第9話 傷モノ令嬢、-腹黒-幼馴染みに捕まる
青灰色の煉瓦が午前の陽光を浴びて銀色に輝く。国の礎そのものを誇示するように、天へと続く城は悠然とそびえ立っている。
まだ午前だというのに文官や来訪者でざわめき、遠くでは騎士たちが剣を交える音が微かに震えた。
――ここはニーレンベルギア城。
控えの間では、待ち人たちが静かにソファに腰を下ろしていた。
ガーネットとルビィ、そして侍女のセイラもその一団に紛れている。レオンハルトに会うための方便として、差し入れを持参したと伝え、現在返事を待つ身となっていた。
控えの間には陽光をたっぷりと照らしたテラス扉があり、美しい中庭を展望できる造りとなっている。四季咲きの白やピンクの薔薇が惜しみなく咲き誇り、気品ある甘やかな芳香が周囲を優雅に包み込んでいた。
「ママさま、すごくきれいなお庭なの!」
中庭の中央には美しい女神の彫像が佇む噴水があり、ルビィはテラス扉を飛び出して噴水へと向かった。ガーネットの手を引っ張って、噴水の水面に揺蕩う薔薇の花びらを上機嫌に眺めている。
無邪気にはしゃぐルビィを、ガーネットは穏やかな眼差しで見守っていた。その瞳には、芽生えてまもない深い愛情が宿っている。
馬車の中でも、ルビィは「あれは何?」「これは何?」と王都の街並みに大興奮していた。ずっと森の中に住んでいたと言うし、すべてが新鮮よね。
ルビィのためにも、パパ様を見つけて一緒に先に進みたい。
まあその前に、まずパパ様がどなたか突き止めないと……。
すると、
「ガーネット・ベルフィオーレ侯爵令嬢様。いらっしゃいますか?」
来客案内の侍従が、中庭に向かって朗々と呼ぶ声が耳に届いた。その響きは、風に乗って蒲公英の綿毛のように中庭中に響き渡る。
ガーネットはルビィの手を優しく引き寄せ、すぐに控えの間へと引き返した。
「シュナイダー筆頭書記官の書斎室までご案内いたします」
廊下を少し進むと、さらに大きな主廊下へと足を踏み入れた。
主廊下は、謁見の間や大広間、騎士詰所へと繋がるため、文官や騎士、使用人など様々な身分の者が行き交っている。
ルビィと手を繋ぎながら、ガーネットもその人の多さに圧倒され、つい周囲をきょろきょろと見回した。
その時、主廊下の奥から、木々の隙間からこぼれる木漏れ日のような柔らかな青年の声が響いた。
「ガーネっ!」
白に淡い青を溶かしたような月白色の髪をさらりとなびかせ、歓びに濡れたコバルトブルーの瞳は三日月を描く。
主廊下の喧騒を縫うように駆け抜け、飛び込むようにガーネットを抱き締めた。
「ガーネ、会いたかったっ」
ガーネットの視界に広がったのは、選ばれた者しか袖を通せぬ豪奢な書記官の制服。襟元に輝く筆頭書記官の紋章と――そして、ガーネットを愛おしむような瞳を向ける優しげな若い男だった。
彼の名はレオンハルト・シュナイダー。ガーネットの幼馴染みである。
逃げ道を塞ぐような抱擁に、ガーネットは僅かに身を強張らせた。
月の光を映したような月白色の髪色、コバルトブルーの瞳は儚さの象徴の如く佇まい。だが、引き寄せた腕は思いのほか力強い。
その最中、人々のざわめきがガーネットの耳を掠めた。レオンハルトの抱擁の隙間から周囲を見回す。文官や騎士、メイドに至るまで、驚愕に瞳を見開いてこちらに視線を注いでいた。
ここは王城の人々行き交う主廊下。この場で起きた出来事は、瞬く間に城中に知れ渡ってしまう。このままじゃ、レオンとあらぬ噂を立てられて……っ。
焦燥に駆られ、ガーネットは声を強く張り上げた。
「ちょっとレオン、離してっ。人前で何をするの!?」
身を捩るガーネットの動きを包み込みながら、レオンハルトは愉悦に唇を綻ばせる。
「あはっ。それがいいんじゃない? ガーネが僕のものだって理解できるでしょ。もしかして、恥ずかしいの……可愛い」
「恥ずかしいも何も、私はレオンのものじゃないですからっ。離してっ!」
両手でレオンハルトの胸を思いきり押し、絡みつく腕を剥がすようにしてようやく離れた。微かに震えた指先を抑え、はぁと項垂れるように溜め息を落とす。
レオンったら、普段より強引な気がするのだけど、一体どうしたのかしら?
「ガーネ離れちゃうの、さみしい……でも、ま、充分といえば充分かな」
コバルトブルーの瞳を揺らめかせ、周囲の喧騒を見渡したレオンハルトはにやりと口元を緩める。ふと思い出したように、案じた瞳でガーネットを覗き込んだ。
「あ、昨日は大丈夫だった? カイザー殿下め、夜会で婚約破棄宣言なんて何考えてるんだか。ガーネと婚約解消なんて勿体ない。それなら子供の頃に、僕と変わってくれたらよかったのに」
普段のレオンハルトらしい柔らかな微笑みを浮かべ、
「でも、やっと求婚できるようになったのは嬉しいかな」
そのひと言で、ガーネットの表情が閃光の如く瞬く。
気づいた時には、強い調子で声を放っていた。
「そうだわ、手紙!」
気づきの気配を察したのか、レオンハルトのコバルトブルーの瞳がほんの一瞬だけ小刻みに揺れる。
「あは。ガーネが婚約解消したってわかったら、もう居ても立っても居られなくて、結婚を申し込んでいたよ。吃驚した?」
「そ、それはもう……どうして私にって驚いたし、30分毎に届いてお父様も困惑していたわ」
ガーネットの言葉に触れ、レオンハルトは顎に手を添えて唸るように眉を寄せる。
「困惑か……あれだけ送れば諦めて了承してくれるかと思ったけど、そうそう上手くはいかないか。うーん、やっぱり15分おきにすればよかったかな」
今度はガーネットが眉間に皴を寄せ、怪訝な表情でレオンハルトを見据えた。
「……婚約申込で実験しないで」
「ごめんごめん。実験のつもりはなかったんだけど。ガーネが大好き過ぎて、ちょっとやりすぎたかも」
コバルトブルーの瞳が煌めき、レオンハルトは何事か閃いた。
内ポケットにそっと指先を滑り込ませ、流れるような手つきで何かを取り出した――それは、どこか見覚えのある羊皮紙。羊皮紙を広げたレオンハルトは、まるで今発見したかのように驚きの声を上げる。
「あっ、ほら、こんなところに嘆願書が! 実は王城に猫の親子が住みついてね、飼育の許可を得る嘆願書なんだ。ガーネも署名してくれないかな。猫好きでしょ……ね、いいよね?」
「え、それはもちろんいいけど……」
にこりと微笑んだレオンハルトは、ガーネットの右手に丁寧に羽ペンを握らせた。薄く細めた瞳には、何かよからぬ黒い炎が揺らめいている。
羊皮紙には小さな字で『婚姻誓約書』と記されているが、ガーネットはまだその事実に気づいていなかった。




