第82話 たったひとりの最愛
――21年前、ある小領の街中にて。
1台の馬車が、車輪の音を立てながら石畳の街路を進んでいく。
蛇の紋章を刻んだ馬車は、ガルシア家のものであった。
その馬車の中、ダルトン・ガルシアは深いため息を漏らした。
「……はあ。ようやく14人目か」
当主になった私は、当主としての責務を果たしていた。
責務の中で、最も重要な務めが優秀な跡継ぎを残すことだ。
今年は私にとっての吉兆の年。
ガルシアの当主は、吉兆の年にできるかぎり子を成す。
生まれた男児を争わせ、兄弟を蹴落として頂点に立った者が次代の当主となるためである。
責務であることは重々承知していた。
しかし、私はもう飽き飽きしていた。
吉兆の年も中盤を過ぎ、妊娠の報告も続々と届いている。
だが、まだ数名の相手が残っていた。
終わらない役目に、私の心は虚無に飲まれかけていたのである。
――ヒヒィィィィンッ!
馬の嘶きがつんざく。
刹那、馬車は地を削るように止まった。
衝撃に抗うように必死に耐える。
連絡窓を激しく叩き、御者に叫んだ。
「どうした⁉」
御者も慌てた様子で声を張り上げる。
「申し訳ございません当主様っ。道端に女が倒れておりまして……」
「女だと?」
普段なら即座に馬車を出せと命じるのに、その日は何かが違っていた。
杖を取り出した私は馬車を降りた。
石畳の通りには、確かに女が倒れていた。
濃紺の長い髪を散らし、衣服は土に塗れてみすぼらしい。
長い髪が顔を覆い隠し、顔はよく見えない。
杖でそっと髪をよけると、覗いた顔に私は眉をひそめた。
「……ん、この女は」
以前参加した夜会で見た顔だな。
確か、アドレイト家の……カレンデュラ嬢だったか。
いつも婚約者に寄り添って、締まりのない笑みを浮かべている女だった。
そういえば、アドレイト家は当主の借金か何かで離散したんだったか。
このみじめな様子では、婚約者にも捨てられたのだろう。
それは、ちょっとした気まぐれだった。
捨て猫でも拾った気になったのかもしれない。
私は、彼女をベルフィオーレの隠れ家へ連れ帰った。
衣食住を与えると、女はすぐに元気を取り戻した。
「おかえりなさいませ、ダルトン様っ」
私が顔を出すと、カレンデュラはいつもその締まりのない笑顔で駆け寄ってきた。
頼んでもいないのに、できる限りの饗しを用意して。
自分でも不思議極まりないのだが、務めの合間を縫っては、彼女のもとへ足を運ぶのが習慣となった。
あの締まりのない笑顔を見ていると、奇妙なことに落ち着くのだ。
カレンデュラとの関係が先へ進むのに、そう時間はかからなかった。
カレンデュラは男児を生んだ。
コールレオンと、私自ら名付けた。
力強い獅子の意味を持つ名だ。
当初は、コールレオンを当主候補に入れるつもりなどなかった。
だが生まれた男児が少なく、やむを得ず……。
カレンデュラは本当に何も知らなかったのだ。
ずっと何も知らずに、締まりのない笑顔で笑っていてほしかった。
カレンデュラを病へ追いやったのは、私の身勝手が招いた結果だろう。
だからこそカレンデュラの死の間際の言葉は、眠りに落ちる瞬間も、食事を口に運ぶ時も、今も私を、深い後悔へと苛む――
ガルシアの屋敷、カレンデュラの私室。
カレンデュラとの別れの日……
ダルトンは、床に臥せたカレンデュラの手を握っていた。
今夜を越えるのは難しいだろうと、医者からは告げられていた。
途切れ途切れに、カレンデュラのか細い息が寝台に消えていく。
息を吸うことすら苦しいはずなのに、必死に声を絞り出す。
「ダル、トン様、どうか……コールのこと、は……諦めてください。あの子は……冷徹な当主を演じる、ことはでき……ないわ……ダルトン様もとっても、ご無理なさっているでしょう?」
