第5話 傷モノ令嬢の伴侶候補
父親かもしれぬ人物の名に、ルビィの青碧の瞳が星空のように煌めいた。
小さな重みとともにガーネットの腕に飛びつき、鈴を転がしたような声を弾ませた。
「ねえねえねーえっ。レオンってだあれ?」
ガーネットは、くすりと穏やかに笑みを刻んだ。
レオンなる人物の柔和な表情を思い起こしながら、言葉を綴っていく。
「レオンは私のひとつ年下の幼馴染み。レオンハルト・シュナイダーって、公爵家の人よ。私のことを姉のように慕ってくれているわ」
ルビィの手の甲を優しい温もりで包みながら、さらに言葉を重ねていく。
「飛び級で学園に入学して、首席で卒業した優秀な人なの。卒業して1年足らずで国王様を支える筆頭書記官に出世して、だいぶ遠い存在になっちゃったけど。でも、変ねえ……」
疑義の念を抱くガーネットの声色に、ルビィは微かに首を傾げた。
「何が変なの?」
ガーネットはうーんと喉を震わせ、小さな疑問を躊躇いがちに言葉に落とす。
「レオンのことを、レオと呼んだことはないの。それに、私にとって弟みたいな存在だし、あっちも仲の良い姉だと認識しているはず。そんな私たちがそういう関係になるかしら」
すると傍らのセイラが、ほろ苦い声を空気に滲ませる。
「お嬢様はそうでも、あちらは姉以上の感情を抱いていると見受けられますが……」
彷徨っていた視線が定まり、何か閃いたようにセイラは顔を上げた。
「レオといえば……確かカイザー殿下のミドルネームもレオが入りませんでしたか。カイザー・レオサル・ニーレンベルギア王太子殿下ですよね。もしかして、レオってカイザー殿下のことなんじゃ?」
今宵、婚約破棄を突きつけた人物の名が耳に届き、ガーネットは静かに目を細めた。微かに寄せた眉間には、静謐なる嫌悪が滲んでいる。
「……え、あ……確かに。でもそれって、カイザー殿下と私が縒りを戻すってこと? め、妾として? それこそあり得ない、でしょ」
その否定を断固拒否するように、セイラはぶんぶんと腕を動かした。
眼差しに宿るガーネットを案じる気持ちが、セイラの声を強く張り上げさせる。
「いえいえ、レオンハルト様のほうがあり得ないですっ。あの方のガーネットお嬢様を見る目つきは飢えた獣のようで、背すじが凍ります。私がお嬢様と話すものなら、射殺すような目つきで睨んでくるんですよ。嫉妬深いにもほどがあるでしょ」
腕を抱いた肩は小刻みに揺れ、セイラは恐怖を体現しているようだった。
その姿を捉えてもなお、ガーネットは寛容な様子で和やかな微笑みを浮かべた。
「昔から私に懐いていたから、まだ甘えん坊さんなだけだと思うのだけど」
不満を刻んだように顔を引き攣らせたセイラは、溜め息を織り交ぜて目を細めた。
「もうっ、お嬢様は昔からレオンハルト様に甘いんですから……お嬢様がカイザー殿下とご婚約した時の事件をお忘れですか?」
「あー。あれねぇ……」
5歳の頃に執り行われた、私とカイザー殿下の婚約式でのこと。
ニーレンベルギア城に数多の馬々が突撃し、あわや大騒動。
婚約式は即日延期となった。
王国の未来を疎む敵国の仕業かと疑われたが、その実行犯はなんと、4歳のレオンハルトだったのである。
私の婚約を阻止するため、王都周辺の牧場の馬を買い漁って実行したらしい。
まだ4歳だったこともあって罪には問われなかったけど、しばらく私への接近禁止命令が課されたのよね。
その年は、レオンから『会いたいよー』って嘆きの手紙が毎日届いていたから記憶に残っている。
あれ……そういえば。
「そういえば、私の初恋の人の名前もレオだったわ!」
真っ先に食いついたのは、淡い青碧の瞳をぱちくりと瞬かせたルビィだった。
