第三十五話 知らないが故に
私の文章淡々すぎません?
暫く、僕は立ち直れないでいた。書斎の机で、ひたすら筆を握り、現実逃避をしてしまう。ツン、と鼻を突く冷涼な香りが、硯の中で、静かに波打つ水のような墨であった。
墨を擦る音は、まるで思考のノイズが一つずつ削ぎ落されていくような感覚。
「……」
分かっている。星蘭は精神を削りながら、僕を救おうとしている事に。彼は、過去に戻りすぎた。
何回も過去に戻った結果。なるべくして生まれた、慣れ果ての姿。それが、あの時、消えた星蘭。
夏風すら頬に当たらないこの密室の中、僕は殴り書くように書類を片付けていた。
(……どうしよう)
あれから、星蘭と顔を合わせたとしても、愛想笑いを浮かべて、僕は逃げてしまう。少し、気まずさも感じていた。
『最近、元気ないみたいだが、大丈夫か? 月華……?』
その言葉を何回聞いたのだろう。漢服の擦れる音が、静かな部屋に響き渡る。
今頃、星蘭たちは、太史令とその娘を殺害した犯人を、突き止めようと必死なのだと思う。
(意味ないよ……)
筆を持つ手は、迷いを見せていた。じわじわと紙に滲む鈍色。それはどんどん広がって、無数の雨がぽつぽつと溢れる。けれど、その雨は黒くない。鈍色ではなかった。
「……っ、う」
いくら拭っても、溢れる涙。
袖の色が変わっていた。
結局、まだ僕は泣き虫だった。
あの時と何も変わっていない。
喉に詰まる感覚はまるで、何か吐き出したい気持ちになる。
僕は腕の中で蹲り、紅いタッセルピアスが頬を掠めた。すすり泣く声が小さくこの部屋を満たし、更に孤独を感じてしまう。
星蘭と生きたいと願った以上、泣いちゃいけない。泣きたいのは星蘭の方のはずだ。
僕は無造作に涙を拭い、瞼が痛くなる程に擦った。鼻の啜る音と嗚咽する声。
流れてこないはずの潮風と墨の匂いをかすかに感じる。
どれだけ、頑張っても、僕は……。
僕は弱虫のままだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
目尻は赤く腫れ、じりじりした痛みが広がる。水を掬い、滴る両手で、目尻に両手を当てた。その冷たさが今は心地いい。
回廊から足音が聞こえ、僕は肩がびくりと震える。『月華。今、ちょっと暇?』と籠った誰かの声。その声の持ち主は、紛れもない瑶璃だった。
「今はちょっと……」
僕は声を濁らせながらも、否定の言葉を述べる。そのまま、立ち去ってくれるだろうと思ったが、一筋縄では行かなかった。『ボクが駄目なら、大尉ならいいよね?』と言って、無遠慮に扉を開け、大尉様をぶち込んできた。
「いつまで経っても、人使いは荒いのですね」
バタン、と勢いよく扉が閉まる。この部屋には大尉様と僕だけ。回廊からは、『こら、聞こえてるよ。大尉』という呆れを含んだ瑶璃の声が聞こえる。
次第には『彗蓮もいずれ来るはずだから』という頭がガツン、と痛くなるような言葉を残して、足音が遠ざかっていった。
「それで、貴方……泣いているんですか?」
僕は必死に首を横に振り、紅いタッセルが頬に当たる程にまで否定した。
大尉様の薄水色の髪は、いつになく鮮やかさを感じる。彼は、長い溜息を吐く。
「……私は、瑶璃様に貴方を元気づけてあげてほしいと言われました。人選どうなっているんだと心底、思いましたよ」
(瑶璃が……?)
「でも、見物でした。あんなに焦りを見せる瑶璃様は、もう二度と見られないでしょうね」
彼はくすくすと優美に笑い、垂れてくる水色の髪を耳にかける。最初、出会った頃の彼とは違い、その瞳の奥には、『自信』で満ち溢れていた。あの時から変わらない、親としての優しさと愛。足りなかったのは『自信』だけ。
「瑶璃様は、不器用な方なんですよ。とっても、可愛らしいですよね」
「そうでしょうか……」
「えぇ」
にこりと目を細めて、微笑む彼。減給されているにも関わらず、幸せそうに見えた。以前よりもよっぽど、表情が柔らかい。彼の見えている世界は、鮮やかに映っているのだろうか。
「……幸せですか?」
ぽろり、と出てしまった言葉は、もう手遅れだった。咄嗟に手を口に当てて、僕は目を逸らす。あまりにも唐突な質問に、大尉様は目を丸くした。
「えぇ、」
飾らず、上品で、思わず見惚れてしまう程の、魅惑的な微笑みだった。
僕は目尻を下げながらも、祝福を口にする。
「……良かったです」
ちょっとだけ羨ましい。
ちょっとだけ寂しい。
そして、ちょっとだけ憎らしい。
そう思う自分に、吐き気がする。
今だって、心を読まれているかもしれない。なのに、自然に湧き出る感情に抗う事ができなかった。
彼はそれ以上何も言わない。『幸せですか?』という問いに対して、一言で済ませている。多分、気遣っているのだろう。
「……すみません」
「謝る必要はございませんよ。寧ろ、こちらが謝りたいぐらいです」
困ったように笑い、視線を影に流していた。
「心を読む力はあれど、相手を元気づける事は、得意ではありません」
『人の心は、一筋縄ではないですから』と言い、僕に視線を戻す。澄んでいる空のような色をした髪が、夏風に攫われていた。
コン、コンと扉が軽く叩かれる音に、僕は肩が上がる。『瑶璃様の命令で、来たよ~』と明るく呑気な声が籠って聞こえた。
「誰か来ましたね」
大尉様は、軽く会釈をしてから、手を木扉に触れる。そして、去り際に静かに振り返った。
「――――全てを知らないから、寂しくて悲しいのかもしれないですよ」
その言葉を部屋に残して、朱色の回廊に消えていく。
oh、いえあぁ




