第55話 芽吹いた初恋
コールの身体を拭き終え、ガーネットは白磁のボウルを片手に部屋を後にした。
洗面室へボウルを返却するべく、廊下を進んでいく。
窓辺から覗く空は太陽が沈み、薄紫の帳を下ろして宵闇が包み始めている。
もうこんな時間。
ルビィたちはどこまでお散歩に出かけたのかしら?
すると前方から、短く跳ねるような靴音が響いた。
この迷いのない足音の主は、母のエメルダだ。
背後には、侍女と護衛を従えている。
こちらに気づいたエメルダはそっと足を止め、柔らかな微笑みを落とした。
「あらガーネット」
エメルダの視線がガーネットの手元へ留まった。
口角がゆっくりと引き上がり、隠しきれぬ愉快さがにじむ。
「うふふ。またコールの部屋に長居していたのね。熱心に看病しちゃってまあ……もうちょっとってところかしら」
ガーネットは小首を傾げた。
無垢な瞳は、答えを求めるようにエメルダを不思議そうに捉える。
「もうちょっと? ……何の話?」
「んーふふ、こちらの話よ。ブリジット、そのボウルを片付けて頂戴」
すると、侍女のブリジットは控えめに顔を上げ、
「かしこまりました奥様……失礼いたします、ガーネットお嬢様」
ブリジットは慎ましく一礼し、ボウルを受け取ると、控えめな足取りで洗面室へと向かっていった。
遠ざかるブリジットの背を、ガーネットは静かに見送っていた。
ふと何かが胸をよぎり、エメルダの横顔へ視線を寄せる。
「ねえ。お母様は、コールがレオだと知っていたの?」
不意を食らったように、エメルダの瞳が大きく見開かれた。
だが、すぐに平静を取り戻して余裕をまとった笑みを返す。
「ええ、知っていたわ。私もジャスパーも」
「お父様も!?」
ガーネットの肩が小さく跳ねた。
まばたきをひとつ、ふたつと重ねながら、思考を深く巡らせていく。
お母様もお父様も承知していたなんて……。
でもどうして知っているのかしら。
私の知らないところで、一体何が起こっているの?
そっと腕を組んだエメルダは、その疑問に応えるように静かに語り出した。
「……あれは、あなたの護衛を増員しようと募集を告知した時、コールが応募してきたの」
遠い記憶を手繰り寄せるように、窓の外へ目をやる。
すると、あの日の情景がゆっくりと浮かび上がっていく。
「ベルフィオーレに何かと因縁を焚きつけてくるガルシアの息子が申し込んできたって、私もジャスパーも驚いてね。厳戒態勢で面接に臨んだのよ。そうしたら、彼ね……」
3年前、ベルフィオーレ家の応接室――
応接室にはベルフィオーレ夫妻だけでなく、夫妻の護衛たちも顔を揃えていた。
ベルフィオーレと敵対するガルシアの血筋の者を警戒してのことである。
そこはまるで、冒険者屯するギルドのように熱気に満ちている。
雑然とした空気の中、例のコールレオン・ガルシアは悠然と姿を現した。
敵意の欠片もないと示すような軽装で、腰元には剣すら携えていない。
濃紺の髪と琥珀の瞳の色彩が、どうにも鮮烈に残る青年だ。
――というのが、その場に居合わせた一同の、彼への第一印象だった。
一同の疑念の視線を風のように受け流し、コールはそっと応接室の中央へ赴く。
開口一番、コールが繰り出したのは、地を擦るほどの深々な『謝罪』だった。
深く頭を垂れ、真剣みを帯びた声が床から反響する。
「11年前、お二人の大切なお嬢様に傷を負わせてしまったのは、俺の責任です。本当に申し訳ありませんでした!」
誰も予期しなかった虚を突く行動と言動に、エメルダもジャスパーも、護衛たちまでもが言葉を失った。
瞳をぱちくりと震わせ、口をあんぐりと開けたまま固まっている。
誰もが視線を縫いとめた沈黙の中――
ゆっくりと顔を上げたコールは、さらに謝罪の言葉を積み重ねていく。
「先日までガルシアの人間だったので、なかなかお二人に謝る機会を得られず、遅くなって大変申し訳ありません。実はガルシアから除籍されまして、ようやくこうして謝罪に参りました」
ジャスパーは呆気に取られていた。
ガルシア家で最も有望と評されていた三男のコールレオン・ガルシアが現当主の怒りを買い、籍を除かれたことは風の噂で知っていた。
そのうえ、所属していた騎士団に圧力をかけられ、退団させられたことも……。
長年抱えていた負い目が解消されたのか。
コールの表情は非常に清々しい。
先ほどの謝罪よりも張りのある、朗々とした声が部屋中に広がった。
「この機会を借りて、どうしてもお二人に謝罪したかったのです。お時間を取らせて申し訳ありません。それでは失礼します」
コールが踵を返したその時――
「……ぷっ」
エメルダの笑い声が部屋にこだました。
「ふふっ、待って頂戴。えっとコールレオン……あなたはガーネットの護衛の面接を受けにきたのでしょ。だったら、そこに座って。面接の続きをしましょうよ」
口元に上品な笑みを浮かべ、エメルダはゆるやかに話を続ける。
「それに、ガーネットが傷を負った時の話も詳しく聞きたいし。あなたが例の、助けてくれたレオなのでしょう?」
私もジャスパーも、ガーネットに対するコールの真摯な態度が気に入った。
あのじっとりと湿った梅雨のようなガルシア家とは思えぬ、晴天のように澄み切った明朗な好青年。
躊躇う暇もなく、私たちはコールを護衛として迎え入れた。
ジャスパーには内緒だけど、ガーネットの初恋がレオという名の少年であることも知っていたし……ふふ。
「ふふっ、初恋の人を看病するってどんな感じなの?」
――そして、話は現在へと戻る。
エメルダの問いかけに、ガーネットの頬がわずかに強張った。
「えっ、お母様……どうしてそれを!?」
「ふっふっふ。お母様の情報網を舐めないで頂戴な」
まあ、セイラから伝え聞いただけなのだけど。
5歳から王太子の婚約に縛られたガーネットと、気軽に恋の話ができる日が来るなんて思ってもみなかった。
嬉しさを隠しきれないまま、エメルダははしゃぐように胸元へ両手を添えた。
「初恋の人との感動の再会話でもいいわ。お母様にも是非聞かせて!」
「もう、そんなんじゃないからっ」
その言葉とは裏腹に、ガーネットの胸にも、コールが初恋の相手だという自覚が芽生え始めていた。
じんわりと熱を帯びる頬にそっと手を当て、淡い予感から目を逸らすガーネットだった。




