第6話 傷モノ令嬢、未来の娘を紹介する
ピィーチチチチッ。
愛らしい鳥のさえずりが、ふんわりと耳朶を撫でる。柔らかな寝台に身を預けたまま、ルビィは眠気の残る瞳を優しく拭った。
朝の冷えた空気と微睡みの狭間で、大好きな香りがゆるやかに漂う。
この匂い知ってる。
すずらんの花みたいな優しい……大好きなお母さまの匂い。
とろんとした瞼がゆっくりと持ち上がる。淡い青碧の瞳に広がったのは、思い描いた母ではなく、若き日の母の安らかな寝顔だった。
「おかあ…………あ、そだ。ママさまっ!」
花がほころぶように笑みをこぼしたルビィは、勢いよくガーネットの胸へと抱きついた。柔らかなナイトドレスとガーネットの温もりに包まれて、ルビィの微睡みもほどけていく。
すると、喉を鳴らしたように柔らかなガーネットの声が漏れ聞こえた。
「ふふ、おはようルビィ」
「おはよう、ママさま」
二人が寝台から身を起こすと、寝台のすぐ傍らに、満面の笑みを輝かせたセイラが音もなく佇んでいた。まだどこか初々しい母娘の触れ合いを、最高の特等席から見守っていたらしい。
ぴょこんと跳ねたルビィの頭頂部の寝癖を愛おしげに整えながら、ガーネットは穏やかに目を細める。
「おはようセイラ。お父様はお帰りになったかしら?」
深く頭を垂れたセイラの口元から、朝の静寂に溶けるような慎ましい声が零れた。
「おはようございますガーネットお嬢様。旦那様はまだ、戻られておりませんわ」
瞼の重さを感じながらも、ガーネットは顎に手を添えて静かに思案を巡らせる。
「そう……食堂で食べるのは、お父様に紹介して了承を得てからがいいわね。それだったら、朝は部屋で食べましょうか」
「わーい。ママさまとごはん~♪」
ガーネットとルビィは柔らかな朝の光に包まれながら、楽しい朝食のひとときを過ごしたのだった。
だがすでに、屋敷のあちこちでは「ガーネットお嬢様が見知らぬ幼女を連れ帰った。あの子は何者だ?」という噂話が囁かれ始めていた。
それはガーネットが婚約破棄された衝撃さえ忘却の彼方へ吹き飛ばすほどの、鮮烈な威力があった。
∻❖∻
屋敷の奥にある書庫にて。
四方の壁を覆う書棚に包まれ、ガーネットはある文献と睨み合っていた。ベルフィオーレ家に代々伝わる文献の内容を確認するためである。
ちなみにルビィは、セイラとお人形遊びをしてガーネットの私室でお留守番中である。
古い書物と埃っぽい匂いに鼻を擦りながら、真剣に色褪せた頁を捲っていく。
古びた文献に綴られた文字を、指先でそっとなぞった。
――我が偉大なるベルフィオーレは、時を渡る術を持つ偉大なる一族なり。
その崇高なる力は、巨石の年輪にて発現する。
己の道を再び選ばんと望む者は、その神なる力にて運命を切り開くべし。
誰が書いたのか、相変わらず壮大な文章ね。
それにしても巨石、か……ルビィが話した『おっきな石』って、この文献に登場する巨石の年輪のことじゃないかしら。
だとすると、未来のルビィはあの場所から過去に時空転移した?
