第67話 誰がために鐘は鳴る
母さんが倒れた――
俺が兄たちに虐げられたように、母さんもまた、第一夫人、第二夫人の悪意に晒されていた。
陰口や暴言、嘲りや孤立化など、嫉妬を孕んだ悪意は長い年月をかけ、じわじわと積み重なった。
そして母さんの精神は限界を迎え、ついには身体をも蝕んだ。
夫人たちは、末端でも貴族の娘。
一方、母さんは没落した貴族の娘。
そのうえ、当主の覚えもよかったらしい。
耳に挟んだ話だと、息子が生まれても夫人たちの屋敷には一度たりとも姿を見せなかったそうだ。
不思議なことに、ベルフィオーレの俺の家には頻繁に顔を出していたんだよな。
だが、当主は母さんの病の治療に踏み出そうとはしなかった。
俺はすぐに、当主の執務室に駆け込んだよ。
憎悪や怒り、すべてをかなぐり捨てて、俺は床に擦りつけるほど頭を下げた。
「お願いです、当主様! 母さんの治療に手を貸してくださいっ」
だが、当主は冷たい眼差しで俺を見下ろしたまま……
書類を処理するような口調で告げた。
「コールレオンよ。カレンデュラの病の治療をして欲しくば、もっと励め。兄たちを越えて頂点を掴んでみせよ」
俺は絶望した。
母さんの病すらも、糧とする当主に……。
でも、十二の俺には選択肢などない。
絶望の淵で、俺は自分を奮い立たせた。
母さんの治療をより良いものとするため、俺は死に物狂いで当主の座を求めた。
血反吐を吐いても、食事の味がわからなくなっても、母さんの案じる声を聞き流しても、俺は走り続けた。
ふと振り返った時――
兄たちの姿は、もう周囲にはなかった。
気がつけば、俺は彼らを置き去りにしていた。
いつの間にか当主のお眼鏡に適い、次代の当主として扱われるようになった。
このままガルシアの当主になって、母さんに最善の治療を続ける。
そう思っていた。
……でも、寿命には勝てないよな。
俺が十七になった頃、母さんの容体が悪化した。
最善の治療を施しても、衰弱していく母さんを見るのは本当に辛かった。
寝台に横たわる母さんが、力なく瞼を持ち上げる。
焦点の合わない瞳をこちらに巡らせ、消え入りそうな微笑みを浮かべた。
「コール…………来ていたのね」
「……ん、さっき来た」
本当はずっといた。
医者から、あまりもう長くはないと告げられていたから。
当主教育も放り出し、母さんの傍に入り浸るようになっていた。
幾度同じ会話を繰り返しただろう。
母さんは眠っていることが増え、時間の感覚も失われていたのだと思う。
でも、その日は何かが違っていて。
母さんはぜぇぜぇと呼吸を乱しながら、ゆっくりと言葉をこぼし始めた。
「あなたに、ね……言って、おきたいことが……あるの」
途切れながらも掠れた声を必死に紡ぐ母さんに、俺はそっと耳を寄せた。
「私が死んだら……あなたはここを、出なさい。ダルトン様は真面目な方だから……あなたに当主を強いる、かも」
母さんは、力のない笑みをそっと浮かべる。
「どうか、自分の、思うままに生きて……あなたは、当主にならなくていいの」
「母さん。お願いだから『死んだら』なんて言わないでくれ」
俺の震える言葉に母さんは笑みをこぼし、そっと髪を撫でてくれた。
「ふふ……あなたは優しい子ね……こほこほっ……最後に、ベルフィオーレに帰りたかった」
微かな呼吸を繰り返しながら、天井に向かって手をかざす。
「あの街はとても美しくて、人も温かくて…………コールも一度、あの街に帰るといいわ。きっとあの場所に、あなたを、心から愛してくれる人が……かはっ、ごほごほっ」
「母さん! 母さんっ!?」
すると扉がギィと軋みを立てる。
咳を聞きつけた医者が駆けつけたと期待したが、そこに浮かんだのは当主の冷たい影だった。
厳しい顔つきのまま、当主は安堵を奪うようにこちらを睨む。
「コールレオン、当主教育はどうした?」
母さんの身体を支えながら、俺は声を張り上げる。
「今はっ……それどころじゃないだろ! 母さんが」
「お前の功績で、カレンデュラは治療を受けていることを忘れたのか?」
まるで何でもないことのように、落ち着き払った当主の言葉。
俺は怒りを抑えきれない。
「この期に及んで、アンタはそんなこと!? 母さんは死にそうなんだぞ!」
「……だから何だというのだ? 人はいずれ死ぬ。それは国王でも貴族でも下民でも等しく訪れるものだ。何をそんなに嘆く必要がある?」
言葉にならない落胆が、当主のため息に溶ける。
「……まったく、お前には失望した。ジャレンよ、コイツを連れて行け」
