第54話 傷モノ令嬢、世話焼き令嬢と化す
それから数日。
ガーネットはコールの看病をひたむきに続けていた。
黄昏色の柔らかな光が窓辺から差し込む。
コールの部屋を紫と橙に染める、そんな夕暮れ刻のこと――。
湯気をくゆらせた温かなタオルを携え、ガーネットは謎めいた微笑みを刻んだ。
その笑顔には、不思議と逆らえない何かがあった。
「さあコール、寝間着を脱ぎましょう」
ああやっぱり、今日もきたか……。
コールは戸惑ったように眉間を寄せた。
その間にも、コールの懐に忍び寄る影が――!
懐には、寝間着を脱がそうとボタンに指を掛けるガーネットの姿があった。
毎日世話を続けたせいか、ガーネットの指先はすっかり熟れている。
抱き寄せるほど近い温度に、コールは照れを押し隠すように身を強張らせた。
うぐぉっっ……
姫様、だんだん躊躇いがなくなってるんだけど。
最近はこの時間になると、セイラさんはルビィを連れてどっかに行っちゃうし、ゲオルグ先輩も霧のようにいなくなる。
だから、俺がどうにかしないといけないわけだが。
わずかに気後れしながらも、コールはガーネットの手をやんわりと拒む。
落ち着いた声音で、諭すように言葉を紡いでいく。
「いやいや、姫様……怪我はしてるけど、自分の身体を拭くことくらいはできる。タオルを渡してもらえば」
コールが手を差し出す。
その手を拒むように、ガーネットはタオルを引っ込めた。
「だめっ。自分じゃ背中だって拭けないし、傷回りの細かい部分だって難しいでしょ。私に任せて! だから、ね……脱ぎましょう?」
自分の懐で発せられた爆弾まがいの言葉が、コールの胸奥で弾丸のように響く。
悶えるように眉間に人差し指と中指を添え、荒ぶる精神を火の粉を払うように鎮めていく。
脱ぎましょうって……そんなこと姫様が言ったらダメだろ。
こ、殺し文句すぎるっ。
俺がレオンハルトだったら、姫様は無事じゃすまなかったと思うぞ。
……はあ、本当にどうしてこうなった?
コールの負傷を境に、ガーネットは過剰なほど世話を焼くようになった。
食事の介助や身体の手入れまで。
今もコールの寝間着を脱がそうと、肩に指先を滑らせる。
だがもちろん、コールもされてばかりではない。
袖口をつまんで抵抗し、静かな攻防を繰り広げる。
本気で抵抗すれば、コールの力ならガーネットなど容易に振りほどけるだろう。
だがガーネットの献身が自分のためと思うと悪い気はせず、自然と力を抜いてしまう。
やがて寝間着は、半分以上脱がされた。
背中にガーネットのあたたかな指先が触れる。
突然触れた柔らかな感触に、コールは声を洩らす。
「ひゃんっ……」
ほのかに艶を帯びた声に、ガーネットは目を丸くした。
「ひゃんって……へ、変な声ださないでっ」
「俺だって恥ずかしいんだから、そういう声も出るさ」
シーツに視線を縫いとめながら、ささやきにも満たない声でぼそりと呟く。
「……特に姫様だし……っていうか、姫様最近変だぞ。怪我のことならもう充分助けてもらってるし、これくらいは自分でやるから!」
振り払うような言葉を受け、ガーネットの首はゆっくりと項垂れた。
悲しげに肩を落とし、ガーネットは小さく呟いた。
「だって……ちょっと悲しかったんだもの」
「……へ?」
消えゆく蝋燭の炎のようなしぼんだ声音に、コールの瞳が揺らめいた。
ガーネットは、きゅっとコールの寝間着を握りしめる。
小さく、掠れた声を絞り出した。
「どうして……どうしてレオだってこと、ずっと黙っていたの?」
コールが護衛になってから3年。
伝える機会ならいくらでもあったのに、どうして教えてくれなかったのだろう。
思い出した当初は、コールが『レオ』だった驚きと喜びが勝っていた。