「はつこい? はつこいってなあに?」
ひとつ落としたまばたきに幼き日の記憶を呼び覚まし、ガーネットは柔らかく言葉を添えた。
「初恋っていうのはね、初めて人を好きになることよ」
「好き? だったらルビィは、ママさまが大好きだからはつこい?」
喜びを弾ませるように問いかけるルビィに、ガーネットの口元も緩やかに弧を描く。
「うふふ。それはとっても嬉しいけど、初恋は家族以外に抱くものかしら」
「ふーん、ルビィにはまだわかんないかも」
口をへの字に曲げたルビィの柔らかな前髪を、愛おしげにそっと撫でた。
ガーネットは遠い記憶の頁を捲るように、ゆっくりと5歳の少女時代を思い起こしていく。
5歳の頃、森の中で出会ったレオという名の少年。
覚えているのは霞みがかった姿と、彼と過ごした日々は夢のように心躍り、大好きだったという淡い恋心だけ。
でも、この時私は賊に襲われ、首元を負傷した。
それ以降は、実家の寝室で静養することになってしまったから、レオとは会えずじまい。
負傷した衝撃で記憶は混濁し、十九になった今でも、レオの顔は霧の向こうへ置き去りにされたままだ。
ガーネットの淋しげな表情から読み取ったのか、セイラは両手を重ね、案じるように言葉をこぼす。
「あの時は、母のお産で私も里帰りしていましたし、レオさんという方には、お会いしていないんですよね」
ガーネットの腕を、小さな指先がつつくように揺らした。
期待を寄せるように、ルビィが瞳を煌煌と輝かせて見上げている。
「ねえねえ、そのレオって人は、パパさまじゃないの?」
「んんー、どうかしら。今はどこにいらっしゃるかさえわからないの。初恋の人がパパさまだったら、何だか素敵ね。ルビィもそうおも…………ってあら?」
視線の先には、ゆっくりと船を漕ぎ始めたルビィの姿があった。
ガーネットの腕にしがみついたまま、眠たげな瞼が緩やかに沈んでいく。
ガーネットとセイラは顔を見合わせ、声を発することなく微笑みを交わす。
今の今まで元気に話していたのに、もう夢の世界に踏み込みそう。
ふふ、子供って自由でいいわね。
ルビィをそっと寝台へと寝かせ、ランプの明光をゆっくりと落としていく。
すやすやとした寝息が寝台を包み、その安らかな寝顔に自然と視線を寄せた。
ルビィの頬へ顔を寄せ、ガーネットは穏やかな眠りを願うおやすみのキスを落とした。
「パパさま探しはまた明日ね、おやすみなさいルビィ」
――パタン。
備え付けの浴室へと、ガーネットは身を滑らせた。
セイラが準備した湯が満ち、立ちのぼる湯気が乾いた喉をしっとりと潤す。
湯船から立ちのぼる温かな湯気を眺めながら、今日のめまぐるしい出来事を思い起こした。
婚約破棄。未来から来た可愛い娘ルビィ。
中でも、胸に芽生えた1つの疑問がガーネットの心を揺らす。
パパ様って誰なのかしら。
ルビィの手前、落ち着いたように振る舞っていたけど、すごく気になる。
だってその人と私は、きっと、恋に落ちるのよね……?
レオン、カイザー、初恋のレオ……
私がこれまで出会った誰かの中に、あなたはいるの?
瞬間、濃紺の柔らかな髪を揺らした人物の姿が瞳によぎった。
ん? 私、どうしてコールの顔が浮かんだの。
コールには『レオ』って名前だって入ってないし…………?
彼は『ガルシア』なのよ。
そんなコールが、私とどうこうなるはずなんて、ないのに。
【登場人物メモⅠ】
ガーネット・ベルフィオーレ
19歳。ベルフィオーレ侯爵家の一人娘。王太子の元婚約者。
首元の傷痕のせいで幼い頃から揶揄され、自分に自信が持てない。
娘がいる未来に、歓びを噛みしめている。
現在はルビィの父親が誰なのか、気になって仕方がない。




