第60話 護衛には、踏み越えてはならぬ域がある!
ガルシア領へと続く道――
ガーネットとコールは1頭の白馬の背に身を寄せ合い、軽やかに駆けていく。
ガルシア領はベルフィオーレ領から1つ小領を挟み、その先の大森林を抜けた西方に位置していた。
馬の脚を借りてようやく1日でたどり着く、決して近くはない距離である。
空が茜色を帯びはじめた頃。
すでに小領を通り過ぎ、ガーネットたちは深い大森林へと身を投じていた。
ブナの木々が茂る涼やかな森を川沿いに進み、ガルシア領を目指して馬を疾走させる。
馬車よりも高い馬の目線に、ガーネットは瞳を煌めかせる。
目に映る景色すべてが別世界のようで、色鮮やかに輝いて見えた。
ガーネットは心穏やか。
澄み渡った空気を胸いっぱいに吸い込むと、解き放たれたように頬をゆるめた。
「ふふ、なんだか新鮮だわ」
初めての馬の遠乗りに心躍らせ、目に映るものすべてにガーネットの青碧の瞳は煌めきを増していく。
だがその背後で……
コールは胸をくすぐる甘い誘惑に必死に抗っていた。
ひくひくと左目尻の黒子を揺らし、理性を保とうと手綱を握る手に力を込める。
くっ……俺は森の空気よりも、姫様の香りについ気を取られてしまうっ。
看病してもらって気づいたけど、姫様ってどうしてこんなにいい香りがするんだ?
なんか、花の香りに誘われる蝶にでもなったみたいに引き寄せられる。
コールの腕に包まれる形でガーネットは騎乗し、馬に揺られている。
その互いに同調するようなリズムも相まって、2人の呼吸は自然と重なっていく。
胸の鼓動は、コールの意思とは関係なく高鳴りを増していった。
は、早くガルシアに着いてくれ。
このままじゃ俺の心臓が持たない。
あの大嫌いな屋敷に着いてほしいと思う日がくるとは、な。
すると、耳の片隅にガーネットの声が届く。
「……コール、コールってば!」
普段より張りのあるガーネットの声が空気を震わせる。
ハッとしたコールは、平静を装って声を紡いだ。
「ん、どうした?」
「あそこ、ガルシア領って書いてあるわ」
ガーネットの指先の向こう――
色褪せた木目の看板に『ここよりガルシア領』と刻まれていた。
待ち焦がれた看板に、コールの琥珀の瞳も嬉しげに跳ねる。
「お、ガルシアに入ったな。この時間なら、街で一泊できそうだ……おっと忘れてた。姫様にきちんと話しておかないと」
どこか改まった気配を背後から漂わせるコールに、ガーネットは違和感を覚えた。
首だけをそっと後ろへ向ける。
その予感は的を射ていたらしく、張り詰めた表情のコールがこちらを見据えていた。
ふぅと深く息を吐きながら、コールは重い口を開いた。
「これだけは約束してくれ。ガルシアの屋敷に着いたら、俺から絶対に離れないこと。あの家のヤツらはきっと、姫様を俺の弱みと思うだろう。下手をしたら、姫様に危険が及ぶかもしれない」
あの家のヤツらって、コールの家族のことを言っているのよね。
弱みとか、危険とか。
家族に向ける言葉とは思えない物騒な言葉が続いているけど……どういうこと?
コールはガルシア家で、どんな扱いを受けていたの?
ガーネットの疑念は、深淵の底に沈む闇のように尽きない。
だが、不安を抱えたコールの曇り顔に気づき、心が晴れるような穏やかな微笑みを咲かせた。
「ええ、わかったわ。コールの傍からひとときも離れない」
すでに夕陽は地平へ沈みかけている。
二人はガルシアの屋敷を目指し、街の灯りが揺れる方角へと白馬を走らせた。
∻❖∻
だいたい夜の八の刻あたりだろうか。
ガーネットとコールは、ようやくガルシアの屋敷へたどり着いた。
すでに漆黒が周囲を包み込んでいる。
屋敷の外壁には、古びたガーゴイルの石像がぼんやりと浮かび上がっている。
口を閉じ目を剥いた姿は、この屋敷の大いなる秘密を守る番人のようである。
門をくぐり、エントランスの灯りが2人を照らす。
ガーネットはコールの差し伸べた手を借りて馬を降りた。
目の前に広がったのは、精緻な彫刻の施された黒檀でできた重厚な扉。
扉の獅子の顔を象ったドアノッカーは威厳を放ち、来訪者を見定めるように睨みつける。
その鋭い眼差しを断つようにドアノッカーへ指を掛け、コールは力強く打ち鳴らした。
――カンッ、カンッ。
金属の澄んだ音が響く。
すると、数秒も立たぬうちに扉がそっと開いた。
隙間から顔を覗かせたのは、白髪の目立つ初老のバトラー服を着た男だった。
男はコールの顔を捉えるなり、弾むような声を響かせる。
「コールレオン様っ、お久しゅうございます! ああっ……ご立派になられて」
胸に沁みる感慨深い声音からも、コールへの親愛の情が窺える。
コールもしみじみとした様子で、男の名を呼んだ。
「ジャレン、本当に久しぶりだな。ジャレンは前と変わらず息災そうでよかった」
案じる言葉が触れた途端、ジャレンの瞳が泉のように涙ぐむ。
「勿体なきお言葉です。そんなお優しいコールレオン様に、私は……本当に申し訳ございませんっ」
ジャレンは床に迫るほどに深々と頭を垂れた。
感動の再会から一転。
感動の余韻をかき消すような怒涛の謝罪に、ガーネットは思わず目を丸くした。
一方のコールは慌てる素振りも見せず、案じるようにジャレンの肩を叩く。
「別に気にすることはないよ。ちゃんと気づいてたから……何か弱みを握られたんだろ」
鼻を啜りながら、ジャレンは肩を震わせる。
「……孫が、大病を患ってしまい、私や息子の給金ではどうにもならず……本当に申し訳ございませんっ」
「そうか孫か…………ジャレンは俺に優しかったから、当主が俺を呼び戻すために利用した、それだけさ。気にするな」
コールの肩越しで、ガーネットは2人の会話に静かに耳を寄せていた。
その会話に隠れる意図を読み取ろうと、思考を深く巡らせる。
もしかして……
こちらのジャレンさんを助けるために、コールは屋敷に戻ったの?
ジャレンさんは、コールを屋敷に呼び戻すことで報酬を得る。
そうでなければ、ジャレンさんのお孫さんは治療費が足りない。
そういうことかしら?
不意に、ジャレンの視線がコールの背後のガーネットを捉えた。
我が国の王太子と並ぶ姿が目に浮かぶ。
幾度か新聞で目にした珊瑚色の髪の令嬢に、ジャレンは驚きの声を滲ませる。
「そちらのお方は、もしや……!」
「ああ、ベルフィオーレ家のガーネット様だよ」
コールからの紹介を受け、ガーネットは控えめに微笑んだ。
花がほころぶような可憐な微笑みを向けられ、ジャレンもつい口元をゆるませる。
「やはりそうでございますか。ご応対が遅れ、誠に失礼いたしました。ささ、お二人とも中にお入りください。直ちに御当主様のもとへご案内させていただきます」
そうしてガーネットとコールは、ガルシアの屋敷へと静かに踏み込んだ。




