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なんとか五橋の包囲からは抜け出せた。
離せ、いやだ、の繰り返しだったけどな。
あいつの腕の中は息が苦しくなるんだ。こういうことは勘弁してほしいというのが正直なところだ。
ほっとしていたところに、「そういえば」と五橋が声を上げる。
「いつまでもの俺のことを名字で読んでいると紛らわしくなるぞ。当然だが両親も五橋だし。そろそろ名前呼びの方がいいんじゃね?」
全くもってそのとおりだな。
これまでのところ、皆のいる前で五橋の名前を呼ぶ場面がたまたまなかっただけだが、迂闊にも、いつも通りに呼んでいたら、その場はさぞかし微妙な空気が流れただろうな。
想像するだけでいたたまれないが、五橋家が一斉にこちらを振り返る様子が脳裏に浮かぶ。ぶふっ
「好きなように呼んでいいぞ」
と五橋は言うものの、名前をアレンジするのは得意じゃないんだ。
しかもワクワクしている印象を受けるんだが、、、正直言ってその期待には答えられないだろう。
「そうさな、遼太郎・・・さん、でどうだろうか」
なんかふつーって顔してるなー。
言いたいことはわかってるけども、仕方ないじゃん。そもそも遼太郎って名前ってぇのが、なお一層難しくしているんだ。本人には全く責任はないけどさ。こっちの都合だけどさ。でも、こればかりは安易に名前を変えてくれなんて言えるものじゃあないし、、、なんとかひねり出そう。
キラキラしい目でこっち見てる。やめろ。妙なプレッシャーをかけてくるんじゃない。
「りょ、遼太郎、、、遼太くん」
「遼太くんねぇ」って本人も呟いているけど気に入らないんだろうか。ひねり出したつもりが「なぜ」って聞かれたよ。説明するのもちょっとアレなんだけど、とほほだよ。
仕方ない。
「・・・理由は様々あるが、消去法がひとつ。お前さん、モデル時代の芸名ってやつ、遼って呼ばれてたそうで? 遼太郎呼びはご両親がされてるし、だから遼太でどうかなと」
あ、モデル時代の確認したらなんか苦い顔してる。
「えっと、リョータとなれば、祖母の家の猫がリョータなので、親近感がぐっと湧くし、ずっと年下だと思ってたから遼太君ってのがしっくりくるんだが」
「はぁ!? 猫と一緒かよ。そこは、君じゃなくてサンでもいいんじゃ? 遼太さんって」
「ああ、そうなるとお猫様と全く同じになるので大変紛らわしい」
「猫の方が格上かっ」
「しょうがないだろう。猫は20年ほどしか生きないと言われているのに御年21歳だぞ。人間で言えば何歳かわかんないけど、家族はみんな21年間も彼のことをリョータさんと呼んでるし、アニコムの登録のお名前もそうだし、今更変えられない。それに、彼は猛虎の末裔と祖父が言っているので、敬意を払わねば」
「・・・茶トラ猫ってことか。まぁいい、その呼び方は咲夜だけな。それだったら許す」
盛大なため息もあったが、許可がでた。
「でも安心しろ。とりあえず人前では猫をかぶる必要があるので、遼太郎さんと呼ぶことにする」
「へぇ、二人きりの時だけか。それもなかなか」
なかなか、なに?
ニヤニヤしているからなにか変なこと想像してんのかな。気持ち悪いな。
「ところで、さっきの返事、まだ聞いてないんだけど」
さっきとは?
