第69話 嘘からでた戦慄
浴室の向こうから、コールの湯浴みの音が響く。
浴室の音が届くたび、ガーネットは落ち着かない様子で膝を抱えた。
コールのお風呂の音に、どうしてこんなに緊張するのかしら。
私、何かおかしい……。
その時だった。
――コンコンコンっ。
扉を叩く柔らかな音が響いた。
ガーネットはソファから腰を浮かせ、すぐさま扉の前へ。
ドアノブに手を掛けた瞬間――コールの言葉が蘇った。
『ジャレン以外は部屋に入れないようにな。この屋敷は何かと物騒だから』
そうだった。
このお屋敷は、私の家とかなり勝手が違うみたい。
だから、しっかりと来訪者の確認をしないと。
コール曰く、何か物騒なことが起こるかもしれない。
ドアノブから手を離し、扉の向こうを窺うように声を掛けた。
「どちら様でしょう?」
「私です。家宰のジャレンでございます」
……うん、大丈夫そうね。
ほんの数分前に会話をしたジャレンさんの声に間違いない。
それでも大事があってはいけないと、指先ほどの幅だけ扉を開ける。
その細い隙間から顔を寄せて忍び見た。
こちらに気づいたジャレンが、親しみを込めて微笑みかける。
「ガーネット様、カレンデュラ様の部屋の鍵をお持ちいたしました」
ガーネットも微笑み返す。
「ジャレンさん、ありがとうございます。コールは湯浴みをしているので、私が受け取ってもいいですか」
「そうでございましたか。では、こちらをガーネット様にお渡しして……」
受け取ろうと、ガーネットが手を伸ばした。
すると、ジャレンの手がピタリと止まる。
「ああ、そうでございました。御当主様から言伝がございます」
指先で鍵を転がし、
「カレンデュラ様の部屋の物は、好きに持っていって構わないと仰せでございます。第一夫人と第二夫人には立ち寄らせていないとも、仰っておられました」
「まあ、それは……きっとコールも喜びます」
ガーネットは頬をゆるめ、満面の笑みを咲かせた。
それと同時に、胸の奥に引っかかっていた疑問が浮かび上がる。
「あの、気になっていたことがあるのですが……尋ねても?」
ジャレンはわずかに瞳を瞬かせた。
だがすぐに頭を下げ、控えめに儀礼を施す。
「はい何なりと。私が答えられる範囲であれば」
「えっとその……コールのお母様のことはカレンデュラ様と名前でよく耳にしますが、どうして第一夫人と第二夫人のことは名前で呼ばないのでしょうか?」
白髪交じりの眉をゆるやかに下げ、ジャレンは納得したように頷きを落とした。
「ああ、そのことでございますね。それでしたら、御当主様がそうお呼ばれになるので、私共はそれに合わせているだけにございます。この屋敷では、御当主様の御言葉こそがすべての掟となりますので」
「……そう、なのですね」
顎に手を添え、ガーネットは静かに思案を巡らせる。
確かコールも、カレンデュラ様はガルシア卿からの覚えがよかったと口にした。
でも上の2人の夫人は、形式ばった第一夫人と第二夫人と呼ぶ。
何だかそれってすごく…………ん?
視界の端から視線を感じ、ガーネットは顔を上げる。
ジャレンが何か言いたげに、こちらに視線を注いでいた。
「コールレオン様がお元気そうで心から安堵いたしました。これも偏に、心の支えとなったガーネット様のお力添えがあってのことでございましょう」
「私は特に何も。私のほうこそ、彼に迷惑をかけて…………この前も怪我をさせてしまって後悔したばかり、なんです」
レオンへの甘さが、コールに怪我を負わせてしまった。
あの時の後悔が蘇る。
ガーネットは服の裾をきゅっと握り締め、過ちを悔いるように俯いた。
哀しみに肩を落とす心優しい令嬢を、ジャレンは見つめていた。
年長者らしい、包容力を感じさせる眼差しだった。
「コールレオン様は兄弟の中で年齢が一番下だったことと、カレンデュラ様が貴族の身分を剥奪されたこともあり、上の坊ちゃま方の虐げの対象になられておりました」
ため息をこぼすように息を吐き、
「ガルシアの制約により、使用人が手を差し伸べることは許されません」
するとジャレンは右目を閉じ、悪戯げに口角を上げる。
「……ですが、塞ぎ込むコールレオン様にこっそりお菓子を差し上げたことが、まあ、数え切れぬほどございまして。そのため、私にはコールレオン様は実の孫同然に可愛いのです」
厳格なガルシア家の家宰とは思えぬ、その茶目っ気たっぷりの表情に、ガーネットはつい笑みをこぼす。
「ふふふっ。コールもきっと、ジャレンさんがくれた優しさやお菓子の味を覚えていて、慕っていたから屋敷に帰ったのですね。ジャレンさん、コールを支えてくれてありがとうございました」
瞬間、ジャレンの瞳が水面が煌めくように潤んだ。
ガーネットの手を両手で包み、まるで聖女に希うように頭を垂れる。
「ガーネット様……!」
驚きのあまりガーネットは肩をすくませた。
だが、ジャレンは構わず言葉を紡いでいく。
「敵対するお家柄のお二人が心を通わされたのはきっと、女神様のお導き。どうか、コールレオン様とお幸せになってくださいませ。それが老いた家宰の密やかなる願いにございます」
願いの切実さに比例するように、ジャレンの手を握る力が強まる。
ガーネットの瞳には困惑の色が広がった。
恋人というのは、その場しのぎに吐いた嘘だった。
でも、ジャレンさんにそれを明かすのは気が引けて……。
私はつい、表情をほころばせる。
「ええ、私もコールと幸せに、なりたいです」
そう口にした途端、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
もし本当に私の相手がコールだったとして。
ルビィの父親がコールだとしたら……
コールは…………
『死んでしまうの?』
その言葉を思い浮かべるだけで胸が引き裂かれるようで、心がそれを拒んだ。
得も知れぬ不安が押し寄せ、奥歯を噛む。
胸に芽生えた恐怖が、思考を搔き乱していく。
『あなたとお腹のルビィを庇って死ぬのは……だぁれ?』
耳元で、悪魔が冷えた戯言を囁く。
冷たくなった指先を、ガーネットは強く握り締めた。
「それではガーネット様、コールレオン様によろしくお伝えください」
不意に、ジャレンの声が届く。
引き戻されるように、ガーネットは青碧の瞳を細めた。
「……ええ、もちろん。しっかりと伝えます」
ぱたり、と扉が閉まった。
部屋は静寂に包まれる。
気づくと、鍵はガーネットの手のひらの中で揺れていた。
ガーネットは不安を鎮めるように、扉にそっと頭を押し付ける。
「まさか、ね。コールと決まったわけではないのだし……」
ハァと、かすれたため息を落としたその時――
――コンコンコンっ。
再び、軽やかなノックの音が響いた。
扉から直接伝わった震動に、ガーネットはそっと顔を上げる。
あら、ジャレンさんが何か忘れ物かしら?
警戒心も忘れ、ガーネットは扉を開けた。
「ジャレンさん、何か?」
鼻をくすぐる甘やかな香りが立ち込める。
視界は、黒い薔薇の花束で埋め尽くされた。
花束から現れたのは、ふわりとした金髪をなびかせた長兄フィリップだった。
「やあガーネット嬢。ごきげんいかがですか?」




