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第二話 会社の先輩に振り回されています

 ここだけの話。おれの会社には、変わったひとが多い。

 会社にいるほとんどの人間に対して、必ず一度は「変わったひとだなあ」と思ったことがあるくらいだ。

 中でも群を抜いて変わっているひとが一人いる。

 ……それは、このひとだ。

「ちょっとちょっと。聞いて、聞いてよ、ヨシミちゃん!」

 ぱたぱたと足音を鳴らし、こっちに駆けてくる前髪がやけに短い女性が一人。彼女を見やり、おれはひとつ大きな溜め息をはき出した。

「……あの、何度も言ってると思うんすけど、おれの名前はヨシミじゃなくてヨシザネっす」

 呆れながらそう言うと、目の前の彼女は心底不思議そうな顔をして軽く小首をかしげた。

「うん。でもヨシミちゃんのほうがかわいいよ?」

「いや、べつにおれ、かわいさは求めてないんで……」

 何度言ってもおれを『ヨシミちゃん』と呼ぶこのひとは、瀬埜せの依美佳えみかさん。おれよりひとつ年上の先輩だ。

 瀬埜先輩には、入社して同じ部署になり名刺を渡して挨拶をしたその瞬間から、この呼び名で呼ばれている。名刺に堂々と書かれた『明智(あけち)吉実(よしざね)』の漢字の横にはきちんとふりがなまで書いてあったのに、そんなのは彼女にとって取るに足らないことだったらしい。

 いままで生きてきた中で名前を読み間違えられたことは何度もあるけれど、一度注意すれば二度間違われることはあっても三度間違われることはなかった。……それでも瀬埜先輩はおれの名前を完全に『ヨシミ』とインプットしているみたいで、何回訂正しても直してくれる気がないらしいから意味がない。間違われたままだと嫌だからそのたびに訂正はするけれど、この先ちゃんと名前を呼んでくれることはないと思う、たぶん。

「瀬埜先輩、名前はちゃんと呼んでくださいよ。客先で間違われても困るっすよ」

「ちゃんと呼んでるよ、ヨシミちゃんって」

「だからヨシミじゃなくてヨシザネだって何度も言って、」

「まあそれはともかくさ」

 いやいやいや!

 おれは勢いよく瀬埜先輩を振り返る。

「ともかくってなんすか! 名前は重要っすよっ?」

「あのね、ちょっと聞いてほしいことがあるんだよー」

 まったくと言っていいほどおれの話を聞いていない。まあ、最初からこのひとにそういうのは求めてないけど……。

 でも名前くらいは憶えてほしい。誰がなんと言おうと、おれはヨシミじゃなくてヨシザネだ。

「誰にも言っちゃだめだよ。これはヨシミちゃんだけに教えることなんだから!」

「はあ……」

「耳貸してっ」

 言われたので、少し屈んで耳を貸す。耳たぶに吐息がかかるほどの距離で、瀬埜先輩は小声で言った。

「じつはこのあいだ、ついに凛太郎先輩に聞いちゃったの」

「聞いたって、なにを」

「そんなの決まってるでしょ。好きな女性のタイプをよ!」

 ああ、と呟く。思わず苦笑が漏れた。

 瀬埜先輩は、おれたちと同じ部署にいる藤郷凛太郎さんのことが好きだ。これは秘密でもなんでもなく、この会社にいる人間なら誰でも知っていること。でもこうして耳打ちしてくるあたり、どうやら本人はまわりに隠しているつもりらしい。だけど、なにをもってそう考えているのかわからない。だってあんなにアピールしているくせに。例えるなら、会社の屋上から拡声器を使って大声で公言しているってレベルだ。おれを含め、知らないひとなんて一人もいない。

「で、どんなタイプが好きなんすか、藤郷さんは」

「それがね……」

 聞いてほしいことがある、と言われた手前、反応しないわけにはいかない。しかたなくおれが問うと、瀬埜先輩はがくりと頭を垂れて落ち込んだ。まるでお手本みたいな落ち込み方だ。

