしよろしければお読みいただけると嬉しいです★




