第73話 キャンバスには秘密がいっぱい
――夕食後。
ガーネットとコールは、ある人物の部屋の前で足を止めていた。
ある人物とは、コールの母カレンデュラのことである。
カレンデュラが亡くなって3年。
勘当されたコールは、この部屋に踏み入ることはなかった。
そのためコールも、肩を強張らせて緊張気味だ。
ジャレンから預かった鍵を、慎重に差し込む。
装飾の施された鍵穴がカチャリと音を立て、ゆっくりと回した。
そっと扉を開ける。
すると、独特の香りが鼻先に広がった。
ツンと刺すような強い匂いが、鼻にまとわりつく。
「この匂い、久しぶりだな……」
そう呟いたコールの声音は、懐かしさにあふれていた。
「この部屋に来れば、まだ母さんが迎えてくれるんじゃないかって、心のどこかで思ってた。でも、やっぱりそんなことはないか……」
ガーネットの瞳に映ったコールの背はいつもより小さく、どこか寂しげで……。
胸の奥がひりひりと疼く。
気づくと、コールのシャツの裾を握りしめていた。
指先にそっと力を込め、コールを支えたい一心で言葉を紡ぐ。
「コール……私も、付いてるから」
コールは一瞬、目を見開いた。
だが、すぐに琥珀の瞳をゆるめて柔らかく微笑みかける。
「……ありがと姫様。大丈夫、心の整理は付いてる」
落ち着いた様子で、コールは部屋のランプに火を灯す。
室内が淡い橙色の光に照らされる。
するとガーネットも、このツンとした匂いの正体を察した。
室内には、キャンバスや油絵の具が床やテーブルに無造作に散らばっていた。
筆を走らせる息遣いが聞こえてくるようである。
コールがすぐに足を向けたのは、寝台近くのイーゼル。
イーゼルに置かれたキャンバスを、まるで引き寄せられるように見つめた。
「この絵…………完成してる! この絵が完成したか気になっていたんだ」
瞳を潤ませたコールの視線の先には――
キャンバスの中、肩を並べて穏やかに笑い合う3人の親子の姿が描かれていた。
コールの肩越しから顔を出し、ガーネットもそっと覗き込む。
キャンバスの中央には、幼い頃遊んだレオによく似た、コールと思しき幼い少年が太陽のような笑顔を照らしている。
そのコールの肩を包むのは、コールと同じ濃紺の髪をまとった優しげな女性。
きっとこの方が、コールのお母様だわ。
そして、切れ長な瞳を穏やかに細めるのは……もしかして、ガルシア卿?
先ほどお会いしたガルシア卿とは似ても似つかないけど、どことなく面影を感じる。
穏やかな眼差しを浮かべたまま、コールはその絵画に視線を注いでいた。
「とっても素敵な絵ね。コールのお母様が描かれたの?」
遠い日を懐かしむように、コールはくしゃと微笑む。
「ああ、母さんは昔から絵が好きで、暇を見つけては描いていたよ。でもちょっと現実より美化するんだよなぁ……当主様が笑ってるところなんて見たことない」
コールの口元に刻まれた微笑みは、穏やか。
だがその表情は、どこか切なげだった。
「この絵はさ。病が悪化してもどうしても描き終えたいって、母さんが描いた絵なんだ」
キャンバスの中の、母の輪郭を指先でそっとなぞる。
「俺は最期に立ち会えなかったから知らなかったけど、完成させたんだな。座るだけでもきつかっただろうに……母さんらしいというか」
呆れたようなコールの声が室内にこぼれる。
その声音には、母を称える敬意と安らぎが感じられた。
ふと、ジャレンから頼まれた言伝が胸に浮かんだ。
ガーネットは顔を上げ、瞳を一番星のように煌めかせる。
「そうだわ! ガルシア卿がこの部屋の物は好きに持っていって構わないとおっしゃったのって……もしかしてだけど、暗にこの絵をコールに託すってことなのかも!」
コールは顎に手を添え、口を結んだまま思案を巡らせる。
「そんな優しいことをあの人が言うか? 真冬の吹雪さえ生ぬるく感じるほど、冷徹で容赦のない人だぞ。でもま、いいんならお言葉に甘えて持って帰るけど」