「どうやら凛太郎先輩はシスコンみたいなの……」

 濁った湖に落ちていく石みたいに、どんよりと沈んだ声で冗談めいたことを言う。なに言ってんだあんたは、と突っ込んでやりたいところだけど、これで瀬埜先輩は本気で言っているのだからどうしようもない。

 呆れてなにも言わないでいると、瀬埜先輩はおれを見て首をかしげた。

「どうしたの、ヨシミちゃん。……あ、もしかしてシスコンって言葉を知らないの? シスコンはあれだよ、シスターコンプレックスの略だよ。わたしが言いたいのは、凛太郎先輩はシスターコンプレックスだってことなんだよ!」

 言われなくてもそれくらいわかる。この話の流れなら、誰もシスコンをシステムコンポの略だとは思わない。

 おれは明後日の方向を見ながら頬を掻いた。

「あー。ええと……それはつまり、藤郷さんは自分の妹さんがタイプってことっすか?」

 瀬埜先輩はゆるゆるとかぶりを振った。

「ううん、それはちょっと違うの。あのね、凛太郎先輩は妹さんと同じ年の子が好きなんだって。だけどわたしはね、それってほんとうは妹さんのことが好きなんだけど、きょうだいだしまずいからってことで、わたしにはそう言って濁してるだけなんじゃないかと思ってるんだけど、どうかな。ヨシミちゃんはどう思う?」

 どう思う、と言われても。

「なんていうか、想像力豊かっすね、瀬埜先輩」

「え、そう? えへへ」

 いや、褒めてないし。まったくもって褒めてないし。

「だからさ、そういうわけでわたし、凛太郎先輩の妹さんに勝てる気がしないんだよ……」

 しょんぼりと肩を落とす瀬埜先輩。喜んだり落ち込んだり忙しいひとだ。

「いやあ、それ、考えすぎだと思うんすけど」

「そうかなあ。でも凛太郎先輩、妹さんのこと溺愛してるし……」

「そうなんすか? 初耳っすね。おれ、藤郷さんに妹さんがいることすら知らなかったっすよ」

 言うと、瀬埜先輩はぱっと顔を上げて、「意外!」というような表情をした。

「うそ、ほんとうに知らなかったの?」

「全然知らないっすよ。妹さんの話なんて会社でしてたっすか?」

「ううん、会社じゃあんまりしないと思う。でも家だとべったりだよ。いっつも隣にいるし」

 目をまたたく。思わず「え?」と声を漏らした。

「瀬埜先輩、藤郷さんの家に行ったことあるんすか」

「ないよ」

「は?」

「ないよ」

 はっきり「ないよ」と即答された。しかも二回も。

 行ったことがないのに、どうして家だとべったりだなんてわかるのだろう。……怪しい。

「……あの、瀬埜先輩、妹さんに会ったことあるんすか」

「あるわけないよー。わたしが一方的に知ってるだけだもん。妹さんはわたしのことなんてちっとも知らないと思うよ。でも凛太郎先輩に妹さんがいることは確か。だって凛太郎先輩のご家族の情報はこの『りんたろうノート』にしっかりと、……はっ!」

 やばい、ばれた! みたいな表情で彼女はおれを見上げる。

 瀬埜先輩が手にしているのは、彼女がいつも大事そうに胸に抱えている一冊の小さいノートだ。よく目にはしていたけど、肌身離さず持っているので日記でも書いてあるのかな、くらいにしか思っていなくて、たいして気にはしていなかったのだけど……。