ちょっと考えてみる。
「あ? ああ、あああ、あれか」
「そう、あれだ」
あー、覚えてたんだな。しかも今はこいつは冷静だ。
さっき、いや、その前の腰掛のところでは妙に焦っていたし、だからついこっちも了承っぽいこと口走ったけど。
「ん? どうした?」
いかんいかん、思考にひたり過ぎていた。ごほんと態とらしく咳払いなんぞしてみる。
「ええーと、さっきは少々取り乱してしまったが、おそらく私は遼太君のことが好きなんだろう。今となっては、そう言える根拠がいくつか思い当たる。それに、遼太君にこうやって触れられても、電車で触られた時に感じる嫌悪感を感じない。だから、、」
「ちょーっと待て。電車でなに? 触られてるって何? それって痴漢にあってるんじゃないのか?」
「ああ、痴漢だな。一応警告をした上でやめないやつは実力行使で警察に引き渡すことにしているから、とりあえず大丈夫」
「大丈夫じゃねーだろ。くそっ。次から次になんでこう。いいか、これからは一人で電車に乗るんじゃないぞ」
「それは無理だ。会社に行けないし、出かけられないじゃないか。それに毎日痴漢に遭うわけじゃない」
まったく何を言い出すのかと思えば、むちゃくちゃだよ。
「たまにでも被害にあってるんだろうが!! いいか、会社に行く時には俺が迎えに行く。それに来週、テレワークの手続きをして2度と出社しなくていいようにする。
あと用事で出かける時には事前に連絡すること。いいな。絶対にひとりで乗るんじゃないぞ」
「・・・どこの過保護な保護者か。それにお前の家はどこだ、わざわざうちに来たら大変だぞ」
「目黒区だ。ついでに咲夜の家は品川区」
「なぜうちを知ってる?」
私は今初めて知ったというのにどこで情報を得ているんだろ。あっさり答えやがる。
そのため息はなんだ。私の無知さにひいているのか?
「お前なぁ、本気で言ってるか?」
本気も本気ですが。
「広い庭のある平屋の日本家屋ってそうそうないぞ。有名過ぎて知らないって方がおかしいくらいだ」
ん? そうなのか?
生まれた時からずっと住んでいるから気づかないだけかもしれないな。
「ちなみに、遼太君の家から我が家まではどのくらいかかるんだ?」
「歩いて10分以内だ」
迷いなく言い切ってるし、まさか来たことあるのか?
しっかし、それは近いな。わざわざ根津や谷中まで散歩に行く必要もないくらいに近いな。いや、でも、愛玉子は食べたいからそこは譲れないかもしれない。
根津駅構内で本借りてたなぁ、そう言えば。
「おーい聞いてる? 現実に戻ってこい」
「ん、聞いてるし」
意識をどこかに飛ばしていたことを慌てて取り繕ったりすると逆効果ということはわかってるんだ。だから、おうむ返しが正しい回答だ。伊達に何度も経験していない。
胡散臭そうな五橋の顔だ。
「週明けは迎えに行く。だから忘れるな」
「いや駅で待ち合わせれば済・・・わかったよろしく頼む。・・・そしてよろしく頼む」
目は口ほどに物を言うって今日1日で何度も感じたことだ。こういう時の五橋には逆らわないこと、だ。
「なぜ2回言った?」
「それは、最初のはお迎えの件、最後のは、さっきの回答のつもり」
「それじゃわかんないし、全然感動がない」
憮然としてるけどさ、会議中でもまとめた質問事項に、まとめて回答するときあるじゃん。あれと一緒さね。ん、五橋がまた跪いてるし、一体なにさ。
「田尾咲夜さん、俺のお嫁さんになってください」
ふぅ、なるほどね。1日に何度もやり直しって、まぁ全部私が原因だけどさ。仕方ない。ちゃんとしよう。短い言葉だけど思いを込めて返そう。
「はい」
返事をしたら妙に照れくさくもあるけど、じわじわ嬉しい気持ちになってきた、さっきとは違う。
「良かった。本当に嬉しい、ありがとう咲夜」
ぎゅうっと抱きしめられるけれど、ここって全方位から見える位置だよなって今気がついた。
*
とりあえず、イレギュラーなお見合いは無事にお開きになった。
・・・のは良かったんだが、父が非常に不機嫌で悲しそうで寂しそうなんだが、一体どうしたんだろうか。五橋はともかく、ご両親は常識的な人達だったと思ったけど、違ったのだろうか?