悪態を吐きながらも、コールの声色はどこか弾んでいて……
嬉しそうにキャンバスを腕に抱いた。
宝物を手にした子供のような眼差しで、コールはまじまじと絵画を見つめている。
その傍らで、ガーネットは室内へと視線を巡らせた。
すると、部屋の隅に置かれた木箱に目が留まる。
木箱の中には、多くのキャンバスが収まっているようだ。
コールのシャツの袖を指先で引っ張りながら、ガーネットは木箱を指差した。
「コール。あっちにもお母様の絵があるわ」
「ああ、あれはたぶん風景画だ。母さんは人物画よりも風景画が得意だったから」
小走りで木箱へ駆け寄り、そのキャンバスを1枚ずつ確かめるように手に取った。
ベルフィオーレの街並みや中央広場など。
見覚えのある風景も、ちらほらと見受けられる。
だが最後に現れた風景を目にした途端、ガーネットの瞳に驚きの色が走った。
「……これってベルフィオーレの、遺跡?」
キャンバスに描かれていたのは、ブナの木々の中に佇む縦長の巨石。
ルビィが時空転移の術を発現させたと予測される、例の場所だった。
横から覗き込んだコールも、小首をひねる。
「ん……本当だな。母さん、あんな辺鄙な場所に行ったのか?」
コールの疑念に耳を傾けながら、ガーネットはキャンバスを裏返した。
裏面には柔らかな筆跡で、14年前の日付と『コールと秘密のお友達』というタイトル。
そしてカレンデュラ・ガルシアと署名が記されていた。
そのタイトルに、今度はガーネットの胸にも小さな疑問が宿った。
秘密のお友達?
遺跡の風景画よね……。
お友達はおろか、コールも見当たらないけど?
不思議と、何か惹かれるものを感じ取る。
ガーネットはキャンバスの裏面に、入念に視線を落とした。
木枠に張られた布地に指先を滑らすと、わずかに布が厚いことに気がついた。
「ん? え…………これって」
テーブルにキャンバスを置き、木枠からそっと布地を外していく。
すると布地が2枚に割れた。
なんと、絵が2枚重ねになっている!
そのからくりを目にしたコールは息を呑み、吸い寄せられたように視線を注いだ。
重なった布地を傷つけぬように、ゆっくりと外していく。
夕陽が沈むくらいの早さでゆっくり、ゆっくりと……
そしてついに、もう1枚の絵画が姿を現した。
絵画を捉えた瞬間、ガーネットは驚愕の声をあげる。
「え、これって…………わた、し?」
そこに描かれていたのは――
ベルフィオーレの遺跡で遊ぶ幼いガーネットとコールの姿だった。
ガーネットは頭に花冠を乗せたまま頬を膨らませ、コールはガーネットと手を繋いで、なだめるように微笑みかけている。
柔らかな筆遣いと色彩が、2人の愉しげな姿とあたたかな雰囲気を生み出していた。
これにはコールも目を丸くした。
珊瑚色の髪の少女は、疑う余地もなくガーネットに他ならない。
「んなっ……何で姫様と俺の絵が!? ……これ、母さんの絵だよな?」
口元に手を当て、腕利きの鑑定士のように絵画へ視線を凝らす。
「うーん……この耳の描き方とか、間違いなく母さんの絵だな……」
「ふふ」
「ん、姫様?」
不意に、ガーネットの柔らかな笑い声がコールの耳に届いた。
ガーネットは晴れ晴れとした笑みを浮かべる。
「ふふ、突然笑い出してごめんなさい。この絵を見ていると、あの頃の思い出が蘇ってきて、つい嬉しくなってしまったの」
他人に踏みにじられる痛みも、敗北という苦味も知らない。
恐れを知らない、幼い2人が描かれたキャンバス。
「ねえコール。初めて会った時のことを覚えてる? 私はお城から抜け出して、1人で森にやってきたの……」
コールもあの夏の日に思いを馳せる。
「俺は……ガルシアへ移り住む前に、最後に冒険したくて森に向かったんだ」
2人の記憶の欠片が、ゆっくりと時を巻き戻していく――。