だがふとした瞬間、教えてくれなかった事実が淋しさとなって心を覆う。
コールは、図星を突かれたように表情を曇らせる。
ゆっくりと、コールは視線を上げた。
コールの眉は困ったように曲がり、その唇から上擦った声が響く。
「だって、思い出しちゃうだろ……」
静かに息を整え、さらに言葉を重ねていく。
「俺のことを思い出すとさ、その傷の記憶もどうしても蘇るから……」
「別に、そんなこと……っ」
予想外のコールの返答に、ガーネットの声に動揺が混じる。
コールは、ガーネットの左首元の淡い傷痕にそっと視線を落とした。
「その傷は、俺が背負うべき傷だった。あの時姫様を庇えていたら、きっと姫様は、いろいろと嫌な思いをしなかったはずなんだ」
「……あ」
そっか、コールはずっとそのことを気にしていたのね。
カイザー殿下や一部の貴族たちに、私が『傷モノ令嬢』と揶揄されていたこと。
骨ばった指先をそっと伸ばし、触れるか触れないかの距離。
コールは、ガーネットの傷痕を輪郭を描くようになぞる。
琥珀の瞳は、深い後悔が浮かぶように翳りを帯びている。
「姫様が怪我した時、俺が、俺だけが近くにいたのに……姫様の名前を呼ぶことしかできなかった。その傷を負わせたのは俺の一生の不覚だ」
一生の不覚だなんて……
この傷のことを、そんな風に気にしてくれていたのね。
コールは、この傷を薔薇の蕾みたいだって励ましてくれた。
その時だって、本当は後悔の念を抱いていたかもしれない。
正体を明かさなかったのは、私を守るため。
レオは、コールは……ずっと私を守ってくれていたんだわ。
傷痕を、優しくなぞる。
ガーネットの胸には悲しみではなく、あたたかな光があふれていた。
そっと顔を上げ、穏やかな表情のままコールを仰いだ。
「コールのせいじゃないわ。コールがいなかったら、私はあのまま独りで死んでいたかもしれないし……それに」
ガーネットの顔には、悲しみなどひとつもない柔らかな笑みが咲いていた。
「今はこの傷のこと、それほど嫌いでもないのよ。この傷を見るとね、コールが必死にガーネットって呼んで励ましてくれた時を思い出して、つい嬉しくなるの」
「……え、そうなのか?」
驚いたコールに、ガーネットは嬉しそうに頷き返す。
そして、そっと上目遣いで見つめ、
「ねえ、昔みたいにガーネットって呼んで」
瞬間、コールの琥珀の瞳に動揺が走った。
じっと見つめてくるガーネットの真っ直ぐな視線に、心がそのまま吸い込まれそうになる。
ごくりと、生唾を飲み込んだ。
子供の頃は、ガーネットと簡単に呼んでいた。
でも、今それをしてしまうと、俺と姫様の均衡が崩れてしまう。
…………そんな気がした。
本当に呼び捨ててしまってもいいのだろうか。
……俺、は。
「…………ガ」
くちびるが震える。
「……っ…………いや、俺は護衛だし……やっぱり姫様で」
くたりと肩を落とす。
ガーネットは不満げに頬を膨らませた。
「別にいいのに」
コールなら、昔みたいにガーネットって呼んでくれて構わないのに。
別にガーネでもいいし……。
そういえば、コールってレオなのよね。
レオは私の初恋の人。
ということは、コールが私の初恋の人……なの?
んん、あれ? それってなんだか……。
「なあ姫様……」
突然落ちてきたコールの声に、ガーネットは顔を上げる。
「ひゃっ……な、なあに?」
ガーネットの視界に飛び込んだのは、乱れた寝間着を肩にかけ、腕を寄せて震えるコールの姿だった。
「いや、そろそろ寒くなってきたから、身体を拭いてほしいなぁって」
「あっ、ごめんなさい……つめたっ」
再びタオルを湯に浸そうと、白磁のボウルに手を伸ばす。
だがすでに湯は冷え切っていて――
温もりの代わりに、ガーネットの声だけが響き渡るのだった。




