第三十一話 流れ
うわぁぁぁ、、
あの火災後、僕は休暇を言い渡された。窓から聞こえる鴉の音と、流れてくる夏風。溜まっていた書類を、痛む火傷に耐えながら、一つ一つ丁寧に片付けていく。
「月華様。体調が優れない時は、いつでも言ってくださいね……?」
隣では雑巾を片手にして、掃除をする梨花。掃除する手を止めて、眉を八の字にしていた。
彼女は暫く付きっきりで、看病をしてくれるようになっている。瑶璃の命令でそうしているのだろう。
「迷惑をかけてしまってごめんね」
「いいえ! それが私の仕事ですから!」
胸の前で手をひらひらとさせて、全力で否定する梨花に僕は思わず頬が緩んでしまった。陽光が優しく僕たちを包み、暖かな風が後ろ髪を揺らす。
「そういえば、星蘭と彗蓮が火災の真相を探っているんだよね」
「はい! 犯人は複数人居るというのは確実らしいので、調査をしているのだそうです」
複数人いると判断した理由は、乞巧楼に火を移そうとした油が原因なのだろう。
白髪の女性が一人でやったとしたら、筋が通らない。
いつ油をばら撒いたのか。大量の油をどうやって撒いたのか。そして……。
『お父様よ。お父様がそう言ってたから、間違いないはずだもん!』
薄暗い回廊で言っていた、あの言葉。天の子と自分で名乗ろうとしたわけではないのだろう。
その『お父様』はこの宮廷内に居るのは確実だ。
「月華、居る?」
トントン、と遠慮がちな、けれど確かな足音が廊下に響き、部屋の扉が開かれる。
「わ! ゆ、瑶璃様……」
梨花があわてて雑巾をバケツに放り込み、深々と頭を下げた。瑶璃は彼女に向けて、こう言った。
「梨花。ごめんだけど、少し席を外してもらってもいいかな?」
「は、はい! かしこまりました」
一礼すると、すれ違いざまに僕へ『無理をなさらずに』と視線で訴える。ギィ、という扉の音と共に、出て行ってしまった。多分、廊下で待機しているのだろうけれど……。
部屋には僕と瑶璃だけ。
「はぁ……ボクは休暇を言い渡したはずなんだけど?」
瑶璃は困ったように眉を下げて、僕の手を痛々しそうに、目を伏せる。そして、流れるように片付けていた書類に視線を落としていた。
「その火傷で筆を握るなんて、自分の身体をなんだと思っているの?」
「ただの火傷だよ」
「君がそういう奴だと思って、梨花をつけたんだけど、彼女じゃ優しすぎたね」
大きなため息を吐きながらも、瑶璃は僕の向かいの椅子を引いて、腰を下ろした。
わずかな夏風が、この空間を揺らす。
「それで、調査の件……どこまで聞いた?」
どうでもいいかのように、息をするようにそう言葉にした。本題に入ったというのに、あくびをする瑶璃。
僕は構わず、口を開いた。
「犯人が複数人いること、それから、あの白髪の女性が言っていた『お父様』の件ぐらいかな」
先程聞いた話を、そのまま包み隠さず伝える。けれど、瑶璃は否定も肯定もせず、ただ腕を組んだ。
「そうだね。あれだけ大量の油を、いつ、誰が、撒いたのか何も分からない……あれだけ監視があったにも関わらずだよ」
その重い言葉が胸にのしかかり、僕は何も言えない。分からない。油を撒かれた時点で、地面の色や匂いに気づくはずなのに。どうして――――。
(あれ、匂い……?)
今回の騒動でまずあったのが甘い匂いだった。しかも、あの白髪の女性も甘い匂い……煙を漂わせていた。
「どうしたの? 月華」
「ねぇ、油が撒かれていたよね」
僕の言葉に軽く頷き、『うん』と返事をする。長い黒髪は、肩から垂れ落ちた。
(もし、事前に撒かれていたとしても怪しい)
植物油や動物の脂は無色無臭ではない。そのため、事前に撒かれた場合、独特の強い匂いがあり、何より粘り気があってドロドロとしているはず。
(……やっぱり、おかしい)
土に吸収されれば、そこは黒いシミができる。そして、日光に当たれば油の生臭い匂いや青臭い匂いが、風に乗って庭園中に猛烈に立ち込めたに違いない。
けれど、そのような報告はなかったし、自分自身も感じなかった。しかも、見張りの兵や役人たちも撒いた人を目撃していない。
「……ということは、あらかじめ撒いたわけじゃない」
「そう、正解だよ。月華」
突然の瑶璃の声で、僕は肩が跳ねる。
「白髪の女は、朧月一族だからね。その能力で、匂いを誤魔化していたんだよ。あと、ついでにボクたちを狙って、さ」
だからこそ、匂いで事前に露見することがなかった。じゃあ、その油は火をつける直前にばら撒いたのだというのだろうか。
「だとしても、あまりにも難しいと思うんだけど……」
僕は首を傾げ、ぽつりと言葉を溢す。『まぁ、そう思うのも無理もないよ』と納得するような優しい声音で瑶璃はそう言った。
そして、まだ言葉を続ける。
「でも実際、香橋から乞巧楼にかけての油は、白髪の女性が撒いていたという報告を受けている」
白髪の女性とその父親は、確定で黒。だから、火災騒動後に拉致したらしい。二人とも同じ部屋ではなく、別々の部屋で閉じ込めているとのこと。影で満たされている宮廷の一角で。
「父親が誰なのか分かったんだね」
「うん? あれは、彗蓮のおかげだよ」
彗蓮が何故気づいたのか。瑶璃は身振り手振りしながら、丁寧に説明をしてくれた。踊る袖は、窓から流れ込んでくる夏風によって捲る。
「朝会の時に、気になった言葉があるそうでね」
僕は眉を上げて、心当たりがあるかどうか探った。少し目立った行動をしていた人物は確かに居たような気がする。確か彼は……。
『昨日、凶星に不穏な兆候が見られました。これは身近な者の裏切り、あるいは―――』
―――とか言っていたような気がする。この言葉に彗蓮は可笑しいと判断したと。
(そういえば、初めて会った時……何かぶつぶつ言ってたけ?)
薄暗い書庫の中で初めて彗蓮に会った時、凶星のことについて何か言っていた気がする。
僕は額に皺を寄せながらも、思い出そうと必死に頭を回転させた。
『……おかしい。凶星の軌道傾斜角が―――――』
僕は最後に何を言っていたのか思い出そうとしても、霧がかかって分からなかった。せめて、最終的にはどういう事だったのか分かればいいのだが……。
夏風によって、紅いタッセルピアスが頬を掠める。
『どうして、太史令はそんな曖昧な数値を出した? 何か、隠されているのでは―――――』
僕は短く息をした。紅いピアスはもう揺れておらず、静かに吊るされている。
(あぁ…なるほどね)
僕が答えを導き出したのと同時に、瑶璃の静かに口を開かれた。いつもの漢服を纏っている彼の袖は、もう捲れていない。
「犯人は―――」
この静かな一室で、瑶璃の声が風に乗る。
「犯人は、太史令だよ」
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