 いま、急速に気になりはじめてしまった。

 なんだろう、『りんたろうノート』って。

「……それ、なんすか」

「あ、ああ、あのあの、ええと、そう、これ、これはね、とくになんでもないの、なんでも!」

「なんでもないわりにはすごく動揺してるんすけど……」

「べべべべつになにもないから、ほんとうに! 凛太郎先輩の秘密がいっぱい書いてあるなんてことはないから、絶対にっ!」

 いや、自分で言っちゃってるし。

 おれは心持ち身を引いた。

「秘密って……怖いっす」

「怖くないよ、怖くない。だってこれ、ただのノートだし。百円均一で買った、ただのノートだし!」

「買った店とかはとくに興味ないっす」

 瀬埜先輩はまたお手本みたいな動揺をしながらそのノートを背中に隠した。指一本触れさせないような警戒っぷりだ。そんなにぴりぴりしなくても、なにもしないって。

「危険な香りがぷんぷんするっすけど……」

 あまり深くは聞かないでおこう。恋愛相談くらいならいくらでも乗れるけど、さすがに面倒事には巻き込まれたくない。わりと本気で、瀬埜先輩はいつか警察にお世話になるんじゃないかと思うときがある。……いまはそっとしておこう。

「とにかくさー、シスコンの彼に妹さんが恋のライバルなんて無謀じゃない? 信じられないよ。勝ち目なさすぎるもん……」

 藤郷さんがシスコンというのは彼女の中で確定らしい。かわいそうに、藤郷さん。

 瀬埜先輩は背中にしっかりとノートを隠したまま、器用にがっくりとうなだれる。ほんとうに感情の起伏が激しい。だけど、これで藤郷さんに頭でも撫でられればきっと一週間は笑顔満開になるはずだ。仕事中に近くでどんよりとしたオーラを放出されるのも嫌だから、あとで藤郷さんに協力してもらおう。まったく、先輩のくせに手が掛かる。

「たぶん瀬埜先輩の思い違いだと思うんすけどね……。ま、とにかく元気出してくださいよ。ほら、おれでよければいつでも相談に乗りますし。なにかあったら言ってほしいっす。なんでも聞くっすよ」

「んー、ありがと。ほんとやさしいなー、ヨシミちゃんは」

「ヨシザネっすけどね……」

 悪いひとではないのだけど……。

 ほんとう、面倒で変わったひとだ。



 ◇   ◆   ◇



 昼休み。喫煙室の近くの自販機の前で、おれは今朝の瀬埜先輩との会話を思い出し、疲れて溜め息をはき出した。

 軽々しく相談に乗るなんて言ってしまったけれど、なかなか骨が折れそうだ。ああ、どうしてこう、この会社には変な人間しかいないのだろう……。

「明智くん、どうしたの。溜め息なんかついちゃって」

 聞こえた声に顔を上げると、そこにいたのは瀬埜先輩の想い人である藤郷とうごう凛太郎りんたろうさんだった。

 瀬埜先輩になんだかんだ構われるおれはけっこう大変な思いをしているのだけど、瀬埜先輩に異常なほど執拗に慕われている藤郷さんのほうがもっとずっと大変なんだろうな。それなのに嫌な顔ひとつせず、相手をしている藤郷さんはすごいと思う。