「あの子には、もっと……じ、ゆう……に……」
固く繋いだカレンデュラの手が冷たくなった瞬間は、今もよく覚えている。
胸をよぎったのは、ガルシアの当主としての矜持と、当主でなければよかったという悔恨。
当主としての矜持は、息子コールレオンとカレンデュラの死を分かち合う機会を失わせた。
カレンデュラを失った絶望を、息子の前でさらけ出す勇気が私にはなかった。
あれこれと理由を付け、コールレオンを部屋から追い出してしまったのだ。
私は結局、ガルシアの当主以外の何者にもなれないのだろう。
∻❖∻
厩舎の外にて。
白い朝霧は、まだ厩舎を薄く覆っている。
満腹になった白馬パトリシアの背に、ガーネットとコールは並んで腰を下ろしていた。
傍らにはダルトン、そして家宰のジャレンの姿があった。
手綱を握り締め、コールはダルトンへ告げる。
「当主様……よかったら、母さんの墓参りにいらしてください」
「遠慮する。有象無象の墓石に囲まれるのは気が進まん。墓守もいないあのような陳腐な教会を訪れるのは、2度とごめんだ」
ダルトンの言葉に、コールは琥珀の瞳を瞬かせる。
ん、2度と?
なんか、まるで来たことがあるような言い草だな。
もしかして……
俺の知らない間に母さんの墓参りに?
わずかに角度が変わっただけなのに、少しだけ、ダルトン・ガルシアという男の見え方が変わった気がする。
これも全部……姫様のおかげ、だな。
――ヒヒィィィィンッ!
蹄を小刻みに踏み鳴らし、焦れた様子のパトリシアが早く行こうと急かし始める。
「おっと、それでは俺たちはそろそろ失礼します」
静かに呼吸を整える。
コールは、気恥ずかしげにダルトンへ告げた。
「それではまた……父さん」
「…………フンッ。せいぜいガーネット嬢に捨てられぬようにな。ガルシアの未来のために!」
ダルトンの放った皮肉に、コールは口元をゆるめた。
それまで皮肉を言われるたびに感じていた苛立ちが嘘のように、コールの心は晴天のように晴れ渡っていた。
手綱をゆるめ、愛馬パトリシアに合図を送る。
すると、待ち構えていたようにパトリシアは走り出した。
「きゃっ……それでは失礼します。ガルシア卿、ジャレンさん!」
手を振るガーネットを、ダルトンは静かに目で追っていた。
2人が白霧に消えていった頃……
傍らから生温かい視線を感じ取る。
「何だジャレン」
微笑みを浮かべたまま、普段と変わらぬ穏やかな口調でジャレンは紡ぐ。
「いえ、ガーネット様には随分とお心を開いていたと思いまして」
ダルトンの杖を持つ手に、微かに力が込められる。
だがすぐにフッと唇をゆるめた。
その微笑みは、厳格な当主とは程遠い柔らかさが宿っていた。
「……私も病で耄碌しているのかもな。彼女を見ていると、誰かの顔が浮かんでしまった」
その誰かを思い起こしながら、ダルトンは静かに言葉を綴っていく。
「人は遅かれ早かれ死ぬ。そこには国王だろうと、当主だろうと……身分など何もない。そして私も、もうすぐカレンデュラの元へ旅立つだろう」
ふと瞼に、手を焼かせる息子が思い浮かぶ。
ダルトンは、白い霧の向こうを見上げた。
「コールレオンにガルシアを託したかったが、諦めるしかないか。憎きベルフィオーレを倒す礎に、彼奴ならなれると期待したのだが……自由、か……」
白い霧の彼方に、淡い光が輝いた。
上空の霧がゆるやかに薄れ、太陽が薄っすらと顔を覗かせる。
その太陽に問いかけるように、ダルトンは張り詰めた口元をゆるめた。
「ベルフィオーレの娘と恋仲になるのは、少しばかり自由が過ぎているだろう。な、カレンデュラ……」
空の上、カレンデュラが締まりのない笑みを浮かべた気がした……。




