第74話 暇を持て余した令嬢は、幼き騎士と縁を結ぶ
ここはベルフィオーレ城。
――ギィィィ。
森へと続く鉄格子を、慎重に開ける小さな影があった。
珊瑚色の髪をさらりと揺らし、大きな青碧の瞳で周囲への確認を怠らない。
5歳にしては慎重なその幼い少女は、城壁に背を預け、自らの完璧な脱出に小さな口元をほころばせる。
「んふふ、脱出成功なの」
森を弾むように駆けていくのは、まだ幼きガーネットだった。
すでに城の中を隅々まで遊び尽くした小さな令嬢は、退屈を持て余していた。
セイラは、母親のお産のために実家に帰郷中。
ガーネットとカイザー殿下の婚約を阻もうとしたレオンハルトには、接近禁止令が下され、ベルフィオーレ領を訪れることも許されなかった。
「はあ。セイラもレオンもいないし暇だな。どこに遊びにいこうかなー」
謳うように言葉を紡ぎつつも、ガーネットの足はすでに行く先を知っていた。
それは、ガーネットの母エメルダが長年研究対象とするベルフィオーレの遺跡。
遺跡へ向かう母の姿を追いかけても、いつも巧みに巻かれ、置いてけぼりを食うばかり。
「んふふー、突然行ってママ様をびっくりさせちゃおう!」
∻❖∻
――それから1時間が過ぎた。
歩けども歩けども、森は同じ景色を繰り返す。
永遠に終わらない迷路と化していた。
足の裏は、じんじんとした鈍い痛みが続く。
森の暗がりからは、不気味な啼き声が響いて怖くてたまらない。
その頃にはもう、ガーネットの心は細い枝が崩れるように折れていた。
ぺたりと地面に膝を突く。
途端に青碧の瞳から大粒の涙がこぼれ、頬を濡らしていく。
「うっ……うっ……ここはどこ? 遺跡はどこなの? まま、ママさまあぁぁぁ」
母の名を叫んでも、返ってくるのは森のさざめきだけ。
小さな指先で涙を拭う。
でも、恐怖と孤独に押し負けた涙は止まらない。
堰を切ったように、頬を伝い続けた。
恐怖はひたひたと募るばかり……。
「……う……ぐす……うぅぅ、うわあぁぁぁんっ‼」
ガーネットの嗚咽が、森中に響き渡ったその時だった。
どこからともなく、少年の声がふわりと舞い降りる。
「お前……こんなところで大声出したらケモノが寄ってきて、余計に危ないだろ」
すぐに視線を巡らせた。
だが、周囲にはブナの幹が立ち並ぶだけだった。
木々の陰さえ恐怖心を煽る。
ガーネットは祈るように指先を絡め、震える声で言葉を絞り出す。
「だっ、だあれ? もしかして……おばけ?」
――バサバサっ。
ガーネットの背後で、茂みが激しく揺れる。
身を縮めた瞬間、茂みが割れて少年がひょこりと顔を出した。
「誰がおばけだ!」
「きゃぁ!?」
目の前に現れたのは、ガーネットとそう年端も変わらぬ少年だった。
濃紺の前髪の下に輝く琥珀色の瞳が、何とも印象的である。
手元には、伝説の騎士が振るった聖剣のような大きな木の棒を携えている。
心細いガーネットには、何ともたくましく思えた。
青碧の瞳をきらりと輝かせ、羨望を含んだ眼差しを少年へ向けた。
「あなた、もしかしてきし様?」
「え、騎士って……そ、そう見えるか?」
騎士に憧れを持った少年は木の棒を剣のように扱い、嬉々として振りかざしてみせた。
その仕草を目にしたガーネットは、風になびく花のように小首を傾げる。
「きし様? じゃないかも……あのね、私の名前はガーネット・ベルフィオーレ。あなたのお名前は?」
「……べ、ベルフィオーレだと!?」
瞬間、少年は跳ねるように身を竦ませた。
だが、即座にガーネットへにじり寄る。
泣き止んだばかりの顔を、細部まで確かめるように覗き込んだ。
驚いたガーネットは、青碧の瞳を大きく揺らしている。
ベルフィオーレって、確かこの領の領主の名前だよな。
じゃあ、このちっちゃいのは領主の娘?
それに、家に来た父さんがいつも決まって、『おのれ、ベルフィオーレめ!』と憎々しく口にするんだ。
母さんはいつもなだめて笑ってるけど、あの時の父さんは身震いするほど恐い!
もし父さんにベルフィオーレの子供と話したとバレたら、大目玉を食らうかも。
でも迷子を放っておくわけにもいかないし。
うーん、どうすれば…………。
あ、そうだ。
俺がバレなきゃいいんだ。
本名を名乗らなければ大丈夫だろ!
コールとか、コールレオンだとすぐにバレそうだし、そうだな……。
「おほんっ」と小さく咳払いを落とす。
喉を整えた少年は、その場の不安を払うような明朗な声を響かせた。
「俺の名前はコー、じゃなかったレオだっ。仕方がないからお前を城まで送り届けてやる。いくぞ!」
レオ……いや、コールは踵を返して歩き出す。
しかしガーネットはしゃがみ込んだまま、微動だにしなかった。
付いてこない足音に違和感を覚え、コールは振り返った。
先ほどまでのお喋りは影を潜め、静かに身を屈めたガーネットの顔を覗き込む。
「おい、どうしたんだ。家に帰りたくないのか?」
むぅっと口を引き結んだガーネットは両膝に手を置いたまま、涙で濡れた瞳でコールを仰いだ。
「……じつはね、足がガクガクして動かないの」
「ええっ!?」
よく目を凝らすと、ガーネットの足は細い網の上を渡るように小刻みに震えていた。
「あーもうっ、仕方ないな」
呆れたように言葉をこぼしながら、コールはガーネットに背を向けて膝を突く。
「ほら、おんぶしてやるから」
「うぅ……ありがとうレオっ!」
涙ながらにコールの背中に飛び込んだ記憶は、今も鮮明に残っている。
6歳のコールの背中は心細い私には大きくて、温かくて。
そして、私の涙でぐっしょりと濡れていて……。
今振り返ってみても、コールにはずっと助けられっぱなしね。
ちょっとした私の好奇心と大号泣が、私とコールの縁を思いがけず引き寄せたのだった。