「ほんと、尊敬するっすよ……」

「なに。どうしたの、急に」

「いや、なんでもないっす……」

 ゆるゆるとかぶりを振る。そんなおれを見た藤郷さんはチャームポイントのたれ目をふにゃりと細め、小さく笑った。

 その瞬間。きんと冷たいなにかが頬に触れた。思わず肩をすくめる。

「俺のおごり」

 藤郷さんがそう言って差し出したのは一本の缶コーヒーだった。苦いのが苦手なおれでも飲めるようにと、ミルクと砂糖がたっぷり入っているものにしてくれたらしい。

 おれは目をしばたいたあと、それを受け取る。

「ど、どうもっす」

 ぱき、とプルタブを起こす音。ちらと横目で見ると、藤郷さんもコーヒーを飲んでいた。だけど、おれとは違いブラックコーヒーらしい。大人の味だ。おれにはまだ早い。

「明智くん、また溜め息ついてる」

 はっとする。無意識だった。慌てて口を押さえて頭を下げる。

「す、すいません」

「謝らなくてもいいよ。どうしたの、疲れてる?」

 聞かれて、ゆっくりと頭を上げた。もらった缶コーヒーを開け、一口飲んで、それから、

「……瀬埜先輩のことで、ちょっと」

 苦笑しながら小声で言った。

「瀬埜さんの?」

「はい」

 目を丸くする藤郷さんに、おれはうなずく。あたりを見まわして本人がいないかを充分に確認してから、できるだけ小さな声で耳打ちした。

「藤郷さん、やばいっすよ。瀬埜先輩、藤郷さんの秘密を怪しげなノートに書き留めてるみたいっす。中を見たわけじゃないからどんなことが書いてあるのかはわからないっすけど、きっとまずいことがいっぱい書いてあるっすよ!」

 いつ襲撃してくるかわからない神出鬼没の敵に細心の注意を払いながら、藤郷さんに打ち明ける。こんなことを言ったところで冗談だと受け止められるかもしれない。自分の情報をノートに書き込んでいる人間がいるなんて、きっと誰も思いもしないだろうから。だからおれは極めて真剣な眼差しで藤郷さんを見つめ、うそなんかじゃないのだと伝えた。

 すると、藤郷さんから返ってきた答えは驚くべきものだった。

 藤郷さんはたった一言、

「うん、知ってるよ」

 と言ったのだ。

 おれはすぐに理解できなかった。

 知ってるって、なにを? 瀬埜先輩が藤郷さんの秘密を書いたノートを持ってるってことを?

 ……いやいや、それこそ冗談だろ。

「うそじゃないっすよ。ほんとうに瀬埜先輩は、」

「うん、わかってる。疑ってるわけじゃないよ。ちゃんと知ってるんだ。それ、『りんたろうノート』のことだろ。俺、このあいだそこに自分で好きな女性のタイプを書いたし」

「はあっ?」

 間抜けな声が出た。藤郷さんは苦笑いを浮かべる。

「彼女、わかりやすすぎるでしょ。本人はあれでもまわりには隠してるつもりみたいだけど」

 その通りだ。……けど、

「じゃあ藤郷さんは、瀬埜先輩のおかしな挙動を容認してるってことっすか。いいんすか、それ……」

「いいんじゃない?」

「そんな他人事みたいな……。放っておいてもいいんすか、あれ」

「うん、そのほうがおもしろいからね。俺の情報を一生懸命に記録してる瀬埜さんもなかなかかわいいし」

 目もとがぴくりと引きつった。一人で突っ走っている瀬埜先輩だけがおかしく見えていたけれど、これじゃあ。

「なんていうか、藤郷さんも大概やばいっすね……」

 藤郷さんは澄ました顔でコーヒーを飲む。ふっと息をはくと、おれのほうを見てほほえんだ。

「明智くんは、好きな子いないの?」

 飲もうと思って口もとまで運んだ缶を、その言葉を聞いて下に降ろす。そんなこと、初めて聞かれた。

「……どうしてそれを聞くんすか」

「なんとなく、ね」

 訝しげな顔つきになるおれを、藤郷さんは笑った。

 好きな子はいない。学生の頃はそれなりに恋愛をして、それなりに付き合ったりしていたけれど、社会人になってからはすれ違いの生活が続いて結局別れることになった。それから恋はしていない。仕事をしていると時間もなければ相手もいない状況になる。恋愛なんてしている暇はない。