その一方で、母は終始にこやかで両親の差が激しい。
とりあえずご機嫌な母に様子を伺ってみたが「まぁ、そんなことあなたが気にする必要はないわ。そういうお年頃だと思ってて」と満面の笑みで答えられたので、とりあえず言葉の通りに受け取って、父のことは放っておくことにしたが、ちらりとこちらをみては、そっとため息をついているのがちょっとうざい。
そんな微妙な空気の中に父のスマホが鳴り始めた。父は苛立っている気持ちをそのままにスマホを取り出すと、画面に表示されている文字を見てひゅっと息を飲み込んでいる。
こう言う時は、明らかに仕事関係じゃぁ、ない。
「どなたから?」
母の質問に「母だ」と短く答えている。
父の言う母は私にとっては祖母だ。当たり前だが。
「なんとおっしゃってるの?」
「咲夜の見合いの件について話に来いと」
「あら、何も伝えてませんでしたの?」
「・・・今から、行くし」と短く答えると、父は口を閉じてしまった。
本当に難しいお年頃のようだ。
*
畳廊下に摺り足の音だけが聞こえてくる。全員足袋だからな、自然とそうなる。今日は天気が良いせいか庭を臨むガラス窓は全開だ。
よく手入れの行き届いた庭は、昔から好きな風景なのでついつい足を止めてしまう。
玉砂利の模様が時々変わることがあるが、誰がそうしているのかは未だに謎だ。ここから見える庭は観賞用。子どもが遊んでいい庭はもっと建物の奥の居住エリアにある。
「咲夜、何をしている早く来なさい」
景色をぶち壊すような苛立ちを込めた父の声に反抗心がムクムクと膨れ上がってくる。口を開こうとしたその時、
「まったくこの子は、私の可愛い孫にそんな言い方をして。無粋なのは貴方ですよ理一郎」
ピシャリと父を叱りつけるのは、呼び出した祖母で、いつもは奥の間に居るはず。私達が奥の間に行くまで出てこないんだ。大事なお客様の時以外は。
「母さんこそこんなところでどうしたんですか」
不貞腐れた様子の父は、挨拶もせずに雑に祖母に返した。あーあー知らないぞ。
「いい年をした男がなんですか。己の言動に責任を負わないなら今後一切何もしなくて宜しい。どうやら跡継ぎには恵まれるようですからね。ほほ」
ほらね。
親子喧嘩なんてするもんじゃぁないな。グサグサ遠慮なくぶっ刺してくるもんね。ちって父が舌打ちしてる。
桑原桑原。
「お義母さま、お邪魔いたします。咲夜のことお耳に入れるのが遅くなって申し訳ございません」
母は卒なく祖母に挨拶をしている。本来なら事前に父が祖母に話しておくべきなんだけど、どうやら、ウッカリ忘れていた、ということにするそうだ。
「智夜さん、あなたも大変ねぇこんな大人子どもに付き合わされて」
って、あなたの息子ですよね。がっつり他人事のように遠回しの嫌味が飛び出すが、まだ軽い方だ。
「こう言う時だけですから」と母もにっこり微笑みながら返しているの、さすがだ。
当の本人だが唇を尖らせて黙って二人の女性の会話を聞いている。まぁ、外ではちゃんとしているらしいから、気心の知れた人たちのところでは素でいてもいいんじゃないかって最近思うようにしている。
「咲夜、その着物、よく似合うわ。相手の方も見惚れていらしたのではなくて?」
アンティークとまでは言えないと思うけど、終戦直後に生まれた祖母のために、大正時代に生まれた曽祖母が色々と注文をつけて作らせたものという話は聞いている。時代を選ばない良いものだ。もちろん私も好きだ。
「ごきげんようお祖母ちゃま。この着物大好きです」と言うと、祖母は満足そうにふふふと笑っている。
「さぁこちらへ。今日の話を聞かせてちょうだい」
祖母は私の手を取ると、呼び出したはずの父をその場に置いて奥へと進んでいく。私の手を握る祖母のほっそりとした手は20年前よりもさらに細くなったんだろうな。昔は見上げていたはずの祖母の顔も少し下に見るし。
でもいまだに矍鑠としていて、背筋はピンと伸びている。
白髪の多くなった髪を見ながら疑問が湧いた。祖母へ今日の見合いの話をしたのは誰なんだろうかと。
いつもの居室に近づくと奥から笑い声が聞こえてきた。




