第10話 傷モノ令嬢、契約結婚を持ちかけられる
ガーネットは羊皮紙にさらさらと羽ペンを走らせていく。傍らでは、レオンハルトが迫るように署名を囃し立てていた。
未だレオンハルトから手渡された『婚姻誓約書』を、『猫の親子の嘆願書』だと思い込んでいるガーネットだが……。
愛らしい猫の親子を思い描き、ガーネットの頬には穏やかな笑みが自然と零れていた。だが『ガーネ』まで名を綴ったところで、ふとペンを止める。猫の愛らしさが胸を満たし、嬉々とした声を洩らした。
「ふふ、王城に住むだなんて高貴な猫ちゃんたちね。あら、でも……確か国王様って猫がお嫌いだったような……」
動揺を纏ったように視線をゆらりと彷徨わせ、レオンハルトは声を上擦らせる。
「あー……何か、急にお好きになられたらしい、よ」
「ふふ、そんなこともあるのね。いつ生まれた猫ちゃんなの? 仔猫は何匹? 毛並みはどんな柄?」
怒涛の質問を浴びせられ、レオンハルトの視線がさらに泳いだ。
本当は王城に猫などいない。大の猫嫌いの国王が、猫払いの専任まで雇って追い払っているのを承知していた。
これはガーネに、婚姻誓約書に署名してもらうために吐いたちっぽけな嘘だ。
誓約書に一筆もらえさえすれば、ガーネは晴れて僕と夫婦となる、ふふふふふ。
でもここで問題発生だ。僕は猫に明るくない。
猫が1度に何匹くらい出産するとか、毛並みの種類だって一切の知識がなかった。正直、筆頭書記官の実務を凌ぐほどの難題だ。
猫好きの情熱を侮っていたと僅かばかりの後悔を噛みしめながら、さも存在するかの如く滔々と述べていく。
「仔猫は……うーん、春先に生まれた仔猫が3匹くらいだったかな。毛並みは三毛と、ぶち。それから………………芝?」
ガーネットは耳を疑った。
青碧の瞳は驚愕に見開かれ、レオンハルトを瞳に映したまま、困惑を宿したように瞼を震わせる。
「え……芝? 芝って、確か遠方の東の国の犬種だったような…………ん?」
視線を滑らせた矢先、ガーネットの視界に『婚姻誓約書』の文字が入る。ガーネットの喉先がひゅっと息を吸い込んだ。
「っ……待って、これ……こ、婚姻誓約書っ!?」
驚愕の色を瞳に宿し、こちらを訝しげに見据えた幼馴染みの眼差しを、柔らかな笑顔でひらりと躱す。今日の天気を外したような軽い反応で、レオンハルトは声を零した。
「あ、気づかれた。んー、惜しかったな」
柔和な笑顔を完璧に保ちながら、レオンハルトの指先は悔しさを吐き出すようにぱちんと鮮やかな音を立てた。乾いた音が主廊下の柔らかな絨毯に吸い込まれていく。
子供の頃から、ガーネは僕に対して非常に甘かった。
きっと腕白な弟の悪戯くらいに思っているのだろう……いつものこととばかりに「もうっ」とささめき、咎める様子はない。
僕への甘さを知っているからこそ、僕は次の作戦へと打って出る。
「……ああっ」
世界の終焉を嘆くように、レオンハルトは大袈裟に肩を落とした。湖面が波打つようなコバルトブルーの瞳が哀しみに揺れる。
その瞳に幼い日のレオンハルトの面影を重ね、気づくとガーネットは「どうしたの?」と声を寄せていた。にやりと刃を光らせた幼馴染みの胸の内など、露ほども知らずに……。
しんみりと俯いたレオンハルトの横顔は小さく震え、目尻がきらりと光る。
「実はね……僕も結婚の申し込みが絶えなくて困っているんだ。最近なんて、王城内で待ち伏せする令嬢までいて、仕事にも支障が出始めてる」
首席で学園を卒業し、1年で筆頭書記官になったレオンハルトはまさに優良物件。結婚の申し込みが絶えないのは納得である。
中には、血眼になって妻の座を狙う者もいるだろう。
実の弟のように思っているレオンハルトの苦悩に触れ、ガーネットは寄り添うように声を和らげた。
「待ち伏せだなんて……どうにか止めさせる手立てはないものかしら」
その言葉を放った瞬間、ガーネットはレオンハルトの仕掛けた狡猾な罠に一歩足を踏み入れた。じりじりと獲物を追い詰める狩人のように隙を狙いながら、悲嘆の色を装う。
「彼女たちは僕の次期公爵という地位や、筆頭書記官という立場に惹かれているだけ。そんな女性と夫婦の契りを交わしたところで、幸せになれる気がしないんだ」
言葉を挟むことなく、ガーネットはただ静かに頷いている。そんな心優しい幼馴染みを横目に、レオンハルトは顔を上げ、そっと息を吸い込んだ。
「そして僕は気づいた。この結婚という問題に終止符を打つ手段に……」
ガーネットの左手を手に取り、そっと引き寄せると手の甲に優しく唇を落とす。
「ガーネも婚約解消したし、きっと今から野蛮な男たちが狙ってくるに決まってる。そんな大変な目に合う前にさ……僕と結婚しよう?」
ガーネットは表情を崩さぬまま、青碧の瞳を幾度も瞬かせた。驚愕よりも先に、レオンハルトを思う姉としての痛みが胸を占めていた。
婚約申込書だけじゃなく、レオンから直接求婚されるとは思わなかった。
姉のように思っている私に求婚するほどだなんて……きっと、随分と切羽詰まっているのね、可哀想なレオン。
眉を柔らかく下げ、瞳は女神のようにたおやかに。ガーネットはレオンハルトを包み込むような慈愛にあふれた微笑みを結んだ。
「気持ちはとても嬉しいわ。でも、そういう大切なことは焦って決めないほうがいいと思うの。いつか現れるレオンの大好きな人のために」
レオンハルトの瞼がぴくりと痙攣した。だがすぐに、ガーネットの右手を自らの頬に引き寄せ、甘えるように声を落とした。
「……僕はガーネのことが子供の頃から大好きだよ。ガーネは僕のこと、嫌い?」
濡れた宝石のようにコバルトブルーの瞳が煌めく。その姿は雨の中、寂しげに俯く仔猫を思わせた。
そんな幼気な幼馴染みを、ガーネットが見捨てるような真似はできず、
「まさか、嫌いなわけないじゃない。もちろん好きよ。だけど、それは幼馴染みとしてであって……」
だが言質を取ったとばかりに、レオンハルトは矢継ぎ早に言葉を放つ。
「今好きって言ったよね、好きなら問題ないよ!」
「ん……だからね、私はレオンとは…………っ」
これ以上言わせないとばかりに、レオンハルトはガーネットの手首を力強く握り締めた。冷たい指先がガーネットの手首を痛いほど締め付ける。
息が触れるほどの距離。いつもより一段低く抑えた声音が、そっと耳を撫でる。
「そんなに結婚に抵抗があるなら……そうだな、契約結婚なんてどう?」
強く握った指先が、さらにガーネットの細い手首に食い込んだ。
その力強さはガーネットの知る幼いレオンではなく、力強い男の腕力で――偏に拒否は受け付けないと告げているようだった。