「会社にも何人か女性はいるよ。明智くんの同期にもいるだろ」

「そりゃあ、そうっすけど……」

「その子たちはだめなの?」

 だめってわけじゃないけれど。

 おれは今度こそ缶に口をつけた。こくりとコーヒーを飲み下しながら考える。

たしかにこの会社にも女性社員はちゃんといるし、魅力的な子だっている。だけど、どうしても会社の人間と恋愛をする気にはなれないのだ。……いまのところ、だけど。

 たぶんおれには、社内恋愛は向いていない。

「いい子、いっぱいいると思うけどね」

「そっすねー……」

 適当に返事をして、またコーヒーを飲む。

 そのとき、ふいに藤郷さんが言った。

「瀬埜さんはだめだよ」

 缶を口につけたまま、おれは藤郷さんのほうを見る。そして両目を大きく見開いた。藤郷さんはそんなおれを見て静かにほほえむ。それからもう一度、こう言った。

「瀬埜さんはだめだよ。俺のだからね」

 ひどく驚いた。

 藤郷さんも瀬埜先輩を好きだったということにじゃない。それは前からなんとなく気づいていた。藤郷さんは瀬埜先輩をわかりやすいと言うけれど、彼だってひとのことを言えない。藤郷さんも充分わかりやすい性格をしていると思う。

 じゃあ、なにに驚いたかって、藤郷さんがはっきりと「彼女は俺のものだ」と公言したことにだ。藤郷さんはそういうことを堂々と言わないひとだと思っていたから。

「めずらしいっすね。藤郷さんがそう言うの」

「そうかな。口にしないだけで心の中ではいつも思ってるよ」

「瀬埜先輩は自分のだって?」

「うん」

 ためらいなく笑ってうなずく。おれは苦々しい顔をした。

「あの、聞いていいっすか」

「なに?」

「藤郷さん、瀬埜先輩と両想いなのに、どうして付き合わないんすか。瀬埜先輩、片想いだってずっと思ってるんすよ」

 あのひとは藤郷さんの言動に一喜一憂して、それをおれに逐一報告してくる。話を聞いてやらなきゃ泣くし、聞いたら聞いたで一緒になって喜ばないと機嫌を損ねる。ほんとうに至極面倒で大変な迷惑を被っているのだ、おれは。

「藤郷さんから自分も好きだって言ってもらえたら、おれも安寧の日々を送れると思うんすけど」

 恨めしそうに目を細めて言う。……だけど。

「言わないよ」

 藤郷さんはすぐにかぶりを振った。おれは眉根を寄せる。

「どうしてっすか。瀬埜先輩かわいそうっすよ。藤郷さんの言葉ひとつひとつに振り回されて。泣いてたと思えば急に笑い出したり、情緒不安定すぎっすよ、あのひと。藤郷さん、瀬埜先輩が真剣にあなたを想ってることを知らないわけじゃないでしょう。だったら好きって一言を言ってあげたらいいじゃないっすか。瀬埜先輩がどれだけ藤郷さんのことを想って、」

「明智くん、瀬埜さんのこと好きなの?」

 思わず言葉を止め、まばたきを二回。藤郷さんは口もとに微笑を浮かべながらおれをじっと見つめていた。

 突然の問いに言葉を失う。

 おれが、瀬埜先輩を――好き?

「……まさか」

 そんなわけがない。おれははっきり首を横に振った。

「ありえないっすよ。絶対にないっす」

「そう? やけに彼女をかばうから、もしかしたらと思ったんだけど」

「悪い冗談っすよ、それ」

 言い切ると藤郷さんは笑った。隣でブラックコーヒーを一気に飲み干す。ふっと息をはいてから、彼は空になった缶の底を手のひらで叩いた。ぽん、と高い音がした。

「それじゃあ明智くんには特別に、俺が瀬埜さんにまだ想いを伝えない理由、教えてあげようか」

 横目で藤郷さんを見る。そんなものがあるのか。

 おれの視線を受け止めた藤郷さんは、形のいいくちびるの端をきゅっと上げると、一言。

「『俺に翻弄される瀬埜さんを見ているのが好きだから』。以上」

 話はこれで終わり、とでもいうように、藤郷さんは缶をゴミ箱に投げ入れた。からんからん、と空き缶同士がぶつかる音があたりに響く。藤郷さんに目をやると、彼はアイドルばりの綺麗なウインクをひとつ見せて、すぐにきびすを返し自分のデスクへと戻っていった。残されたおれは、ただ呆然とするしかなかった。