うーん。状況を理解するためにも、ベルフィオーレ領の遺跡に行ってみるしかないかも。
パタン。書庫の扉が軽やかに閉じる。
ガーネットは静寂の廊下に靴音を響かせ、私室へと戻っていった。
私室に差しかかった時、廊下に佇んだ侍女のセイラが目に留まった。抑えきれない好奇心を滲ませ、扉の隙間からガーネットの私室を覗いている。
僅かに眉を寄せ、ガーネットは探るように言葉を零した。
「セイラ、どうしたの?」
セイラはこちらに気づいた途端、声を発することなく部屋の中へと視線を導くように促す。促されるままに、ガーネットも視線を室内へと滑らせた。
すると中には、ガーネットよりも淡い珊瑚色の髪の男が佇んでいた。見知った横顔に安堵し、ガーネットは穏やかな声を届けようとしたが、
「あ、おとう……」
男は優しさを帯びた口元に指先を添え、『静かに』と静寂を求めた。
目を丸くしたガーネットの視界に、寝台の下に身を潜めた何かが目に入った。目を凝らすと、シーツの影から可愛らしいつま先がちょこんと覗いている。
込み上げる笑いを必死に堪えているらしく、鈴を転がしたようなクスクスとした笑い声が漏れ聞こえてくる。
まるで喜劇役者のようなコミカルな動きで、男はわざとらしく大袈裟な足音を立てる。その足取りのまま、寝台の周囲を陽気に一周した。
「んー、どこかなー……あ、ここかなー」
男は見当違いのカーテンの裏を探し、
「おっと、カーテンの裏にはいないようだ。あれぇ、どこかなー?」
どうやら、かくれんぼをしているようだ。
私が書庫に行った間に何があったの……?
ガーネットもセイラと肩を並べ、ひとまず成り行きを見届けることにした。
すると、もう我慢できないとばかりに、ルビィのクスクスとした笑いが空気を揺らす。心なしか、寝台までも微かに震えているように見えた。
不意に、男は寝台の前で足を止める。
勢いよく屈み込み、シーツの隙間から覗いたつま先をこちょこちょとくすぐった。
「おや、こんなところに。見つけたー」
「あはははっ、見つかっちゃったー」
ルビィは溜まらず、笑顔に弾けた顔を寝台の下から覗かせた。
ルビィと男の間には、初対面とは思えぬほどの馴染んだ笑みが交わされている。その和やかなやり取りを、ガーネットは感心したように眺めていた。
瞬く間に意気投合したですって!?
見ず知らずの仲で紹介もなしに打ち解けるだなんて……流石は未来の祖父と孫。
ということで――
ルビィと笑い合っているのが、私の父でベルフィオーレ侯爵家当主ジャスパー・ベルフィオーレその人である。
「ママさま、おかえりなのっ」
ガーネットの姿を認めた途端、ルビィは顔を輝かせ、駆け込むように抱きついた。
未婚の娘を『ママさま』と呼ぶ奇想天外な光景に、ジャスパーは一瞬目を瞬かせた。が、すぐに遠い日の過去を思い起こすように頬を緩ませる。
「ママ様って、懐かしい響きだ。ガーネも小さな頃、エメルダのことをそう呼んでいたな。ガーネ、いつの間にママ様になったんだい?」
ジャスパーからしてみれば、それは冗談めいた会話のつもりだった。
だが、その狙い澄ました問いかけに、ガーネットはすぐには返事を返せなかった。沈黙に沈むガーネットに違和感を覚えながらも、ジャスパーは大らかに言葉を紡いでいく。
「遊んでおいて今さらなのだが、こちらの令嬢はどちらの家の令嬢かな? 随分とガーネに面影がある。昨夜の夜会では、ガーネに娘がいるなどと吹聴した輩がいたようだが、この子が発端か……」
目尻に穏やかな皴を刻み、にこやかに微笑むジャスパーは、ルビィの柔らかな髪を優しげに撫でた。ルビィも嬉しそうにジャスパーの手に身を委ねている。
二人の仲睦まじい様子を瞳に映しながら、躊躇いがちにガーネットはぼそりと声を漏らした。
「……私の娘。それは、半分合っているようで合っていないような……」
「ん? どういうことだ?」
この子は私の未来の娘です。お父様にとっては孫なの――と告げたら、果たしてお父様は信じてくれるかしら。
本当は、もう少し整った席で紹介するつもりだったけど、ルビィとも打ち解けたようだし…………ここは、素直に話すしかないわよね。
父親譲りの微笑みを口元に刻み、ルビィの華奢な肩にそっと手を添える。
湖面のように透き通った青碧の瞳を揺らめかせ、ガーネットはジャスパーを真っ直ぐに見据えた。
「お父様、気を確かに持って聞いてください。実は、この子……ルビィはね、私の未来の娘なの!」
「んあ? 何を言って………………………………ん、んん―――~っ!?」
その後、ガーネットの話に驚愕したジャスパーの声が、長い廊下を駆け抜け、広大な屋敷の端々まで響き渡ったのだった。




