第58話 それは1通の手紙からはじまった
ベルフィオーレ城、最上部の踊り場にて。
くすんだ砂岩の城壁へ、風が荒々しく吹きつけていた。
――ヒュッ。
だが、その吹き荒ぶ風音を切り裂くほどの剣の音が、周囲に鋭く鳴り渡る。
微かな息切れとともに振り抜いた剣が、手首の汗を石畳へと散らせた。
「ふぅー、やっぱ身体がなまってるな……しばらくベッドの上だったからなぁ」
額を伝う汗を指先で拭い、清々しい表情で顔を上げたのはコールだ。
久しぶりに掻いた汗は心地よい。
つい自分が怪我人ということを忘れて鍛錬に励んでしまう。
左肩の傷痕に触れても、痛みすら遠ざかっていた。
すぅっと深く息を吸い込むと、喉にひんやりとした空気が流れ込む。
その冷たい刺激が感覚を呼び覚まし、『生きている』と鮮やかに実感させる。
すると、
「あっ、コールったら、こんなところにいたのね!」
柔らかだが、一本芯の通った声が背後から響く。
瞬間、びくりとコールの肩が震えた。
ゆっくりと振り返った先には、珊瑚色の髪を風でなびかせたガーネットが佇んでいる。
腰に両手を添えて眉を吊り上げたその顔は、凛とした圧を放っていた。
「もーうっ、まだ抜糸も済んでいないのに、そんなに動いたら傷が開くでしょう」
「いや、もう大丈夫だって。今日診てもらったら、傷も塞がってるから適度に運動したほうがいいって言われたし」
相も変わらず、姫様は過保護なほど俺の看病に心を砕いている。
もちろん、その気持ちには感謝してる。
けど、そろそろ鍛錬したいんだよなあ。
……いざという時、姫様を守れるように。
「だからって、私に内緒でこんなところで剣の稽古だなんて……まるで後ろめたいことでもしているみたいじゃない」
拗ねたように、ガーネットは口をつんと尖らせて不機嫌をにじませた。
剣を腰へと差し戻したコールは、ガーネットの感情を宥めるように微笑んだ。
「ああいや、部屋の中だと危ないからさ」
「……本当に?」
「ほ、本当に本当だ」
まあ少しだけ、怒られそうだからっていうのはあったけど……。
すると、背後から石畳を叩くヒールの音が通路へと突き抜けた。
2人が振り向くと、石階段を上がってきた人物が肩で息をしている。
「はあー、やっと見つけたわ。我が家ながら広くて人探しには不向きなんだから」
ひとつに結んだ黒髪を風で揺らし、姿を現したのはガーネットの母エメルダだ。
その手には、手紙らしき紙片を携えている。
城壁の通路を渡り、エメルダはガーネットとコールのもとへやって来た。
エメルダがその手紙を差し出したのは――
「はいコール。あなた宛てに手紙よ。ガルシア家の、家宰のジャレンって方から」
コールの琥珀の瞳が大きく見開かれた。
「ジャレンだって!?」
ジャレンは、幼い俺に気を配ってくれた家宰の名だ。
あの屋敷で過ごした日々の中で、思い返せる数少ない明るい記憶だった。
手紙を受け取ったコールは、手紙をそっと傾けながらあらゆる角度で眺める。
戸惑いを含んだ眼差しで、差出人の名を幾度も確認した。
過剰なほどの確認に、エメルダのほうが先に言葉を継いだ。
「あ、一応言っておくけど、うちと犬猿の仲のガルシア家だから中身については改めさせてもらったわ」
「それはもちろん構いません。あの、ここで読んでもよろしいですか?」
「ええ、どうぞ」
エメルダはゆるやかに頷きを落とした。
既に切られた封筒から、急くように白い便箋を取り出す。
手紙に綴られた文字へ、琥珀の瞳が食らいつくように滑っていく。
――拝啓、コールレオン様
ご無沙汰いたしております。
急用にて、挨拶を省略することをお許しください。
コールレオン様にお伝えすべきか悩んだのですが、実は先日、御当主様がお倒れになりました。
それからというもの、御当主様はうわ言のようにコールレオン様の御名をお呼びになられて、ジャレンはこの筆を執った次第です。
一度お帰りになって、御当主様に顔を見せて差し上げては頂けませんか?
老いたジャレンの切なる願いを、どうかお聞き届けください。
読み終えたコールは手紙を握った手を下ろさず、そっと空を仰いだ。
頭上には、雲ひとつない青空が広がっている。
「ねえ、何て書いてあったの?」
ぼんやりと揺れたコールの意識の底を、ガーネットの声が優しく掬い上げた。
「……あ、ああ。当主が倒れたらしい」
その淡々とした言い草に、ガーネットは自然と首を傾げる。
「当主って、コールのお父様よね?」
「ん、んー……」
水面を揺蕩う蓮のような掴めぬ声に、ガーネットはただ、コールの横顔を見つめた。
いつものコールの明るさの半分もない。
コールの生家のガルシア家って、いろいろと複雑だと耳にしたことはある。
でも、たとえ家の籍を外されても、自分の父親のことを淡々と当主と呼ぶような、距離のある関係なのかしら?
何だろう……
この、胸の内側を搔きむしられるようなヒリヒリとした感覚は。
とても嫌な予感がする……!
エメルダはコールの様子をさりげなく追っていた。
タイミングを見計らったように、そっと言葉を差し込む。
「よく考えてから結論は出したほうがいいわ。言い方は悪いけど、当主争いに巻き込まれでもしたら大変だもの」
「そうですよね……エメルダ様、ご助言感謝します」
そう感謝の意を落とすと、コールは再び晴れ渡った青空を見上げた。
その琥珀の瞳の奥に隠したコールの気持ちは、霧がかったように霞んでいて、はっきりとは見えなかった……