 ――自分に翻弄される姿を見ていたいから、まだ想いは伝えない。

 彼が言い残したその言葉を、頭の中で何度も咀嚼し、反芻する。どんな意味があるのかと、手に持った缶コーヒーをじっと見つめながら考えた。

 腕時計の秒針がぐるりと一周し終える頃。おれは思わず一人で苦笑した。

 意味なんてない。意味なんてあるわけがないのだ。言葉どおり、藤郷さんはただ、瀬埜先輩が自分に溺れている姿を見るのが好きなだけ。それだけだ。

 格好いいけど趣味は悪い。藤郷凛太郎はそういう男である。

 おごってもらった甘ったるいコーヒーを飲み切って、缶をゴミ箱に放り入れる。藤郷さんのときよりも軽い音がした。

「まったく、あのひとがライバルじゃ怖すぎるな」

 だからおれは、社内恋愛はしたくない。



 ◇   ◆   ◇



「ヨシミちゃん!」

 藤郷さんに言われて、あんまり溜め息をつかないようにしようと思ったばかりなのに、大きな溜め息をはき出してしまった。

 席に戻るなり、おれの心の疲れの元凶である瀬埜先輩が肩を叩いた。相変わらず名前を間違えている。

 直ることがないと知りつつも、一応訂正はしておく。

「あの、瀬埜先輩。おれ、ヨシザネっす」

「うん。でもヨシミちゃんのがかわいいよ?」

 ここまでがいつものお約束だ。おなじみのやりとりに思わず笑う。

「で、なんすか」

 聞くと、瀬埜先輩はぐっと顔を寄せてきた。瞳がすぐそこだ。かなり近い。

「さっき凛太郎先輩となに話してたのっ?」

「さっきって」

「さっきはさっき! 喫煙室の前、自販機の横で! 凛太郎先輩にコーヒーおごってもらってたじゃない! そのときの話よ!」

 ……全部見ていたらしい。近くにいないか細心の注意を払ったつもりだったのだけど全然気がつかなかった。さすがとしか言いようがない。

 わざとらしく体を後ろに引く。

「瀬埜先輩、怖いっすよ」

「大丈夫、遠くから見るだけで話は聞かなかった!」

 聞かなかったんじゃなくて聞こえなかったんだろう。ほんとうは聞きたかったくせに。まったく、と小さく息をつく。

「なんの話をしてたと思うっすか」

 教えないつもりはない。だけどすぐには答えない。いつも振り回されてばかりいるおれからの、ほんの些細な反抗だ。

 瀬埜先輩はううんと唸って考える仕草をし、それから。

「好きなひとの話、かな」

 難しい顔をしながらそう言った。

 ご名答。たしかに藤郷さんとは瀬埜先輩の話をしていた。藤郷さんの好きなひとは瀬埜先輩だ。勘が鋭い。

 おれはこくりとうなずいた。

「そう、好きなひとの話っす。藤郷さん、やっぱり好きなひとがいるみたいっすよ」

「聞いたのっ? だ、誰! 名前はっ!」

「それはおれからは言えないっすよ。……まあ、ヒントくらいなら出してもいいっすけど」

「ください、ヒントください!」

 土下座でもしそうな勢いだ。まるでごちそうを前に待てをくらっている犬みたいな瀬埜先輩を、まあまあと手で制す。そして、咳払いをひとつ。

「ヒントは……藤郷さんの妹さんと同じ年齢のひとっす」

 真摯な顔つきでそう言うと、眉根にしわを寄せながら真剣に聞いていた瀬埜先輩の目が徐々に細くなっていく。そして最後にはじっとりとおれを睨みつけた。

「ヨシミちゃん。それ、もう知ってる情報だよ」

 そりゃそうだ。これはきょう、瀬埜先輩本人がおれに教えてくれたことなのだから。

 だけどヒントはそれだけじゃない。おれは瀬埜先輩の耳に口を近づけて声をひそめた。

「大丈夫、もっと詳しいヒントあげるっす。二度は言わないっすから、よく聞いてくださいね。藤郷さんは妹さんと同じ年齢のひとが好きなんす。それはおれも聞いた情報だから間違いないっす。じゃあ瀬埜先輩、妹さんの年齢は知ってるっすか?」