当主の背後から、使用人たちが部屋へと雪崩れ込む。
「なっ、おい。何をするんだ!? ジャレン、離せっ」
ジャレンや使用人たちに囲まれ、俺は母さんの部屋から引き剥がされた。
その後、俺は母さんの部屋への入室を禁じられ――
結局……俺は母さんの死に目には会えなかった。
ようやく顔を合わせた時には、
母さんはもう冷たくて。
動かなくて。
笑わなくて。
人の温度を感じないあんな冷たい牢獄じゃ、母さんを弔って、母さんのために涙を流してくれる人もいない。
使用人たちの噂話を耳にした。
母さんをガルシアの墓へ埋葬することに、夫人たちが反対しているらしい。
『最後に、ベルフィオーレに帰りたかった』
母さんの願いを、俺は思い出す。
どうにかして、母さんをベルフィオーレに連れ帰ろう。
そう、心に誓った。
朝霧が屋敷を白く覆う早朝。
誰の目にも触れぬよう、俺は母さんの棺を馬車に運び込んだ。
だがどこで聞きつけたのか、当主とジャレンの影が霧の中に浮かぶ。
「コールレオン。カレンデュラのことはジャレンに任せて、お前は当主としての教育を」
視線を当主に向けぬまま、俺はすべてを断ち切るような淡々とした声で言い放った。
「俺は当主にはなりません」
「……何だと?」
眉間をひくりと揺らし、当主は苛立ちの声を響かせる。
当主の怒りなど、俺にはどうでもよかった。
俺はただ冷然と、淡々と言葉を紡いでいく。
「母さんが亡くなった以上、俺がガルシアの当主に付く理由はなくなりました。これからは、自分の思うままに生きようと思います。俺はしがない騎士として生きていくつもりです」
「それに……ずっと心残りに思っていたこともありますし」
胸に手を当てると、姫様の顔が浮かぶ。
苦しい時。
投げ出してしまいたい時。
俺は、姫様と過ごした楽しい少年時代を縋るように思い浮かべていた。
だから俺は、自分を失わずにいられた。
騎士団に入ってから、幾度か王城で姫様を見かけた。
姫様は俺をレオだと気づかないし、覚えているのは俺だけかもしれない。
それなら、それでいいんだ。
でもあの傷痕についてだけは、せめてご両親にお詫びしたい。
怒りに呼応するように、当主の握った杖が小刻みに震える。
当主の瞳の奥で、煮えたぎる激情が燃え上がった。
「お前はっ、当主の座に付ける器だというのに! そんな勝手は許さんからな。お前はガルシアの次代の当主として」
「だから、俺は当主にはなりませんっ! そもそも当主の座になんて興味はない。よければ、ガルシアから除籍してもらっても構わない。それでは」
俺は馬車に飛び込んだ。
そのまま振り返らず、馬の手綱を握る。
馬の嘶きが響くとともに、車輪が動き出す。
当主の叫びが耳を叩いた。
だが、轍の跡が増えていくたび、その声は遠ざかっていった。
ベルフィオーレに帰り着いた俺は、母さんをひとり静かに弔った……。
――そして、物語は現在へと至る。
ソファに座るガーネットに、コールは記憶をなぞるように穏やかに語っていた。
「んで、数日後には仰々しい封書が届いて、本当にガルシアの籍を外されたってわけ。それと一緒に、ガルシアの分家の養子縁組の書類が入っていたのは意外だったけど」
だが、ふっと閃いたように腕を組み、
「今思うと、当主は諦めていなかったのかもしれないな。俺は当主になる気なんてないのに…………って姫様ッ!?」
コールの視線の先には、土砂降りの雨のような涙を流すガーネットの姿があった。
ひくひくと嗚咽をこぼし、助走を付けたかと思うと、
「うわあぁぁんっ!」
と、子供のように声を上げて泣き叫んだ。
鼓膜が震えるほどの叫びに、コールは心臓を掴まれたように硬直する。
「ど、どうして姫様が泣くんだよ!」
涙を止めようと、ガーネットは濡れた睫毛をごしごしと擦った。
だが、湧き水のように涙はどんどんあふれてくる。
「だって、コールがあの夏の後に、そんな目に合っていただなんて。人生が壮絶過ぎて、わたし、わた、し…………ぅ、ぐすん」
「ああもうっ、姫様は本当に子供の頃から泣き虫だな」
そっとガーネットの両頬を包み、代わりに優しく涙を拭ってみせる。
姫様は昔から泣き虫だけど、それ以上に、さ……。
誰よりも優しくて、それでいて強くて。
そのまっすぐさに、何度も救われてきたんだ。
そんな姫様が、俺は……
心の内側が羽で撫でられたように、ふわりとこそばゆくなる。
自分のために涙を流すガーネットの姿に、胸の奥が、柔らかなぬくもりで満たされるコールであった。