 もちろん、と言わんばかりに瀬埜先輩は深くうなずく。

「23歳だよ」

「さすがっす。それなら瀬埜先輩は何歳っすか?」

「わたしも今年23歳になるよ」

「そうっすよね。ほら、どうっすか。藤郷さんの好きなひと、もうわかっちゃったんじゃないっすか」

 瀬埜先輩はおれを見て、ぱちぱちと二回まばたきをする。そして徐々に目を大きく見開いていき、はっとした顔をした。

「そ、そうか! そういうことだったんだね!」

 おれはうんうんとうなずいた。やっと気づいたらしい。

 やれやれ、これでおれも安寧の日々を送れる、と息をついたそのときだった。

「それってつまり、わたしにもチャンスはあるってことだよね!」

 ……なんだって?

「え、いや、あの、チャンスっていうか……瀬埜先輩?」

「凛太郎先輩は妹さんが好きなわけじゃなかったんだ! 妹さんと同じ年齢のひと、つまり23歳のひとが好き! そしてわたしは幸運にも23歳! これは凛太郎先輩に好きになってもらえる可能性があるってこと! わたし、冴えてるー!」

 オフィスの中にも関わらず、瀬埜先輩は両手を高く上げてわーいわーいとジャンプする。まわりからの目が痛い。おれは慌てて瀬埜先輩の手を掴み、必死に落ち着かせようとした。

「先輩、瀬埜先輩! 落ち着くっす、深呼吸っす! みんなこっち見てるっすよ!」

「ヨシミちゃんっ!」

 突然名前を呼ばれて、びくりと肩が揺れる。瀬埜先輩は大きな瞳をきらきらさせて、夏に咲く向日葵みたいな満面の笑みをおれに向けた。

「ヒントありがとう! わたし、凛太郎先輩に振り向いてもらえるようにがんばるよ!」

「へ? あ、ええと……どういたしましてっす」

 間抜けな表情で返事する。お礼なんて言われると思っていなかったから、拍子抜けして思わず彼女から手を離してしまった。

 すると瀬埜先輩はいきなり胸の前で両手にこぶしを握りしめ、

「うん、なんだか燃えてきた! よおし、妹さんなんかに負けないよ! がんばって女子力上げるぞー、おー!」

 とかなんとか言いながら一人ですごい気合いを入れて、そのままオフィスを出て行った。残されたおれは周囲の冷たい視線を感じながら、抜け殻のようにただ呆然とその場に立ち尽くしていた。

 なんだろう、この……ひどい嵐が去ったあとのような気分は。

「明智くん」

 とん、と肩に手を置かれる。心臓が口から飛び出そうになるくらい驚いた。すぐに後ろを振り向くと、そこにいたのは藤郷さんだった。どきどきする心臓を押さえて息をはく。

「と、藤郷さん。驚かさないでほしいっす……」

「べつに驚かすつもりはなかったんだけどね」

 そう言ってほほえむ藤郷さん。……でも、なぜだろう。そのほほえみが、どこか黒く見えるのは。

「なにを話してたのかな」

「え?」

「瀬埜さんと、なにを話してたのかな。……ずいぶんと仲よさげだったけど」

 まずい。見られていたらしい。

 おれは強くかぶりを振った。

「ち、違うっすよ。べつに深い意味はないっす。藤郷さんとなにを話してたんだって聞かれて、それに答えてただけっす。ほんとっすよ!」

 藤郷さんは目を丸くする。それからすぐ、おれの肩に置いた手を降ろした。目を細め、いつものふにゃりとした笑みを見せる。

「なんだ、そうだったんだ。いやあ、二人でこそこそと話をしてるからなにを内緒にしてるんだろうって思ったんだよ。顔もすごく近かったしね。でも、うん、瀬埜さんが俺のことを聞いてたっていうのならいいんだ。それを聞いて安心したよ」

 うん、おれも安心した。さすがに自分の先輩が好きだといっている女性を奪おうなんて趣味はおれにはない。変な勘違いをされずに済んでよかった。

 胸を撫で下ろし、ほっと息をつく。

 ふとドアのほうに目をやると、瀬埜先輩がフロアに戻ってくるのが目に入った。ご機嫌そうにスキップをしながら器用にパックジュースを飲んでいる。見ると、いちごミルクだった。どうやら飲み物を買いに行っていたらしい。ひとの苦労も知らないで。呆れを通り越して苦笑が漏れた。

 藤郷さんも瀬埜先輩を見つけたらしく、小さく笑う。

「瀬埜さん、いちごミルク飲んでるね。いつもお茶ばかりなのに、めずらしい」

「ああ、あれ、きっと『女子力』っすよ」

「女子力? どういうこと?」

「さっき女子力上げるって言ってたし、ああいう世間の女子が好みそうな飲み物を飲んで藤郷さんに『かわいい』って思われようとしてるんすよ。安易っすよね」

 いかにも瀬埜先輩が考えそうなことだ。ほら、なんだかこっちをちらちらと見てくるし。いちごミルクで一生懸命女子力をアピールしようとしている。ほんとアホだな、あのひと。

「ほんとうだ、アピールしてる」

 藤郷さんは笑いを噛み殺す。おれはやれやれとかぶりを振った。

「瀬埜さんっておもしろいよね」

「そうっすね……」

「見てて飽きないよね」

「そうっすね……」

「ま、俺のだけどね」

「そうっすね……ていうか、誰もとらないっすよ」

 呆れて溜め息をはき出す。藤郷さんは「違いないや」と笑った。

 おれは瀬埜先輩のことを見る。

 たしかにあのひとはちっとも先輩らしくないし、単純だし、無邪気だし、とんでもないほど鈍感で、どこまでもどうしようもないひとだけど。……それでも。

「……瀬埜先輩、かわいいところもあるんすよね」

 いちごミルクなんて飲まなくても、好きなひとを一生懸命に追いかけているその姿は、他の誰よりも魅力的だと、おれは思う。

 不服だし、悔しいけれど……瀬埜先輩はかわいらしい。

「そうだね。ところで明智くん、きみは行ってみたいところってある?」

「え、行ってみたいところっすか?」

 突然なにを言い出すのかと、藤郷さんを見上げる。

「うちの会社は大きいから、いろんなところに事業所を持ってるんだ。大阪、名古屋、仙台、北海道はもちろん、中国、タイと海外まである。明智くんが行ってみたいところがあるなら、僕が直々に人事部長に話をつけるよ。……東京(ここ)以外に行きたいところがあるならいつでも言ってね」

 にっこりと黒い笑みを浮かべ、藤郷さんが言う。

 ええと……つまり、それって島流しってこと?

 おれは真っ青になりながら慌ててかぶりを振った。

「東京がいいっす。東京にいさせてください!」

「そう? 上海もなかなかいいところだと思うけどね」

「藤郷さん、目が怖いっす……」

 縮こまりながら声を震わせると、藤郷さんは小さく笑って「冗談だよ」とおれの頭をぽんと叩いた。

 ちっとも冗談だとは思えなかった。いまのは絶対本気だった。だって鷹が獲物を狙うときと同じ目をしていた。怖すぎる。

 デスクに戻っていく彼の後ろ姿を見据えながら、おれはゆるゆると息をはき出した。



 藤郷さんと瀬埜先輩。お互いに想い合っているくせに、当分くっつきそうもない二人の先輩にはさまれて、おれはまだまだ苦労させられそうだ。

 ……ほんと、もう、勘弁してほしいっす。

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